コンテンツにスキップ

「ピエルルイジ・カシラギ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: ACFフィオレンティーナ関連のリンク修正 (ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ) - log
43行目: 43行目:
1990年代前半の[[イタリア]]を代表するフォワード。強靱なフィジカルをもち、ポストプレーヤーとしての素質は高いものを見せた。当時は[[ユヴェントス]]に所属していたが、[[ジャンルカ・ヴィアッリ]]などの陰に隠れ、二流選手との見方が一般的だったが、代表監督だった[[アリゴ・サッキ]]が、その才能に着目し代表に招集した。だが、当初は鳴かず飛ばずで、カジラギ自身もメディアの激しい糾弾に度々さらされた。
1990年代前半の[[イタリア]]を代表するフォワード。強靱なフィジカルをもち、ポストプレーヤーとしての素質は高いものを見せた。当時は[[ユヴェントス]]に所属していたが、[[ジャンルカ・ヴィアッリ]]などの陰に隠れ、二流選手との見方が一般的だったが、代表監督だった[[アリゴ・サッキ]]が、その才能に着目し代表に招集した。だが、当初は鳴かず飛ばずで、カジラギ自身もメディアの激しい糾弾に度々さらされた。


才能を開花させるのは[[1994年]]の[[1994 FIFAワールドカップ|アメリカ・ワールドカップ]]以降で、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]1994-95シーズンには[[SSラツィオ|ラツィオ]]で14得点をマーク、同シーズンの[[フィオレンティーナ]]戦では4得点を挙げた。1995-96シーズンにも14得点を挙げ、[[1996年]]の[[UEFA EURO '96|欧州選手権]]の際には代表になくてはならない存在となっていた。だが、第2戦の[[サッカーチェコ代表|チェコ]]戦で、カジラギに全幅の信頼を置いていたはずのサッキは致命的な失策を犯した。第1戦の[[サッカーロシア代表|ロシア]]戦で2得点を挙げたカジラギと[[ジャンフランコ・ゾラ]]を下げ、代表歴の浅い[[エンリコ・キエーザ]]と[[ファブリツィオ・ラバネッリ]]に交替させる。同試合では2-1で敗北。1次リーグ最終戦の[[サッカードイツ代表|ドイツ]]戦で、カジラギはPKを獲得するなど活躍を見せるが、これをゾラが外し、イタリアは引き分けに持ち込まれ、同大会は1次リーグで姿を消すこととなった。また、その後の[[1998 FIFAワールドカップ|フランス・ワールドカップ]]予選では、プレーオフの[[サッカーロシア代表|ロシア]]戦で決勝点を挙げるものの、本大会への選出はならなかった。
才能を開花させるのは[[1994年]]の[[1994 FIFAワールドカップ|アメリカ・ワールドカップ]]以降で、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]1994-95シーズンには[[SSラツィオ|ラツィオ]]で14得点をマーク、同シーズンの[[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]戦では4得点を挙げた。1995-96シーズンにも14得点を挙げ、[[1996年]]の[[UEFA EURO '96|欧州選手権]]の際には代表になくてはならない存在となっていた。だが、第2戦の[[サッカーチェコ代表|チェコ]]戦で、カジラギに全幅の信頼を置いていたはずのサッキは致命的な失策を犯した。第1戦の[[サッカーロシア代表|ロシア]]戦で2得点を挙げたカジラギと[[ジャンフランコ・ゾラ]]を下げ、代表歴の浅い[[エンリコ・キエーザ]]と[[ファブリツィオ・ラバネッリ]]に交替させる。同試合では2-1で敗北。1次リーグ最終戦の[[サッカードイツ代表|ドイツ]]戦で、カジラギはPKを獲得するなど活躍を見せるが、これをゾラが外し、イタリアは引き分けに持ち込まれ、同大会は1次リーグで姿を消すこととなった。また、その後の[[1998 FIFAワールドカップ|フランス・ワールドカップ]]予選では、プレーオフの[[サッカーロシア代表|ロシア]]戦で決勝点を挙げるものの、本大会への選出はならなかった。


1998-99シーズン、[[チェルシーFC|チェルシー]]へ移籍するが[[ウェストハム・ユナイテッドFC|ウェストハム]]戦において相手GKと激突し靱帯を損傷する大怪我を負った。手術を数度行うも、怪我は回復せずに2000年に現役を引退した。
1998-99シーズン、[[チェルシーFC|チェルシー]]へ移籍するが[[ウェストハム・ユナイテッドFC|ウェストハム]]戦において相手GKと激突し靱帯を損傷する大怪我を負った。手術を数度行うも、怪我は回復せずに2000年に現役を引退した。

2023年5月28日 (日) 13:31時点における版

ピエルルイジ・カジラギ
ラツィオ時代のカジラギ(1993年)
名前
愛称 ダイハード
ラテン文字 Pierluigi Casiraghi
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1969-03-04) 1969年3月4日(55歳)
出身地 モンツァ
身長 182cm
体重 78kg
選手情報
ポジション FW
ユース
イタリアの旗 モンツァ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1985-1989 イタリアの旗 モンツァ 94 (28)
1989-1993 イタリアの旗 ユヴェントス 98 (20)
1993-1998 イタリアの旗 ラツィオ 140 (41)
1998-2000 イングランドの旗 チェルシー 10 (1)
通算 342 (90)
代表歴
1988-1990 イタリアの旗 イタリア U-21 7 (1)
1991-1998 イタリアの旗 イタリア [1] 44 (13)
監督歴
2001-2003 イタリアの旗 モンツァ(ユース)
2003-2004 イタリアの旗 レニャーノ
2006-2010 イタリアの旗 イタリア U-21
2006-2010 イタリアの旗 イタリア U-20
2008 イタリアの旗 イタリア オリンピック
2014-2015 イタリアの旗 カリアリ(アシスタントコーチ)
2015-2016 カタールの旗 アル・アラビ(アシスタントコーチ)
2016-2017 イングランドの旗 バーミンガム(アシスタントコーチ)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ピエルルイジ・カジラギPierluigi Casiraghi, 1969年3月4日 - )は、イタリア出身の元サッカー選手。サッカー指導者。元イタリア代表。ポジションはFW

経歴

1990年代前半のイタリアを代表するフォワード。強靱なフィジカルをもち、ポストプレーヤーとしての素質は高いものを見せた。当時はユヴェントスに所属していたが、ジャンルカ・ヴィアッリなどの陰に隠れ、二流選手との見方が一般的だったが、代表監督だったアリゴ・サッキが、その才能に着目し代表に招集した。だが、当初は鳴かず飛ばずで、カジラギ自身もメディアの激しい糾弾に度々さらされた。

才能を開花させるのは1994年アメリカ・ワールドカップ以降で、セリエA1994-95シーズンにはラツィオで14得点をマーク、同シーズンのフィオレンティーナ戦では4得点を挙げた。1995-96シーズンにも14得点を挙げ、1996年欧州選手権の際には代表になくてはならない存在となっていた。だが、第2戦のチェコ戦で、カジラギに全幅の信頼を置いていたはずのサッキは致命的な失策を犯した。第1戦のロシア戦で2得点を挙げたカジラギとジャンフランコ・ゾラを下げ、代表歴の浅いエンリコ・キエーザファブリツィオ・ラバネッリに交替させる。同試合では2-1で敗北。1次リーグ最終戦のドイツ戦で、カジラギはPKを獲得するなど活躍を見せるが、これをゾラが外し、イタリアは引き分けに持ち込まれ、同大会は1次リーグで姿を消すこととなった。また、その後のフランス・ワールドカップ予選では、プレーオフのロシア戦で決勝点を挙げるものの、本大会への選出はならなかった。

1998-99シーズン、チェルシーへ移籍するがウェストハム戦において相手GKと激突し靱帯を損傷する大怪我を負った。手術を数度行うも、怪我は回復せずに2000年に現役を引退した。

出典