「ラバウル空襲」の版間の差分

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'''ラバウル攻撃'''(ラバウルげき)とは[[太平洋戦争]]中の[[1943年]]10月、11月に[[日本軍]]が拠点にしていた[[ラバウル]]へ[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が行った[[空襲]]。
'''ラバウル空襲'''(ラバウルくうしゅう)とは[[太平洋戦争]]中に[[日本軍]]が拠点にしていた[[ラバウル]]へ[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍(連合軍)が行った[[空襲]]であり、ここでは特に、[[1943年]]10月から11月にかけての、[[ブーゲンビル島の戦い]]の援護を目的として行われた大規模な空襲を中心に述べる。一連の空襲の結果、ブーゲンビル島に対する日本軍の反攻の脅威を事実上砕くことに成功した

日本軍側の動きについては[[ラバウル航空隊]]も参照されたい。


== 背景 ==
== 背景 ==
===日本軍の事情===
ラバウルは[[ビスマルク諸島]][[ニューブリテン島]]の北東に位置する[[オーストラリア]]軍が設営した大規模な飛行場と良好な泊地であり、1942年1月に日本軍が占領した。[[ソロモン諸島の戦い]]や[[東部ニューギニアの戦い]]に於いて日本軍の重要な基地となっていた。
ラバウルは[[ビスマルク諸島]][[ニューブリテン島]]の北東に位置する[[オーストラリア軍]]が設営した大規模な飛行場と良好な泊地であり、1942年1月23日に日本軍が占領した<ref>[[#多賀]]p.196</ref>。以後、後方の[[カビエン]]などとともに[[ソロモン諸島の戦い]]や[[東部ニューギニアの戦い]]に於いて、日本軍の重要な基地となっていた。一方の連合軍側は、日本軍がラバウルを足がかりに[[ニューカレドニア]]や[[ニューヘブリディーズ諸島]]へ進撃してくる可能性を念頭に、その出鼻を挫くため[[ANZAC]]へ爆撃機や[[機動部隊]]のアメリカ[[第11任務部隊]]を派遣した<ref name="a">[[#阿部]]p.240</ref>。この時派遣された第11任務部隊司令官{{仮リンク|ウィルソン・ブラウン|en|Wilson Brown (admiral)}}中将の提案によりラバウル空襲作戦が計画され、2月21日にラバウル空襲作戦を行う予定であった<ref name="a" />。しかし、空襲予定日の前日である2月20日に、ラバウルに進出したばかりの[[第四海軍航空隊]]の攻撃を受ける([[ニューギニア沖海戦]])。攻撃自体は日本側の一方的な敗戦に終わったものの、第11任務部隊も回避運動により燃料を大幅に消費したため、ラバウル空襲は断念せざるを得なかった<ref>[[#阿部]]p.241</ref>。


これ以降、ラバウルに対する空襲の主役は[[ポートモレスビー]]などを根拠とする連合軍の大型爆撃機に移り、散発的な空襲を繰り返し受けることとなった。空襲は主に [[B-17 (航空機)|B-17]] が少数単位で時を定めず来襲し<ref name="b">[[#渡辺(2)]]p.46</ref>、他には [[B-26 (航空機)|B-26]] も投入された<ref name="b" />。1943年に入ってからは [[B-24 (航空機)|B-24]] も投入され<ref>[[#渡辺(2)]]p.77</ref>、一連の空襲は「点滴爆撃」とも呼ばれ<ref name="c">[[#渡辺(2)]]p.63</ref>、被害自体は大したものではなかったものの<ref name="c" />、来襲高度が高くて容易に撃墜できない上に<ref name="d">[[#渡辺(2)]]p.62</ref>、頼みのラバウル航空隊も夜間訓練を行っていないので夜間迎撃も上手くいかず<ref name="d" />、昼夜分かたぬ空襲によりラバウルの日本軍将兵の中には神経が高ぶって眠れなくなる者が現れた<ref name="c" />。[[小園安名]]中佐率いる[[第251海軍航空隊|第二五一海軍航空隊]]が[[夜間戦闘機]][[月光 (航空機)|月光]](当時は二式陸偵改)とともにラバウルに到着し、難攻不落の B-17 を撃墜したのは5月21日の事である<ref>[[#渡辺(2)]]p.77,78</ref>。
1942年から1943年にかけては、ラバウルは連合軍の大型爆撃機による散発的な空襲を受けるのみであった。1943年秋に日本軍はニューギニア島東部やソロモン諸島から撤退し、連合軍のラバウル攻撃頻度が増加した。


[[ガダルカナル島の戦い]]に敗れて後、日本軍のソロモン方面での防衛線は徐々にラバウル側へと押し上げられていく。彼我の航空戦力の差も数と質の両方の面で広がるばかりであり、数の方は1943年4月の「[[い号作戦]]」に代表されるような母艦航空隊の投入が幾度か行われたが、損害ばかりが増すばかりであった<ref>[[#渡辺(1)]]p.13</ref>。やがて[[ニュージョージア島]]、[[コロンバンガラ島]]、[[ベララベラ島]]からの撤退で防衛線はさらに押し上げられ、9月下旬からは[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]などへの空襲が激化し<ref>[[#渡辺(1)]]p.13,15</ref>、同方面の[[零式艦上戦闘機|零戦]]隊もラバウルに後退する外なかった<ref>[[#渡辺(1)]]p.15</ref>。
この時点でソロモン諸島の戦いで勝利を手中に収めつつあった連合国側の[[アメリカ軍]]であったが、[[機動部隊]]の中核である[[航空母艦|空母]]の配備数は日本軍と拮抗した状態で、多方面から反攻作戦を実施するには戦力不足であった。そこに1943年5月、[[エセックス (空母)|エセックス]]、7月に[[インディペンデンス (CVL-22)|インディペンデンス]]、[[ベロー・ウッド (空母)|ベロー・ウッド]]、9月に[[カウペンス (空母)|カウペンス]]、10月に[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]、[[モンテレー (空母)|モンテレー]]と新造空母が続々と太平洋に配備され、1943年9月1日に[[南鳥島空襲]]、[[ギルバード諸島空襲]]など一撃離脱の機動空襲を中部太平洋で展開していた。


===連合軍側の事情===
== 戦闘 ==
この時点で[[ソロモン諸島の戦い]]で勝利を手中に収めつつあった連合国側の[[アメリカ軍]]であったが、機動部隊の中核である[[航空母艦|空母]]の配備数は日本軍と拮抗した状態で、多方面から反攻作戦を実施するには戦力不足であった。特に、ソロモン方面の戦闘を担当する[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]](南太平洋部隊。[[ウィリアム・ハルゼー]]大将)に至ってはベテランの「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」 (''USS Saratoga, CV-3'') しか空母の持ち合わせがなく、もう1隻の手持ち空母だった「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」 (''USS Enterprise, CV-6'') は[[オーバーホール]]のため戦列から下がっていた<ref name="e">[[#ポッター]]p.374</ref>。1943年5月から6月にかけては、[[イギリス海軍]]から空母「[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]」 (''HMS Victorious, R38'') を借用して「サラトガ」と組ませ、ラバウル航空隊の攻撃範囲外において不活発な空母作戦を行っていた状態だった<ref name="e" />。
[[Image:Rabaul under air attack.jpg|thumb|陸上を飛ぶ空襲機]]
1943年10月12日からアメリカ陸軍[[第5空軍 (アメリカ軍)|第5空軍]]、[[オーストラリア空軍]]、ニュージーランド空軍がラバウルに対し大規模な攻撃を開始した。


その空母陣も、1942年末以降「[[エセックス (空母)|エセックス]]」 (''USS Essex, CV-9'') 、「[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]」 (''USS Bunker Hill, CV-9'') などの[[エセックス級航空母艦]]、「[[インディペンデンス (CVL-22)|インディペンデンス]]」 (''USS Independence, CVL-22'') など[[インディペンデンス級航空母艦]]が続々と竣工して訓練の後、[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]に配備される。特に「エセックス」の[[真珠湾]]到着は、太平洋艦隊司令長官[[チェスター・ニミッツ]]大将をして、新しい中部太平洋部隊の編成の第一弾として位置づけられた<ref>[[#ニミッツ、ポッター]]p.208</ref>。8月に入り[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]]が編成され、艦隊司令長官に[[レイモンド・スプルーアンス]]中将が、指揮下の[[第38任務部隊|高速空母任務部隊]]の司令官に{{仮リンク|チャールズ・A・パウナル|en|Charles Alan Pownall}}少将がそれぞれ就任した<ref>[[#谷光(1)]]p.471</ref>。パウナル少将の高速空母任務部隊は、1943年9月1日に[[南鳥島]]を空襲したのを皮切りにして、9月18日と19日に[[ギルバート諸島]]を<ref name="f">[[#ニミッツ、ポッター]]p.216</ref>、10月に入ってから[[ウェーク島]]をそれぞれ攻撃して成果を収めた<ref name="f" />。もっとも、これら新鋭空母の話は全て中部太平洋方面での事であって、ソロモン方面には関係のない話である。しかし、新鋭空母の回航を望んでいたのはハルゼー大将も同じであった<ref name="g">[[#ポッター]]p.404</ref>。ハルゼー大将は「ヴィクトリアス」をイギリス海軍に返却の後、「サラトガ」と新鋭空母の組み合わせで空母作戦を行う事を望んでいた<ref name="g" />。この望みを一度は断ったのはニミッツ大将である<ref name="g" />。ニミッツ大将の言い分では、続々戦列に加わる新鋭空母の乗員およびパイロットのレベルは高くなく、まずは経験を積ませるために一撃離脱式の攻撃を繰り返す必要があった<ref name="g" />。また、中部太平洋方面に攻勢をかけたならば、日本軍の注意は中部太平洋に向けられ、ソロモン方面の戦闘は第3艦隊の手持ち部隊だけで対処できると考えていた<ref>[[#ポッター]]p.404,405</ref>。第5艦隊は当時、ギルバート諸島攻略の[[ガルヴァニック作戦]]を控えており、主だった戦闘艦艇は第5艦隊に割り振られていた事情もあった<ref name="g" /><ref>[[#ニミッツ、ポッター]]p.208</ref>。
1943年11月1日、アメリカ軍は[[ブーゲンビル島]]タロキナ岬へ上陸(チェリーブッロサム作戦)。これに対し日本軍は逆上陸を試みたが、[[ブーゲンビル島沖海戦]]で敗れ失敗した。2日、連合軍はブーゲンビル島攻略の支援のためラバウルに対し最大規模の攻撃を行った。この攻撃で日本側は船舶15隻撃沈など大きな損害を被った。


連合国および南西太平洋方面軍指揮官[[ダグラス・マッカーサー]]大将が1943年4月26日に発令した[[カートホイール作戦]]の計画では、ラバウルを攻略せず無視することがすでに決まっていた<ref name="h">[[#戦史96]]p.374</ref>。第3艦隊は、ラバウル包囲のためにブーゲンビル島を攻略することまでは決めていた<ref name="h" />。攻略地点については、[[ニュージョージア島の戦い]]における[[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]]攻防戦の苦い経験から日本軍が集中しているであろうブイン地区と[[ショートランド諸島]]をパスし、[[エンプレス・オーガスタ湾]]に面したタロキナ地区に飛行場適地があったこと、タロキナ方面の日本軍部隊がわずかであるなどの理由により、9月22日にタロキナ地区への上陸に決した<ref name="h" /><ref>[[#ポッター]]p.403</ref>。その時点での第3艦隊の兵力といえば、[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト]][[アメリカ海兵隊|海兵]]中将率いる二個師団とニュージーランド軍一個旅団合わせて約34,000名の陸上部隊に<ref name="g" /><ref>[[#戦史96]]p.375</ref>、輸送船12隻と、その護衛にあたる[[駆逐艦]]11隻<ref name="g" />、{{仮リンク|アーロン・S・メリル|en|Aaron S. Merrill}}少将の第39任務部隊<ref name="g" />、そして「サラトガ」だけであった<ref name="g" />。タロキナ地区への上陸作戦を決定した後、ハルゼー大将は[[真珠湾]]の太平洋艦隊司令部に向かい、増援を要請する<ref name="j">[[#ポッター]]p.405</ref>。その結果、新鋭の軽空母「[[プリンストン (CVL-23)|プリンストン]]」 (''USS Princeton, CVL-23'') と巡洋艦群、駆逐群が派遣される事となったが、タロキナ上陸作戦の予定日である11月1日までには合流できなかった<ref name="j" />。唯一の救いは、ジョージ・ケニー少将率いる[[第5空軍 (アメリカ軍)|第5空軍]]とネーサン・トワイニング少将のソロモン方面航空部隊が、任務遂行のために必要な航空機を確保しているとみられたことであった<ref name="g" />。
日本軍はブーゲンビル島逆上陸支援のため[[チューク島|トラック]]からラバウルへ[[栗田健男]]中将が指揮する重巡洋艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]、[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]、軽巡洋艦[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]、駆逐艦4隻からなる艦隊を派遣した。この当時、アメリカ軍は[[ガルヴァニック作戦|ギルバート諸島侵攻作戦]]の準備中でこの方面で日本艦隊に対抗できる艦隊は[[フレデリック・シャーマン]]少将麾下の[[第38任務部隊]](空母[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]、[[プリンストン (CVL-23)|プリンストン]]基幹)のみであった。


==10月12日から11月2日にかけての空襲==
シャーマン少将はアメリカ軍にとって脅威となるラバウルの日本艦隊に対する攻撃を命じられラバウルへ向かった。11月4日、日本艦隊は夜間爆撃を受けたが、被害はなかった。11月5日、第38任務部隊がラバウルを攻撃した。この攻撃で日本軍は沈没艦はなかったものの、重巡洋艦愛宕(至近弾、艦長戦死)、高雄(中破、一番砲塔誘爆)、摩耶(大破)、最上、鈴谷、筑摩(一番魚雷発射管使用不能)が損傷を受け、損傷した重巡洋艦はトラックへ後退した。
[[Image:Rabaul under air attack.jpg|thumb|ラバウル上空を飛ぶ B-25。右手の海域がシンプソン港(ラバウル港)]]
10月12日、第5空軍機と、同じくケニー少将の指揮下に入っていた[[オーストラリア空軍]]機および{{仮リンク|ニュージーランド空軍|en|Royal New Zealand Air Force}}機合わせて349機の爆撃機は、ラバウルに対する初の大空襲を敢行する。第一の目標は[[一式陸上攻撃機]]が常駐していたラバウル西飛行場であったが<ref>[[#写真太平洋1995(6)]]p.48</ref>、天候に恵まれず思ったほどの成果はあげられなかった。この空襲により駆逐艦「[[太刀風 (駆逐艦)|太刀風]]」、「[[望月 (駆逐艦)|望月]]」、「[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]」、給油艦「[[鳴戸 (給油艦)|鳴戸]]」などが損傷し<ref>[[#伊達年誌]]p.219</ref><ref>[[#田村(1)]]p.136</ref>、「鳴戸」では十数名が戦死した<ref>[[#原2011]]p.128</ref>。続いて10月18日には約50機の [[B-25 (航空機)|B-25]] による空襲が行われ、以後6日連続して爆撃を行った<ref name="k">{{Cite web|url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/AAF/IV/AAF-IV-10.html|title=Chapter 10: Rabaul and Cape Gloucester|publisher=HyperWar|language=英語|accessdate=2011-08-05}}</ref>。


11月2日のラバウル空襲は約200機<ref>[[#写真太平洋1995(6)]]p.50</ref>、あるいは72機の B-25 と80機の [[P-38 (航空機)|P-38]] <ref name="k" />で行われる。この時、ラバウルには2日未明の[[ブーゲンビル島沖海戦]]を戦って帰投してきたばかりの連合襲撃部隊([[大森仙太郎]]少将)が入港したばかりであった<ref>[[#五戦1811]]pp.23</ref><ref>[[#二水戦1811(1)]]pp.26,27</ref>。この時の空襲では[[重巡洋艦]]「[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]」が至近弾によりタービンに亀裂が入り、駆逐艦「[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]」は方位盤を損傷する<ref>[[#二水戦1811(1)]]pp.27</ref>。その他、船舶15隻が撃沈され11隻が損傷した<ref>[[#写真太平洋1995(6)]]p.51</ref>。それでも8機の B-25 が撃墜されるか帰投途中で失われ、その中には第3攻撃集団長{{仮リンク|レイモンド・H・ウィルキンス|en|Raymond H. Wilkins}}少佐の乗機が含まれており、ウィルキンス少佐はそのリーダーリップが称えられて[[名誉勲章]]を死後授与された。また、P-38 は9機が失われた<ref name="k" />。
11月11日には[[アルフレッド・モントゴメリー]]少将麾下の第50.3任務部隊(空母エセックス、バンカーヒル、インディペンデンス)が加わり、空母5隻で2度目の空襲が行われた。この攻撃では駆逐艦[[涼波 (駆逐艦)|涼波]]が沈没し、軽巡洋艦[[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]、駆逐艦[[長波 (駆逐艦)|長波]]などが損傷した。


ここまでの空襲はそれなりの成果を挙げたものの、日本軍の強力な対空砲火と迎撃機を警戒するあまり、ほとんどの場合において高高度からの攻撃を行ったため、目標に爆弾を命中させる事がなかなか出来ず、「ケニーの爆撃機はどうでもいいような成果をあげただけであった」と、[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アナポリス海軍兵学校]]歴史学名誉教授だった{{仮リンク|E・B・ポッター|en|E. B. Potter}}は述べている<ref>[[#ポッター]]p.409</ref>。
この時期、日本軍は「[[ろ号作戦]]」を発動、空母艦載機をラバウル方面に進出させており、アメリカ艦隊に対する攻撃が行われたが有効な打撃は与えられなかった。ただし、日本軍側は大型空母1隻、中型空母1隻撃沈、重巡洋艦2隻撃沈、巡洋艦(大型駆逐艦)2隻撃沈と、日本軍航空隊に顕著な誤認戦果を報告している<ref>「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」第13-14画像</ref>。日本軍側は「ろ号作戦」と合わせて5回に渡る[[ブーゲンビル島沖航空戦]]で170機近くあった空母航空戦隊の戦力が激減、約120機を失いトラックへ後退、[[ラバウル航空隊]]は消滅した。

==11月5日の空襲==
{{seealso|ブーゲンビル島の戦い}}
===背景===
10月27日、[[トレジャリー諸島]]と[[チョイセル島]]に先行部隊が上陸し<ref name="l">[[#ポッター]]p.410</ref>、次いで11月1日早朝、タロキナ地区への上陸作戦が敢行され、上陸作戦から日本軍の注意をそらすために第39任務部隊は[[ブカ島]]とショートランドに対して[[艦砲射撃]]を行う。「プリンストン」が合流した第38任務部隊の艦載機はソロモン方面航空部隊とともにブカ島を爆撃した<ref name="l" /><ref>[[#戦史96]]p.382,383</ref>。第38任務部隊を含めたアメリカ機動部隊がラバウルやカビエン近海で行動したのは、未遂に終わった前述のラバウル空襲作戦以来初めてのことである<ref>[[#戦史96]]p.383</ref>。ハルゼー大将にとっては待望の新戦力であったが、行動には制限が課せられていた。「サラトガ」も「プリンストン」もガルヴァニック作戦支援を命じられていたため、11月20日までに当該海域に戻らなければならなかった<ref>[[#ポッター]]p.408</ref>。第38任務部隊は11月2日にもブカ島を空襲した後、[[レンネル島]]近海まで引き揚げて燃料補給作業を行った<ref>[[#戦史96]]p.399</ref>。そこに突然、事態を緊迫化させる情報がもたらされる。

タロキナ地区への連合軍上陸の報を受け、[[連合艦隊司令長官]][[古賀峯一]]大将は[[第一航空戦隊]]の艦載機を投入を決心し([[ろ号作戦]])、続いて栗田健男中将率いる遊撃部隊をラバウル方面に投入して決戦を挑む事となった<ref name="m">[[#戦史96]]p.396</ref>。遊撃部隊の兵力は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]と[[第三艦隊 (日本海軍)#六代(1942年7月14日新編~1944年11月15日解散)|第三艦隊]]から抽出され、以下の艦艇で構成されていた<ref name="m" /><ref>[[#二水戦1811(1)]]pp.25</ref>。

*第四戦隊(栗田健男中将):重巡洋艦「[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]」、「[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]」、「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」、「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」
*第七戦隊(西村祥治少将):重巡洋艦「[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]」、「[[最上 (重巡洋艦)|最上]]」
*第八戦隊(岸福治中将):重巡洋艦「[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]」
*[[第二水雷戦隊]](高間完少将):[[軽巡洋艦]]「[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]」、駆逐艦「[[玉波 (駆逐艦)|玉波]]」、「[[涼波 (駆逐艦)|涼波]]」、「[[藤波 (駆逐艦)|藤波]]」、「[[早波 (駆逐艦)|早波]]」

[[連合艦隊]]参謀長であった[[福留繁]]中将によれば、遊撃部隊の進出は連合艦隊司令部の独断で決まったものであり<ref name="m" />、「航空攻撃の成果が上がったところで水上部隊を突入させて撃滅する」というのが狙いであった<ref name="n">[[#戦史96]]p.397</ref>。しかし、[[南東方面艦隊|南東方面部隊]]指揮官だった草鹿任一中将および第二水雷戦隊]]司令官だった高間完少将は、[[制空権]]が奪われつつあるラバウルに水上部隊を送り込むことには懐疑的であり<ref name="n" />、[
来るなとは言えないが、来ない方がよい」(草鹿中将)<ref name="n" />、「誠に奇異の感」(高間少将)<ref name="n" />という考えであった。遊撃部隊のトラック出撃は11月2日の予定であったが一日繰り下がり<ref name="n" /><ref>[[#二水戦1811(1)]]pp.23</ref>、ラバウル進出後は、[[第十戦隊]](大杉守一少将)を主隊として先のブーゲンビル島沖海戦で反転帰投した輸送部隊と合同した第三襲撃部隊の支援にあたることとなった<ref name="o">[[#戦史96]]p.398</ref>。この作戦は「は号作戦」と命名された<ref name="o" />。遊撃部隊はラバウルへの進出途中、爆撃を受けて航行不能になったタンカー「日章丸」(昭和タンカー、10,526トン)の救援のため「鳥海」と「涼波」を分離し<ref name="p">[[#戦史96]]p.399</ref><ref name="pp">[[#二水戦1811(1)]]pp.28</ref>、残りは11月5日早朝にラバウルに到着した<ref name="p" />。しかし、遊撃部隊は[[アドミラルティ諸島]]近海を南下中の11月4日昼ごろから [[B-24 (航空機)|B-24]] の触接を受け、それはラバウル到着直前まで続いた<ref name="p" />。

先に述べた「事態を緊迫化させる情報」とはこの事であり、ハルゼー大将が後年「これは南太平洋軍司令官としての全任期中に直面したもっともきびしい緊急事態であった」と回想するほど難しい状況であった<ref name="q">[[#ポッター]]p.412</ref>。ブカ島とショートランドへの砲撃およびブーゲンビル島沖海戦と、ほとんど不眠不休で戦ってきた<ref>[[#フェーイー]]p.69</ref>第39任務部隊は[[ツラギ島]]にあり<ref>[[#フェーイー]]p.76</ref>、遊撃部隊を迎え撃つにしても強力かつ距離が遠すぎた<ref name="q" />。しかし、ここで第3艦隊の参謀が第38任務部隊によるラバウル空襲を思いつく<ref name="q" />。これまでアメリカ海軍の機動部隊が行っていた空母による日本軍基地への攻撃は、先述のパウナル少将による一連の攻撃も含めて大したことがない施設へのものが多く、ラバウルのような強力な拠点に対しては一度も行われていなかった<ref name="q" />。参謀から作戦プランを打ち明けられたハルゼー大将にとって、ラバウルへの攻撃はほぼ1年前の[[第三次ソロモン海戦]]の時と同じぐらいの危険な命令だと感じており<ref name="r">[[#ポッター]]p.413</ref>、第38任務部隊の運命は悪いものになるとすら予想していた<ref name="r" />。それでも、ハルゼー大将にとってはタロキナ地区の上陸部隊を守ることが至上命題であり、しばしの沈黙の後に発した「行かせよう!」との一言で作戦は実行に移される事になった<ref name="r" />。同時に、ハルゼー大将はソロモン方面航空部隊に対し、第38任務部隊への全面的支援を命じた<ref name="r" />。

===戦闘経過===
第38任務部隊は27ノットの速力でラバウルに接近し<ref name="p" />、11月5日7時ごろにラバウルの南東230海里の発艦地点に到達<ref name="p" />。[[F6F (航空機)|F6F]] 52機、[[TBF (航空機)|TBF]] 23機、[[SBD (航空機)|SBD]] 22機の計97機を発進させたが、これが第38任務部隊の可動機の全てであった<ref name="p" /><ref>[[#木俣水雷]]p.386</ref>。攻撃隊発進の後、ソロモン方面航空部隊から派遣された戦闘機群が第38任務部隊上空の護衛に就いた<ref name="r" />。その頃、ラバウルに到着したばかりの遊撃部隊では燃料補給が行われており<ref name="p" />、14時にタロキナへ向けて出撃して行動は一昼夜とすることが決められ<ref name="p" /><ref name="pp" />、空襲を受けた場合は第七戦隊、第八戦隊、第四戦隊、第二水雷戦隊、第十戦隊の順番でラバウルから脱出する事と定められた<ref name="s">[[#二水戦1811(1)]]pp.29</ref>。その最中の9時17分、ラバウルに[[空襲警報]]が発令された<ref name="t">[[#八潜基地]]pp.4</ref>。これに対して零戦71機と[[三号爆弾]]装備の「[[彗星 (航空機)|彗星]]」5機が迎撃のため発進する<ref name="u">[[#戦史96]]p.400</ref>。在泊艦船は直ちに航行を開始して、9時22分に「愛宕」、「高雄」、「摩耶」が発砲を開始<ref name="v">[[#八戦(2)]]pp.8</ref>。9時28分には「筑摩」も発砲を開始し<ref name="v" />、直後に4発の至近弾を浴びて1発が[[カタパルト]]付近に着弾する<ref name="v" />。第38任務部隊艦載機による空襲は9時44分頃には終わり<ref name="v" />、引き続いて27機の B-24 と67機の P-38 により空襲が行われ<ref name="u" />、空襲警報が解除されたのは11時の事であった<ref name="t" />。この空襲により第38任務部隊は10機を失ったものの<ref name="r" />、遊撃部隊その他艦船に以下のような大きな被害を与えた。

;在泊艦船の主だった被害<ref name="u" />
*「愛宕」:至近弾3、艦長中岡信喜大佐戦死
*「高雄」:被弾11、右舷前部水線大破孔
*「摩耶」:被弾1、左舷機械室火災
*「最上」:被弾1、中火災
*「筑摩」:至近弾4、一番魚雷発射管使用不能、水線下船体損傷<ref name="v" />
*「能代」:被弾
*「阿賀野」:被弾、高角砲使用不能
*「藤波」:右舷中部に魚雷1命中(不発)、幅2ミリ・長さ12ミリ程度の亀裂<ref>[[#二水戦1811(1)]]pp.31</ref>
*「若月」:至近弾、水線付近舷側に破孔多数、浸水
*「早波」:重油庫に小破孔、重油漏洩<ref>[[#二水戦1811(1)]]pp.29,31</ref>
*「[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]」:魚雷1命中(不発)<ref>[[#田村(2)]]p.93</ref>
*戦死:134名以上、重軽傷者:190名超

===空襲の後===
第38任務部隊艦載機の攻撃のうち、雷撃に関しては「藤波」と「天霧」に不発ながら1本ずつ命中させた以外には成功しなかった<ref>[[#木俣水雷]]p.388</ref>。それでもこの空襲は、「南太平洋部隊の誰もがもっていた最大の楽観的希望以上の成果を収め」<ref name="x">[[#ニミッツ、ポッター]]P.185</ref>て遊撃部隊を「廃物にしてしまった」<ref name="x" />。ラバウルから退避した諸艦船は、空襲が止み次第ラバウルに戻ってきたが<ref>[[#八戦(2)]]pp.9</ref>、草鹿中将は15時44分に至り、途中で分離した「鳥海」と「涼波」を含めた、遊撃部隊のうちの重巡洋艦をトラックにつき返すことを決めた<ref>[[#二水戦1811(1)]]pp.30</ref>。夕刻、「摩耶」と第二水雷戦隊を除いた<ref>[[#二水戦1811(1)]]pp.47</ref>遊撃部隊のうちの重巡洋艦はラバウルを後にしてトラックに向かい<ref>[[#八戦(2)]]pp.10</ref>、11月7日から8日にかけてトラックに帰投<ref name="y">[[#戦史96]]p.401</ref>。かくて遊撃部隊のラバウル進出は全くの失敗に終わった。

なお、タロキナへの逆上陸作戦は1日順延の後第三襲撃部隊と第二水雷戦隊主体で行われ、11月7日未明にタロキナ地区沖合いに達して揚陸に成功し、ラバウルに帰投した<ref>[[#戦史96]]p.402,403</ref>。また、艦上攻撃機14機が第38任務部隊を追撃するため発進して薄暮攻撃を行い、「大型空母1隻、中型空母1隻撃沈、重巡洋艦2隻撃沈、巡洋艦もしくは大型駆逐艦2隻撃沈」の戦果を報じ、そこに、撃墜して[[捕虜]]にした第38任務部隊艦載機パイロットへの尋問内容を組み合わせて「「サラトガ」と「プリンストン」と推定される空母を撃沈」した事にされたが、実際には第38任務部隊ではなく戦車揚陸艇(LCI)や[[魚雷艇]]など3隻に攻撃しただけであった([[ろ号作戦#11月5日(第一次ブーゲンビル島沖航空戦)]])<ref>[[#戦史96]]p.406,407</ref>。

==11月11日の空襲==
===背景===
「これはわたしにとって心地よい音楽である」と、ハルゼー大将は11月5日の空襲に成功したシャーマン少将からの報告に対してこのように返事した<ref name="w">[[#ポッター]]P.414</ref>。ハルゼー大将は戦果拡大を図るべくニミッツ大将に対して別の空母任務部隊の派遣を要請し、「エセックス」、「バンカー・ヒル」および「インディペンデンス」を基幹とするアルフレッド・L・モントゴメリー少将麾下の第50.3任務部隊が貸与される事となった<ref name="w" />。第50.3任務部隊は11月5日に[[エスピリトゥサント]]に到着し、第38任務部隊への補給作業が住み次第ラバウルへの再度の空襲作戦を行うはずであったが、第50.3任務部隊に宛がう護衛艦艇の手配の関係上、作戦は11月11日に行われる事となった<ref name="z">[[#戦史96]]p.413</ref>。作戦計画では、第38任務部隊はブーゲンビル島北方洋上から、第50.3任務部隊はブーゲンビル島南方洋上からそれぞれラバウルを空襲する手はずとなっていた<ref name="w" />。また、第5空軍と、初めてラバウル空襲に参加するソロモン方面航空部隊も加わる予定だったが、第5空軍は悪天候により作戦を中止して引き返した<ref name="z" />。

===戦闘経過===
北側の第38任務部隊と南側の第50.3任務部隊から、攻撃の第一波として合計185機の艦載機が発進する<ref name="aa">[[#ニミッツ、ポッター]]P.186</ref><ref>[[#木俣水雷]]p.391</ref>。6時58分、ラバウルに空襲警報が発せられたが<ref name="bb">[[#八潜基地]]pp.6</ref>、これより先に偵察機が第50.3任務部隊を発見しており、第二水雷戦隊と第十戦隊は6時18分にはラバウルから脱出しつつあった<ref>[[#戦史96]]p.414,415</ref>。零戦107機も迎撃のため発進する<ref>[[#戦史96]]p.414</ref>。しかし、7時5分に[[タブルブル山|花吹山]]の方向から突入した TBF の攻撃により「涼波」の左舷に魚雷1本が命中して火災を起こす<ref name="cc">[[#二水戦1811(1)]]pp.49</ref>。さらに回避運動中に爆弾1発を受け<ref>[[#二水戦1811(1)]]pp.49,50</ref>、一番魚雷発射管に搭載の魚雷に引火して爆発を起こして船体が切断し、7時22分に沈没した<ref name="cc" />。「阿賀野」および「長波」も魚雷命中により艦尾を亡失して航行不能となった<ref>[[#二水戦1811(1)]]pp.46,47,48</ref>。「阿賀野」に座乗する大杉少将も機銃掃射で負傷した<ref>[[#木俣水雷]]p.393</ref>。9時30分、草鹿中将は遊撃部隊など艦艇のこれ以上の被害拡大を防ぐため、第二水雷戦隊、第十戦隊、「摩耶」および[[潜水母艦]]「[[長鯨 (潜水母艦)|長鯨]]」をトラックに退却させる事に決めた<ref>[[#二水戦1811(1)]]pp.47</ref>。航行不能の「長波」と引き続き南東方面で行動する艦艇をラバウルに残し、遊撃部隊は相次いでラバウルを離れる<ref>[[#二水戦1811(1)]]pp.50</ref>。翌11月12日、「阿賀野」がアメリカ潜水艦「[[スキャンプ (潜水艦)|スキャンプ]]」 (''USS Scamp, SS-277'') の雷撃により航行不能となり<ref>[[#二水戦1811(2)]]pp.2</ref>、「能代」、次いでトラックから救援に駆けつけた軽巡洋艦「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」に曳航されつつ<ref>[[#二水戦1811(2)]]pp.5,7</ref>、11月15日22時にトラックに帰投した<ref>[[#二水戦1811(2)]]pp.9</ref>。

第一波空襲の艦載機を収容した第50.3任務部隊は、午後に第二次空襲を行うべくその準備に追われていた<ref name="dd">[[#戦史96]]p.417</ref>。そこに、偵察機からの報告により出撃したラバウルからの攻撃隊が接近してくる([[ろ号作戦#11月11日(第三次ブーゲンビル島沖航空戦)]])。レーダーによりその接近を探知した第50.3任務部隊は迎撃戦闘機を発進させ、11時51分に交戦を開始した<ref name="dd" />。迎撃戦闘機の大群を潜り抜けた攻撃隊が次に遭遇したのは[[近接信管]]を使用した対空砲火であり<ref name="aa" />、それらの迎撃をかいくぐったわずかな攻撃機も至近弾を投じるのが精一杯であった<ref name="dd" />。「バンカー・ヒル」は5インチ砲弾532発、40ミリ機関砲弾4,878発、20ミリ機銃弾22,790発を消費して攻撃をよく防ぎ<ref name="dd" />、35機の攻撃機を撃墜して<ref name="aa" />第50.3任務部隊の艦艇には被害なく、攻撃と迎撃を通じて11機を失っただけでラバウルへの空襲作戦は再び成功した<ref name="aa" />。もっとも、この被攻撃により午後の攻撃は取り止めとなり、第50.3任務部隊は第38任務部隊とともにラバウル近海を離れてギルバート方面に急行し、第5艦隊に復帰していった<ref name="ee">[[#戦史96]]p.418</ref>。


== その後 ==
== その後 ==
12月15日、アメリカ軍はニューブリテン島南西部の[[マーカス岬]]に上陸、26日には[[グロスター岬]]に上陸した。連合軍はラバウルを包囲するみにとどめ、攻略は行われなかったため終まで日本軍が保持して。翌年1944年2月にはマーシャル諸島侵攻が開始され日本軍はアメリカ軍の機動部隊圧倒されめる。1944年7月サイパン島陥落後アメカ軍は飛び石伝リピン、硫黄島、沖縄、日本本土近海へと進んでいったのでラバウルは完全に戦局から置き去りにされてしまいラバウルは戦略的価値を大きく減じた。そのため連合軍のラバウル攻略作戦なくな「定期便」などと呼ばれた機の機銃掃射や空襲は終戦まで続いた。)ラバウルは敵に奪われることなく終戦を迎えた。
ギルバート方面の戦況に鑑み、草鹿中将は南東方面部隊部署の改編で連合襲撃部隊を解隊し、ラバウル方面には第三水雷戦隊([[伊集院松治]]少将)を主体とする艦艇で新たに襲撃部隊を編成した<ref>[[#戦史96]]p.415</ref>。しかし、もはや日本側から海戦を仕掛ける余裕はなく、[[ニューブリテン島]]中部やアドミラルティ諸島方面への輸送作戦を細々とやっているのみだった<ref>[[#戦史96]]p.487</ref><ref>[[#木俣水雷]]p.408,409</ref>。12月15日、アメリカ軍はニューギニア方面の安全を確保するという名目で<ref>[[#ニミッツ、ポッター]]P.192</ref>ニューブリテン島南西部のマーカス岬に上陸({{仮リンク|アラウェの戦い|en|Battle of Arawe}})、26日には{{仮リンク|グロスター岬|en|Cape Gloucester}}に上陸した({{仮リンク|グロスター岬の戦い|en|Battle of Cape Gloucester}})その後、翌年1944年2月の[[マーシャル諸島]]失陥[[トラック島空襲]]に始まり[[ニューギニア戦い]]での敗退、[[マリアナ諸]]失陥、[[ペリューの戦]]などを経て戦線が刻一刻とリピンおよび日本本土方面へと移り、ラバウルは完全に戦局から置き去りにされ、その戦略的価値を大きく減じた。ラバウル方面の90,000名余りもの日本陸海軍将兵篭城態勢に移<ref name="ff">[[#ニミッツ、ポッター]]P.195</ref>、「定期便」などと呼ばれた連合軍機の機銃掃射や空襲は終戦まで続いたもののその状態で終戦を迎えた。

タロキナ地区への脅威をほぼ取り除いたアメリカ軍は、タロキナ地区の飛行場を1943年末までには完成させ、ラバウルの他カビエンなど[[ビスマルク諸島]]方面を爆撃機威力圏内に収める事となった<ref>[[#ニミッツ、ポッター]]P.188</ref>。第3艦隊およびソロモン方面航空部隊は、ここに至って航空大攻勢を開始し、その規模は「一日に一回、またはそれ以上出撃」<ref name="ff" />、「爆撃機の一週間の平均出撃機数は、延べ1,000機に達した」<ref name="ff" />というレベルに拡大した。トラック島空襲の影響でラバウル航空隊が事実上退却したこともあり、水上艦艇がラバウルやカビエンなど日本軍要地に[[艦砲射撃]]を行うこともしばしあった<ref name="ff" />。アドミラルティ諸島、[[エミラウ島]]、{{仮リンク|グリーン島|en|Nissan Island}}への上陸により包囲体制も整って<ref>[[#ニミッツ、ポッター]]P.196</ref>、もはや、ラバウル方面の制空権と制海権は連合軍側に帰したのである<ref name="ff" />。

そして、ラバウル空襲、特に11月5日と11月11日の空襲はアメリカ海軍にとって大変有意義なものとなった。後年のニミッツ[[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]]の回想および、戦史研究家{{仮リンク|サミュエル・E・モリソン|en|Samuel Eliot Morison}}編纂の戦史では、一連の空襲を次のように位置づけている<ref name="ee" />。

{{quotation|両部隊の活躍はラバウル作戦のみに限られたものではなかった。両部隊は、空母が日本軍の有力な基地に対し、攻撃の冒険をあえてすることができるか否かについて、長い事論議された問題の全てを解決した。|チェスター・ニミッツ|[[チェスター・ニミッツ|C・W・ニミッツ]]、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』172、173ページ}}

{{quotation|太平洋艦隊司令部は、その後の作戦で空母をがむしゃらに推進させたが、もしモントゴメリー隊の空母が、ここで甚大な損害を受けていれば、あれほど積極的にやるのを、ためらったであろう。わが方の戦闘機と対空砲火がこの日示した絶大な進歩は、敵に対しては警告であり、われわれには良い前兆であった。|サミュエル・E・モリソン|『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』418ページ}}

以後、アメリカ海軍の機動部隊はその力を日毎に強化していき、日本軍の有力拠点への攻撃を繰り返すこととなる。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist|2}}


==参考文献==
==参考文献==
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
** Ref.C08030048900「昭和17112昭和1911 大東亜争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」<br />第八戦隊ラバウル空襲闘詳報
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030044900|title=自昭和十八十一昭和十八十一三十 第五戦時日誌|ref=五1811}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030101400|title=自昭和十八年十一月一日至昭和十八年十一月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌|ref=二水戦1811(1)}}
* 山本佳男『巡洋艦高雄と共に』(旺史社、2003)著者はラバウル空襲時「高雄」に乗艦し、被害修理にあたった。
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030101500|title=自昭和十八年十一月一日至昭和十八年十一月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌|ref=二水戦1811(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030048800|title=自昭和十八年十一月一日至昭和十八年十一月三十日 第八戦隊戦時日誌|ref=八戦(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030048900|title=第八戦隊戦闘詳報第七号 自昭和十八年十一月三日至昭和十八年十一月七日|ref=八戦(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030694200|title=自昭和十八年十一月一日至昭和十八年十一月三十日 第八潜水艦基地隊戦時日誌|ref=八潜基地}}
*{{Cite book|和書|author=財団法人海上労働協会編|coauthors=|year=2007|title={{small|復刻版}} 日本商船隊戦時遭難史|publisher=財団法人海上労働協会/成山堂書店|isbn=978-4-425-30336-6|ref=戦時遭難史}}
*{{Cite book|和書|author=[[防衛研究所]]戦史室編|coauthors=|year=1976|title=戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後|publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]|ref=戦史96}}
*{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|coauthors=|year=1986|title=日本水雷戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣水雷}}
*{{Cite book|和書|author=雑誌「[[丸 (雑誌)|丸]]」編集部(編)|coauthors=|year=1989|title=写真・太平洋戦争(1)|publisher=光人社|isbn=4-7698-0413-X|ref=写真太平洋1989(1)}}
**{{Cite book|和書|author=多賀一史|coauthors=|year=|title=南海の不沈空母ラバウル|publisher=|ref=多賀}}
**{{Cite book|和書|author=阿部安雄|coauthors=|year=|title=米機動部隊ラバウル空襲ならず|publisher=|ref=阿部}}
**{{Cite book|和書|author=石橋孝夫|coauthors=|year=|title=米空母機動部隊の反撃|publisher=|ref=石橋}}
*{{Cite book|和書|author=雑誌「[[丸 (雑誌)|丸]]」編集部(編)|coauthors=伊達久「第二次大戦 日本海軍作戦年誌」|year=1990|title=写真 日本の軍艦14 {{small|小艦艇II}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0464-4|ref=伊達年誌}}
*{{Cite book|和書|author=E・B・ポッター(著)|coauthors=秋山信雄(訳)|year=1991|title=BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史|publisher=光人社|isbn=4-7698-0576-4|ref=ポッター}}
*{{Cite book|和書|author=[[チェスター・ニミッツ|C・W・ニミッツ]]、E・B・ポッター(共著)|coauthors=[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)|year=1992|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|isbn=4-7704-0757-2|ref=ニミッツ、ポッター}}
*{{Cite book|和書|author=ジェームズ・J・フェーイー(著)|coauthors=三方洋子(訳)|year=1994|title=太平洋戦争アメリカ水兵日記|publisher=NTT出版|isbn=4-87188-337-X|ref=フェーイー}}<br /> 「モントピリア」に乗艦
*{{Cite book|和書|author=渡辺洋二|coauthors=|year=1992|title=大空の攻防戦|publisher=[[朝日ソノラマ]]|isbn=4-257-17248-7|ref=渡辺(1)}}
*{{Cite book|和書|author=渡辺洋二|coauthors=|year=1993|title=夜間戦闘機「月光」|publisher=[[朝日ソノラマ]]|isbn=4-257-17278-9|ref=渡辺(2)}}
*{{Cite book|和書|author=雑誌「[[丸 (雑誌)|丸]]」編集部(編)|coauthors=|year=1995|title=写真・太平洋戦争(第6巻)|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2082-8|ref=写真太平洋1995(6)}}
**{{Cite book|和書|author=瀬名堯彦|coauthors=|year=|title=第38任務部隊ラバウル空襲|publisher=|ref=瀬名}}
*{{Cite book|和書|author=[[谷光太郎]]|coauthors=|year=2000|title=米軍提督と太平洋戦争|publisher=[[学習研究社]]|isbn=978-4054009820|ref=谷光(1)}}
*{{Cite book|和書|author=|coauthors=|year=2008|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ64}} 睦月型駆逐艦|publisher=[[学習研究社]]|isbn=978-4-05-605091-2|ref=歴史64}}
**{{Cite book|和書|author=田村俊夫|coauthors=|year=|title=昭和18年の「睦月」型(第2部)|publisher=|ref=田村(1)}}
*{{Cite book|和書|author=|coauthors=|year=2010|title={{small|歴史群像 太平洋戦史シリーズ70}} 完全版 特型駆逐艦|publisher=[[学習研究社]]|isbn=978-4-05-606020-1|ref=歴史70}}
**{{Cite book|和書|author=田村俊夫|coauthors=|year=|title=昭和18年の特型の戦いと修理|publisher=|ref=田村(2)}}
*{{Cite book|和書|author=原為一|coauthors=|year=2011|title=帝国海軍の最後|publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-24557-7|ref=原2011}}</br> 海戦時、第二十七駆逐隊司令として「時雨」に乗艦
*{{cite book | last = Gailey | first = Harry A. | authorlink = | year = 1991 | chapter = | title = Bougainville, 1943-1945: The Forgotten Campaign | publisher = University Press of Kentucky | location = Lexington, Kentucky, USA | isbn = 0-8131-9047-9 | ref = Gailey}}- レビュー:[http://www.sonic.net/~bstone/archives/030504.shtml]
* 山本佳男『巡洋艦高雄と共に』(旺史社、2003)<br /> 著者はラバウル空襲時「高雄」に乗艦し、被害修理にあたった。


==関連項目==
==関連項目==
58行目: 147行目:
*[[ギルバート・マーシャル諸島の戦い]]
*[[ギルバート・マーシャル諸島の戦い]]



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[[Category:太平洋戦争の作戦と戦い]]
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2011年8月7日 (日) 01:45時点における版

ラバウル空襲

空襲を受ける日本の重巡洋艦筑摩(1943年11月5日)
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1943年10月12日-11月11日
場所ラバウル周辺
結果:連合国軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オーストラリアの旗 オーストラリア
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
指導者・指揮官
古賀峯一大将
草鹿任一中将
栗田健男中将
岸福治中将
西村祥治少将
高間完少将
大杉守一少将
ウィリアム・ハルゼー大将
フレデリック・C・シャーマン少将
アルフレッド・L・モントゴメリー少将
ジョージ・ケニー英語版少将
ネーサン・トワイニング少将
戦力
巡洋艦10
駆逐艦11
航空機200[1]
空母艦載機282
陸上機349[1]
損害
駆逐艦1沈没
巡洋艦7損傷
駆逐艦4損傷
航空機52[2]
航空機27[3]
ソロモン諸島の戦い

ラバウル空襲(ラバウルくうしゅう)とは、太平洋戦争中に日本軍が拠点にしていたラバウル連合国軍(連合軍)が行った空襲であり、ここでは特に、1943年10月から11月にかけての、ブーゲンビル島の戦いの援護を目的として行われた大規模な空襲を中心に述べる。一連の空襲の結果、ブーゲンビル島に対する日本軍の反攻の脅威を事実上砕くことに成功した。

日本軍側の動きについてはラバウル航空隊も参照されたい。

背景

日本軍の事情

ラバウルはビスマルク諸島ニューブリテン島の北東に位置するオーストラリア軍が設営した大規模な飛行場と良好な泊地であり、1942年1月23日に日本軍が占領した[4]。以後、後方のカビエンなどとともにソロモン諸島の戦い東部ニューギニアの戦いに於いて、日本軍の重要な基地となっていた。一方の連合軍側は、日本軍がラバウルを足がかりにニューカレドニアニューヘブリディーズ諸島へ進撃してくる可能性を念頭に、その出鼻を挫くためANZACへ爆撃機や機動部隊のアメリカ第11任務部隊を派遣した[5]。この時派遣された第11任務部隊司令官ウィルソン・ブラウン中将の提案によりラバウル空襲作戦が計画され、2月21日にラバウル空襲作戦を行う予定であった[5]。しかし、空襲予定日の前日である2月20日に、ラバウルに進出したばかりの第四海軍航空隊の攻撃を受ける(ニューギニア沖海戦)。攻撃自体は日本側の一方的な敗戦に終わったものの、第11任務部隊も回避運動により燃料を大幅に消費したため、ラバウル空襲は断念せざるを得なかった[6]

これ以降、ラバウルに対する空襲の主役はポートモレスビーなどを根拠とする連合軍の大型爆撃機に移り、散発的な空襲を繰り返し受けることとなった。空襲は主に B-17 が少数単位で時を定めず来襲し[7]、他には B-26 も投入された[7]。1943年に入ってからは B-24 も投入され[8]、一連の空襲は「点滴爆撃」とも呼ばれ[9]、被害自体は大したものではなかったものの[9]、来襲高度が高くて容易に撃墜できない上に[10]、頼みのラバウル航空隊も夜間訓練を行っていないので夜間迎撃も上手くいかず[10]、昼夜分かたぬ空襲によりラバウルの日本軍将兵の中には神経が高ぶって眠れなくなる者が現れた[9]小園安名中佐率いる第二五一海軍航空隊夜間戦闘機月光(当時は二式陸偵改)とともにラバウルに到着し、難攻不落の B-17 を撃墜したのは5月21日の事である[11]

ガダルカナル島の戦いに敗れて後、日本軍のソロモン方面での防衛線は徐々にラバウル側へと押し上げられていく。彼我の航空戦力の差も数と質の両方の面で広がるばかりであり、数の方は1943年4月の「い号作戦」に代表されるような母艦航空隊の投入が幾度か行われたが、損害ばかりが増すばかりであった[12]。やがてニュージョージア島コロンバンガラ島ベララベラ島からの撤退で防衛線はさらに押し上げられ、9月下旬からはブインなどへの空襲が激化し[13]、同方面の零戦隊もラバウルに後退する外なかった[14]

連合軍側の事情

この時点でソロモン諸島の戦いで勝利を手中に収めつつあった連合国側のアメリカ軍であったが、機動部隊の中核である空母の配備数は日本軍と拮抗した状態で、多方面から反攻作戦を実施するには戦力不足であった。特に、ソロモン方面の戦闘を担当する第3艦隊(南太平洋部隊。ウィリアム・ハルゼー大将)に至ってはベテランの「サラトガ」 (USS Saratoga, CV-3) しか空母の持ち合わせがなく、もう1隻の手持ち空母だった「エンタープライズ」 (USS Enterprise, CV-6) はオーバーホールのため戦列から下がっていた[15]。1943年5月から6月にかけては、イギリス海軍から空母「ヴィクトリアス」 (HMS Victorious, R38) を借用して「サラトガ」と組ませ、ラバウル航空隊の攻撃範囲外において不活発な空母作戦を行っていた状態だった[15]

その空母陣も、1942年末以降「エセックス」 (USS Essex, CV-9) 、「バンカー・ヒル」 (USS Bunker Hill, CV-9) などのエセックス級航空母艦、「インディペンデンス」 (USS Independence, CVL-22) などインディペンデンス級航空母艦が続々と竣工して訓練の後、太平洋艦隊に配備される。特に「エセックス」の真珠湾到着は、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将をして、新しい中部太平洋部隊の編成の第一弾として位置づけられた[16]。8月に入り第5艦隊が編成され、艦隊司令長官にレイモンド・スプルーアンス中将が、指揮下の高速空母任務部隊の司令官にチャールズ・A・パウナル少将がそれぞれ就任した[17]。パウナル少将の高速空母任務部隊は、1943年9月1日に南鳥島を空襲したのを皮切りにして、9月18日と19日にギルバート諸島[18]、10月に入ってからウェーク島をそれぞれ攻撃して成果を収めた[18]。もっとも、これら新鋭空母の話は全て中部太平洋方面での事であって、ソロモン方面には関係のない話である。しかし、新鋭空母の回航を望んでいたのはハルゼー大将も同じであった[19]。ハルゼー大将は「ヴィクトリアス」をイギリス海軍に返却の後、「サラトガ」と新鋭空母の組み合わせで空母作戦を行う事を望んでいた[19]。この望みを一度は断ったのはニミッツ大将である[19]。ニミッツ大将の言い分では、続々戦列に加わる新鋭空母の乗員およびパイロットのレベルは高くなく、まずは経験を積ませるために一撃離脱式の攻撃を繰り返す必要があった[19]。また、中部太平洋方面に攻勢をかけたならば、日本軍の注意は中部太平洋に向けられ、ソロモン方面の戦闘は第3艦隊の手持ち部隊だけで対処できると考えていた[20]。第5艦隊は当時、ギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦を控えており、主だった戦闘艦艇は第5艦隊に割り振られていた事情もあった[19][21]

連合国および南西太平洋方面軍指揮官ダグラス・マッカーサー大将が1943年4月26日に発令したカートホイール作戦の計画では、ラバウルを攻略せず無視することがすでに決まっていた[22]。第3艦隊は、ラバウル包囲のためにブーゲンビル島を攻略することまでは決めていた[22]。攻略地点については、ニュージョージア島の戦いにおけるムンダ攻防戦の苦い経験から日本軍が集中しているであろうブイン地区とショートランド諸島をパスし、エンプレス・オーガスタ湾に面したタロキナ地区に飛行場適地があったこと、タロキナ方面の日本軍部隊がわずかであるなどの理由により、9月22日にタロキナ地区への上陸に決した[22][23]。その時点での第3艦隊の兵力といえば、アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵中将率いる二個師団とニュージーランド軍一個旅団合わせて約34,000名の陸上部隊に[19][24]、輸送船12隻と、その護衛にあたる駆逐艦11隻[19]アーロン・S・メリル少将の第39任務部隊[19]、そして「サラトガ」だけであった[19]。タロキナ地区への上陸作戦を決定した後、ハルゼー大将は真珠湾の太平洋艦隊司令部に向かい、増援を要請する[25]。その結果、新鋭の軽空母「プリンストン」 (USS Princeton, CVL-23) と巡洋艦群、駆逐群が派遣される事となったが、タロキナ上陸作戦の予定日である11月1日までには合流できなかった[25]。唯一の救いは、ジョージ・ケニー少将率いる第5空軍とネーサン・トワイニング少将のソロモン方面航空部隊が、任務遂行のために必要な航空機を確保しているとみられたことであった[19]

10月12日から11月2日にかけての空襲

ラバウル上空を飛ぶ B-25。右手の海域がシンプソン港(ラバウル港)

10月12日、第5空軍機と、同じくケニー少将の指揮下に入っていたオーストラリア空軍機およびニュージーランド空軍機合わせて349機の爆撃機は、ラバウルに対する初の大空襲を敢行する。第一の目標は一式陸上攻撃機が常駐していたラバウル西飛行場であったが[26]、天候に恵まれず思ったほどの成果はあげられなかった。この空襲により駆逐艦「太刀風」、「望月」、「水無月」、給油艦「鳴戸」などが損傷し[27][28]、「鳴戸」では十数名が戦死した[29]。続いて10月18日には約50機の B-25 による空襲が行われ、以後6日連続して爆撃を行った[30]

11月2日のラバウル空襲は約200機[31]、あるいは72機の B-25 と80機の P-38 [30]で行われる。この時、ラバウルには2日未明のブーゲンビル島沖海戦を戦って帰投してきたばかりの連合襲撃部隊(大森仙太郎少将)が入港したばかりであった[32][33]。この時の空襲では重巡洋艦妙高」が至近弾によりタービンに亀裂が入り、駆逐艦「白露」は方位盤を損傷する[34]。その他、船舶15隻が撃沈され11隻が損傷した[35]。それでも8機の B-25 が撃墜されるか帰投途中で失われ、その中には第3攻撃集団長レイモンド・H・ウィルキンス英語版少佐の乗機が含まれており、ウィルキンス少佐はそのリーダーリップが称えられて名誉勲章を死後授与された。また、P-38 は9機が失われた[30]

ここまでの空襲はそれなりの成果を挙げたものの、日本軍の強力な対空砲火と迎撃機を警戒するあまり、ほとんどの場合において高高度からの攻撃を行ったため、目標に爆弾を命中させる事がなかなか出来ず、「ケニーの爆撃機はどうでもいいような成果をあげただけであった」と、アナポリス海軍兵学校歴史学名誉教授だったE・B・ポッター英語版は述べている[36]

11月5日の空襲

背景

10月27日、トレジャリー諸島チョイセル島に先行部隊が上陸し[37]、次いで11月1日早朝、タロキナ地区への上陸作戦が敢行され、上陸作戦から日本軍の注意をそらすために第39任務部隊はブカ島とショートランドに対して艦砲射撃を行う。「プリンストン」が合流した第38任務部隊の艦載機はソロモン方面航空部隊とともにブカ島を爆撃した[37][38]。第38任務部隊を含めたアメリカ機動部隊がラバウルやカビエン近海で行動したのは、未遂に終わった前述のラバウル空襲作戦以来初めてのことである[39]。ハルゼー大将にとっては待望の新戦力であったが、行動には制限が課せられていた。「サラトガ」も「プリンストン」もガルヴァニック作戦支援を命じられていたため、11月20日までに当該海域に戻らなければならなかった[40]。第38任務部隊は11月2日にもブカ島を空襲した後、レンネル島近海まで引き揚げて燃料補給作業を行った[41]。そこに突然、事態を緊迫化させる情報がもたらされる。

タロキナ地区への連合軍上陸の報を受け、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は第一航空戦隊の艦載機を投入を決心し(ろ号作戦)、続いて栗田健男中将率いる遊撃部隊をラバウル方面に投入して決戦を挑む事となった[42]。遊撃部隊の兵力は第二艦隊第三艦隊から抽出され、以下の艦艇で構成されていた[42][43]

連合艦隊参謀長であった福留繁中将によれば、遊撃部隊の進出は連合艦隊司令部の独断で決まったものであり[42]、「航空攻撃の成果が上がったところで水上部隊を突入させて撃滅する」というのが狙いであった[44]。しかし、南東方面部隊指揮官だった草鹿任一中将および第二水雷戦隊]]司令官だった高間完少将は、制空権が奪われつつあるラバウルに水上部隊を送り込むことには懐疑的であり[44]、[ 来るなとは言えないが、来ない方がよい」(草鹿中将)[44]、「誠に奇異の感」(高間少将)[44]という考えであった。遊撃部隊のトラック出撃は11月2日の予定であったが一日繰り下がり[44][45]、ラバウル進出後は、第十戦隊(大杉守一少将)を主隊として先のブーゲンビル島沖海戦で反転帰投した輸送部隊と合同した第三襲撃部隊の支援にあたることとなった[46]。この作戦は「は号作戦」と命名された[46]。遊撃部隊はラバウルへの進出途中、爆撃を受けて航行不能になったタンカー「日章丸」(昭和タンカー、10,526トン)の救援のため「鳥海」と「涼波」を分離し[47][48]、残りは11月5日早朝にラバウルに到着した[47]。しかし、遊撃部隊はアドミラルティ諸島近海を南下中の11月4日昼ごろから B-24 の触接を受け、それはラバウル到着直前まで続いた[47]

先に述べた「事態を緊迫化させる情報」とはこの事であり、ハルゼー大将が後年「これは南太平洋軍司令官としての全任期中に直面したもっともきびしい緊急事態であった」と回想するほど難しい状況であった[49]。ブカ島とショートランドへの砲撃およびブーゲンビル島沖海戦と、ほとんど不眠不休で戦ってきた[50]第39任務部隊はツラギ島にあり[51]、遊撃部隊を迎え撃つにしても強力かつ距離が遠すぎた[49]。しかし、ここで第3艦隊の参謀が第38任務部隊によるラバウル空襲を思いつく[49]。これまでアメリカ海軍の機動部隊が行っていた空母による日本軍基地への攻撃は、先述のパウナル少将による一連の攻撃も含めて大したことがない施設へのものが多く、ラバウルのような強力な拠点に対しては一度も行われていなかった[49]。参謀から作戦プランを打ち明けられたハルゼー大将にとって、ラバウルへの攻撃はほぼ1年前の第三次ソロモン海戦の時と同じぐらいの危険な命令だと感じており[52]、第38任務部隊の運命は悪いものになるとすら予想していた[52]。それでも、ハルゼー大将にとってはタロキナ地区の上陸部隊を守ることが至上命題であり、しばしの沈黙の後に発した「行かせよう!」との一言で作戦は実行に移される事になった[52]。同時に、ハルゼー大将はソロモン方面航空部隊に対し、第38任務部隊への全面的支援を命じた[52]

戦闘経過

第38任務部隊は27ノットの速力でラバウルに接近し[47]、11月5日7時ごろにラバウルの南東230海里の発艦地点に到達[47]F6F 52機、TBF 23機、SBD 22機の計97機を発進させたが、これが第38任務部隊の可動機の全てであった[47][53]。攻撃隊発進の後、ソロモン方面航空部隊から派遣された戦闘機群が第38任務部隊上空の護衛に就いた[52]。その頃、ラバウルに到着したばかりの遊撃部隊では燃料補給が行われており[47]、14時にタロキナへ向けて出撃して行動は一昼夜とすることが決められ[47][48]、空襲を受けた場合は第七戦隊、第八戦隊、第四戦隊、第二水雷戦隊、第十戦隊の順番でラバウルから脱出する事と定められた[54]。その最中の9時17分、ラバウルに空襲警報が発令された[55]。これに対して零戦71機と三号爆弾装備の「彗星」5機が迎撃のため発進する[56]。在泊艦船は直ちに航行を開始して、9時22分に「愛宕」、「高雄」、「摩耶」が発砲を開始[57]。9時28分には「筑摩」も発砲を開始し[57]、直後に4発の至近弾を浴びて1発がカタパルト付近に着弾する[57]。第38任務部隊艦載機による空襲は9時44分頃には終わり[57]、引き続いて27機の B-24 と67機の P-38 により空襲が行われ[56]、空襲警報が解除されたのは11時の事であった[55]。この空襲により第38任務部隊は10機を失ったものの[52]、遊撃部隊その他艦船に以下のような大きな被害を与えた。

在泊艦船の主だった被害[56]
  • 「愛宕」:至近弾3、艦長中岡信喜大佐戦死
  • 「高雄」:被弾11、右舷前部水線大破孔
  • 「摩耶」:被弾1、左舷機械室火災
  • 「最上」:被弾1、中火災
  • 「筑摩」:至近弾4、一番魚雷発射管使用不能、水線下船体損傷[57]
  • 「能代」:被弾
  • 「阿賀野」:被弾、高角砲使用不能
  • 「藤波」:右舷中部に魚雷1命中(不発)、幅2ミリ・長さ12ミリ程度の亀裂[58]
  • 「若月」:至近弾、水線付近舷側に破孔多数、浸水
  • 「早波」:重油庫に小破孔、重油漏洩[59]
  • 天霧」:魚雷1命中(不発)[60]
  • 戦死:134名以上、重軽傷者:190名超

空襲の後

第38任務部隊艦載機の攻撃のうち、雷撃に関しては「藤波」と「天霧」に不発ながら1本ずつ命中させた以外には成功しなかった[61]。それでもこの空襲は、「南太平洋部隊の誰もがもっていた最大の楽観的希望以上の成果を収め」[62]て遊撃部隊を「廃物にしてしまった」[62]。ラバウルから退避した諸艦船は、空襲が止み次第ラバウルに戻ってきたが[63]、草鹿中将は15時44分に至り、途中で分離した「鳥海」と「涼波」を含めた、遊撃部隊のうちの重巡洋艦をトラックにつき返すことを決めた[64]。夕刻、「摩耶」と第二水雷戦隊を除いた[65]遊撃部隊のうちの重巡洋艦はラバウルを後にしてトラックに向かい[66]、11月7日から8日にかけてトラックに帰投[67]。かくて遊撃部隊のラバウル進出は全くの失敗に終わった。

なお、タロキナへの逆上陸作戦は1日順延の後第三襲撃部隊と第二水雷戦隊主体で行われ、11月7日未明にタロキナ地区沖合いに達して揚陸に成功し、ラバウルに帰投した[68]。また、艦上攻撃機14機が第38任務部隊を追撃するため発進して薄暮攻撃を行い、「大型空母1隻、中型空母1隻撃沈、重巡洋艦2隻撃沈、巡洋艦もしくは大型駆逐艦2隻撃沈」の戦果を報じ、そこに、撃墜して捕虜にした第38任務部隊艦載機パイロットへの尋問内容を組み合わせて「「サラトガ」と「プリンストン」と推定される空母を撃沈」した事にされたが、実際には第38任務部隊ではなく戦車揚陸艇(LCI)や魚雷艇など3隻に攻撃しただけであった(ろ号作戦#11月5日(第一次ブーゲンビル島沖航空戦)[69]

11月11日の空襲

背景

「これはわたしにとって心地よい音楽である」と、ハルゼー大将は11月5日の空襲に成功したシャーマン少将からの報告に対してこのように返事した[70]。ハルゼー大将は戦果拡大を図るべくニミッツ大将に対して別の空母任務部隊の派遣を要請し、「エセックス」、「バンカー・ヒル」および「インディペンデンス」を基幹とするアルフレッド・L・モントゴメリー少将麾下の第50.3任務部隊が貸与される事となった[70]。第50.3任務部隊は11月5日にエスピリトゥサントに到着し、第38任務部隊への補給作業が住み次第ラバウルへの再度の空襲作戦を行うはずであったが、第50.3任務部隊に宛がう護衛艦艇の手配の関係上、作戦は11月11日に行われる事となった[71]。作戦計画では、第38任務部隊はブーゲンビル島北方洋上から、第50.3任務部隊はブーゲンビル島南方洋上からそれぞれラバウルを空襲する手はずとなっていた[70]。また、第5空軍と、初めてラバウル空襲に参加するソロモン方面航空部隊も加わる予定だったが、第5空軍は悪天候により作戦を中止して引き返した[71]

戦闘経過

北側の第38任務部隊と南側の第50.3任務部隊から、攻撃の第一波として合計185機の艦載機が発進する[72][73]。6時58分、ラバウルに空襲警報が発せられたが[74]、これより先に偵察機が第50.3任務部隊を発見しており、第二水雷戦隊と第十戦隊は6時18分にはラバウルから脱出しつつあった[75]。零戦107機も迎撃のため発進する[76]。しかし、7時5分に花吹山の方向から突入した TBF の攻撃により「涼波」の左舷に魚雷1本が命中して火災を起こす[77]。さらに回避運動中に爆弾1発を受け[78]、一番魚雷発射管に搭載の魚雷に引火して爆発を起こして船体が切断し、7時22分に沈没した[77]。「阿賀野」および「長波」も魚雷命中により艦尾を亡失して航行不能となった[79]。「阿賀野」に座乗する大杉少将も機銃掃射で負傷した[80]。9時30分、草鹿中将は遊撃部隊など艦艇のこれ以上の被害拡大を防ぐため、第二水雷戦隊、第十戦隊、「摩耶」および潜水母艦長鯨」をトラックに退却させる事に決めた[81]。航行不能の「長波」と引き続き南東方面で行動する艦艇をラバウルに残し、遊撃部隊は相次いでラバウルを離れる[82]。翌11月12日、「阿賀野」がアメリカ潜水艦「スキャンプ」 (USS Scamp, SS-277) の雷撃により航行不能となり[83]、「能代」、次いでトラックから救援に駆けつけた軽巡洋艦「長良」に曳航されつつ[84]、11月15日22時にトラックに帰投した[85]

第一波空襲の艦載機を収容した第50.3任務部隊は、午後に第二次空襲を行うべくその準備に追われていた[86]。そこに、偵察機からの報告により出撃したラバウルからの攻撃隊が接近してくる(ろ号作戦#11月11日(第三次ブーゲンビル島沖航空戦))。レーダーによりその接近を探知した第50.3任務部隊は迎撃戦闘機を発進させ、11時51分に交戦を開始した[86]。迎撃戦闘機の大群を潜り抜けた攻撃隊が次に遭遇したのは近接信管を使用した対空砲火であり[72]、それらの迎撃をかいくぐったわずかな攻撃機も至近弾を投じるのが精一杯であった[86]。「バンカー・ヒル」は5インチ砲弾532発、40ミリ機関砲弾4,878発、20ミリ機銃弾22,790発を消費して攻撃をよく防ぎ[86]、35機の攻撃機を撃墜して[72]第50.3任務部隊の艦艇には被害なく、攻撃と迎撃を通じて11機を失っただけでラバウルへの空襲作戦は再び成功した[72]。もっとも、この被攻撃により午後の攻撃は取り止めとなり、第50.3任務部隊は第38任務部隊とともにラバウル近海を離れてギルバート方面に急行し、第5艦隊に復帰していった[87]

その後

ギルバート方面の戦況に鑑み、草鹿中将は南東方面部隊部署の改編で連合襲撃部隊を解隊し、ラバウル方面には第三水雷戦隊(伊集院松治少将)を主体とする艦艇で新たに襲撃部隊を編成した[88]。しかし、もはや日本側から海戦を仕掛ける余裕はなく、ニューブリテン島中部やアドミラルティ諸島方面への輸送作戦を細々とやっているのみだった[89][90]。12月15日、アメリカ軍はニューギニア方面の安全を確保するという名目で[91]ニューブリテン島南西部のマーカス岬に上陸(アラウェの戦い英語版)、26日にはグロスター岬に上陸した(グロスター岬の戦い)。その後、翌年1944年2月のマーシャル諸島失陥、トラック島空襲に始まりニューギニアの戦いでの敗退、マリアナ諸島失陥、ペリリューの戦いなどを経て戦線が刻一刻とフィリピンおよび日本本土方面へと移り、ラバウルは完全に戦局から置き去りにされ、その戦略的価値を大きく減じた。ラバウル方面の90,000名余りもの日本陸海軍将兵は篭城態勢に移り[92]、「定期便」などと呼ばれた連合軍機の機銃掃射や空襲は終戦まで続いたものの、その状態で終戦を迎えた。

タロキナ地区への脅威をほぼ取り除いたアメリカ軍は、タロキナ地区の飛行場を1943年末までには完成させ、ラバウルの他カビエンなどビスマルク諸島方面を爆撃機威力圏内に収める事となった[93]。第3艦隊およびソロモン方面航空部隊は、ここに至って航空大攻勢を開始し、その規模は「一日に一回、またはそれ以上出撃」[92]、「爆撃機の一週間の平均出撃機数は、延べ1,000機に達した」[92]というレベルに拡大した。トラック島空襲の影響でラバウル航空隊が事実上退却したこともあり、水上艦艇がラバウルやカビエンなど日本軍要地に艦砲射撃を行うこともしばしあった[92]。アドミラルティ諸島、エミラウ島グリーン島英語版への上陸により包囲体制も整って[94]、もはや、ラバウル方面の制空権と制海権は連合軍側に帰したのである[92]

そして、ラバウル空襲、特に11月5日と11月11日の空襲はアメリカ海軍にとって大変有意義なものとなった。後年のニミッツ元帥の回想および、戦史研究家サミュエル・E・モリソン編纂の戦史では、一連の空襲を次のように位置づけている[87]

両部隊の活躍はラバウル作戦のみに限られたものではなかった。両部隊は、空母が日本軍の有力な基地に対し、攻撃の冒険をあえてすることができるか否かについて、長い事論議された問題の全てを解決した。 — チェスター・ニミッツ、C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』172、173ページ
太平洋艦隊司令部は、その後の作戦で空母をがむしゃらに推進させたが、もしモントゴメリー隊の空母が、ここで甚大な損害を受けていれば、あれほど積極的にやるのを、ためらったであろう。わが方の戦闘機と対空砲火がこの日示した絶大な進歩は、敵に対しては警告であり、われわれには良い前兆であった。 — サミュエル・E・モリソン、『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』418ページ

以後、アメリカ海軍の機動部隊はその力を日毎に強化していき、日本軍の有力拠点への攻撃を繰り返すこととなる。

脚注

  1. ^ a b #Gailey, p.86-92
  2. ^ #Gailey, p.88-91
  3. ^ #Gailey, p.88-89
  4. ^ #多賀p.196
  5. ^ a b #阿部p.240
  6. ^ #阿部p.241
  7. ^ a b #渡辺(2)p.46
  8. ^ #渡辺(2)p.77
  9. ^ a b c #渡辺(2)p.63
  10. ^ a b #渡辺(2)p.62
  11. ^ #渡辺(2)p.77,78
  12. ^ #渡辺(1)p.13
  13. ^ #渡辺(1)p.13,15
  14. ^ #渡辺(1)p.15
  15. ^ a b #ポッターp.374
  16. ^ #ニミッツ、ポッターp.208
  17. ^ #谷光(1)p.471
  18. ^ a b #ニミッツ、ポッターp.216
  19. ^ a b c d e f g h i j #ポッターp.404
  20. ^ #ポッターp.404,405
  21. ^ #ニミッツ、ポッターp.208
  22. ^ a b c #戦史96p.374
  23. ^ #ポッターp.403
  24. ^ #戦史96p.375
  25. ^ a b #ポッターp.405
  26. ^ #写真太平洋1995(6)p.48
  27. ^ #伊達年誌p.219
  28. ^ #田村(1)p.136
  29. ^ #原2011p.128
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  32. ^ #五戦1811pp.23
  33. ^ #二水戦1811(1)pp.26,27
  34. ^ #二水戦1811(1)pp.27
  35. ^ #写真太平洋1995(6)p.51
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参考文献

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  • 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年。ISBN 978-4-425-30336-6 
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  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年。 
  • 雑誌「」編集部(編)『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1989年。ISBN 4-7698-0413-X 
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    • 阿部安雄『米機動部隊ラバウル空襲ならず』。 
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  • ジェームズ・J・フェーイー(著)、三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年。ISBN 4-87188-337-X 
    「モントピリア」に乗艦
  • 渡辺洋二『大空の攻防戦』朝日ソノラマ、1992年。ISBN 4-257-17248-7 
  • 渡辺洋二『夜間戦闘機「月光」』朝日ソノラマ、1993年。ISBN 4-257-17278-9 
  • 雑誌「」編集部(編)『写真・太平洋戦争(第6巻)』光人社NF文庫、1995年。ISBN 4-7698-2082-8 
    • 瀬名堯彦『第38任務部隊ラバウル空襲』。 
  • 谷光太郎『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年。ISBN 978-4054009820 
  • 歴史群像 太平洋戦史シリーズ64 睦月型駆逐艦』学習研究社、2008年。ISBN 978-4-05-605091-2 
    • 田村俊夫『昭和18年の「睦月」型(第2部)』。 
  • 歴史群像 太平洋戦史シリーズ70 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年。ISBN 978-4-05-606020-1 
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  • 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年。ISBN 978-4-309-24557-7 
    海戦時、第二十七駆逐隊司令として「時雨」に乗艦
  • Gailey, Harry A. (1991). Bougainville, 1943-1945: The Forgotten Campaign. Lexington, Kentucky, USA: University Press of Kentucky. ISBN 0-8131-9047-9 - レビュー:[1]
  • 山本佳男『巡洋艦高雄と共に』(旺史社、2003)
    著者はラバウル空襲時「高雄」に乗艦し、被害修理にあたった。

関連項目