甲州征伐

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甲州征伐(こうしゅうせいばつ)は、織田信長長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河信濃甲斐上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。武田征伐とも言われる。

甲州征伐
戦争:甲州征伐(武田征伐)
年月日1582年2月3日 - 3月11日
場所:駿河・信濃・甲斐
結果:織田軍の勝利・武田勝頼の滅亡
交戦勢力
織田軍Oda emblem.svg 武田軍Japanese Crest Takeda Hisi.svg
指揮官
織田信忠Oda emblem.svg 武田勝頼Japanese Crest Takeda Hisi.svg
織田信長の戦い

合戦の流れ[編集]

戦いの序章[編集]

甲斐武田氏は信玄後期に遠江・三河への本格的侵攻である西上作戦を実行し[1]、それまで同盟関係にあった織田信長と手切となり、敵対関係に入った。西上作戦は元亀4年(1573年)に信玄の急死により撤収され、勝頼期には東海方面で徳川家康が反攻を強めた。

天正3年(1575年)5月には織田・徳川連合軍と勝頼の間で長篠の戦いが発生し、武田氏は主要家臣を多く失う大敗を喫し、武田家領国は動揺した。

長篠合戦の後、武田氏の外戚である木曾義昌武田信玄の娘で勝頼の妹・真理姫の夫)は武田勝頼より秋山虎繁(信友)が守る美濃岩村城の支援を命じられたが、財政的な理由で勝頼に反抗した。虎繁は織田軍に破れ処刑され美濃方面の橋頭堡を失い、逆に美濃からの織田氏の脅威にさらされることになる。

長篠合戦後に勝頼は外交関係の再構築を試み、北条氏政とは妹の桂林院殿との婚姻によって甲相同盟を固めた。しかし御館の乱を契機に後北条氏をも敵に回してしまう。上杉景勝には妹を娶らせて甲越同盟を結ぶも、上杉家は内乱後の深刻な後遺症により上杉領国外への影響力を失っていた。対北条には特に上野戦線では有利に進むも、織田・徳川・北条と三方を敵に囲まれた中で過度の出兵とそれに伴う支出で領国は疲弊を深めていく。

織田氏は畿内や北陸における一向宗との戦い(石山合戦)や西の毛利氏との戦いに忙殺されていたため、しばらく軍を東へ向けることはなかったものの、信長の同盟者である三河徳川家康は長篠の戦い以降武田氏に対し攻勢を強め、勝頼はたびたび出兵を余儀なくされた。

そうした窮状の中で信長とは人質として武田家に寄寓していた織田勝長を返還し、また常陸国佐竹氏との同盟(甲佐同盟)を通じて和睦を試みるが(甲江和与)、信長との和睦は成立せず、織田・徳川連合軍の武田領国への本格的侵攻が行われることになる。殊に天正9年の高天神城の落城に際し後詰を送らなかった(送れなかった)事は、武田氏の信望を致命的に失墜させた。

相次いだ出兵にかかった費用を穴埋めすべく、尋常ならざる割合の年貢賦役を課しており、人心が徐々にではあるが勝頼から離れつつあった。義昌もその1人であるが、勝頼の側も秋山支援に動かなかったため義昌に不信感を抱いており、両者の関係は急速に冷却化しつつあった。天正10年(1582年2月1日新府城韮崎市)築城のため更に賦役が増大していたことに不満を募らせた義昌はついに勝頼を裏切り、信長の嫡男信忠に弟の上松義豊を人質として差し出し、織田氏に寝返った。

勝頼は、真理姫から義昌の謀反を知らされるとこれに激怒し、従弟の武田信豊を先手とする木曾征伐の軍勢5,000余を先発として差し向け、さらに義昌の生母と側室と子供を磔にして処刑。そして勝頼自身の軍勢1万5,000余も出陣した。

信長は2月3日に義昌の反乱を知ると武田勝頼討伐を決定、動員令を発した。信長・信忠父子は伊那から進軍。信長の家臣金森長近飛騨方面から、同盟者の徳川家康が駿河方面から、北条氏政も相模伊豆・上野から甲斐・信濃へ進軍することに決定した。

織田側の編成[編集]

天正元年(1573年)以降、織田信忠を筆頭に池田恒興森長可河尻秀隆らを主力とするいわゆる「信忠軍団」が編成されており(池田は後に軍団を離脱、摂津へ)、主に東美濃に勢力を張っていた武田の影響を排除する戦いをしていた。武田征伐時には以下のような陣容であった。

この出陣に当たり、信長は「今回は遠征なので連れていく兵数を少なくし、出陣中に兵糧が尽きないようにしなければならない。ただし人数が多く見えるように奮闘せよ」と書状を出している。

また、後から続く信長直率の軍団は以下のような陣容であった。ルイス・フロイスの「日本史」には、この信長本隊は兵6万を率いる予定だったと書かれている。

武田軍団の崩壊[編集]

2月3日、まず森長可、団忠正の織田軍先鋒隊が岐阜城を出陣。若い両将の目付けとして河尻秀隆が本隊から派遣された。2月6日、先鋒隊は森、団の両名は木曽口から、河尻は伊那街道から信濃に兵を進めている。伊那街道沿いの武田勢力は恐れをなし、織田の先鋒隊が信濃に入った同日、岩村への関門・滝沢(長野県下伊那郡阿智村平谷村周辺)の領主であった下条信氏の家老・下条九兵衛が信氏を追放して織田軍に寝返り河尻の軍勢を戦わずして信濃へと招き入れると、2月14日には松尾城飯田市)主小笠原信嶺も織田軍に寝返った。

2月12日、本隊の織田信忠と滝川一益がそれぞれ岐阜城と長島城を出陣し、翌々日の2月14日には岩村城に兵を進めた。翌日には織田信長から一益に「若い信忠をよく補佐せよ」との書状も届いた。2月16日、武田勢は鳥居峠で信長の命を受けた織田一門衆らの支援を受けた木曾義昌勢に敗北を喫した。翌17日に信忠は平谷に陣を進め、さらに翌日には飯田まで侵攻。同日、飯田城保科正直は城を捨てて高遠城へと逃亡(後に投降して戦後に高遠城主となった)、飯田城放棄を聞いた武田信廉(勝頼の叔父)らは戦意喪失。大島城(下伊那郡松川町)での抗戦は不可能とし、大島城から逃亡する。同じ2月18日、徳川家康が浜松城を出発し掛川城に入り、2月20日には依田信蕃が守備する田中城を包囲。2月21日には駿府城に進出した。侵攻初期にあたって投降が相次いだ結果、武田軍はほとんど戦わずして南信濃を失うことになった。

北条氏政は小仏峠御坂峠など相甲国境に先鋒を派遣した後、2月下旬に駿河東部に攻め入る。2月28日には駿河に残された武田側の数少ない拠点の1つである戸倉城三枚橋城を落とし、続いて3月に入ると沼津吉原にあった武田側の諸城を陥落させていった。上野方面では氏政の弟・北条氏邦厩橋城北条高広に圧力をかけ、さらに真田昌幸の領地をも脅かしていった。

高遠城への攻撃[編集]

高遠城の戦い
戦争:武田征伐
年月日1582年
場所:高遠城
結果:織田軍の勝利
交戦勢力
織田軍Oda emblem.svg 武田軍Japanese Crest Takeda Hisi.svg
指揮官
織田信忠Oda emblem.svg 仁科盛信Japanese Crest wari Hisi.svg
小山田昌行
戦力
30,000人 3,000人
損害
約1,500人 約2,800人

2月28日、河尻秀隆は信長から高遠城の攻略のために陣城を築けとの命を受ける。翌3月1日、織田信忠は武田勝頼の弟・仁科盛信の籠城する高遠城を包囲、信忠は地元の僧侶を使者とし、盛信に黄金と書状を送り、開城を促した。しかし盛信はこの要求を拒絶、使者の僧侶は耳と鼻を削ぎとられて送り返された。

翌3月2日、織田軍30,000余は総攻撃を開始し、仁科盛信や小山田昌行らは少数ながらも勇戦奮闘し、織田軍と激闘を繰り広げた。織田方も少なからずの被害を受け、岩倉家出身の織田信家が戦死しているほどである。しかし数で勝る織田軍に城門を突破されるに及び、ついに仁科盛信と小山田昌行は自刃。高遠城は落城した。

武田勢がことごとく逃亡する中で、徹底抗戦を貫き、武田武士の力を見せつけたのはこの仁科盛信だけであった。盛信の首のない遺体は彼を崇める地元の領民によって埋葬され、そこは今も「五郎山」と呼ばれている。

勝頼撤退[編集]

2月28日、木曾義昌に敗北した武田勝頼は諏訪での反抗を放棄し逃亡、新府城に撤退した。勝頼を追う織田信忠は高遠城陥落の翌日、本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払い、木曾義昌は信濃の要衝である深志城の攻略に向う。3月1日、武田氏一族の穴山梅雪が徳川家康に通じ、織田側に寝返った。3月4日、家康は梅雪を案内役として甲斐に侵攻を開始した。

翌3月5日、織田信長は安土城を出発、3月6日には揖斐川に到達した。ここで嫡男・信忠から仁科盛信の首が届き、これを長良川の河原に晒した。

3月3日、勝頼は新府城に於いて真田昌幸の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)に逃亡するか、小山田信茂岩殿城大月市)に逃亡するか軍議を開いた。昌幸は岩櫃城が要害であることを説明して岩櫃城行きを勧めたが、信茂が岩櫃城までは遠路に加えて雪が深いことを理由に岩殿城行きを力説、最終的に勝頼は昌幸よりも、一族の信茂が支配する岩殿行きを決意する。そして、未完成の新府城に火を放つと、岩殿城目指して逃亡した。

天目山の戦い[編集]

天目山の戦い
Katsuyori died at Mt.Tenmoku 01.jpg
『天目山勝頼討死図』(歌川国綱画)
戦争:武田征伐
年月日:1582年3月11日
場所:天目山付近
結果:織田軍の辛勝
交戦勢力
織田軍Oda emblem.svg 武田軍Japanese Crest Takeda Hisi.svg
指揮官
滝川一益Japanese Crest Maru ni tate Mokkou.svg 武田勝頼Japanese Crest Takeda Hisi.svg
武田信勝Japanese Crest Takeda Hisi.svg
戦力
約3,000人 - 4,000人 約100人 - 300人
損害
約1,000人 壊滅
天目山の崖道にある土屋惣蔵(昌恒)片手切りの史跡碑

3月7日に織田信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出して、これを全て処刑した。この時に処刑されたのは一条信龍諏訪頼豊・武田信廉などである(一条信龍については信長公記の誤記)。

3月9日に勝頼とその嫡男の信勝一行は岩殿城を目前にした笹子峠(大月市)で小山田信茂の裏切りに会い攻撃された。岩殿城入城を拒まれたのである。これには諸説あり、武田家を見限っていた小山田信茂は戦禍を恐れ、領地を守るためにとった行動であるという説や、信茂ではなく笹子峠から攻撃したのは織田軍であるともされている。いずれにせよ、勝頼と信勝は岩殿行きを断念、勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山甲州市大和町)を目指して逃亡した。

3月11日、家康と穴山梅雪は信忠に面会し、今後についての相談を行った。同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野の地で滝川一益隊に捕捉された。土屋昌恒小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。また、安倍勝宝も敵陣に切り込み戦死した。勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退した。

しかし、衆寡敵せず、勝頼、信勝父子・桂林院殿は自害し、長坂光堅、土屋昌恒・秋山親久兄弟、秋山紀伊守、大熊朝秀らも殉死した(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。いずれにしても『甲陽軍鑑』が記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった『小桜韋威鎧』(国宝。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた。)を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っている。その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。

武田宗家の終焉[編集]

信長は、勝頼自刃の時には信濃国境すら越えておらず美濃国の岩村城に滞在していた。

唯一、田中城の依田信蕃だけは抵抗を続けていたが、穴山梅雪の勧告もあって開城した。この時、徳川家康は彼を家臣に誘ったが、「勝頼の安否が分かるまでは仕えられない」と言われ断られた。

3月14日、浪合に進出していた信長の元に勝頼・信勝父子の首が届いた。同日、依田信蕃は本拠の春日城に帰還している。その後、依田は織田信忠の元に出仕しようとしたが、徳川家康の使者から「信長が処刑を予定している武田家臣の書立(リスト)の筆頭に依田の名前がある」と言われ、密かに家康の陣所を訪れた。そこで家康から徳川領内への潜伏を勧められ、遠江に身を隠した[2]。ちなみに他にも武川衆や後の徳川四奉行といった多くの人材が旧武田家臣で家康に帰参していた成瀬正一のもとに潜伏している。

3月16日には武田信豊が家臣の下曽根信恒(覚雲斎)に背かれて殺された。小山田信茂も織田家に投降を試みたが信忠から「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそは古今未曾有の不忠者」と言われ母・妻子共々甲斐善光寺で処刑され、郡内領は無主となった。

信玄の次男で盲目ゆえ仏門に入っていた海野信親(竜芳)は、息子の顕了信道を逃した後、自刃した。信道の系統は大久保長安の業績に絡み、数奇な運命を辿りながらも後世にその血脈を伝えている。

論功行賞と武田残党の追討[編集]

3月21日に織田信長は諏訪に到着し、北条氏政の使者から戦勝祝いを受け取った。3月23日と3月29日には参加諸将に対する論功行賞が発表された。

  • 滝川一益:上野一国、小県郡・佐久郡
  • 河尻秀隆:穴山梅雪本貫地を除く甲斐一国、諏訪郡(穴山替地)
  • 徳川家康:駿河一国
  • 木曾義昌:本領(木曾谷)安堵、筑摩郡・安曇郡
  • 森長可:高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡
  • 毛利長秀:伊那郡
  • 穴山梅雪:本領(甲斐河内)安堵、嫡子・勝千代に武田氏の名跡を継がせ、武田氏当主とすることが認められた
  • 森成利:美濃兼山城(長可の旧居城)
  • 団忠正:美濃岩村城(秀隆の旧居城)

一益は「安土名物」と言われた茶器の「珠光小茄子」を所望していたとも言われ、「茶の湯の冥加が尽きてしまう」と嘆いていたとも言われている。また関東管領、もしくはそれに準ずる権限の役に就いたとも言われている。(『信長公記』では「関東八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」、『甫庵信長記』と『武家事紀』では「関東管領」と呼称されている。以上『信長軍の司令官 部将たちの出世競争』谷口克広:著、中公新書より)。北条氏政は「駿河でひとかどの働きをした」という評価を得たものの、これといった恩賞はなかった。

同時に甲斐・信濃の国掟も出された。

一、関役所、同駒口、取るべからざるの事。
一、百姓前、本年貢外、非分の儀、申し懸くべからざる事。
一、忠節人立て置く外、廉がましき侍生害させ、或ひは追矢すべき事。
一、公事等の儀、能々念を入れ、穿鑿せしめ、落着すべき事。
一、国諸侍に懇に扱ひ、さすが油断なき様、気遣ひすべき事。
一、第一慾を構ふにつきて、諸人不足たるの条、内籍続にをひては、
  皆々に支配せしめ、人数を抱ふべき事
一、本国より奉公望みの者これあらば、相改め、抱へ侯ものゝかたへ相届け、
  其の上において、扶持すべきの事。
一、城々普請丈夫にすべきの事、
一、鉄炮・玉薬・兵粮蓄ふべきの事。
一、進退の郡内請取、道を作るべき事。
一、堺目入組、少々領中を論ずるの間、悪の儀、これあるべからざるの事。
右定めの外、悪き扱ひにおいては、罷り上り、直に訴訟申し上ぐべく候なり。

現代語訳

  • 関所で税を徴収してはならない。
  • 農民から本年貢以外に税を課してはならない。
  • 忠節を尽くしてくる者を取り立てる以外、抵抗してくる侍は自害させるか、追放せよ。
  • 訴訟ごとについては念を入れて糾明し解決しなければならない。
  • 国侍たちは丁重に取り扱うべきだが、油断のないように気を遣うこと。
  • 支配者1人が欲張ると諸人が不満に思うから、所領を引き継いだ際はこれを皆に分け、また(新しく)家臣を召抱えること。
  • 本国(尾張・美濃)の者のうち奉公を望む者がいたら、身元を確かめ、その者を以前召抱えていた家へ連絡した上で奉公させること。
  • 各城は丈夫に普請すること。
  • 鉄砲、弾薬、兵糧を蓄えておくこと。
  • 各人が治める領域内で道を作ること。
  • 所領の境目が入り組んでいて争いになったとしても、憎しみあってはならない。
    • 右の定めの他にもし不都合な事があったら、(信長のところまで)参上して直接訴えよ。

4月に入り信長は甲斐に向かい、その途中の台ヶ原(北杜市)で、生涯初めて富士山を見たとされる。4月3日には、武田氏歴代の本拠である躑躅ヶ崎館の焼け跡に到着した。

一方、信忠勢は武田残党の追討を開始し、残党が逃げ込んだ恵林寺を包囲、残党を引き渡すよう要求したが寺側は拒否した。残党の引渡しを拒んだ事によって恵林寺は長谷川与次津田元嘉関成重赤座永兼の4人に焼き討ちされた。[3]

この他、織田では武田方の武将の首を差し出してきた農民に対して黄金を下したため、これを見た農民達は武田方の名のあるものを探して殺し、その首を織田方に献上した。ここでは、武田家一門とその譜代家臣、および甲斐の国衆は厳しく追及・処断されたが、上野・信濃・駿河の国衆についてはあまり追求されなかったようである。例外は、諏訪一族のうち織田氏に抵抗した諏訪越中守ら、跡部勝資と縁戚関係にある朝比奈信置・信良ら、織田・徳川から離反した飯羽右衛門尉・菅沼刑部丞・菅沼伊豆守などである。この事実から、信長は事後の支配のため、武田の本国である甲斐の有力者は滅ぼし、それ以外はおおむねそのまま織田政権に組み込もうとしたと考えられる。[4]なお、徳川実紀では「家康は信長の命令にそむいて武田家臣たちをかくまった」と記述されているが、これは信長の出した国掟の内容と矛盾する。

4月10日に信長は甲府を出発し、東海道遊覧に向かった。4月13日に江尻(静岡市清水区)、16日に浜松へ到り、21日に安土城に凱旋した。

戦後[編集]

海津城に入った森長可は近隣諸将を鎮撫し、上杉景勝の侵入を防ぎつつ、一方では上杉氏への攻勢を強めていた。5月27日には柴田勝家らの北国勢の支援のために信越国境を越えて、春日山城を指呼の間に望む越後の二本木(上越市)辺りまでに乱入。その報を受けた上杉景勝は魚津城救援から春日山城に引き返す必要に迫られることとなった。しかし、本能寺の変で信長が討たれると、森長可は海津城を捨て本領地に逃げ帰り、河尻秀隆は武田旧臣の一揆により落命することとなった。そのため、武田遺領は一時的に政治的・軍事的空白状態となった。

滝川一益、北条氏政のその後の動きは神流川の戦いを、徳川家康、氏政、真田昌幸のその後の動きは天正壬午の乱を参照。

なお徳川家康が召抱えた武田の遺臣達は、天正壬午の乱や軍制再編などで、徳川家に大いに貢献した。特に依田信蕃は信濃・甲斐に家康を手引きし、その占領に貢献している。

脚注[編集]

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  1. ^ なお、西上作戦については上洛を意図を巡って議論が存在する。
  2. ^ 以上の依田についての記述は平山優「天正壬午の乱」より、原史料『依田記』による。
  3. ^ 記録によってはこの時、寺の和尚である快川紹喜は「心頭滅却すれば火も自ら涼し…」という辞世を残したとされるが、これは後世の創作と考えられる。詳しくは快川紹喜のページを参照。
  4. ^ 。『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』より。処断された者は「甲陽軍鑑」「甲乱記」「信長公記」「当代記」「寛政重修諸家譜」「高野山成慶院過去帳」を参考にしている。

参考文献[編集]

小説[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]