弥助

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弥助
NanbanGroup.JPG
日本に到来したイエズス会宣教師などの南蛮人たち。
白人が連れる黒人奴隷の召使も描かれている。
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 没年不詳
別名 ヤスケ、弥介、彌介、彌助[1]
主君 織田信長

弥助[1](やすけ、生没年不詳)は、戦国時代の日本に渡来した黒人奴隷で、戦国大名織田信長への献上品とされたが、信長に気に入られ、その家臣に召し抱えられた[2]

概要[編集]

弥助の出自については、フランソワ・ソリエが1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述がある。イエズス会イタリア人巡察師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際、インドから連れてきた召使[3]で、出身地はポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)であると記されている[4][5]。ヴァリニャーノは日本に来る前にモザンビークに寄港した[6]後インドに長く滞在していた経験があり、弥助が直接ヴァリニャーノによってモザンビークから連れてこられたのか、それとも先行してインドに渡っていたのかはこの文章からは不明である。

天正9年2月23日1581年3月27日)に、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れていた[7]。『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳~27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている[8]

天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩、投石が起き、重傷者が出るほどであった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという[3][9][10][7]

本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会日本年報にあり、信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという[11]。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と腰刀を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述がある[12]

家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの記述には「上様[13]御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている[14]。これは弥助も従軍していた甲州征伐からの帰還途上に、信長が徳川領を通った時に家康の家臣である松平家忠が目撃したものであるが、日記の記述に弥助は下人年季奉公人のような隷民[15]ではなく扶持もちの士分[16]であったとはっきり書かれている[17]

天正10年6月2日1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、明智軍と戦った末に投降して捕縛された。『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」という[7]

家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず、「インドのパードレ[18]の聖堂に置け」と言ったので、南蛮寺に送られることになって、一命を取り留めた[7][11]。現代から見れば、この処遇は光秀の黒人に対する蔑視を表していると考えられなくもないが、藤田みどりは弥助を殺すことを忍びないと思った方便であろうとの好意的な解釈を主張している[10]

消息[編集]

狩野内膳の『南蛮屏風』

その後の弥助の消息については、史料に現れないために全く分かっていない。

その後の他地域の史料の中には黒人が登場するものがいくつかあり、フロイスの『日本史』の沖田畷の戦いの記述の中にも大砲を使って活躍した有馬方の黒人が出て来る。

世界ふしぎ発見[編集]

クイズ番組『世界ふしぎ発見』では、この黒人が弥助で、主人を失った弥助が面識のあった有馬家を頼ってここまでやって来た可能性があるのではないかという解釈が、番組内で述べられた[19]。しかしヴァリニャーノは確かに信長の前に有馬晴信にも謁見しており関係があったものの、この時代に日本へやってきた黒人は実は大勢いた[19]と考えられている。右の『南蛮屏風』にも複数の黒人が描かれているのがわかるが、日本に渡来した黒人の中の誰かを弥助であったかどうか特定することは不可能で、あくまでも仮説に過ぎず、特に根拠を持っていない。

同じく同番組では、弥助のルーツを探しに16世紀に「モザンビーク」と呼ばれていたモザンビーク島[20]へ取材に行って、現地のマクア人の男性[5]には「ヤスフェ」という名前が比較的多いことから、弥助はもともと「ヤスフェ」という名前であり、日本ではそれが訛って「弥助」と名付けられたのではないかとする仮説を番組内で紹介した。またマクア人の間では、日本の着物によく似た「キマウ」と呼ばれる衣装を着て踊る祭りが昔から伝わっており、弥助は最終的に故郷に戻って日本の文化を伝えたのではないかとも番組では語られたが、これらを具体的に証明する証拠は全く見付かっていない。

信長のデスマスク[編集]

愛知県瀬戸市定光寺町の西山自然歴史博物館には、正体不明の信長のデスマスクが展示されている。織田秀信の庶子を称したという織田秀朝(西山清明)の末孫を主張する[21]西山館長によれば、弥助という黒人の家臣が持ち出した信長の首から作られたという。

登場作品[編集]

書籍
  • 『くろ助』 - 1968年岩崎書店から出版された来栖良夫による児童文学作品。主人公。
  • 『黒ん坊』 - 1971年5月に毎日新聞社から出版された遠藤周作によるユーモア小説系列の作品。
  • 結城秀康』(小説)‐PHP研究所より出版された大島昌宏による小説。本能寺の変を生き延び、主人公結城秀康の側近として仕え、日本語を習得している。
  • 桃山ビート・トライブ』‐天野純希による小説。主要人物の一人として描かれている。本能寺の変を生き延び、その後はアフリカ帰郷のための資金稼ぎに港で働いていたが、詐欺同然の低賃金で働かされていたことを知り脱走。主人公らの一座に太鼓叩きとして加わることになる。
  • 『王になろうとした男』 - 伊東潤による表題となった短編小説。2013年7月、文藝春秋より出版。
漫画
ドラマ
映画
  • 大帝の剣』(映画)‐主人公の万源九郎はヤスケの孫という設定である。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 弥助、弥介、また旧字での彌助、彌介は、どれも同じ。同音異字の置き換えは江戸時代にはよく見られた。
  2. ^ 名前の分かる人物では、日本の史料に登場する最も古いアフリカ人の1人であるが、所在が確認できる期間は1581年3月27日から1582年6月21日の1年間余りと極めて短い。信長にとっては最晩年の家来衆となる。
  3. ^ a b クラツセ 1925, p.384
  4. ^ Histoire Ecclesiastique Des Isles Et Royaumes Du Japon, 第 1 巻、p.444.”. 2013年6月22日閲覧。
  5. ^ a b 世界ふしぎ発見』2013年6月8日放送分では、当時のポルトガルが認識していた黒人部族はモザンビーク島周辺に住むマクア人だけであったため、弥助もまたマクア人であった可能性が高いとの説が紹介されていた。
  6. ^ クラツセ 1927, pp.427-430
  7. ^ a b c d 岡田 1999, pp.420-421
  8. ^ 近藤瓶城 1926, p.204。太田 & 中川 2013, p.259
  9. ^ 『イエズス会日本年報』が初出。前述のソリエの『日本教会史』やそれを受けたクラツセの『日本西教史』も年報を出典としている。
  10. ^ a b 藤田みどり『アフリカ「発見」日本におけるアフリカ像の変遷』岩波書店、2005年5月。
  11. ^ a b 村上直次郎; 柳谷武夫(訳) 『イエズス会日本年報 上』 雄松堂出版〈新異国叢書〉、2002年ISBN 484191000X 
  12. ^ 「織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ』、勉誠出版、2009年、311-312頁。
  13. ^ a b この文脈では天下様の意味で、ここでは天下人・織田信長を意味する。松平家忠は「殿様」である徳川家康に仕える陪臣である。
  14. ^ 松平 1897, p.54
  15. ^ 日本の戦国時代のこれらの人々は、西洋における黒人奴隷と同じように、売り買いされる存在で、家や土地に縛られた奴婢であって、奴隷的立場であった。しかし秀吉時代に人身売買が禁止され、江戸時代になると年季奉公の期間が制限されて永代奉公(永代売買)が禁止されるなど、取り締まりが厳しくなった。
  16. ^ 扶持とは、米や銭などで給与として与えられる俸禄を意味する。
  17. ^ 淡泊な記述の『家忠日記』にわざわざこのように書いてあるということは、「黒い」「背が高い」という驚きと同じく、自分と同じ扶持もちの家来であることも大きな驚きであったと思われる。しかも上様[13]の直参である弥助の方が、陪臣にすぎない自分よりも立場は上なのである。
  18. ^ 「パードレ」は父の意味だが、ここでは伴天連、つまり教父達をさす。
  19. ^ a b TBS『世界ふしぎ発見』2013年6月8日放送分。
  20. ^ 「モザンビーク」という国名はこの当時ポルトガル領東アフリカ首都が置かれたモザンビーク島に由来している。
  21. ^ 西山自然歴史博物館、西山家万世守る会編 『西山家文言覚書秘伝録 為朝及び信長孫秀信の生涯編』 1984年

参考文献[編集]

関連項目[編集]