四宮洋平

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四宮 洋平
生年月日 (1978-12-08) 1978年12月8日(45歳)
出身地 神奈川県川崎市中原区
身長 1.80 m (5 ft 11 in)
体重 85 kg (13 st 5 lb)
大学 関東学院大学
親族 荒木絵里香
ラグビーユニオンでの経歴
ポジション ウィングフルバック
代表
チーム 出場 (得点)
日本の旗 日本 3
7人制代表
チーム 大会
 日本 1999-2007
コーチ歴
チーム
東京山九フェニックス2013-、清水建設ブルーシャークス2015-

四宮 洋平(しのみや ようへい、1978年12月8日 - )は、日本の元ラグビー選手。 日本代表キャップは3。主なポジションはウィング(WTB)フルバック(FB)。東京山九フェニックス監督兼オーナー、清水建設ブルーシャークス・アドバイザー

来歴[編集]

川崎市中原区出身、桐蔭学園中学校1年でラグビーを始め、桐蔭学園高校3年時には花園に出場しベスト16入りを果たす。その後関東学院大学に進学し、1年からレギュラーで活躍。4年連続で大学選手権決勝に進出し3回優勝。3年時、Auckland Marist U-20(NZ)でプレー。主力選手として活躍。

卒業後、ヤマハ発動機に入社。在籍中にニュージーランドに留学。2002年ナショナル・プロヴィンシャル・チャンピオンシップ2部のMID CANTERBURY州代表(NZ)、2003年にはノース・ハーバー州英語版B代表(NZ)などにも選出された。同年には日本代表入りし、キャップ3を獲得。2005年7人制ワールドカップで5トライをあげる活躍。

2004年3月、ヤマハを退社し、1年間ニュージーランドナショナル・プロヴィンシャル・チャンピオンシップノースランド英語版でプレー。2005年1月、日本人で初めて南アフリカのプロリーグ・カリーカップのチームと契約。ボーランド・カヴァリアーズ、ヨハネスブルグ・レイダーズでプレー。同年9月、トップリーグワールドファイティングブルに入団。2006年、南アフリカの強豪スーパー14ブルズと契約。ラグビー・ローマ・オリンピックへ移籍。ドーハ・アジア大会で金メダル。

2007年ニュージーランドに渡りエアニュージーランド・カップマナワツ州代表英語版に選ばれる。同年9月より、当時トップウェストAリーグの近鉄ライナーズに入団。プレーオフを制しトップリーグ昇格に貢献。

2010年イタリア GRANDUCATO PARMA RUGBY スーペル10に入団。5位でシーズン終了。2011年、フランス2部エクス=アン=プロヴァンスに入団。海外プロ契約6チーム目。海外ラグビー11シーズン目。2012年、イタリア Rugby Reggioへ入団。2013年6月に元バレーボール日本女子代表主将の荒木絵里香と結婚[1]2014年1月に第1子(長女)が誕生している[2]。2013年12月に現役を引退し、東京フェニックス・ラグビークラブ監督に就任した。

2015年よりブルーシャークスのBKコーチに就任。[3]

名言[編集]

「飛行機を見ながら、1年オープンの航空チケットを取り出して眺めるんです。」(Number 666号 2006年11月 16日発売より。南アフリカでプレーしていた当時、異国の地での孤独を紛らわすためにやっていたこと。)

<引退のコメントブログより引用>

最後に、自分自身の事を少し書こうと思う。

プロのラグビー選手生活を終わりにしようと思う。35歳になったらラグビー辞めると決めていた。昨年の怪我から何とか復帰して、最後良い形で終えたいと思っていたが、世の中そんなに甘くない。現在は95%~90%位まで回復したが、ラグビーってスポーツは100%出さないと出来ないスポーツ。今まで100%のリミット切る為に色々やってきて、95~90%から上がらないなら面白くない。自分のキャリアを振り返ると、素晴らしい体験ばかりで思い残す事はない。何よりもラグビーを通じ沢山の友達が世界中に出来た事が一番の財産です。今まで応援して下さった皆様、ありがとうございました。これからも楕円とはお付き合いをしていくつもり。世界へ羽ばたく選手の育成や、海外チームのコーチ又は、マネージャーを出来る様になりたい。

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]