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克美しげる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
克美 しげる
出生名 津村誠也[1][2]
別名 勝己しげる
克美茂
生誕 (1937-07-02) 1937年7月2日[2]
出身地 日本の旗 日本 宮崎県宮崎市[3]
死没 (2013-02-27) 2013年2月27日(75歳没)[4][5]
日本の旗 日本 栃木県佐野市[4][5]
学歴 宮崎県立宮崎大宮高等学校卒業[6]
ジャンル ロカビリー
歌謡曲
職業 歌手、カラオケ教室経営者
活動期間 1961年 - 1976年
レーベル 東芝EMI(のちのEMIミュージック・ジャパン
事務所 秀和プランニング[注 1]
共同作業者 マウンテン・ボーイズ

克美 しげる(かつみ しげる、1937年昭和12年〉7月2日 - 2013年平成25年〉2月27日)は、日本歌手。本名は津村 誠也(つむら せいや)[1][2]宮崎県宮崎市出身[3]1950年代に始まったロカビリー・ブームの中、1961年(昭和36年)に『霧の中のジョニー』の日本語カバーでレコードデビューし[8]、漫画映画『エイトマン』の主題歌『エイトマン』や、歌謡曲路線に転向してのちの『さすらい』が大ヒット[9]1964年(昭和39年)と1965年(昭和40年)には、2年連続で「NHK紅白歌合戦」への出場も果たした[10]

しかし1976年(昭和51年)、自身の愛人である女性を殺害して死体を遺棄する事件を起こし(克美茂愛人殺害事件[11]懲役10年の実刑判決を受ける[12]。事件を受けて克美のレコードは全て廃盤・回収となったほか[13]、出所後も克美のテレビ出演はタブーとなり[14]、以降はカラオケ教室の経営や、スナックでの営業などの範囲で活動を行った[15]

生涯

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生い立ち

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1937年(昭和12年)7月2日、宮崎県宮崎市にて、大きな材木店を経営する裕福な家に生まれた[2][3]1941年(昭和16年)12月25日生まれとする資料もある[1][6]。中学校はクリスチャン系の私立の中学校に入れられ、聖歌隊のメンバーになり、その顧問の教師にソロを取るように言われたことが、歌への目覚めであった[16][2]

高校は宮崎県立宮崎大宮高等学校に入学[6]。しかし、家業が傾いたことから、家計を助けるためにアルバイトとして得意のギターを活かし、仲間と音楽グループを結成。クラブのステージにも立つようになる。高校側に露見して何度も停学処分を受けたが、それでも活動を続けた[16]

その頃、ロカビリー・ブームが到来し、テレビも普及しておらず情報がない中、自身もその波に乗り遅れたくないとの思いが強くなり、高校3年生の時に家出同然で飛び出し、宮崎を汽車で発った[16]。その頃は東京までは1日半かかり、似た境遇の若者は途中の大阪で下車する者が多かったとされる。克美もその例に漏れず大阪で降りたが、府内のジャズ喫茶水原弘が歌っていることを知ったため、ステージを観に行き、楽屋まで行って付き人を志願[17][注 2]。高校生であったため採用されることはなかったが、水原は有名バンドのバンドマスターを克美に紹介するなど、親身になってくれたという[18]

高校卒業後、克美は改めて家を出ると、兵庫県神戸市へ転居し、倉本秀和が結成した「マウンテン・ボーイズ」にバンドボーイとして採用された[19]。1年後にはボーカルに昇格し、人気を博すようになった。またこの頃、アピール度を高めるために、勝己しげるという芸名を名乗るようになった[19][注 3]

レコードデビュー

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1961年(昭和36年)7月、バンドとともに東京へ進出し、これを契機として芸名の表記を克美しげるに改めた[8]。関西での人気とは裏腹に、東京ではマウンテン・ボーイズ(ロック・メッセンジャーズと改名)も無名の存在に過ぎなかったが、同年12月、ジャズ喫茶でのステージを観に来た東芝音楽工業(のちのEMIミュージック・ジャパン)のディレクターからスカウトを受け、ジョン・レイトン英語版のヒット曲『霧の中のジョニー』の日本語カバーを吹き込むこととなった[8][注 4]

このレコードの宣伝活動として、克美のテレビ出演は急増し、ジャズ喫茶も満員になるほどの人気を集めるようになった[20]。『霧の中のジョニー』は40万枚を売り上げるヒットとなり[21]、半年後にはシングル『片目のジャック』、その3ヶ月後には『さいはての慕情』、2ヶ月後には『霧の中のロンリーシティ』、その1ヶ月後には『史上最大の作戦のマーチ』が立て続けに発売され、1962年(昭和37年)で5枚ものシングル盤が出るに至った[22]

1963年(昭和38年)にも、3月の『夜霧のロンリー・メン』を皮切りに、次々とシングル盤が発売される中、『エイトマン』の主題歌の話が持ち掛けられ、漫画映画に興味のなかった克美は気が進まなかったものの、「これも仕事だ」として引き受けることとした[23]。11月に『エイトマン』のテレビ放送が開始されると、同月に発売された主題歌『エイトマン』のレコードはヒットし、のちに同曲は克美の代表曲ともなった[24]

絶頂期と低迷

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1964年(昭和39年)には、ロカビリー・ブームの衰退から、東芝側の提案で歌謡曲路線に転向させられて葛藤するも、同年に発売された『さすらい』はこれまでで最大のヒットとなり、最終的には60万枚の売上を記録[25]。同年の大晦日には、「NHK紅白歌合戦」への出場も果たした[26]。この頃には、倉本秀和が社長である秀和プランニング所属のタレントとして、本格的に活動を始めている[26]

1965年(昭和40年)には、時代劇『人形佐七捕物帳』にレギュラー出演、同年の大晦日にも『紅白歌合戦」に出演し、『ああせつなき我が心』を歌唱した[27]。しかしこの頃から次第にレコードの売上げは落ち、『さすらい』を超えるヒット曲は出ない状況となっていた[28]

1971年(昭和46年)、銀座のホステスであった女性との間に子供ができたため入籍するが、これは既に2度目の結婚だった[29]。当時の克美の収入は、事務所からの固定給20万のみで[30]、妻子のほか、専属バンドのメンバー10人を食べさせていく必要があり、稼ぎが不足していた[31]。さらに、妻は結婚後もナイトクラブでの仕事を続ける一方、この頃の克美は賭博に昼夜を問わず耽溺する荒れた生活を送っており、経済的に困窮したヒモ同然の状態にあった[32]。さらに同年6月21日、保険加入前の新車を居眠り運転していたところ、対向車との衝突事故を起こし、仕事が激減している状況であるにも拘わらず、約300万円の借金を抱えることとなった[29][32]

愛人殺害事件

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結婚から半年後の1971年(昭和46年)末、克美は銀座の高級クラブでホステスをしている女性Aと知り合い、肉体関係を持つに至った。そして、妻には地方巡業と偽り、愛人となったAのマンションへ通う二重生活を送るようになった[33][34]。同時に、足りない稼ぎをAから渡される金で補うようになり、Aはホステスからトルコ嬢へ転身して、多額の金を克美に貢ぐようになった[33]

同時にAは克美へ、妻との離婚と自分との入籍を要求し、克美の煮え切らない態度にしびれを切らして、自身の家へ克美が来ていることを明かして挑発する電話を、妻へ頻繁にかけるようになった[35]。克美もこれを受けて、1975年(昭和50年)5月、岡山県のAの実家を訪ね、Aの両親に「岡山の御両親に、ちゃんと結婚しますと御挨拶をしてこいと社長に言われましたので……」と述べて、鄭重に挨拶をした[36]。さらに9月18日には、妻と離婚をしないままに、ホテルでAとの「結婚式」を挙行し、Aの両親から結婚祝いとして100万円を振り込まれている[37]

一方で1974年(昭和49年)、「3000万円作戦」として低迷した歌手のカムバック作戦を展開していた東芝EMI(のちのEMIミュージック・ジャパン)から声が掛かり、翌1975年(昭和50年)3月に、復活作戦用の新曲『傷』が発売された。この際、克美は芸名を漢字に変え、「克美茂」に改名している[38]。本曲に続き、第二弾として阿久悠作曲の『おもいやり』が制作され[39]、そして1976年(昭和51年)5月6日からは、同曲のキャンペーンとして、北海道での巡業が開始されることとなった[40][41]

5月6日の朝、克美は北海道の巡業には一人で行かせてほしいと懇願するもAにはねつけられ、妻のところへ行って話をつけると言い出したAを、タオルで絞殺した[42]。そして、死体を埋める場所を見つけられなかったため、トランクに死体を入れた車を東京国際空港(羽田空港)の駐車場に放置したまま北海道へと出発した[43]。しかし5月8日になってトランクから血が垂れているのが発見され、犯行が露見[44]。同日中に克美は、殺人死体遺棄容疑で緊急逮捕された[45][46]

5月29日、克美は東京地方検察庁刑事部より、殺人、死体遺棄罪で起訴された[47]検察側は懲役15年を求刑したが、8月23日、東京地裁は克美に懲役10年の判決を言い渡し[48]、被告側と検察側の双方が控訴しなかったため、第一審判決が確定した[12]

刑確定後、克美は大阪刑務所へ収監された[49]。収監後、面会に訪れた妻から切り出される形で離婚に至り、当時未就学児だった娘と妻には、その後、二度と会うことはなかった[50]

仮釈放後

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克美は大阪刑務所での服役中、印刷工場で働いていたことから、服役の辛さを紛らわすべく、紙に作詞作曲を行うこともあり、その曲数は20曲に及んでいる[51][注 5]。しかし、看守に発見されては懲罰を受けることを繰り返したほか、他の囚人に訊かれて作った曲を教えたところ、大合唱になり全員で懲罰を受けることもあった[51]。また刑務所には、村田英雄島倉千代子細木数子など、様々な芸能人が慰問に訪れた[51]。また収監されてから3年目の頃には、母親が死去している[54]

1983年(昭和58年)、模範囚であったため、克美(当時46歳)は刑期を2年8ヶ月残して仮釈放となった[55]。仮釈放に必要な、離婚した妻に代わる新たな身元引受人探しは難航し、最終的にはかつてのマネージャーで推理小説家の、大谷羊太郎が務めることとなった[54]

出所後、克美はマスコミによる激しい取材攻勢を受け、特に激しく克美を糾弾したTBSテレビによる、「被害者の両親に会う」企画も実施された。克美はこの企画について、岡山県でAの両親の待つホテルを訪ねたところ、TBS以外のレポーターが待ち構えていたことで、初めて騙されたことを知った、という状況であったとしている。この企画は波紋を呼び、「これはリンチのようなものではないのか」との記事を掲載した週刊誌もあった[56]

また、殺人をしながら刑期が短いとして非難も起こり、一時は引きこもり生活を送るが[57]、刑の執行が終わった1986年(昭和61年)6月からは、大谷の勧めにより、カラオケなどを教える音楽教室を開業した[57][58][注 6]。当初は大谷のマンションで開き、のちに埼玉県大宮市(現・さいたま市)で本格的に開業すると、300人以上の生徒が集まる大繁盛となった。一時は年収が2,000万円にもなり、芸能界時代よりも羽振りが良くなり、外車を乗り回すようになった。また生徒の一人である人妻と関係を持ち、離婚した彼女と入籍も果たしている(3度目の結婚)[60][注 7]

しかし再々婚の妻とも約3年で離婚したほか、事件後の取材攻勢のトラウマなどから、覚醒剤を常用するようになり[61]1989年(平成元年)5月11日、埼玉県警察保安課と熊谷警察署は、克美(当時51歳)を、覚せい剤取締法違反の現行犯で逮捕した。容疑は埼玉県大宮市東町(現・さいたま市大宮区東町)所在の「克美しげる音楽教室」事務所で、ビニール袋入りの覚醒剤2.2グラム(末端価格37万円相当)を注射器とともにセカンドバッグの中に隠し持っていた疑いで、調べに対し、覚醒剤の所持および常用を認めた[58]。7月5日、浦和地方裁判所熊谷支部(鹿山春男裁判官)にて開かれた判決公判で、克美は懲役10月(求刑・懲役1年)の実刑判決を言い渡され[62]府中刑務所に収監された[63]

この覚醒剤事件により、克美はそれまでの支援者にも見放されることとなり[57]、身元引受人であった大谷との関係も断絶した[63]。出所後、カラオケ教室を再開し、生徒の一人である20代の女性と関係を持つようになった。そして結婚を決意し、当時持っていた複数の女性たちとの関係を清算してのち、1995年(平成7年)、克美が56歳・女性が24歳のときに結婚を果たした(4度目の結婚)[64]

結婚後、妻の勧めで西川口から、群馬県館林市にある妻の実家へと転居[15][注 8]。カラオケ教室を閉業して営業に力を入れるようになり、トラック運転手であった妻の協力のもと、山形県和歌山県などを巡った[15]

1996年(平成8年)に脳梗塞を発症し、顔面麻痺と軽度の言語障害を負った[65]。そのため、常に口は半開きになり、呂律も回らなくなっていたが、それでも歌はきちんと歌えたという[4]

晩年の動向と死去

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2004年(平成16年)2月、ライターの石橋春海が、自らが構成を担当したテレビ神奈川の歌謡番組「かっぱちゃんの歌謡スタジオ101」の第一回に克美を出演させることを計画し、克美も『さすらい』『俺の故郷』『エイトマン』などを披露して収録が行われた[4][注 9]。しかし、放送の1時間前にテレビ神奈川から「克美出演部分に問題あり」との通達があったため、やむなく出演部分はカットされ、お蔵入りとなっている[66]。石橋がカットの事実を克美に伝えたところ、「私のためにご迷惑をおかけしました」と謝罪されたことから、石橋は克美に興味を覚え、取材をするようになった[4]

また石橋は、かつて克美の音源を復刻したいと考えるようになり、その前段階として2007年(平成19年)には『封印歌謡大全』『蘇る封印歌謡 いったい歌は誰のものなのか』(三才ブックス)の2冊の著書で克美を取り上げ、以降、僅かながら克美は、マスコミへの露出が増えた[4]。石橋はそのうち、『蘇る封印歌謡 いったい歌は誰のものなのか』では、附録として克美のCDを付けることを計画したが、東芝の法務部は事件から31年が経った現在も、「克美しげるの曲は再発売しない」という方針を引き継ぎ続けているとし、マスターテープの貸し出しは拒絶されている[67]。そのため、石橋は生バンドによるカラオケを作成してのち、克美の歌唱を録音するという形で、『さすらい』『エイトマン』『おもいやり』の3曲のCD化に漕ぎつけている[68]

その後、TBSラジオから石橋に、『封印歌謡大全』をもとにした特番を制作したい旨の連絡があり、石橋が快諾したことにより、2007年(平成19年)7月22日、『封印歌謡大全 TBSラジオ一挙放送』が放送され、克美の『さすらい』も放送された[69]。この頃の克美は、知人らを介してのスナックでの、小規模な営業を中心に活動していた[65]

2006年(平成18年)11月に友人の黒木憲が死去した際には、克美は思い切って都内で催された「お別れ会」に参加[70][71]水前寺清子平尾昌晃、東芝のディレクターなどと再会し、温かく迎え入れられたことから、「会に出て本当に良かった」と語っていたほか[71]2008年(平成20年)3月には、東京都内で30年ぶりのライブを開催し、「これで吹っ切れた思いです」と語っていた[72]。また同年12月には、石橋がプロデューサーとなる形で、群馬県館林市にて「克美しげる 復活 ~Rebirth~ チャリティー・コンサート」が開催された。観客は約400人が集まったものの、マスコミの報道は少なく、石橋は「世間は甘くない」ということを思い知ったとしている。2011年(平成23年)に栃木県佐野市へ転居したころには、克美は耳が遠くなり、人前で歌を披露することはなくなっていた[4]

2013年(平成25年)2月27日、克美茂は佐野市内の病院で死去した(75歳没)[4][5][注 10]。死因は脳出血[5][73]。3月1日に市内のセレモニーホールで通夜が行われ、家族は妻のみ、参列者は8人ほどだったが、翌2日の告別式では克美の弟と妻やその子供を含む、総勢11人が参列した[4]。死去の事実は妻の意向で伏せられていたが、8月には報道機関に察知されたため、妻に委ねられた石橋が代行して発表し、10月2日に各紙で一斉報道された[4]

ディスコグラフィ

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シングル

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  • すべて東芝EMI(のちのEMIミュージック・ジャパン)からリリース。
    • 52枚目の「ヴェニスの船唄」から54枚目の「おもいやり」までは克美茂名義。
# 発売日 曲順 タイトル 作詞 作曲 編曲 規格品番
1 1962年
1月
A面 霧の中のジョニー[注 11] 漣健児 G.Goddard 小林郁夫 JP-1357
B面 恋とはこんなものなのか 倉本秀和 斎藤敬二
2 1962年
3月
A面 夜に咲く花
(シャンゼリゼのブルース)
三田恭次 H.Schachtner JP-1381
B面 ワン・モア・チャンス[注 12] 漣健児 T.Randazzo
3 1962年
6月
A面 片目のジャック[注 13] 渡舟人 M.Morgan JP-5123
B面 ドミノ・ツイスト 倉本秀和 L.Ferrari
4 1962年
8月
A面 忘られぬジョニー[注 14] 漣健児 A.Celentano JP-5142
B面 名も知らぬ恋[注 15] 三田恭次 P.Anka 小野崎孝輔
5 1962年
11月
A面 さいはての慕情[注 16] あらかわひろし B.Roberts 小林郁夫 JP-5150
B面 白い流木 石原昭 前田憲男
6 A面 霧の中のロンリー・シティー 三田恭次 G.Goddard 小野崎孝輔 JP-5164
B面 忘れておくれ 漣健児 E.Leoni
A.Celentano
小林郁夫
7 1962年
12月
A面 史上最大の作戦のマーチ 水島哲 P.Anka JP-5171
B面 聖者が街にやって来る アメリカ民謡 山木幸三郎
8 1963年
1月
A面 悲しき渡り鳥 漣健児 N.Allen
A.Nilsen
D.Carey
小林郁夫 JP-5172
B面 真夜中の慕情 J.Wolf
9 1963年
2月
A面 倖せの星をたずねて 沢ノ井千江児 服部良一 JP-1524
B面 夕焼けの故郷 小林郁夫
10 1963年
3月
A面 夜霧のロンリー・メン 漣健児 J.Barry
D.Pretlow
小林郁夫 JP-5195
B面 ブロークン・ギター J.Benasa
11 1963年
6月
A面 さすらいのマーチ あらかわひろし N.Rosso JP-5210
B面 青春のトランペット 滝田順
12 1963年
8月
A面
[注 17]
走れ大地を 斎藤竜 山田耕筰 JP-1583
13 1963年
9月
A面 メッカ 漣健児 N.Nader
J.Gluck
JP-5239
B面 想い出のサン・フランシスコ 三田恭次 G.Cory 山屋清
14 1964年
1月5日
A面 北京の55日[注 18] ホセしばさき D.Tiomkin 萩原哲晶 JP-5260
B面 エイトマン 前田武彦 萩原哲晶
15 1964年
1月25日
A面 さすらい 十二村哲 北原じゅん TR-1005
B面 ナナ 岩谷時子
16 1964年
4月
A面 テキサスの四人 渡舟人 J.V.Heusen 小林郁夫 TR-1040
B面 遠い夢 沢ノ井千江児 鈴木英治
17 1964年
6月
A面 くちづけ 十二村哲 北原じゅん TR-1057
B面 淋しがり野郎 鈴木比呂志 植村亨 小林郁夫
18 1964年
7月
A面 流転ギター 十二村哲 北原じゅん TR-1085
B面 霧笛
19 1964年
10月
A面 悲恋道中 TR-1120
B面 哀愁夜曲
20 1964年
12月
A面 大阪エレジー 飯田景応 TP-1015
B面 東京無情 鈴木比呂志 植村亨 小林郁夫
21 1965年
1月
A面 男じゃないか 松井由利夫 伴徹也 TP-1023
B面 赤い夕日の地平線 十二村哲 飯田景応
22 1965年
4月
A面 男の夕陽 志賀大介 伴徹也 小林郁夫 TP-1050
B面 青春挽歌 沢ノ井千江児 上条たけし
23 1965年
5月
A面 俺たちゃマドロス 十二村哲 飯田景応 TP-1072
B面 人形佐七
24 1965年
8月
A面 放浪哀歌 荒川英一 小林郁夫 TP-1100
B面 星空はるか 大沢浄二
25 1965年
9月
A面 ああせつなき我が心 根性誠 小林郁夫 TP-1135
B面 望郷 中村二大
26 1965年
11月
A面 さいはてに泣く 芝田千景 TP-1150
B面 おもかげの街 豊中駿 小林郁夫
27 1966年
1月5日
A面 雪山に消えたあいつ 沢ノ井千江児 上條たけし TP-1189
B面 曠野の星 十二村哲 飯田景応
28 1966年
4月15日
A面 はてしなき恋 鈴木道明 前田憲男 TP-1251
B面 東京の夜は楽しく
29 1966年
8月15日
A面 夜霧に死す 原六朗 小林郁夫 TP-1330
B面 夕陽に涙す
30 1966年
10月5日
A面 渚のあなた 川内和子 中村八大 TP-1340
B面 かわいた唇
31 1967年
1月15日
A面 星空に祈る 原六朗 小林郁夫 TP-1389
B面 ぼんち野郎 藤本義一 小泉しずか
32 1967年
3月15日
A面 星にねがいをかけるとき G.Selden 鈴木道明 前田憲男 CP-1003
B面 はてしなき恋
33 1967年
4月15日
A面 夕陽の果てに 十二村哲 松尾安巳 原田良一 TP-1460
B面 荒野の男 沢ノ井千江児 東京之助 大西修
34 1967年
6月5日
A面 はだしの少年 金井勝 小林義和 一ノ瀬義孝 TP-1479
B面 黒い真珠 大橋節夫 川口真
35 1967年
8月5日
A面
[注 19]
学生音頭 片岡孝子 鈴木邦彦 岩井直溥 TS-1013
36 1967年
9月5日
A面 嵐の中の恋 浜口庫之助 一ノ瀬義孝 TP-1488
B面 流れる
37 1967年
10月5日
A面 愛すればこそ君に 十二村哲 寺沢一馬 小林郁夫 TP-1539
B面 愛よいつまでも 鈴木比呂志 鈴木淳 大西修
38 1968年
1月10日
A面 星がひとつ流れて 十二村哲 寺沢一馬 小林郁夫 TP-1587
B面 東京の夜の物語 沢ノ井龍二 小林郁夫
39 1968年
3月1日
A面 捨てないでおくれ 岩谷時子 鈴木淳 森岡賢一郎 TP-1612
B面 はるかなる旅路 有馬三恵子 大西修
40 1968年
5月1日
A面 ブルー・ナイト・イン・東京 上原尚 石井由紀夫 小林郁夫 TP-1651
B面 さいはての太陽 沢ノ井龍二 小林郁夫
41 1968年
9月1日
A面 夜の花 はかま満緒 矢野明 TP-2045
B面 虹はどこへ 寺沢一馬 小林郁夫
42 1969年
1月
A面 夜更けの赤坂 上原尚 石井由紀夫 TP-2111
B面 帰ってきたぜ 沢ノ井龍二 矢野明
43 1969年
4月
A面 ゆるしておくれ 島津ゆう子 長沢ロー 森岡賢一郎 TP-2140
B面 かえらぬ夜風 タマイチコ
44 1970年
2月
A面 君を愛して 岩谷時子 猪俣公章 TP-2245
B面 若者は港へ急ごう
45 1970年
7月
A面 男だって泣くさ 川内康範 TP-2307
B面 真実一路 竹村次郎
46 1971年
1月
A面 マリア ヒロコ・ムトー 大本恭敬 森岡賢一郎 TP-2365
B面 男の旅路 大本恭敬
47 1971年
4月
A面 蒼空 阿久悠 曽根幸明 馬飼野俊一 TP-2410
B面 陽のあたる丘
48 1971年
10月
A面 夕やけの旅路 S.Conwell 曽根幸明 TP-2523
B面 愛していたい
49 1972年
2月
A面 涙のブルース あさひな知彦 曽根幸明 TP-2608
B面 さすらいのブルース
50 1972年
5月
A面 変身 あいまこと TP-2678
B面 三本目の煙草 山口洋子
51 1973年
4月
A面 男心は誰が知る あいまこと TP-2820
B面 愛愁 十二村哲
52 1973年
12月
A面 ヴェニスの船唄 後藤紫雲 高木青葉 曽根幸明 TP-2944
B面 ゴンドラの唄 吉井勇 中山晋平
53 1975年
2月
A面 石坂まさを 三佳令二 森岡賢一郎 TP-20104
B面 明日への旅
54 1976年
5月5日
A面 おもいやり 阿久悠 竜崎孝路 TP-20255
B面 男泣き

アルバム

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発売日 タイトル 規格品番
1962年 霧の中のジョニー JPO-1219
1963年 さいはての慕情 JPO-1267
想い出のサン・フランシスコ JPO-1321
1964年 さすらい-克美しげるヒット・ソング集- TR-6003
1965年 大阪エレジー TR-6005
1966年 克美しげる 歌のプレゼント TP-7143
1967年 克美しげる 魅惑の歌声 TP-7193

タイアップ曲

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楽曲 タイアップ
1963年 北京の55日 映画『北京の55日』主題歌
エイトマン TBS系テレビアニメ「エイトマン」主題歌

出演

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テレビドラマ

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  • 東芝土曜劇場 われら青春フジテレビ系、1962年7月7日 - 1963年4月27日)第34話(※主題歌も歌唱)
  • セブンティーン日本テレビ系、1962年12月20日 - 1963年10月31日)
  • マンガまんがドン(日本テレビ系、1963年)
  • ドンドン道中記(日本テレビ系、1963年12月16日 - 1964年4月20日)
  • 青年同心隊TBS系、1964年10月30日 - 1965年1月22日)第12話(※主題歌も歌唱)
  • 芸術祭参加作品 ひとびとの葬送(CBC、1964年11月13日)
  • 人形佐七捕物帳(NHK、1965年4月9日 - 1966年4月1日)

映画

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NHK紅白歌合戦出場歴

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年度/放送回 曲目 対戦相手
1964年(昭和39年)/ 第15回 さすらい 二代目コロムビア・ローズ
1965年(昭和40年)/ 第16回 あゝせつなきわが心 仲宗根美樹

脚注

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注釈

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  1. ^ 秀和プランニングの所属タレントは、克美一人のみだった[7]
  2. ^ 石橋(2007a)では、付き人になることを承諾された、とされている[17]
  3. ^ 「勝己」は「己に勝つ」から、「しげる」は克美が尊敬する吉田茂から取った[19]
  4. ^ この際、A面の収録を終えてのち、B面の曲を用意していないことに気付き、急遽その場で克美を中心に、『恋とはこんなものなのか』を作詞作曲し、収録した。同曲は、歌詞カードでは倉本秀和作詞・斎藤敬二作曲とされている[20]
  5. ^ そのうちの一曲である『俺の故郷』(おれのふるさと[52])は自身をモデルとした歌謡曲で[51]、2005年(平成17年)に、一般流通はしないプライベート盤として、キングレコードよりカセットテープ化された[51][53]
  6. ^ 週刊新潮』は、1986年(昭和61年)6月23日に刑期満了を迎えたとしている[59]
  7. ^ 再々婚の妻は克美より16歳年下で[59]、2人の子持ちだった[57][59]。再々婚に際しては、大谷を初め周囲は反対したが、結局は結婚に至ったとされる[59]
  8. ^ 妻が転居を勧めたのは、毎晩のように酒席へ呼ばれて歌唱や飲酒を続ける、克美の身体を気遣ってのことだった[15]
  9. ^ 石橋は小学生時代にアニメ『エイトマン』に熱中し、主題歌を歌う克美は憧れの存在だったとしている[4]
  10. ^ 日刊スポーツ』は群馬県内での死去としている[73]
  11. ^ ジョン・レイトンのカバー。
  12. ^ テディ・ランダッツォのカバー。
  13. ^ ジョニー・バーネットのカバー。
  14. ^ アドリアーノ・チェレンターノの「Nata Per Te」のカバー。
  15. ^ ポール・アンカのカバー。
  16. ^ リックとランスのカバー。
  17. ^ B面は高橋元太郎の「ぼくらのチャンス」。
  18. ^ ブラザーズ・フォアのカバー。
  19. ^ B面はロイヤル・アンサンブルの「笑顔をよせて」。
  20. ^ 浜田光夫主演のオールスター映画。克美は流しの役で出演、「さすらい」「愛すればこそ君に」を歌うほか、セリフや出番も多い。
  21. ^ AV監督村西とおるたっての希望により出演が実現した、4時間超のアダルトビデオである。克美はドラマ部分のみに出演し、歌も数曲披露している。

出典

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  1. ^ a b c 日本著作権協議会編『文化人名録(昭和42年版)』(日本著作権協議会) - 3372頁。
  2. ^ a b c d e 石橋 2007b, p. 109.
  3. ^ a b c 宮崎市史編さん委員会編『宮崎市史年表』(1974年、宮崎市) - 543頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 石橋春海「追悼・克美茂さん 参列者8人だけの通夜 親しかったライターが見守った」『週刊朝日』2013年10月18日号(朝日新聞出版) - 130頁。
  5. ^ a b c d スポニチアネックス』2013年10月2日「元歌手の克美しげるさん死去、「エイトマン」主題歌などヒット」(2026年1月6日閲覧)
  6. ^ a b c 日本タレント年鑑刊行会『日本タレント年鑑(昭和45年度版)』(1970年、日本タレント年鑑刊行会) - 46頁。
  7. ^ 澤地 1977, p. 146.
  8. ^ a b c 石橋 2007b, pp. 113–114.
  9. ^ 石橋 2007b, pp. 120–122.
  10. ^ 石橋 2007b, pp. 123–126.
  11. ^ 警察文化協会 1982, pp. 982–983.
  12. ^ a b 澤地 1977, p. 133.
  13. ^ 『読売新聞』1976年5月10日東京朝刊23頁「「二日前、殺害を決意」 克美護送、本格的に追及」
  14. ^ 石橋 2007b, pp. 106–107.
  15. ^ a b c d 石橋 2007b, pp. 152–153.
  16. ^ a b c 石橋 2007a, p. 101.
  17. ^ a b 石橋 2007a, pp. 101–102.
  18. ^ 石橋 2007b, p. 110.
  19. ^ a b c 石橋 2007b, p. 111.
  20. ^ a b 石橋 2007b, p. 115.
  21. ^ 朝日新聞 be on Saturday』2008年6月14日朝刊9頁「うたの旅人 償いの思いを込めて歌う 克美しげる『さすらい』」
  22. ^ 石橋 2007b, p. 116.
  23. ^ 石橋 2007b, pp. 119–120.
  24. ^ 石橋 2007b, pp. 120–121.
  25. ^ 石橋 2007b, pp. 121–122.
  26. ^ a b 石橋 2007b, p. 123.
  27. ^ 石橋 2007b, p. 126.
  28. ^ 石橋 2007b, p. 127.
  29. ^ a b 石橋 2007b, pp. 128–129.
  30. ^ 石橋 2007b, pp. 130.
  31. ^ 石橋 2007a, p. 103.
  32. ^ a b 澤地 1977, pp. 137–139.
  33. ^ a b 石橋 2007b, pp. 129–130.
  34. ^ 澤地 1977, p. 136.
  35. ^ 石橋 2007b, p. 131.
  36. ^ 澤地 1977, p. 161.
  37. ^ 澤地 1977, pp. 166–167.
  38. ^ 石橋 2007b, pp. 131–133.
  39. ^ 石橋 2007b, pp. 133–134.
  40. ^ 石橋 2007a, p. 104.
  41. ^ 石橋 2007b, pp. 135–136.
  42. ^ 石橋 2007b, pp. 136–137.
  43. ^ 石橋 2007b, p. 138.
  44. ^ 石橋 2007b, p. 140.
  45. ^ 『朝日新聞』1976年5月9日東京朝刊社会面23頁「殺しのバラード「おもいやり」 羽田殺人 犯人は歌手の克美茂 「カムバックに愛人邪魔」」
  46. ^ 警察文化協会 1982, p. 982.
  47. ^ 『読売新聞』1976年5月29日東京夕刊7頁「愛人殺し「克美茂」を起訴」
  48. ^ 『読売新聞』1976年8月23日東京夕刊9頁「「克美」懲役10年 審理三回、スピード判決」
  49. ^ 石橋 2007b, p. 143.
  50. ^ 石橋 2007b, pp. 143–144.
  51. ^ a b c d e 石橋 2007a, pp. 105–106.
  52. ^ 石橋 2007b, pp. 106.
  53. ^ 石橋 2007b, p. 162.
  54. ^ a b 石橋 2007b, pp. 143–145.
  55. ^ 石橋 2007b, pp. 144–145.
  56. ^ 石橋 2007b, pp. 146–147.
  57. ^ a b c d 石橋 2007a, p. 107.
  58. ^ a b 『読売新聞』1989年5月12日東京朝刊社会面31頁「元歌手の「克美しげる」 今度は覚せい剤所持で逮捕」
  59. ^ a b c d 「〈特集〉「克美しげる」の更生を失敗させた人間環境」『週刊新潮』1989年5月25日号(新潮社) - 137-139頁。
  60. ^ 石橋 2007b, pp. 147–148.
  61. ^ 石橋 2007b, p. 149.
  62. ^ 『読売新聞』1989年7月6日東京朝刊31頁「覚せい剤所持 克美に懲役10月」
  63. ^ a b 石橋 2007b, pp. 149–150.
  64. ^ 石橋 2007b, pp. 150–151.
  65. ^ a b 石橋 2007a, p. 100.
  66. ^ 石橋 2007a, pp. 99–100.
  67. ^ 石橋 2007b, pp. 162–163.
  68. ^ 石橋 2007b, pp. 163–167.
  69. ^ 石橋 2007b, pp. 155–156.
  70. ^ 石橋 2007a, p. 108.
  71. ^ a b 石橋 2007b, pp. 154–155.
  72. ^ デイリースポーツ』2013年10月3日「紅白にも出場の克美しげるさん 波乱の人生に幕…愛人殺害で服役、覚せい剤で逮捕(2026年1月4日閲覧)
  73. ^ a b 日刊スポーツ』2013年10月2日「歌手克美しげるさん 2月に死んでいた」(2026年1月6日閲覧)
  74. ^ FRIDAYデジタル』2019年11月29日「村西とおる71歳 前科7犯・借金50億円から起死回生?の舞台裏」(2026年1月4日閲覧)

参考文献

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  • 澤地 久枝「錬金術師にされた女 ――克美茂/殺人・死体遺棄事件――」『烙印の女たち』、講談社、128-180頁、1977年5月20日。 
  • 警察文化協会 編「克美茂の愛人殺害事件」『戦後事件史(警察時事年鑑特集号)』、警察文化協会、981-983頁、1982年1月20日。 
  • 石橋 春海「side B――[2] 封印歌手・克美しげるの半生」『封印歌謡大全』、三才ブックス、98-109頁、2007年4月15日。  - 克美へのインタビュー記事(12ページ)、『エイトマン』『さすらい』『おもいやり』についての解説を掲載。
  • 石橋 春海『蘇る封印歌謡』、三才ブックス、2007年12月15日。  - 60ページ以上にわたるインタビュー記事を掲載。新録音版『さすらい』『おもいやり』『エイトマン』を収めたCDが付録となっている。
    • 「第3章 克美しげる そして歌だけが残った……」『蘇る封印歌謡』、三才ブックス、100-161頁。 
    • 「side B――[3] 再録音秘話」『蘇る封印歌謡』、三才ブックス、162-167頁。