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*[[李大淳]]監修[[李成茂]]著『朝鮮王朝史(上)』[[金容権]]訳、[[日本評論社]]、2006年
*[[李大淳]]監修[[李成茂]]著『朝鮮王朝史(上)』[[金容権]]訳、[[日本評論社]]、2006年
*[[麗羅 (小説家)|麗羅]]『人物韓国史(上)』[[徳間文庫]]、1989年
*[[麗羅 (小説家)|麗羅]]『人物韓国史(上)』[[徳間文庫]]、1989年

== 关联 ==
*[http://www.koreanroyals.org 全州李氏 鎭安大君 大韩朝鲜 再统一会 ]


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2013年1月24日 (木) 18:25時点における版

太祖 李成桂
李氏朝鮮
初代国王
太祖大王御真
王朝 李氏朝鮮
在位期間 1393年 - 1398年
君晋
小字 仲潔
松軒
諡号 康献至仁啓運応天肇統広勲永命聖文神武正義光徳大王
廟号 太祖
生年 1335年10月28日
没年 1408年6月18日
李子春(桓祖)
永興崔氏(懿恵王后)
陵墓 健元陵
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李成桂
各種表記
ハングル 태조 / 이성계 / 이단 / 중결 / 군진 / 송헌
漢字 太祖 / 李成桂 / 李旦 / 仲潔 / 君晋 / 松軒
発音 テジョ / イ・ソンゲ / イ・ダン / チュンゴル /クンジン / ソンホン
日本語読み: たいそ / りせいけい / りたん / ちゅうけつ / くんしん / しょうけん
ローマ字 Taejo / I Seonggye / I Dan / Junggyeol / Songheon
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李 成桂(り せいけい、イ・ソンゲ、太祖 康献大王 忠粛王4年10月11日1335年10月28日) - 太宗8年5月24日1408年6月18日))は、モンゴル)の武官、1357年から高麗の武官、李氏朝鮮の創始者にして初代国王。咸鏡南道の永興(金野郡)の出身[1]。『李朝太祖実録』によれば本貫全州李氏という[2]大韓帝国期に太祖高皇帝の称号を送られた。

略伝

家系

朝鮮王室の根元である全州李氏の始祖は新羅司空という役職に就いていた李翰と『太宗実録』など朝鮮王朝時代の歴史書には記録されており、また全州李氏の記録である『完山実録』には李翰中国人だと記されている[3]が、これは朝鮮を初めて統一した新羅や、当時、東アジアの中心であった中国に連ねることで権威付けを図った可能性が推測され、現実の李翰は統一新羅時代から高麗時代にかけて全州地方に勢力をもっていた有力地方豪族だと考えられている[3]。なお、全州李氏には百済時代末期から続く豪族・全州李氏に、鴨緑江流域に居住していた農耕と養豚を正業とする女真出身の李翰が養子として婿入りしたという伝承がある。

なお、出自については李一族の出身地の咸鏡道15世紀までは女真族の領土だったこと、李一族が頭角を現したのは配下の女真族の助けが大きかったことなどから、李一族を女真族とする学説[4]#女真族説参照)や李一族を高麗系モンゴル軍閥とする学説がある(#高麗系モンゴル軍閥説参照)。なお、女真族である事と、モンゴル軍閥である事は矛盾しない。

李翰とその子孫たちは全州の有力者として影響力を持ち、1170年の武臣の反乱を契機に中央政界に進出した[3]。しかし全州李氏一族の発展はすぐに躓くことになる。李成桂の六代前の李璘は兄の李義方と共に武臣の乱鎮圧の勢いに乗じて中央に進出したが、兄が出世競争に敗れると李璘も都から追放され、夫人も流離いの身となった[1]。李璘の子で、李陽茂も苦難の日々を過ごした。そして彼らは都での権力闘争に敗れると、故郷の全州で一揆を起こした疑いまでかけられるようになる[3]。ついに李成桂の四代前、李陽茂の子である李安社は180名に及ぶ一族郎党を率いて故郷を離れた。

最初彼らは江原道に定住したが、中央からの追手に見つかったため、当時が支配していた咸鏡北道に亡命した[3]。朝鮮王室の記録では「李安社が地方の役人と女を巡って激しく対立し、その役人が何かにつけて揚げ足をとり李安社を排除しようとした。それに堪えられなかった李安社は一族郎党を率いて江原道に避難したが、その役人が人事異動で江原道の責任者として来ることになったので、再び一族郎党を率いて咸鏡北道に移住した[3]。そこは元の影響下にあり、国外亡命の様相を呈した」[5]と記している。しかし現在では研究が進んだ結果、これが事実ではないことが明らかとなった。その実態は中央政府の監視や圧力に耐えられなかったか、すすんで中央に反旗を翻した末に敗北して亡命に至ったと考えられている[3]

咸鏡道北部に亡命した李安社は元からダルガチの職責を与えられ周辺の女真族の統治を任された[6]。しかし女真族との間に徐徐に対立が生じると、李成桂の曽祖父李行里(翼祖)は一族郎党を率いて南方の江原道安辺郡に移住した[6]全州李氏一族は磨天嶺以南(以北には女真族の集落が散在)の東北面を管轄する大勢力となり一種の独立政権を築いた[6]。そして1335年、李成桂が双城総管府[7]の和州(咸鏡南道の永興、現在の金野郡)で李子春と永興崔氏の子として生まれた[1]

女真族説

池内宏[8]山内弘一[4]岡田英弘[9]宮脇淳子[10]らは李成桂が女真族或いは女真族の血を引いている可能性を指摘している。また、室谷克実崔南善が著書『物語朝鮮の歴史』において李氏朝鮮の創建過程を簡素に書いたのは李成桂が女真族であることを認識していたからではないか、と述べている[11]

李成桂女真族説の根拠としては次のことが挙げられる。

  1. 李氏朝鮮の第4代国王世宗1397年5月7日1450年5月18日)の時代に建州女真に対する侵略戦争を行い、豆満江方面に領土拡張を行い、また、東北部(咸鏡道)の開拓事業を行い、朝鮮の領土に組み込み併合するまでは、李氏一族の出身地の咸鏡道を含む朝鮮半島北部(咸鏡道・平安道)は、新羅高麗の領土となったことはなく女真族の領土であり、女真族居住地域だったこと。
  2. 李成桂は女真族の酋長李之蘭義兄弟の契りを結んでいること。(野史の記録で正史ではないが、野史だからといって誤りではない。また、彼は李成桂に臣服して戦功を立て、後開国功臣に列せられるなど特殊な関係があったことは事実である)
  3. 李氏一族は女真族の配下を多数抱え、李氏一族が頭角を現したのは彼らの助けが大きかったこと。
  4. 李子春は吾魯思不花というモンゴル名を持ち、さらに、祖父李椿は孛顔帖木兒、李子春の同母兄李子興は塔思不花、李子春の兄弟は完者不花、那海など李氏一族は皆モンゴル名を持っていること。(ただし、高麗人も貴族はモンゴル名を持っていた)
  5. のちに15世紀になって編纂された王朝創建の偉業を称えた『龍飛御天歌』によると、李氏一族は全羅道の全州出身で古くは新羅に仕えたがやがて咸鏡道に移住した、と書かれているが、後世に潤色されて書かれているため信憑性が疑わしいこと。(神道碑は李氏の遠祖を全州の大姓、穆祖をもって知宣州となし、しかも穆祖自ら全州より宣州に移れりとは言わざるに、これには穆祖、全州より三渉に入り、後、徳源に移れりとなし、かつその遷徒の事情を示し、穆祖が170餘家の移民を従えたりというがごときも、神道碑の伝えざるところで、穆祖の元に帰したる後の佳地は、南京或いは孔州とせられずして、慶興の斡東とせられ、斡東における翼祖の危難、その危難によって赤島に遁れし前後の事情も、すこぶる詳細に敍せられている。かくのごとき穆・翼二祖の事績とせられるものに著しき潤色が加えられている)
  6. 李氏一族の家系図には、李氏一族のモンゴル名は完全に記載されているが朝鮮名は不完全にしか書かれていないこと。
  7. に仕える行政長官ダルガチは、原則としてモンゴル人か色目人が任用されて、元初期には一部の女真族がモンゴル名を持つことでモンゴル人とみなされ任用されたが、李安社はダルガチの職責を与えられ周辺の女真族の統治を任されたこと。(ただし、高麗人ダルガチがいなかったわけではない[12]
  8. 千戸長として女真族の統治を行っていたこと。
  9. 姓を李氏と言ってはいるが、祖先がの家来で、元の開元路出身であること。

岡田英弘宮脇淳子は、「双城で高麗軍に降伏した者のなかに、ウルスブハ(李子春)というジュシェン(女直)人があったが、その息子が李成桂(朝鮮の太祖王)で、当時22歳であった[13]」とし、『李朝実録』の冒頭『太祖実録』の内容[14]を用いて次のことを挙げている[13]

  1. 『李朝太祖実録』冒頭には「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王、姓李氏、諱旦、字君晋、古諱成桂、號松軒、全州大姓也」とあり、本貫全州李氏であること、新羅の司空李翰を始祖として、以下21代を経て李成桂に至ったとするが、第16代まではほとんど名だけが知られるにすぎず、第17代(李成桂4代の祖)からやや詳しい伝記がある。その第17代以後の祖先の活動舞台と居住地を通観すると、前16代につなげるために全羅北道全州(完山)を出発点として、東海岸の三陟から豆満江畔にわたり、そのほぼ中央に位置する咸興をもって活動の根拠地としたように書いてある。 すなわち、全州李氏の出身だというのは後世の捏造であると考えられるが、情況証拠しかなく、立証する術はない。しかし、李氏朝鮮王室が全州李氏を大切に扱ったという記録もない[13]
  2. 李成桂の父子春は、高麗を東北方面からおさえるモンゴル勢力の拠点であった永興双城総管府につかえ、千戸(千人隊長)の役職についていたが、高麗恭愍王がその5年後(1356年)にこの総管府を攻略したとき、李子春はただちに高麗に投じ、北に移って咸興を活動舞台とした。4年のち(1360年)李子春は死に、李成桂が家を継いで、東北面上万戸(万人隊長)の職についた。李成桂の活動は、まず咸興から豆満江方面におよぶ女真部族の平定、つぎに鴨緑江上流方面の女真部族、モンゴル勢力の残存するものを討伐し、やがて中央に召し出されて国都の防衛、南方の倭寇討伐にしたがった。彼の本領はどこまでも軍事にあった[13][14]
  3. 『李朝太祖実録』巻一、九頁下、には次の記事がある。「初三海陽(今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三善三介、於太祖、為外兄弟也。生長女真、膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。」これを訳すると、「三海陽(咸鏡北道吉州)にいた元のダルガチだった金方卦(女真人と思われる)が、度祖(モンゴル名ブヤンテムル、三頁下、李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟である。彼は女真で育ち(女真の族長になった)、腕の力が人並み外れて強く、騎射をよくし、悪い奴らを集めて、北辺に横行したが、太祖を畏れて、敢えてほしいままにしなかった」というのである。この記事を見ると、太祖も女真族としか考えられない。「外兄弟」には二つ意味があり、一つは「父の姉妹が産んだ子」もう一つは「姓が違う兄弟」である。 遊牧民狩猟民のような族外婚制をとる人たちは、姓の違う集団と結婚関係を結ぶのを習慣とするから、父の姉妹が嫁に行って産んだ従兄弟を「姓が違う兄弟」と呼ぶのである。だから、李成桂の伯母/叔母が女真の族長に嫁入って生まれたのが三善三介であるとするなら、李成桂の祖父は女真の族長と結婚関係を結ぶような別の族長であった証拠である。どちらの意味にしても、女真族の族長である三善三介が太祖李成桂の外兄弟であるというならば、太祖自身も女真族であったと考えるのが自然である。『李朝実録』は、朝鮮時代になってからの正史であるから、朝鮮王の家系について、なるべく高麗との関係を重んじるような書き方をしているが、どうしても書き残さざるを得なかったのが、この「三善三介」についての記事である[13]

神道碑、定陵碑、龍飛御天歌、李朝実録、高麗史などの李氏一族の伝承の史料解釈上、李成桂の父祖として伝えられる四祖(穆祖、翼祖、度祖、桓祖)のうち、信じうるのは父と祖父のみで、それ以前は系譜を長くするため作為された架空の人物であり、父と祖父は事跡については創作と考えられている[15]。桓祖は、ただわずかに信をおき得べきは、彼が双城付近の千戸としてその地の土民の間に多少の勢力を有していたことにして、その他の伝説は双城攻破の際における桓祖の功業、元への上表を裏面に包める入朝親喩、これより以前に起れる桓祖并に父祖の入朝など一として信頼に値すべきものなく、これらの伝説はことごとく抹殺せざるを得ない[15]。神道碑における桓祖の記事は、病没に関する一句と「朔方道萬戸」以外はほとんど信頼に値しない。また、神道碑は恭愍王五年における双城修復の後三十一年、同年九月四日における桓祖の死没の後二十七年、太祖李成桂即位に先立つ五年で、龍飛御天歌は碑に後れること六十年にして成り、高麗史はさらに四年をへて撰進せられし書ならば、神道碑とこれ等の両書の関係は明瞭で、相互の諸条の符節が合するごとくは、後者が前者を踏襲したためである[15]。伝説・系図の制作は、李公神道碑建立の際においてせられ、鄭惣が定陵碑を撰する際に系図の延長、李成桂の王氏に代わるとともに穆祖の伝説の南京より孔州に移転、野人古慶源の地を侵奪して翼祖の伝説の変化、龍飛御天歌の編纂において穆・翼二祖の伝説の周の祖先の伝説に擬するなど特殊の機会と必要とに応じて、その形態の変化が見られる[15]。のちに15世紀になって編纂され、王朝創建の偉業を称えた頌詠歌集龍飛御天歌及び高麗史は世宗の時、同一なる編者の手により成った書で、しかし高麗史は李成桂即位の四年、判三司事鄭道傳・政堂文学鄭惣等、はじめて高麗太祖より恭讓君にいたるまで三十七巻を撰進せし後、大宗しばしば史臣に命じて改修竄定せしめ[16]、太祖李成桂のごときは、史官の極諫を用いずして、鄭道傳・鄭惣等の既修に関わる恭愍王以来の高麗史及び王申以来の史草を親覧したることなれば[17]、これらの史書及び文宗元年上進せられし今の高麗史に見えたる李朝の祖先に関する記事に曲筆ないし潤色の跡ありと考えられる[15]。「高麗時代に女真族と認識した跡形がない」「名門家と結婚している」のは、女真族であることを偽り高麗人を装い、祖父以前は架空の人物で李朝の祖先に関する事跡は創作であるためであると考えられている[15]。李成桂の祖父の後妻趙氏が双城総管の女、度祖が元の宣命を受けて亡父の職を襲げり、その配朴氏が斡東の百戸の女、塔思不花没後の継承の争議に関して元の裁断を仰いだというのは、四祖の伝説が双城と元とに結合させられることより派生したもので何等措信の価値あるものにあらずと考えられている[15]。また、龍飛御天歌によると、李氏一族は全羅道の全州出身で古くは新羅に仕えたが、やがて咸鏡道に移住したというが、そのことは李氏一族が女真族の血を引くことを否定するものではない[4]

モンゴル軍閥説

東洋史学者尹銀淑(ユンウンスク)博士とモンゴル系中国人学者・エルデニ・バタル博士(内モンゴル大学教授)は博士の学位論文を通じて、李成桂はモンゴル軍閥出身で、李成桂の家門は旧高麗領に置かれた元の直轄統治機構である双城総管府でほぼ100年間にわたりモンゴルの官職を務め、勢力を伸ばしたために、李朝を建国することができたという新しい学説を提唱している[18][19][20]

尹博士は学位論文『蒙元帝国期オッチギン家の東北満州支配』において13~14世紀に東北、満洲地域を元のオッチギン家が支配したという事実に注目したと述べている。チンギス・ハンが1211年に征服した土地を近親者に分け与え、オッチギンには東北、満州地域を統治させた。オッチギンは遊牧と農耕を基盤にこの地で独立的な勢力を形成していた。

李成桂の高祖父李安社は全州から豆満江流域の斡東地域に移り、 後の1255年に千戸長、ダルガチの地位を元皇帝から賜ったが、千戸長はモンゴル族以外の人が任命されることが非常に珍しい高位の職であることから、 実質的にはオッチギンから認められた軍閥勢力が就任していたと述べている。1290年にオッチギン家で内紛が起きたため、李安社の息子、李行里は斡東の基盤を失って咸興平野に移住したが、千戸長、ダルガチの職位は李行里の曽孫子である李成桂の時まで五代に渡って世襲された。エルデニ博士は学位論文『元・高麗支配勢力関係の性格研究』において李成桂一門はオッチギン家を通じ、当時最先端にあったモンゴル帝国の軍事技術を直接吸収し、その後、オッチギン家直属の斡東と双城総管府の多くの条件を活用して自らの勢力を育てた。李成桂は1362年に元の将軍ナガチュとの戦闘で、この先端技術を用いて勝利していると述べている。

尹博士は1388年の威化島回軍も、モンゴルの内部事情に精通している李成桂が、元の軍事力が崩壊したことを把握した上で起こした「旧モンゴル将軍の裏切り」と見るべきだと述べている。従って、李氏朝鮮の建国は朝鮮半島の自生的産物としてだけでは見る事は出来ず、モンゴル帝国の中心地である北東アジアで、13世紀から14世紀に起きた激変の歴史の総体的果実として生まれた王朝が李氏朝鮮であり、李氏朝鮮は表面では親明事大を標榜していたにもかかわらず、パクス・モンゴリカ体制の中心である北方遊牧帝国の伝統を事実上維持し続けていたと述べている。

朝鮮王朝建国までの道程

1356年、高麗の恭愍王は反元政策を掲げ、元に奪われていた領土の収復を推進した[3]。領土奪還のためには全州李氏一族の協力が必要であった[3]。李成桂の父で、当時元の千戸の地位にあった李子春は恭愍王の政策に進んで協力した[3]。恭愍王は双城総管府攻撃の直前に、李子春を開京に呼んで小府尹という高位の官職を与えた[3]。東北面兵馬使柳仁雨率いる高麗軍が双城を攻撃すると、李子春は内部から呼応して高麗軍と共に戦い[3]、双城を容易に陥落させた[3]。 この功により李子春は従二品の位を授かり、東北面兵馬使に任じられ[3]、全州李氏一族は母国に復帰した[3]

双城陥落から四年後の1360年に李子春は朔方道万戸兼兵馬使に任命されたが[21]、その直後に46歳で亡くなった。既に彼の息子である李成桂は武将となっており、翌年には朴儀の反乱を鎮圧して功を立てている[21]。また、この年に李成桂は二つの大きな戦いを経験している。一つ目は紅巾軍の侵入である。1361年、10万の紅巾軍が南侵して首都開京を占領した[21]。首都奪還戦において2000名を率いて開京一番乗りを果たした[21]。この戦いはその後の李成桂の台頭の始まりとなった[22]。二つ目は元軍との戦いである。双城を奪還のために侵攻してきた元の大軍を咸興平野で殲滅し、ここでも勇名を高めた[23]

当時の中国遼東地方では、元の権威が弱まったことに乗じて、元人の納哈出(ナガチュ)が行政丞相を自称して強大な勢力をもっていた[21]。納哈出は遼東を支配下に置くと、自ら軍勢を率いて高麗に侵入し、瞬く間に西北部を攻略して三撤(咸鏡南道北青)、忽面(咸鏡南道洪原)にまで迫った[21]。1362年2月、李成桂は東北面兵馬使として納哈出征討を行い、これを撃破して咸関嶺(洪原の西15km)まで追撃したが納哈出を逃してしまった[21]。同年7月、遼東で兵を補った納哈出は再び高麗に侵入したが、再度これを撃破し、納哈出に高麗侵入を断念させた[21]。1363年、元は高麗の態度を不遜だとし、反元の王を廃し、王の叔父である徳興君を王位に就かせようとしたが、高麗は断固としてこの要求を拒んだ[23]。1364年、元は高麗の反逆者崔儒に元兵1万を授けて高麗に侵攻させたが、李成桂は崔瑩らと共に国境近くでこれを殲滅した[23]。この敗北により元は恭愍王の復位を容認して崔儒を高麗に送還し、高麗は元の干渉からほぼ完全に脱却した[24]。そして同年2月、満州から大軍で侵入して和寧(咸鏡南道永興、現在の金野郡)以北を占領していた女真族を李成桂は討伐して領土を奪還した[21]。この女真討伐戦の時に文官として従軍したのが、親友でありながら後に李成桂と対立した鄭夢周である[21]。 李成桂は1370年には東北面元帥として東寧府を攻め、さらには大陸の遼陽城までも制圧した[23]

南方の対倭寇戦では、1377年に智異山で倭寇を殲滅したことによって名声を確固たるものにし[21]、同年8月にも西海道(黄海道)一帯の倭寇を大破していた[23]。そして1380年倭寇が500隻から成る軍勢で侵入し、その中で最も強力な倭寇の集団が雲峰(全羅北道南原郡)の引月駅を占領したため、高麗側は9人の元帥に攻撃させたが敗北して二人の元帥が死んだ。この事態を受けて李成桂は総指揮官に任命され、首領阿只抜都率いる倭寇を引月駅に進撃してこれを破った(荒山戦闘)[21]

一連の戦いで名声を得た李成桂のもとには、新興官僚[25]や地方豪族が集まっていくことになる[26]。1388年、が高麗領である鉄嶺以北の割譲を一方的に通告してきたため、高麗第三十二代国王王禑と崔瑩は遼東地域を支配下に置くことで明の圧力を退けようと計画した[24]。李成桂は右軍都総使に任じられ[1]、前線指揮を担った[27]。李成桂は四つの不可論[28]を理由に出兵を反対していたが、王禑は崔瑩の意見に従い反対論を無視し遠征を開始した[1]。実はこの出兵には遼東支配以外にも新興官僚勢力や李成桂ら武人の勢力を削るという目的があった[24]王禑は遠征軍の勝利に興味がないと公言し、出征の日に激励の言葉を一つもかけなかった[3]。また、反乱に備えて遠征する武将らの家族は王宮に来させて人質(回軍の時には全員脱出した)とした[3]

1388年5月、遠征軍は鴨緑江河口の威化島に到達したが、大雨による増水で河を渡ることが出来ず、日が経つにつれて逃亡する兵士が後を絶たず、食糧の補給も難しくなっていた[1]。このような状況を理由に李成桂は撤退を要求したが、これも認められなかったため、李成桂は独自に撤退を開始した(威化島回軍[1]。回軍を聞いて遠方から2000名以上が李成桂を助けるべく馳せ参じた[3]。また民衆も回軍を歓迎し[3]、李成桂に希望を持つ歌が流行った[29]。一方の高麗朝廷は既に民から見放されており[3]、回軍の報せを受けた崔瑩が抵抗軍を組織しようとしたが集まる者は殆どいなかった[3]

6月1日に開京に着いた李成桂は、王禑に遠征の責任を問い、崔瑩の処罰を要求した。しかし、王禑は李成桂らを反逆者として、彼らを殺したものに褒賞を与えるという触書を出したため[3]、李成桂は交渉を諦めて王宮を攻め崔瑩を捕虜とした[3]。崔瑩は処刑されずに遠方に流され(二か月後に処刑されている)、王禑は王の地位を失わなかったが、権力を失い名ばかりのものとなった[3]王禑は王権を取り戻すべく、内侍80名に李成桂らの私邸を襲わせたが失敗して追放され[3]、子の王昌曹敏修らに擁立されて王位に就いた[3]

しかし、李成桂らに擁立された恭譲王に1389年、王位を奪われ[1]王昌王禑は処刑された。恭譲王も朝鮮王朝樹立の2年後の1394年には李成桂の命令で処刑された(李成桂自身は王氏一族を内地に復帰させて自由に暮らすのを認めようとしていたが、臣下達の強い要請によって処刑せざるを得なかったとされる)[3]このとき李成桂により王氏(高麗王家)一族の皆殺しも行なわれた。韓国統計庁が2000年に行なった本貫調査によると開城王氏の人口は2.0万人と極端に少なかった。このときの皆殺しが原因とされる[要出典]

政治の実権を握った李成桂、鄭道伝、趙浚らは親元的な特権階級、権力と結びつき腐敗した仏教勢力が私有地を拡大したために国庫が尽きている現状を痛烈に批判し、1390年から田制改革を強行した[1]

1392年7月、国家の方針を決定する都評議使司は新興官僚層が推戴した李成桂に即位を要請し、恭譲王を追放した[1]。「禅譲」の形式による新国家樹立であった[1]

後継者争いと失意の晩年

晩年の李成桂の肖像画

李成桂は、八男の李芳碩に後を継がせようと思っていたが、それに反発した王子達が、1398年に反乱を起こした(第一次王子の乱)。これにより、芳碩と功臣鄭道伝が五男の李芳遠に殺されてしまうと、李成桂は芳遠の奨める次男の李芳果(定宗)に譲位し、退位してしまう。その後も李成桂の王子達の反目は続き、1400年、今度は四男の李芳幹が反乱を起こす(第二次王子の乱)。この乱は李芳遠によって鎮圧され、乱後に李芳遠は定宗から王位を譲位され即位した(太宗)。

李成桂は自分の息子達の争いに嫌気がさし咸興に引きこもって仏門に帰依した。太宗は父から後継者として認められようと、咸興に差使を送った。しかし李成桂はソウルから差使が来る度に遠くから矢を射ち殺してしまった。そこから任務を遂行しようと行ったが帰って来ない人またはそんな事を示して「咸興差使」という言葉が生じた。

1402年和解してソウルに帰って来た李成桂は、国璽を太宗に授けて正式に朝鮮王として認めた。その後李成桂は政治には関心を持たず念仏三昧の生活をしていたと言う。1408年、74歳で崩御した。御陵は健元陵(京畿道九里市、東九陵の一つ)である。

伝説

李成桂の生誕については神秘的な伝説に彩られている。あるとき父李子春の夢枕に老翁が現われた。老翁が語るには「我は白頭山の神仙である。もしお前たち夫妻が100日間祈願参篭をするならば、生まれた子供は後に天下を頂くことになるであろう」。夢から覚めた李子春は霊夢にしたがって妻・崔氏とともに白頭山に100日間の祈願参篭を行った。そして100日満願の翌日李子春はまた霊夢を見た。今度は天界で五色雲に乗って天女が下降った。その天女は李子春に拝礼すると「この品物を受け取ってください。やがて後日東国を測量する時必要になるでしょう」と言って、袖の中からを取り出した。李子春がその尺を受け取ったところで、夢から覚めた。翌日、妻・崔氏が身篭ったことがわかった。崔氏は13ヶ月後男児を生んだが、その赤んぼうが李成桂である。

李成桂は在世に「伝御刀」という刀を使ったが、この刀は父李子春が先祖の墓にあったものを李成桂に与えたと伝えられている。李成桂はその刀で先祖の墓を侵犯した妖物を倒した。また竜王の子孫である禑王と闘った時も伝御刀を用いたが、禑王を倒すやいなや伝御刀は泣きながら刃がこわれたと言う。その後伝御刀は誰も直すことができず、その行方は伝わっていない。そして李成桂のもう一つの武器の「御角弓」という弓とスモモで作った矢は現在北朝鮮で保管している。

李成桂が戦時に騎乗した駿馬の名が8頭伝わっている。その名前を順番どおり列挙すれば「横雲鶻」、「遊麟青」、「追風烏」、「発雷赭」、「竜騰紫」、「凝霜白」、「獅子黄」、「玄豹」である。後に世宗は画家安堅には八駿馬の姿を描くように、「集賢殿」の楽士らには賛を作曲するように勅した。

年表

  • 1335年和寧府(永興:現在の咸鏡南道金野郡附近 双城総管府のあった所)で、元のダルガチ李子春の次男として産まれる。
  • 1357年:父とともに高麗に寝返り、双城総管府陥落の手引を行なう。
  • 1360年:父の死とともに高麗の官吏になる。
  • 1362年:咸鏡道に入り込んだ納哈出(ナハチュ)軍を撃退する。
  • 1363年:元は、恭愍王を廃位し、代わりに徳興君を王位に建てようとする。
  • 1369年満州地域に侵略する為に遠征を行う。
  • 1376年:倭寇が忠清道公州を落とし開京が危機に陥ったため倭寇討伐に赴く。
  • 1380年:倭寇の首領アキバツ(阿只抜都)の軍を雲峰で撃退した(荒山戦闘)。
  • 1382年:女直のホバツが朝鮮東北部を荒らしたのでこれを撃退した。
  • 1385年:咸州に入り込んだ倭寇を撃退。
  • 1388年:李成桂は第32代高麗王王禑から遼東半島の軍討伐の命を受けるも、兵を都の開京(開城)へ向け軍事クーデターを起こし、高麗の権力を掌握する。(威化島回軍王禑を退位させ、王禑の子王昌を第33代高麗王に擁立する。
  • 1389年王昌を父王禑とともに殺害し、第20代神宗の7代孫を恭譲王として第34代高麗王に擁立する。
  • 1392年恭譲王を廃位して、高麗王として即位。(権知高麗国事
  • 1393年:明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、洪武帝が「国号はどう改めるのか、すみやかに知らせよ」といってきたので、高麗のほうでは「朝鮮」(朝の静けさの国)と「和寧」(平和の国)の二つの候補を準備して洪武帝に選んでもらった。「和寧」は北元の本拠地カラコルムの別名であったので、洪武帝は、むかし前漢武帝にほろぼされた王国の名前である「朝鮮」を選んだ、そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより朝鮮を国号とした。和寧と言うのは李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかったとの意見が多い。
  • 1394年:漢陽(漢城、今のソウル)に遷都。 杆城に追放していた恭譲王を謀反の疑いを理由にその子とともに殺害する。
  • 1398年:李成桂は八男の芳碩を後継にしようとしたが、五男の芳遠が反乱を起こし芳碩を殺してしまう(第一次王子の乱)この時病床にありこの争いに嫌気が差した李成桂は、国事を放棄し、芳遠の推挙した次男の芳果(定宗)に国事を譲る。
  • 1399年:開城へ再遷都。
  • 1400年:定宗の弟、李成桂の四男である芳幹が第二次王子の乱を起こし、その鎮圧に功の有った芳遠(太宗)に定宗は国事を譲位する。李成桂は、ショックで咸州に引きこもってしまう。漢陽に再々遷都する。
  • 1401年:明から正式に国王号が認められる。
  • 1402年:太宗と和解し、漢陽に戻る。
  • 1408年:死去(73歳)。晩年は念仏三昧の日々を送ったという。

宗室

父母

  • 李子春(後に桓祖とされる)
  • 母 永興崔氏(後に懿惠王后とされる)

兄弟

后妃

  • 承仁順聖神懿王后(安辺韓氏)
  • 順元顕敬神徳王后(谷山康氏)

後宮

  • 誠妃 元氏
  • 貞慶宮主 劉氏
  • 和義翁主 金氏

王子

王女

  • 慶慎公主
  • 慶善公主(以上は神懿王后韓氏の娘)
  • 慶順公主(神徳王后康氏の娘)
  • 宜寧翁主
  • 淑慎翁主(和義翁主金氏の娘)

関連作品

  • 龍の涙 - 韓国KBSで1996年から1998年にかけて放送。威化島回軍から朝鮮を建国し、没するまで晩年の姿が描かれている。
  • 辛旽 高麗中興の功臣 - 2005-2006年、韓国MBCで放送。高麗の武将として権力を握っていく過程が描かれている。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 姜(2006)
  2. ^ 太祖實錄 總序によれば、「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王, 姓李氏, 諱旦, 字君晋, 古諱成桂, 號松軒, 全州大姓也。」であるので、本貫は全州李氏となる。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 李(2006)
  4. ^ a b c 武田幸男編『朝鮮史』山川出版社
  5. ^ *李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、78 - 79頁より引用
  6. ^ a b c 「壬辰倭乱、ヌルハチと朝鮮 2」、Kdaily(韓国語)、2007年2月8日
  7. ^ 元々、高麗の領土であったが、1258年のモンゴル軍の第四次侵略において、高麗の土着の豪族が投降する動きがあり、これに対応してモンゴルは、和州(永興)に設置し、周辺を領土化した。 村井(1999)
  8. ^ 池内宏「鮮初の東北境と女真との関係」
  9. ^ 岡田英弘『皇帝たちの中国』
  10. ^ 宮脇淳子『世界史のなかの満州帝国』
  11. ^ 『日韓がタブーにする半島の歴史』新潮新書
  12. ^ 14세기 고려인 이슬람교도 묘비 중국서 발굴 , 連合ニュース, 2004.03.29
  13. ^ a b c d e 岡田英弘宮脇淳子研究室『論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である
  14. ^ a b 平凡社『アジア歴史事典』太祖(李朝)の項(末松保和)
  15. ^ a b c d e f g 池内宏「李朝の四祖の伝説とその構成」
  16. ^ 『李朝太祖実録』巻七
  17. ^ 『李朝太祖実録』巻十四、七年閏五月および六月の條
  18. ^ 「李成桂の家系はモンゴル軍閥」, 朝鮮日報, 2009/10/04.
  19. ^ (朝鮮語) 이성계는 몽골군벌이었다, 朝鮮日報, 2006.09.04.
  20. ^ (朝鮮語) 보르지기다이 에르데니 바타르 (ボルジギダイ・エルデニ・バタル) 『팍스몽골리카와 고려 (パックス・モンゴリカと高麗)』, 혜안 (2009/08). ISBN 9788984943674
  21. ^ a b c d e f g h i j k l 麗(1989)
  22. ^ 伊藤(1986)
  23. ^ a b c d e 李(1989)
  24. ^ a b c 水野(2007)
  25. ^ 儒教の知識を持ち、腐敗した仏教勢力やこれに連なる貴族が有する膨大な土地と人を国家に取り戻すことなどを訴えた。 李(2006)
  26. ^ 旗田(1974)
  27. ^ 金(2002)
  28. ^ 第一は小を以て大に逆らうのが不可であり、第二は夏に軍を動員するのが不可であり、第三は国を挙げて遠征すれば、倭寇がその虚に乗じてくるから不可であり、第四は暑くて雨の多い時に当たり、弓弩の膠(にかわ)が解け、大軍が疫疾にかかりやすいから不可である(姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』朝日新聞社、2006年、120頁より引用)
  29. ^ 平壌城では火が燃えさかり、安州城の外では煙が立ちこめている。平壌と安州の間を往復する李将軍よ、願わくは蒼生(人民)を救いたまえ。(李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、57頁 - 58頁より引用)
  30. ^ “大君”の称号ができたのは1401年(太宗元年)。

参考文献

关联

関連項目

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