コンテンツにスキップ

忠恵王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
忠恵王 王禎
高麗
第28代国王
王朝 高麗
在位期間 1330年2月18日 - 1332年3月21日
1339年12月2日 - 1344年1月30日
諡号 忠恵献孝大王
生年 延祐2年1月18日
1315年2月22日
没年 至正4年1月15日
1344年1月30日
忠粛王
明徳太后
陵墓 永陵朝鮮語版
テンプレートを表示

忠恵王(ちゅうけいおう、チュンヘワン、충혜왕1315年2月22日 - 1344年1月30日)は第28代高麗王(在位 :1330年 - 1332年、復位:1339年 - 1344年)。

名は禎。モンゴル名は普塔失里(ブタジリ、モンゴル語ᠪᠤᠳᠢᠰᠢᠷᠢ、Buddhašri[1])。諡号忠恵献孝大王忠粛王明徳太后の間に生まれた。后は、亦憐真班、禧妃尹氏、和妃洪氏、銀川翁主林氏。

生涯

[編集]

1328年、世子として禿魯花(人質)になって燕京で宿衛した。当時の権臣であった中書右丞相エル・テムルと親交を深めたことに支えられ、1330年に忠粛王の伝位により高麗王に冊立された[2]。エル・テムルの仲介で徳寧公主と結婚しており、帰国後は高麗を直轄領に編入させようとする元朝内部の議論に対し、強く嘆願しこれを阻止している[3]。しかし、世子時代からモンゴルの王公たちと交わりながら歓楽にふける習性に染まっていたため、政事を放棄したまま狩猟や遊興に明け暮れた。

1332年大青島に配流されたトゴン・テムルの身柄をめぐって遼陽行省と高麗が謀反を企てるという讒言が報告されると、元の文宗はその責任を問い忠恵王を廃位し、忠粛王を復位させた。再び燕京へ召喚され、以前のように宿衛の任務に就いたが、エル・テムル一族とは近い関係を維持した故に、政治的に対立していた太保バヤンから嫌われた。エル・テムルの死後、その一族まで粛清され後見人を失った忠恵王はバヤンが元朝の大権を握ると、困難な処置に追い込まれ、結局1336年に宿衛の任務を怠ったという理由で強制帰国させられた。3年後、忠粛王の薨逝により遺詔に従って王位を継承することになったが、瀋王王暠を高麗王に擁立することを好んだバヤンの反対に遭い、元から正式な冊封を受けられない事態となった。

王権の正統性に欠かせない冊封を受けることができない状況で焦った忠恵王は金銀や王室の宝物を元の有力者に賄賂として捧げ、征東行省を通じて復位を訴えるなど、支持を求めるのに汲々とした[4][5]。また、この頃に忠粛王の后妃の慶華公主強姦までした[6][7]。慶華公主に対する姦淫事件は忠恵王の荒淫狂暴な性情が露わになった破倫行為で、歴史家から非難の対象となってきた。反面に元の皇族出身で継母でもある公主を犯すことで、モンゴル系遊牧民の慣行である収継婚の形式を借りて、自分が忠粛王の継承者であることを確実にしようとする苛立ちの発露による行動ではなかったかと推測する見解も提起されている[8]。このような流動的な政局の流れに乗じて瀋王王暠は政丞の曹頔と共に忠恵王を追い出し、自ら王位に就こうという陰謀をたくらむに至った[9]

1339年8月、慶華公主と瀋王王暠にそそのかされた曹頔が開京の王宮を急襲するクーデターを試みたが、忠恵王の親衛軍に制圧された。同年11月、元朝は高麗王の印璽を伝えながら復位を認めているように見えたが、わずか10日ぶりに忠恵王を押送して燕京の刑部に収監させ、処分を待たせた[10]。翌年3月、トクトの主導でバヤンが失脚した政変が発生すると、雰囲気は反転し紆余曲折の末に復位が承認された[11]

苦労して王位を取り戻したが、同母弟の江陵大君王祺が元の宮廷に入朝した上、高麗人貢女奇氏が次皇后として冊立され、忠恵王の立場は決して安定しなかった。特に奇氏はエル・テムルの娘のダナシリ皇后から逼迫を受けたため、エル・テムルと親しかった忠恵王に対しても感情が良くなかった。それでも忠恵王は反省する色もなく、節制のない私生活を続けたのはもちろん、財政改革の名目に国王個人の内帑庫を補充したり、新宮建設のために収奪を強化するなど、失政を繰り返した。彼の在位期にわたって、いわゆる「嬖幸」・「悪小輩」と呼ばれた側近が要職を占め、野放図な横暴を行った点も既成支配層の間で評判を低下させると同時に国政の乱脈を深めるのに一助した。

1343年8月、奇皇后の兄の奇轍朝鮮語版をはじめとする高麗の親元派勢力は忠恵王の「貪淫不道」を指摘、高麗に新しい行省を建てて直轄領にしてほしいと元の中書省に要請した[12]。同年11月には元から使臣が相次いで派遣され詔書の頒布を口実に忠恵王を征東行省に誘引した後、周囲の護衛兵を退けて逮捕し、押送してしまった。順帝の命令によって広東掲陽県に流刑に処され南下中、湖広岳陽県で病死。最後の瞬間には世話をする人すらおらず、包みまで自ら持って行かなければならないほど悲惨だったと伝えられている。

死後、遺体は高麗に送還され、開京近郊の開豊区域永陵朝鮮語版に葬られた。永陵は日本統治時代まで古跡調査により所在が確認されたが、現在は忘失している。

人物

[編集]
  • 「気性が豪侠で、乗馬や弓術を楽しみながら財物の利益を扱うのに喜び、荒淫無度だった。小人輩は志を得たが、忠直な者は排斥された」という批評通り[13]、忠恵王に対する評価は極めて否定的である。即位前、元朝で宿衛していた頃からモンゴルや回鶻貴族の子弟と交わり、退廃的な日常に慣れた影響も大きいので、品行を正すことができなかった。忠恵王を嫌った丞相のバヤンはモンゴル語で暴れん坊を意味する「撥皮」と嘲弄し軽蔑した[14]
  • 常識外れの乱行、つまり姦淫を重ねた行為こそ忠恵王が最も非難を受ける理由として挙げられる。『高麗史』には宴会の席を借りて酒に酔った勢いで慶華公主と無理やり情を交わしたと赤裸々に記されている。このほか、同じく先王の忠粛王の妃の寿妃権氏や母方の叔父の洪戎の後妻も含めて容姿が美しい女性であれば近親関係、婚姻の有無、身分などに関係なく手当たり次第奪い、強姦したという。このような乱行は復位後に集中した点が特徴で、単なる性的逸脱なのか、収継婚の一環なのかについては議論がまちまちだ。
  • 常に精力がつく薬剤を使用していたという。彼と関係を持った女性は、淋病に罹患する者が多かった。
  • 元の使臣を迎接する途中に逮捕された当時、使臣団を率いたのは高麗出身の宦官の高龍普だった。すでに一度廃位になった経験もあり、異例に使臣たちが相次いで到着すると、これを疑い、接見を拒否しようとした。しかし、高龍普が「皇帝はいつも国王が不敬だと疑っているので、迎接しなければ皇帝の疑惑がさらに強くなるでしょう」と警告し、やむを得ず出向いて逮捕されてしまった。忠恵王の逮捕は征東行省で起きたし、詔書が朗読される間に国王を足で蹴飛ばして捕縛する一方、護衛兵と使臣団が互いに乱戦して槍剣に刺された者が続出するほどだった。落し穴に落ちた忠恵王が自分を呼ぶと、高龍普はむしろ彼に悪口を浴びせたという[15]
  • 配所へ出発する前に「お前は国王になったにもかかわらず民をひどく搾取したから、たとえお前の血を天下の犬たちに飲ませてもむしろ足りない。しかし朕は殺生を好きではないので、お前を掲陽に送るところ、朕を恨まずに立去れ」という順帝の諭示を受けた[16]

家族関係

[編集]

父母

[編集]

后妃

[編集]

後宮

[編集]
  • 禧妃尹氏(生年不詳-1380年)- 尹継宗の娘。禧妃尹氏の母の兄弟の閔忭は李氏朝鮮の第3代国王太宗の王妃の元敬王后の祖父。
  • 銀川翁主林氏(生没年不詳)- 林信の娘。
  • 和妃洪氏(生没年不詳)- 洪鐸の娘。

子女

[編集]

王子

[編集]
  • 忠穆王 - 母は徳寧公主。第29代王。
  • 忠定王 - 母は禧妃尹氏。第30代王。
  • 王釈器(生年不詳-1375年)- 母は銀川翁主林氏。忠定王の命令で出家(法名は丹陽)。謀反の疑いで処刑。民間の女性との間に息子を儲けたが、同様に処刑された。

王女

[編集]
  • 長寧公主(生没年不詳)- 母は徳寧公主。元朝の魯王の夫人。元が滅亡すると高麗に帰国して徳寧公主と共に暮らしたが、その後の行跡は不明である。

登場作品

[編集]
高麗王ワン・ユとして登場。

脚注

[編集]
  1. ^ サンスクリット語「बुद्ध श्री (Buddha Śrī)」に由来する。和訳すれば、「仏、吉祥」。
  2. ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王2年2月甲子条 「初、王以世子入朝、丞相燕帖木児見之大悦、視猶己子、因忠肅辭位、奏帝錫王命」
  3. ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王即位年閏7月庚寅条による。この時、忠恵王はエル・テムルに書簡を送り、高麗王室が他の国より先に大元ウルスに服属、藩屏としての義務を誠実に履行してきており、歴代の皇帝もこれを認めたことを強調している。
  4. ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王(後)即位年5月丙子条 「王遣大護軍孫守卿・全允藏、齎金銀及大頂兒如元、賂執事者、求復位。大頂兒乃仁宗皇帝賜德陵者也」
  5. ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王(後)即位年6月壬辰条によると、忠恵王から指示を受けた高麗朝廷の元老大臣たちが征東行省に復位の許可を要請する奏聞を上げ、その内容まで掲載された。
  6. ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王(後)即位年8月甲午条による。
  7. ^ 『高麗史』巻89 列傳2 后妃2 慶華公主 「……[忠粛]王薨、忠惠再宴公主于永安宮、公主亦邀忠惠宴。及酒罷、忠惠佯醉不出、暮入公主臥内。公主驚起、忠惠使宋明理輩扶之、使不動、且掩其口、遂蒸焉……」
  8. ^ 李貞信 『高麗忠恵王の行跡とその政治的立場』 韓国人物史研究会、2010年3月
  9. ^ 『高麗史節要』巻25 忠粛王(後)8年6月条 「瀋王暠如元、至平壌而止、陰與政丞曹頔有所謀也」
  10. ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王(後)1年1月辛未条 「元囚王于刑部……命中書省・樞密院・御史臺・翰林院・宗正府、雜問之」
  11. ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王(後)1年3月甲子条 「蔡河中自元來言、脱脱大夫奏于帝、釋王復位」
  12. ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王(後)4年8月庚子条 「李芸・曹益淸・奇轍等在元、上書中書省、極言王貪淫不道、請立省、以安百姓」
  13. ^ 『高麗史節要』巻25 忠恵王 叢書 「……性豪俠、好騎射、喜營財利、荒淫無度、群小得志、忠直見斥……」
  14. ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王2年2月甲子条 「……王與燕帖木児子弟、及回骨少年輩、飮酒爲謔。因愛一回骨婦人、或不上宿衛。伯顔益惡之、目曰撥皮……」
  15. ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王(後)4年11月甲申条による。
  16. ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王(後)4年12月癸丑条 「帝以檻車、流王于掲陽縣、諭王、若曰:爾王禎爲人上、而剝民已甚、雖以爾血啖天下之狗、猶爲不足。然、朕不嗜殺、是用流爾掲陽、爾無我怨、往哉」
忠恵王

1315年2月22日 - 1344年1月30日

爵位・家督
先代
忠粛王
高麗国王
第28代:1330年 – 1332年
次代
忠粛王
高麗国王
第28代(復位):1339年 – 1344年
次代
忠穆王

参考文献

[編集]