邪馬台国

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邪馬台国(やまたいこく / やまとこく)は、2~3世紀または1~3世紀[独自研究?]に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合の都があったと解されている。邪馬台国の所在地が九州近畿かは、21世紀に入っても議論が続いている。

概説

中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本稿でも「邪馬台国」と表記する。

倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。女王は魏に使節を派遣し親魏倭王封号を得た。狗奴国との戦いがあった時期とされる248年頃から間もなく卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。

なお、倭人伝中に出現する表記上は、「邪馬台国」は1回に過ぎず、「女王国」が5回を数える。 邪馬台国と後のヤマト王権の関係、邪馬台国の位置については諸説ある。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについても諸説がある。

「魏志倭人伝」中の“邪馬台国”

以下は「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国の概要である。

道程

魏志倭人伝には、の領土で朝鮮半島北部ないし中部に当時あった郡[注釈 1]から邪馬台国に至る道程が記されている。

倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里

始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴國百里 官曰馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸

東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家

南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡

其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王

自郡至女王國 萬二千餘里

対海国一大国末廬国伊都国奴国不彌国投馬国、邪馬台国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。位置については畿内説と九州説が有力とされる(#位置に関する論争を参照)。道程についても「連続説」と「放射説」がある(#道程に関する論争を参照)。位置や道程の比定をめぐっては論争が起きてきた(#邪馬台国に関する論争を参照)。

その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国[注釈 2]があり、邪馬台国はこれら20数カ国を支配していた[要出典]が、女王国の南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった。

倭地、女王国の地理

女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種

又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里

又有裸國 齒國復在其東南 船行一年可至

參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里

倭地、女王国について説明があり、「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周して戻って来るのに[要出典]五千里ばかりである。」とある[注釈 3]。女王國から東に1,000里ほど海を渡れば、また倭種の国があることや、その倭種の国からは南に、小人の国である侏儒国があるがこの地は女王国からは4,000里である、などと説明されている。それとは別にまた船行一年にて行ける所として裸国と黒歯国があった。

政治

收租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之

租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、市場が各地に開かれ、「大倭」[注釈 4]にこれを監督させていた[注釈 5]

自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

A)女王国より北の諸国には特に一大率という官が置かれ、諸国を監視し、伊都国で治めていた。B)中国でいう刺史[注釈 6]のようなもの(如刺史)もあった。C)王が魏の都、帶方郡、韓の国々に使者を派遣するさいや、郡の使者が倭国に来たさいは、皆が港に臨んで伝送文書と贈物を披露し照合して女王に送っていたので間違いは起きない。(一大率と如刺史を別のものとしてこのABCを3ヶ条の別々にする読み方と、一大率と如刺史は同じものとみてABとCに分ける読み方、一大率と如刺史を別のものだがCは如刺史の説明としてAとBCに分ける読み方、一大率と如刺史は同じものとしてABCすべて一つのまとまりに受け取る読み方との4通りの読み方がありうる。)

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

倭国には元々は男王がいたが、70-80年くらい男王の時代が続いた後[注釈 7]、5年か6年ほど続いた戦乱[注釈 8]があって、女子を共立し王として、卑弥呼と名付けた。

女王は鬼道によって人心を掌握し、既に高齢で夫は持たず、弟が政治を補佐した。卑弥呼は1,000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、巡らされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来、人と会うことはなく、一人の男子[注釈 9]が飲食の世話や取次ぎをしていた。

卑弥呼に関する「鬼道」という言葉から、これを「呪術カリスマ」とみて、卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)のような人物であり、邪馬台国は原始的な呪術国家とする見方がある[注釈 10]一方、呪術カリスマとみるには否定的な見解[注釈 11]もある。

また、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治(ヒメヒコ制)とする見方もある[注釈 12]

卑彌呼以死 大作家 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後、男王が立てられたが、人々はこれに服さず内乱となり1,000人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女だった壹與(臺與)が王に立てられた。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。

魏・晋との外交

「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。女王は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)には、使者が狗奴国との紛争を報告しており、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。詳細は以下の通り。

  • 建安年間(196年-220年)公孫康屯有県以南の荒地の一部に帯方郡を置いた、後漢の遺民を集めるため公孫摸張敞などを派遣し兵を興して韓とを討伐したが、後漢の旧民は少ししか見い出せなかった。この後、倭と韓は帯方郡に服属した。
  • 景初2年(238年)、魏の明帝は劉を帯方太守、鮮于嗣を楽浪太守に任じ、この両者は海路で帯方郡と楽浪郡をそれぞれ収めた(『三国志』魏書東夷伝序文)。
    • 6月[注釈 13]または景初3年(239年)6月女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。
    • 12月、悦んだ魏の皇帝(景初2年だとすると明帝(12月8日から病床、27日の曹宇罷免の詔勅も直筆できなかった。-『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)景初3年だとすると曹芳)は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。
    • 8月23日帯方郡楽浪郡を支配していた公孫淵司馬懿により斬首される。
    • 帯方郡と楽浪郡が魏に占領される[1]
    • 景初3年(239年)春正月丁亥日(1月1日)明帝崩御(『三国志』魏書明帝紀)。
  • 正始元年(240年)帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。
  • 正始4年(243年)12月、女王俾彌呼は魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。
  • 正始6年(245年)皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
  • 正始6年(245年)帯方太守弓遵と楽浪太守劉茂は嶺東へ遠征してを討った後、郡内の韓族が反乱して崎離営を襲ったため、軍を出して韓族を討ち滅ぼしたが弓遵は戦死した。
  • 正始8年(247年)女王は太守王に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
  • 女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

また魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。

この後、『日本書紀』の「神功紀」に引用される『晋書』起居註に、泰始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。この女王は壹與で、魏に代って成立したの皇帝(武帝)に朝貢したと考えられている。

言語

魏志倭人伝 には31の地名(「倭」を含む)と14の官名、そして8人の人名が出てくる。これら53の音訳語は日本列島で用いられた言語の最古の直接資料である。これら3世紀以前の邪馬台国の言語の特徴は8世紀(奈良時代)の日本語の特徴と同じであることが、森博達氏らによって解明されている[2]。その特徴とは

  • 1. 開口音節(母音終わり)を原則とする。
  • 2. ア行は原則として頭音にくること、つまり二重母音は回避されること。
  • 3. 頭音には原則としてラ行が来ないこと。
  • 4. 頭音には原則として濁音が来ないこと。

などである。こうした特徴が見出されることは現代日本語の基礎が邪馬台国時代にすでに形作られていたことを物語る。二重母音回避の規則性に従えば「邪馬台」を「ヤマタイ」と発音することは回避され、「ヤマト」あるいは「ヤマダ」等に発音されることになる。

風俗

魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されているが、2ヶ所に分けて書かれており、両者間には重複や矛盾があるため、系統の異なる原資料をつなぎあわせたとみる説や、この2ヶ所の習俗記事は、邪馬台国と狗奴国の風俗が別々に書かれているのであって、南方系の習俗は邪馬台国のものでなく狗奴国のものだとする説[3]がある。

以下は便宜上その2ヶ所を区別せず列記する。

  • 男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。
  • 籩豆(たかつき)を用い、手で食べる。(を使用していない)
  • 男子は冠をつけず、髪を結ってをつくっている。女子はざんばら髪。
  • 着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
  • 兵器は、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。(和弓#歴史参照)
  • 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
  • 人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
  • 倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
  • 特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
  • 長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
  • 女は慎み深く嫉妬しない。
  • 盗みは無く、訴訟も少ない。
  • 法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
  • 宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。

邪馬台国のその後

3世紀半ばの壹與の朝貢を最後に、義熙9年(413年)の倭王讃による朝貢(倭の五王)まで150年近く、中国の史書から倭国に関する記録はなくなる。このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。邪馬台国とヤマト王権との関係については諸説ある。

名称・表記

現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」と書かれている。『三国志』は晋の時代に陳寿(233-297)が編纂したものであるが、現存する刊本で最古のものは、12世紀の宋代の紹興本(紹興年間(1131年 - 1162年)の刻版)と紹煕本(紹煕年間(1190年 - 1194年)の刻版)である。一方、勅撰の類書でみると、宋代の『太平御覧』は成本が10世紀で現存の『三国志』写本より古いが、『三国志』を引用した箇所をみると「邪馬臺国」の表記が用いられている。

『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。これらの正史は、現存の宋代の『三国志』より古い写本を引用している。

日本漢字制限後の当用漢字常用漢字教育漢字では、「壹」は壱か一にあたる文字(ただし通常は壱で代用する)であり、「臺」は台にあたる文字である。

表記のぶれをめぐっては、11世紀以前の史料に「壹」は見られないため、「壹」を「臺」の版を重ねた事による誤記とする説[注釈 14]のほか、「壹與遣,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣,」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いず「壹」を用いたとする説[4]などがある。

発音

邪馬臺(台)國(国) 秦 漢 ʎia mɔ dʰəɡ kwək 魏  jia ra əї ək  隋 jia ma dʰɑ̆i  kuək 現代 Xié ma tái guó 実際にはさらに複雑多岐で時代や地方で発音が異なる上に忘れ去られたと考えられる発音もある。

「邪馬壹國」と「邪馬臺国」の表記のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではないかとする説がある。これは、邪馬台国と同じく「魏志倭人伝」に登場する対馬國を対馬,一支國を壱岐,末廬國を肥前國松浦郡といったふうに発音の近さを手掛かりの一つとしてあてはめるのと同様に、邪馬台国も発音から場所をあてはめようとするものである。新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いていることから、白石は「邪馬台」を「やまと」に近い音と想定してその場所を比定したと考えられている。

「邪馬壹國」の表記から、三世紀の音符は【 】(つくり)にあり【 壹 】の旁は【 豆 】であって「登」あるいは「澄」と同様に「と」と発音されていたして、「やまと」と読む説もある[注釈 15]

なお、『隋書』『北史』は、邪馬臺国の発音に関する記述(邪靡堆、邪摩堆)があるが、堆は過去にも現在にも「壹」(イ)の音には発音しない[5]

現在「邪馬台国」は一般に「やまたいこく」と読まれる。この「やまたいこく」という読みであるが、これは二種の異なった体系の漢音呉音を混用している。例えば呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなることから、「魏志倭人伝」の書かれた当時の中国における音が「やまたい」であったとは考えにくい。[独自研究?]

邪馬台国に関する論争

日本における邪馬台国への言及は、『日本書紀』卷第九神功皇后摂政三九年、四十年および四十三年の注に「魏志倭人伝」から引用があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述となっていることが嚆矢である。[注釈 16]。なお、一般に「魏志倭人伝」の名称で知られるのは『三国志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷伝の一部分で(参照→Wikisource)、以降に書かれた中国の正史もしくはそれ以外の史書にも、この「魏志倭人伝」に由来すると思われる記事が少なくない。

史料によって漢字の表記方法にぶれがある上、「やまたいこく」と読むべきか否かも統一的な理解はなく、その場所や大和朝廷との関係についても長期的な論争が続いている。

古くは邪馬台国は大和の音訳として無条件に受け容れられており、この論争が始まったのは江戸時代後期である。 新井白石が「古史通或問」において大和国説を説き、「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。 その後、国学者の本居宣長は卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国としながらも「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から「馭戎概言」において、九州熊襲による偽僭説を提唱した。大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである。これ以来、政治的意図やナショナリズムを絡めながら、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。この論争は、すなわち、正史としての『日本書紀』の記述の信頼性や天皇制の起源に影響するものである。漢委奴国王印とともに、一般にもよく知られた古代史論争である。

位置に関する論争

厳密に「魏志倭人伝」の行程どおりに素直に距離と方角を辿ると邪馬台国は太平洋のど真ん中に行きつく[6]。ゆえに、白石も宣長もさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内」(内藤湖南ら)と「九州」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし九州説には、邪馬台国が“畿内に移動してヤマト政権となった”とする説(「東遷説」)と、邪馬台国の勢力は小さく“畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされた”とする説がある。

考古学的見地からは、高橋健自、笠井新也らを嚆矢として畿内説支持者が多い。1960年代頃に一時的に、邪馬台国の時期の実年代を弥生後期とする考え方が広まり考古学が九州説を下支えするかに見えたが、現在は考古学的年代決定論により、これを弥生終末から古墳初期とする年代観が定説となっている。[7] この畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち「ヤマト王権」がこの時期既に成立しているとの見方ができる。

連続式と放射式

  • 「連続説」(連続読み)- 「魏志倭人伝」に記述されている順序に従って方角を90度読み替えたり距離を修正しながら比定していく読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国対海国一大国を経て北部九州に上陸し、末廬国伊都国奴国不弥国投馬国・邪馬台国までを順にたどる説。
  • 「放射説」(放射読み) - 榎一雄の説[8]。伊都国までは連続読みと同じだが、その先は距離を修正しながら伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点に読んでいく説。
  • 同じ「放射式」だが伊都国ではなく末廬国を起点とする説。
  • 伊都国を起点とする放射式だが、不弥国への行程だけは伊都国からでなく奴国から連続して読む説。言い換えると、邪馬台国までの「連続式」の行程とみて奴国と投馬国の二つの「傍線行程」(支線)があると解釈するもの[9]

ここで注意すべきことは、連続式の読み方だと畿内説をとることが多いが、連続式を採ったからといって必ずしも九州説が成り立たないわけではなく、まったく逆に、放射式の読み方は九州説に多いが、畿内説でも「放射説」で説明するものもいるということである。つまり読み方の違いは畿内説か九州説の決め手にはなっていない。

距離の計算

「魏志倭人伝」の距離(里数)が大雑把に約5倍に誇張されているという問題については、当時の戦争で兵力を10倍に誇大宣伝する例が多いことから、これも公孫氏を滅ぼした魏軍が帯方郡を接収した当時の軍事報告に基づいたためという説[10]、魏がを地理上挟み撃ちにできるとして威圧する目的で、実際より南の呉の近くにあるように見せかけるため都合よく書き換えたという説[11]曹爽の功績である「親魏大月氏王」の距離と、曹爽の政敵の司馬懿の功績である親魏倭王の距離のバランスをとるため誇張したという説[注釈 17]、などがある。

宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、有利となる場所の相互間のみで変化があるだけで連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではないことから現在ではこの点に関しては問題とはされていない。

短里説

距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説である。

古田武彦は、魏・西晋時代時代には周王朝時代に用いられた長さに改められたとした。[要出典]これを傍証するように、生野真好による『三国志』全編の調査では、「短里」で記述されていると思われる記述は「魏志」と「呉志」の一部に集中しており、「蜀志」には全く見られない。また、「魏志」のうちでも後漢から魏への禅譲の年である西暦220年より以前の記事には「短里」での記事は見当たらず、220年以後の「魏志」に集中して現れる。これは、三国志が「蜀志」については、漢の伝統を守っていたことを陳寿はそのまま記したものと思われる。[要出典]これを「魏朝短里説」という。しかし220年以後の記述であっても通説どおりの里で解釈して問題ないばかりか、魏が単位改訂したという記録もないため、「魏王朝=短里」という構図は成立しない。

これに対して安本美典らの説では「短里は東夷伝の三韓条と倭人条のみに見られ他の箇所では存在しない」として、魏朝の制度ではなく、倭韓の地に周の古い度量衡が残存した可能性を示唆している。が、実際は中華中原に関わる部分にも頻出する[要出典]

短里説への反論としては「魏志倭人伝」では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里、一大國から末盧國(松浦半島)までが千里とあり、これらはおおよその数値(1,000里ぴったりではなく「約」千里)であるから、実際の距離と比べると1里は一律には短里説のいうような特定の数値とはならず、あくまで全体の平均値として短里に近づくだけである。白鳥庫吉も指摘するとおり郡から狗邪韓国までの実距離と比較しても局所的には一里の値が一定しないため「短里」の想定自体に無理があるとの説もある。

邪馬台国畿内説

邪馬台国畿内説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が、下記の理由により有力とされる。

  1. 考古学的年代決定論の成果により、その始期や変革期が倭人伝の記述と合致する遺跡であることが確実視されるようになったこと。[12]
  2. 吉備、阿讃播など広範な地域起源の文化に起源を求めうる前方後円墳が大和を中心に分布するようになり[13]、時代が下るにつれて全国に広がっていること(箸墓古墳ほか)。
  3. 北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。[14]
  4. 卑弥呼の遣使との関係を窺わせる景初三年、正始元年銘を持つものもある三角縁神獣鏡が畿内を中心に分布していること。[15][注釈 18]
  5. 弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち12枚は235年-244年の間に収まって銘されており、かつ畿内を中心に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる時代であったことを物語る。
  6. 日本書紀神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けている。中国の史書においても、『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現していること。また、正しい地理観に基づいている『隋書』では、都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。すなわち「魏志」がすべて宋時代の刊行本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある[注釈 19]

逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。

  1. 倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土[要出典]する。ただし、畿内説は北部九州がすでに倭国の一部であるとする説なので、これを弱点と認識していない。
  2. 弥生後期までの銅鏡や刀剣の出土量は北九州のほうが圧倒的に多い。ただし、邪馬台国が魏と通交した弥生終末~古墳初期にかけてはこれが逆転する時期とされている。
  3. 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗がかなり南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること。
  4. 「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然。ただし郡使は北部九州に所在する伊都国に常に「駐」したと倭人伝にあるので、北部九州の小国に関する記述ばかりが詳しいことに不思議はないという反論がある。
  5. 一大率は北部九州に所在する伊都国に常に「駐」したと倭人伝にあり、畿内から伊都国まで大きな距離があるのが不自然。ただし、後世でも北部九州に太宰府が存在したように、遠方を統治するには一大率は考えうる合理的なシステムであり、遠方に向かうためには中途で「駐」するのは当然であるという反論がある。
  6. 「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北九州の国より南側にあること。[注釈 20]

かつて、畿内説の重要な根拠とされていたが、今は重要視されていない[要出典]説は以下である。

  1. 三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説 - しかし、既に見つかったものだけでも400枚以上になること、中国社会科学院考古学研究所長王仲殊が「それらは漢鏡ではない」と発表したことなどから、九州説の側からは「三角縁神獣鏡は全て倭で作られたもので、卑弥呼の鏡ではない」との議論が提案された。なお2015年に中国において三角縁神獣鏡が発見された事から、少なくとも漢鏡ではないとする前提条件は覆っている。
  2. 邪馬台国長官の伊支馬(いしば)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説 - 大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。

邪馬台国九州説

邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など、ほとんど九州の全域に渡って諸説が乱立している。 その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[注釈 21]。 一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある[注釈 22]現代では古田武彦などによる九州王朝説がある[注釈 23]

邪馬台国が九州にあったとする説は、以下の理由等による。

  1. 帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること[注釈 24]
  2. 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること[注釈 25]

逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

  1. 12,000里の残り1,500里では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとする説は当時の中国で実際用いられていた度量衡と矛盾するばかりでなく、逆に当時の中国の度量衡に照らせば1,500里は北部九州から畿内までの距離に近いこと
  2. 魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくいこと[注釈 26]
  3. 奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは、大月氏国が10万戸の人口40万人、また考古学では当時の日本の人口が百数十万人とされている事などから、考えにくいこと[注釈 27]
  4. 中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。
  5. 古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、現在は否定されており、ことに年輪年代学放射性炭素年代測定などの結果では3世紀中葉に遡るという結果が出ていること[16]
  6. 3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随していた。しかし、2015年に三角縁神獣鏡が中国において発見されたため、少なくとも日本で製造されたという説は否定される事となった[17]
  7. 旅程記事について、通常の連続読みでは九州内に収まりきらないので、放射線式の読み方に従うにしても、次のような難点がある。
    1.  畿内説の中にも放射式の読み方を採用している論者がいるので、これ自体は九州説の決め手ではない。
    2. 放射線式読み方が正当化されるには、「到」「至」の使い分けがされているときは、そのように読むべきであるという当時の中国語の決まりがなければならないが、魏志倭人伝の内容をほぼ引き写している梁書では、そのような使い分けはされておらず、使い分けに特別な意味があったとは思えない。
    3. 仮に放射線式の読み方を受け入れると、邪馬台国は伊都国の南水行十日陸行一月の行程にあるが、これを九州を大回りして水行し南下する意味に捉えたとしても、邪馬台国の位置は中南部九州内陸に求めることとなり、後の熊襲の地に邪馬台国があることになる。そしてさらにその南に狗奴国が存在することになる。したがって比較的支持者の多い北九州内には到底収めることはできない。

かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。

  1. 近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載された道具であり、『日本書紀』にも著される(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説。
    しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」内で銅鐸や銅鐸の鋳型が出土するといったことが増えたことから、今では否定的に見られている。
    また、「倭人伝」の記載は、祭祀について触れられたものではないこと、6世紀以前は3種ではなく、多種多様な祭器が土地それぞれで使用されていたことも九州説では重要視されない理由として挙げられる。
  2. 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していること[注釈 28]
論者

邪馬台国九州説を唱える論者には、新井白石白鳥庫吉和辻哲郎[18]田中卓[19]古田武彦鳥越憲三郎[20]若井敏明[21]石原洋三郎(邪馬台国=高天原説)らがいる。

九州説が依拠することの多い記紀などの国内資料については、坂本太郎『国家の誕生』や原秀三郎らの指摘にも関わらず、近年とみに考慮されなくなっている傾向があるといわれ、若井敏明はこうした傾向について、戦前に弾圧された津田左右吉の学説が戦後一転してもてはやされたことに起因するとして批判している[22]

邪馬台国東遷説

九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷して畿内に移動したという説。東遷説には、この東遷を神武東征天孫降臨などの神話にむすびつける説と、特に記紀神話とは関係ないとする説の両パターンがある。白鳥庫吉和辻哲郎[23]が戦前では有名であるが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され、栗山周一黒板勝美林家友次郎飯島忠夫和田清[24]榎一雄[25]橋本増吉植村清二市村其三郎坂本太郎[26]井上光貞[27]らによって論じられていた。久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「筑紫女王国(主都)」と「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「畿内邪馬台国(副都)」とを想定し両者は別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に主都を遷した(東遷した)のであるとした[28]。また大和岩雄も、九州にあった女王国とは「畿内をも含む倭国全体の首都」であって、女王壹與の代になってから畿内の邪馬台国へ東遷したが、それは倭国の勢力圏の内部での移動にすぎないとした(ただし神武東征や天孫降臨などの神話と関係づけることはしていない)。この他にも、森浩一中川成夫谷川健一金子武雄布目順郎奥野正男らが細部は異なるもののそれぞれの東遷説を論じていた。安本美典は現在でも精力的に東遷説を主張している一人である。

邪馬台国四国説

1970年代後半に出現した新しい説。近年では数多くの書籍で紹介されているが最初は郷土史家の郡昇が四国説を唱え著書を自費出版で行った[29]。その後古代阿波研究会が四国説を主張する[30]。著書『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』は多田至板東一男椎野英二上田順啓らが編集委員として名を連ねている。四国説を有名にしたのは日本テレビが製作した「いま解きあかす古代 史の謎!ついに発見!!幻の国・皇祖の地高天原」で四国説を主張したことによる。番組プロデューサーの山中康男は番組放送後の1977年、番組制作の取材結果を元に『高天原は阿波だった』(講談社)を出版した。1980年代にはNHK高知放送局が制作した「古神・巨石群の謎」の中で邪馬台国=四国土佐説を主張、土佐文雄が著書『古神・巨石群の謎』(リヨン社)を出版するに至る。他にも浜田秀雄大杉博林博章などが四国説を主張する著書を出版した[31]

畿内説・九州説との相違

古代阿波研究会や大杉博は畿内や九州では『魏志倭人伝』で紹介される邪馬台国までの行程では日数が合わない事、邪馬台国までの行程に合致するのは四国であること主張している[32]。しかし、遺跡がほとんどなく、四国説を主張する著者も「伊予」「阿波」「土佐」「東四国」「北四国」「四国山上」などと主張はバラバラで範囲が広大な点にある。また徳島市にある八倉比売神社の社殿裏手には卑弥呼の墓があるとの言い伝えがあるが発掘調査等は行われていない。


フィクションにおける邪馬台国

  • 手塚治虫の漫画『火の鳥 黎明編』(1967年)は邪馬台国を舞台としている。邪馬台国は九州にある倭の大国(火の鳥が棲む火の山が九州にあり、そこまで海を渡る描写がある)だったが、卑弥呼の死後に大陸から渡った騎馬民族に滅ぼされた。当時、一般に強い影響を与えた騎馬民族征服王朝説に立ち、騎馬民族の長のニニギが後の皇室の始祖と解釈している。この漫画は『火の鳥』のタイトルで1978年に実写映画化された。監督は市川崑、主演は高峰三枝子
  • 1974年篠田正浩監督、岩下志麻主演による映画『卑弥呼』が制作された。
  • 安彦良和の漫画『ナムジ』(1989年-1991年)は、ナムジ(おおなむち、すなわち大国主)を主人公に神話を独自解釈した作品。邪馬台国は九州にあり、スサノオ率いる強国出雲と敵対している。卑弥呼は天照大神に比定されている。続編の『神武』(1992年-1995年)は、卑弥呼の孫のイワレヒコが(政略結婚のため)畿内へ東征ヤマト王権の祖となる東遷説を採っている(市井の古代史研究者である原田常治の著書の影響を大きく受けている[33][34])。
  • 作・寺島優、画・藤原カムイによる漫画『雷火』(1987年-1997年)は、邪馬台国の乗っ取りを図る張政(魏から派遣された役人)とライカたちとの神仙術を駆使した戦いを描く作品。邪馬台国の場所は九州説を採用している。
  • 矢吹健太朗による漫画『邪馬台幻想記』(1998年-1999年、連載前の読みきり分を含む)。卑弥呼亡き後、その意思を継ぎ倭国統一を目指していた壱与(台与)と、国王を暗殺し国を滅ぼす「国崩し」を行っていた少年、紫苑との出会いと触れ合い、壱与を亡き者にしようと企む敵との戦いを描いている。短期打ち切りの為、様々な伏線を張っていたにもかかわらず、その伏線を回収することなく唐突な終り方をしている。上述雷火の強い影響を受けたと思われる作品。
  • 都築和彦による漫画『IZUMO』及び『やまとものがたり』では九州説を採用している。

脚注

注釈

  1. ^ ただし、郡とは景初2年(238年)の8月23日に公孫淵が殺されて以降に魏が占拠した朝鮮西海岸の帯方郡であると考えられる、『三国志魏書』の倭人伝にも帯方郡の記述しかなく韓伝にも「倭韓遂屬帶方」とあり、楽浪郡あるいは玄菟郡などの可能性はほとんどない。
  2. ^ 先に詳細が記されている奴国と同一とする説がある。
  3. ^ この周旋5,000里については、女王国までの12,000里から帯方郡から狗邪韓国までの7,000里を引いたもので、倭国領域内での行程を机上で算出したものにすぎないという説と、逆に女王国までの12,000里という数字の方が、韓内の行程7,000里と倭国周旋5,000里から作り出された観念的な数字にすぎないという説、どちらも根拠のある実数で合算が12,000里となるのは偶然とする説の3通りの説がある。
  4. ^ この場合の「大倭」とは倭人の中の大人(首長)の意とする説、邪馬台国が任命派遣した官とする説、大和朝廷のこととする説、「大倭王」の王の字が誤脱したとする説、などがある。
  5. ^ 使役の「使」を「便」の誤写として「便(すなは)ち大倭の之(こ)れを監ずるや…」として次の文の前に続けて読む説(平野邦雄)や、「使大倭」の3文字で一つの官名とする説(古田武彦)、「使委大人(大人に委ねしむ)」の誤写とする説(山田宗睦)などもある。
  6. ^ 刺史は大きな行政単位である州の巡察官のこと。原文の「於國中有如刺史」は「国中に(国内のあちこちに)刺史のようなものがあった」とも「倭国の中においては刺史のようなものである」とも読める。
  7. ^ 一人の王か、男王が何代が続いたのかは不明。
  8. ^ この戦乱は、原文では「倭国乱」だが、魏志倭人伝を改作した後漢書東夷伝では「倭国大乱」と「大」の字を付加して書かれている。また後代の史料になるが梁書ではこの戦乱を霊帝光和年間のこととしている。ただしこれは梁書が107年の倭国王帥升をここでいう男王に同定して机上で算出した年代にすぎず、光和年間説には史料的はないとする説(『新版・魏志倭人伝』講談社1986 山尾幸久)もある。
  9. ^ 政治を補佐していたというとは別人とする説と同一人物とする説とがある。
  10. ^ 卑弥呼の「鬼道」についての解釈としてはシャーマン説、五斗米道道教の源流の一つ)と関係があるとする説、五斗米道ではなく「邪術」とする説などがある。以上の諸説は、いずれの説をとるにしろ、社会学的には呪術カリスマの概念でとらえるものである。
  11. ^ 呪術カリスマと見ない説としては「鬼道」をありふれた漢語として単に祖先祭祀の意とする説や、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法があることから単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという説もある。
  12. ^ 後の推古天皇聖徳太子との関係が例として挙げられる。
  13. ^ この景初2年6月(司馬懿が遼東の公孫淵攻撃のため出発した月)は『梁書』と『日本書紀』引用文では翌年の景初3年になっている。2年だと未だ帯方郡は公孫淵の支配下で遣使は困難であることから3年説がやや有力ではあるが確定的ではない。2年説を支持する根拠としては、卑弥呼の遣使は2人で貢物が奴婢10人布2匹2丈と、かつての奴国の貢物奴婢160人と比べて粗末なものにも拘らず魏が邪馬台国を厚遇しているのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた事の功績が認められた為という観点から、公孫氏政権滅亡直前の景初2年の遣使が正確であるという説(古田武彦「邪馬台国」はなかった』 角川文庫 1977年)や、「魏志は倭人伝の前の東夷伝前半で、魏の母丘険の軍隊が沿海州から朝鮮半島の日本海側の玄菟郡故府方面に遠征していたことを語り、その記事の延長線上に倭人伝が書かれているため、朝鮮の西側の帯方郡と逆の東海岸に遣使した可能性があり、この場合、遣使困難とは言えない」という説、『日本書紀』引用文では3年としながら明帝ともあって矛盾しており3年が実は2年の誤記という方が明帝を誤写で書き入れたという想定よりは容易であるとの説、などがある。
  14. ^ 現存する版本は全て宋 (王朝)以後のものである。隋書では「邪靡堆」と国ではなく地域となっていることにも注意すべきであろう。
  15. ^ 古代中国語音の研究が進んだことにより、「邪馬臺国」も「jamatö」に近い発音となると考えられている[要出典]
  16. ^ 那珂通世は神功皇后と卑弥呼を同一人物とするこの日本書紀の記述を否定する。市村其三郎は『卑弥呼は神功皇后である』(新人物往来社、1972年)を著している。
  17. ^ 岡田英弘の説。『後漢書』によると洛陽から大月氏まで16,370里で洛陽から帯方郡までが5,000里である。よって帯方郡から邪馬台国までは最短でも11,370里以上はないと洛陽からの距離が同等もしくはそれ以上にならないので、12,000里に設定されたという説。
  18. ^ 九州説では銘入りの鏡を後世の偽作と見ている。
  19. ^ 九州説では、書紀の編纂に当たった当時の大和朝廷が、参照した中国の史書(魏書、後漢書など)にある古代国家の記述を書紀に組み入れたにすぎないとする。
  20. ^ これに対して、北九州の国々の行程を表記するにあたっても、すでに60度ほど南にずれているからもともと正確ではない、あるいは、倭国が会稽東冶の東海上に南に伸びて存在するという誤った地理観に影響されたものである混一疆理歴代国都之図[1]」の影響下にある地図には、日本を右回りに傾かせて描かれたものがある(「日本地図」の項目も参照のこと)などの意見がある。また方角の正しい地図は、現代において九州説が創作された時代以降のものしか確認されていないため、その方角の正しい地図の創作自体が、九州説創作の切っ掛けとなったという説もなされている。ただし混一疆理歴代国都之図については、15世紀に原図を作った朝鮮人が「行基図」を誤って右回りにはめ込んだにすぎず、古くからの地理観とはいえないと主張する説や、他に15世紀以前に日本を右回りに回転させたと証明できる地図が存在するわけでもなく、『隋書』では正しい地理観に基づいて行程を記述しているので、根拠とはしがたいという反論がある。
  21. ^ 後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多いが、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある。神武東征とは関係ないとする説もある。
  22. ^ 一部で誤解が流布しているが、江戸時代後期の国学者による「偽僣説」(九州勢力が朝廷を僭称したとする説。本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など)は九州勢力が独自に外交を行ったとはしているものの、あくまで「邪馬台国は大和、卑弥呼は神功皇后」であって、九州勢力はそれを僭称したのだという説である。
  23. ^ 日本列島を代表する王朝は一貫して九州にあり、白村江の戦い以降に衰亡したとする説。一部を除いて学術論文として発表された説ではなく、学会では議論の対象とされていない。
  24. ^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。九州王朝説を唱えた古田武彦は、「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱している。
  25. ^ 畿内説の中には狗奴国を東海地方とする説がある。この説では狗奴国を桑名加納[要曖昧さ回避]久努国造久能などの東海地方に当てる説、狗古知卑狗を菊川と関係付ける説がある。畿内説の内藤湖南は、彼が邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている。
  26. ^ 九州説ではに圧力をかけるための厚遇であったとする。また前述の古田武彦は、公孫氏政権からいちはやく魏に乗り換えた功績に対する厚遇であるとする。
  27. ^ もちろんこれらをそのまま信じていいのかには疑問もある。
  28. ^ 3世紀当時、すでに甕棺は稀にしか用いられていない。

出典

  1. ^ 『三国志』魏書東夷伝序文
  2. ^ 森博達「倭人伝の地名と人名」(『日本の古代1、倭人の登場』、中央公論社、1985)
  3. ^ 水野佑「狗奴国に関する魏志倭人伝の記載に就いて」(『史観』第五十一冊、昭和32年(1957年)12月)
  4. ^ ただし、『三国志』には「臺獄」という表記や死体を積み上げた塚を「臺」としている例があることから、これに反対する説もある。
  5. ^ 汪向栄『中国の研究者のみた邪馬台国』同成社、p.213。ISBN 978-4886214096
  6. ^ 岡本健一『邪馬台国論争』(講談社選書メチエ、1995年)p89に引く岡田英弘の説
  7. ^ 寺沢薫『弥生時代の年代と交流』吉川弘文館,2014.3 978-4-642-09334-7
  8. ^ 「邪馬台国の方位について」(『オリエンタリカ』1、1948年8月)
  9. ^ 「邪馬台国」はなかった
  10. ^ 孫栄健『邪馬台国の全解決』六興出版 よってこの説では里程は5倍でなく10倍になっているとする。
  11. ^ 『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』中公新書2012 渡邉義浩
  12. ^ 『纏向:奈良県桜井市纒向遺跡の調査』(奈良県立橿原考古学研究所編1976)など
  13. ^ 『日本列島における国家形成の枠組み』寺澤 薫(纏向学研究センター研究紀要2013所収)など
  14. ^ 寺澤 前掲など
  15. ^ 『三角縁神獣鏡の時代』(岡村秀典1999)など。
  16. ^ 理化学的年代に懐疑的な研究者も少なくない。年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていないためである。放射性炭素年代測定法にしても、測定資料をとることは遺物を損傷することでもあり機材も必要なので追試検証は行われない。
  17. ^ ただしこの発見についてはその真偽が論争中で今ここで早急に結論めいたことはいえない。
  18. ^ 大正9年『日本古代文化』
  19. ^ 若井敏明『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』吉川弘文館 ,2010年,7頁
  20. ^ 「大いなる邪馬台国」ほか
  21. ^ 若井敏明『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』吉川弘文館 ,2010年
  22. ^ 若井敏明『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』吉川弘文館 ,2010年,7-12頁
  23. ^ 大正9年『日本古代文化』
  24. ^ 1956年「東洋史上より観たる古代の日本」
  25. ^ 1960年に刊行された「邪馬台国」、日向起源説。
  26. ^ 『国家の誕生』
  27. ^ 1960年に刊行された「日本の歴史1 神話から歴史へ」の中で邪馬台国の東遷が最も自然な解釈とした。
  28. ^ 「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」『歴史における政治と民衆』1986年、「親魏倭王印とその歴史的背景」『日本印章史の研究』雄山閣、2004年)
  29. ^ 『阿波高天原考』(1975年)
  30. ^ 『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』(新人物往来社)
  31. ^ 『邪馬台国の結論は四国山上説だ-ドキュメント・邪馬台国論争』(たま出版1993年大杉博著書)
  32. ^ 『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』(新人物往来社)
  33. ^ 原田実『トンデモ日本史の真相 と学会的偽史学講義』文芸社、2007年6月。ISBN 978-4-286-02751-7 
  34. ^ ナムジ』1巻著者あとがき
邪馬台国論争関連

関連項目