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豊臣秀次

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豊臣秀次 / 羽柴秀次
豊臣秀次像/瑞泉寺蔵(部分)
時代 戦国時代室町時代末期) - 安土桃山時代
生誕 永禄11年(1568年
死没 文禄4年7月15日1595年8月20日
改名 治兵衛(幼名)、三好信吉、秀次、羽柴秀次、豊臣秀次
別名 別名:万丸[注釈 1]
通称:小一郎、孫七郎
渾名:殺生関白、豊禅閤
戒名 瑞泉寺殿前関白秀次入道高巌道意尊儀
墓所 京都市中京区木屋町三条下ルの慈舟山瑞泉寺
京都市左京区岡崎東福ノ川町の善正寺
和歌山県伊都郡高野町高野山の光台院裏山
官位 従四位下、右近衛権少将
右近衛権中将、参議、従三位
権中納言、正二位、権大納言
内大臣、関白、左大臣
主君 豊臣秀吉
氏族 木下氏宮部氏源姓三好氏豊臣姓羽柴氏
父母 父:三好吉房、母:日秀
養父:宮部継潤三好康長豊臣秀吉
兄弟 秀次秀勝秀保
正室:池田恒興の娘・若御前
継室:菊亭晴季の娘・一の台
側室:最上義光の娘・駒姫(お伊万の方)
他、下記を参照。
仙千代丸土丸
隆精院(真田信繁側室)、お菊
他、下記を参照。
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豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ) / 羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけてのの武将大名関白

豊臣秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の養子となる。通称は孫七郎(まごしちろう)。幼名は治兵衛(じへえ)。はじめ、戦国大名三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよし のぶよし)と名乗っていたが、後に羽柴秀次と改名する。なお「豊臣秀次」の読み方については、豊臣氏を参照のこと。

生涯

前半生

永禄11年(1568年)、豊臣秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀)と三好吉房(当時は木下弥助)の長男として生まれる。織田信長浅井攻めに際し、宮部継潤に養子として送り込まれた(浅井氏滅亡後に返還)。その後、信長が開始した四国攻めにおいて、秀吉が四国に対する影響力を強めるため、当時阿波国で勢力を誇っていた三好康長に養子として送り込まれ、三好信吉と名乗る。天正10年(1582年)6月の信長の死後、秀吉が信長の後継者としての地位を確立する過程において、秀吉の数少ない縁者として重用された。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参戦して武功を挙げた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加し、このとき「中入り」のため三河国への別働奇襲隊の総指揮を執ったが、逆に徳川家康軍の奇襲を受けて惨敗し、舅である池田恒興森長可らを失い、命からがら敗走する。このため、秀吉から激しく叱責された。この時期、羽柴秀次と名乗る。[1]

天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻めでは秀長と共に副将をつとめ千石堀城の戦いで城を落とし、四国平定でも副将として3万を率いて軍功を挙げた。このため、近江国蒲生郡八幡山城(現在の近江八幡市)に43万石を与えられた(うち、23万石は御年寄り衆分)。領内の統治では善政を布いたと言われ、近江八幡には「水争い裁きの像」などが残り逸話が語り継がれている。これは田中吉政など家臣の功績が大きいとも言われているが、悪政を敷いた代官を自ら成敗したり名代を任せた父の三好吉房について「頼りない」と評価するなど主体性を発揮した面も伝わっており、吉政らの補佐を受けつつ、徐々に彼らを使いこなすに至ったというのが実像であろう。

九州の役では京都の守りに残ったが、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、山中城攻撃では大将となり城を半日で陥落させた。戦後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張国伊勢国北部5郡などに100万石の大領を与えられた。天正20年(1592年)「御家中人数備之次第」に家臣団構成が記されており、御馬廻左備(牧主馬などが属す)などの組織名が記録に残っている。同書には御馬廻右備219人の組頭として大場土佐、御後備188人の組頭として舞兵庫の名が記されている。

天正19年(1591年)奥州に出兵し、葛西大崎一揆及び九戸政実の乱鎮圧においても武功を挙げた。

最期

瑞龍寺の山門(八幡山城の虎口跡,秀次の居城)

天正19年(1591年)8月に秀吉の嫡男・鶴松が死去した。秀次は11月には秀吉の養子となり、12月に関白に就任。同時に豊臣氏の氏長者となった[2]。すでに天正14年(1586年)11月には、豊臣の本姓を、秀吉から授与されていた。[3]

関白就任後の秀次は聚楽第に居住して政務を執ったが、秀吉は全権を譲ったわけではなく、二元政治となった。その後、唐入りに専念する秀吉の代わりに内政を司ることが多かった。

しかし文禄2年(1593年)に秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになる。秀頼と秀次の娘を婚約させるなど互いに譲歩も試みられたが、結局文禄4年(1595年)7月8日、秀吉の命令で高野山に追放され、出家した。以降、出家した元の関白=禅閤となり、豊臣の姓から豊禅閤〈ほうぜんこう〉と呼ばれた。同年7月15日に切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて死亡。享年28。辞世は、「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。

死後、秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清され、秀次の首は秀吉によって京都の三条河原に曝された。遺臣の多くは石田三成前田利家、徳川家康らに仕えた。

秀次事件

豊臣秀次像/瑞泉寺
秀次の下に殉死した玄隆西堂、山本主殿、不破万作、山田三十郎、雀部淡路守を配す

文禄4年(1595年)、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられた。7月3日、聚楽第に居た秀次のもとへ石田三成前田玄以増田長盛の3名の奉行の他、宮部継潤富田一白(奉行代行)の計5名が訪れ、秀次に対し高野山へ行くように促した[4]。 7月8日に秀次は謀反についての釈明の為に、秀吉の居る伏見城へ赴くが、福島正則らに遮られ、対面することが出来ず、同日高野山へ入り、それから1週間後の15日に秀次の許へ正則らが訪れ、秀次に対し秀吉から切腹の命令が下ったことを伝えられ、同日、秀次及び秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた人々が切腹することになった[4]。 秀次は雀部重政介錯により切腹し、そして重政と東福寺の僧・玄隆西堂も切腹した[4](仏教寺院内で五戒の一つである殺生を行うことは異例である)。 秀次及び同日切腹した関係者らの遺体は青巌寺に葬られ、秀次の首は三条河原へ送られた[5]

そして、8月2日9月5日)には三条河原において、秀次の家族及び女人らも処刑されることになり、秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び側室侍女ら併せて39名が処刑された[5]。約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、その遺体は一箇所に埋葬され、その埋葬地には秀次の首を収めた石櫃が置かれた[5]。その後、秀次ら一族の埋葬地は慶長16年(1611年)、豪商の角倉了以によって再建されるまで、誰にも顧みられることなく放置されていた[5]畜生塚)。なお、秀次に関連した大名は監禁させられ聚楽第も破却された。

ただし、秀次の妻子が皆殺しにされたわけではない。豊臣十丸の祖母北野松梅院は死を免れている。直系の親族では、淡輪徹斎隆重の娘・小督の局との娘で生後一ヶ月であったお菊は祖父の弟の子の後藤興義に預けられ、後に真田信繁の側室・隆清院となった娘とその姉で梅小路家に嫁いでいた娘の同母姉妹も難を逃れている。

この秀次ら一族処刑に関して、その経緯を記した絵巻「瑞泉寺縁起」が京都の瑞泉寺に残されている[6]

粛清の理由

秀次粛清の理由において、次のような説が上げられている。

  • 実子である秀頼の後継を確実なものとし、秀次の子孫を根絶やしにして直系継承を守るため。
  • 秀頼誕生後から酒色に溺れ、女狂いになったなどの奇行説(→後述)。
  • 秀頼の生母・淀殿と「近江派」の吏僚・石田三成らによる陰謀説(ただし、武功夜話によると、三成は秀次の無罪を主張していたという説もある)。両者は秀吉に秀次の素行調査を命じられ秀吉に報告している。
  • 淀殿が大野治長と密通していた事実を知り、逆にそれを知った淀殿が逆上し、秀吉に讒訴した。
  • 菊亭晴季の娘(一ノ台・秀吉の側室であったが病を得たため暇を出され親元に帰された)を見初め、晴季と相談し秀吉に黙って継室としたが、石田三成の讒言で秀吉がそれを知り、嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したとする説[7]

秀次事件の影響

どのような所業であれ、一度出家した者に切腹を要求する事自体当時としても考えられないことであった。それに輪をかけて切腹を受け入れたにもかかわらず首を晒し一族郎党を処刑するという、当時の日本の倫理観と社会常識に照らし合わせても悪逆無道ともいえる仕置は、豊臣政権内外に大きな禍根を残した。

藤木久志は政権内部の対立が秀次事件を機として、さらに深化を遂げたと評している[8]

また、秀次事件に関係し秀吉の不興を買った大名は総じて関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属することになる。笠谷和比古は、朝鮮出兵をめぐる吏僚派と武断派の対立などとともに、秀次事件が豊臣家及び豊臣家臣団の亀裂を決定的にした豊臣政権の政治的矛盾のひとつであり、関ヶ原の戦いの一因と指摘している[9]

秀次は秀吉晩年の豊臣家の中では唯一とも言ってもよい成人した親族であった。しかし、秀次とその子をほぼ殺し尽くしたことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となった。ただしその一方、後継者が確定しないなかで秀吉が死去した場合、覇権を巡り秀頼と対立し豊臣家内の分裂を引き起こした可能性もある。

秀次切腹の主な連座者

切腹
その他
難を逃れた主な人物

秀次の家臣・与力大名等

その他の人物

最上、細川、伊達らは徳川家康の取り成しで事なきを得た。

風評

事件直前の秀次は比叡山での鹿狩り[10]、嗜好殺人などの非道行為(盲人を辻斬りにした)を繰り返したとの風評があり、「殺生関白」(「摂政関白」の韻に掛けた創作)の異名をとった[注釈 3]という。

人物

八幡公園内に建つ豊臣秀次像
  • 秀次は通説として凡庸・無能な武将として評価されることが多いが、秀次の失敗は小牧・長久手の戦いの敗戦の一度だけであり、その後の紀伊・四国攻め、小田原征伐での山中城攻め、奥州仕置などでは武功を上げ、政務においても山内一豊堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなしていることを考慮すると、そこそこの力量はあり、文武両道の人物だった。
  • 秀次事件のとき、秀吉譜代の家臣である前野長康、さらには木村重茲(しげこれ)、渡瀬繁詮など多くの人物たちが秀次の無罪を主張して弁護していることから、秀次は諸大名から人望があったものと思われる。
  • キリスト教宣教師たちは秀次を「この若者は伯父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった[11]」「穏やかで思慮深い性質である」などと記している(ルイス・フロイス「日本史」など)。この点からも巷説の「殺生関白」は実像だったか疑問がある。キリスト教についても理解を示し、キリシタンであったのではないかとする研究者もいる。
    • 秀吉と同じく男色を嫌っていた[12]
  • 秀次は古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもあった。学問の上達ぶりを賞賛する公家の手記も現存する。一方、在野の学者である藤原惺窩などは秀次を低く評価し、「学問が穢れる」と相手にしなかったと言われている。ただし藤原惺窩の父・細川為純は秀吉によって見殺しにされているため、秀吉の養子である秀次をあえて酷評した可能性も否定できない。
  • 武術については、疋田景兼より剣術槍術を学んだほか、長谷川宗喜片山久安からも剣術を学んだとされ、切腹の際の介錯ができるだけの腕前があったという。刀剣の鑑定も行っていた形跡もある。このほか吉田重氏から日置流弓術を、荒木元清からは荒木流馬術も学んでいた。剣術試合を見世物として楽しみ、聚楽第で兵法者の真剣での試合を催すことがあった。秀次所用と伝わる「朱漆塗矢筈札紺糸素懸威具足」が、サントリー美術館に所蔵されている(サントリー美術館コレクションデータベースに画像と説明あり)。
  • 古典の収集に励み、これを保護した。小田原征伐後、奥州に赴いた秀次は中尊寺大蔵経を収集し、これを持ち帰った。このほかに、足利学校金沢文庫の書籍をも、持ち帰っている。また、収集した日本紀日本後紀続日本後紀文徳実録三代実録類聚三代格実了記百練抄などを朝廷に献じている。

系譜

父母
兄弟
妻子[13]

官職位階履歴

※日付=旧暦

  • 天正13年(1585年)10月、従四位下右近衛権少将に叙任。
  • 天正14年(1586年)右近衛権中将に転任。11月25日、参議に補任。右近衛権中将如元。
  • 天正15年(1587年)11月22日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。新中納言と称される。その後、近江中納言あるいは、江州中納言とも称される。
  • 天正16年(1588年)4月19日、従二位に昇叙。権中納言如元。この時期、清華家の家格に列す。
  • 天正19年(1591年)2月11日、正二位に昇叙し、権大納言に転任。12月4日、内大臣に転任。12月28日、関白宣下。内覧宣下。豊臣氏長者宣下。内大臣如元。
  • 文禄元年(1592年)1月29日、左大臣に転任。関白・内覧・豊臣氏長者如元。
  • 文禄4年(1595年)7月8日、出家。 7月15日、没す。

秀次の特殊な偏諱

大名の常として、秀次も有力な家臣の子などに偏諱(へんき)を授けている。偏諱を受けたと思しき武将には田中吉次織田長次増田盛次らがいる。秀次の偏諱は他の武将と異なり、下偏諱を諱の下の字として与えるという変わった形態を取っている。

墓所と供養

慈舟山瑞泉寺境内にある秀次墓石
墓所

京都市の慈舟山瑞泉寺に豊臣秀次の五輪の塔と、処刑された者の墓がある。墓所は妙慧山善正寺にある[注釈 4]。 また秀次が切腹した高野山にも墓所がある。

供養

豊臣秀次の命日の7月15日には、村雲門跡瑞龍寺住職により、八幡山(滋賀県近江八幡市)で供養が行われる。

注釈

  1. ^ 秀次の幼名は治兵衛が正しいとされ、万丸は他家に養子に出すにあたって創作された名だと推定される。
  2. ^ 六角氏綱の子孫が六角氏の家督を継いだとする佐々木哲の異説に基づく。通説ではそもそも六角義郷が大名として所領を得ていたとは考えられていない。
  3. ^ 『伴天連見聞録 殺生関白行状記』。秀次は刀剣の鑑定を行っていたほか、若江八人衆塩川志摩守・高野越中守に命じて水野孫作を上意討ちにしており、こうした事件が歪められて伝わったものと考えられる。
  4. ^ 秀次の首塚と母日秀の墓がある。

脚注

  1. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』p.27
  2. ^ 三鬼、10p
  3. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』p.34
  4. ^ a b c 『太閤秀吉と豊臣一族』p.5
  5. ^ a b c d 『太閤秀吉と豊臣一族』p.6
  6. ^ 『太閤秀吉と豊臣一族』p.1
  7. ^ 川角太閤記
  8. ^ 藤木『織田・豊臣政権』『天下統一と朝鮮侵略』p.358
  9. ^ 笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』『関ヶ原合戦』
  10. ^ 秀次の鹿狩りが正親町天皇喪中に行われたという説もある(『太閤秀吉と豊臣一族』p.7)
  11. ^ 完訳フロイス日本史4・第19章(第二部103章)「暴君が博多から大坂へ帰った後に生じたことについて」
  12. ^ 完訳フロイス日本史4・第19章(第二部103章)「暴君が博多から大坂へ帰った後に生じたことについて」
  13. ^ 戦国人名事典

参考文献

関連項目

外部リンク