氏長者
氏長者(うじのちょうじゃ)は、平安時代以降の氏(うじ)の中の代表者の呼称である。古代日本では氏上(うじのかみ、このかみ)と呼ばれていた。その氏族の中で最も官位が高い者が就任し、氏社・氏寺の管理権を掌握することで氏人を統制した。氏長者の中でも特に権威と力を持っていたのが、藤氏長者と源氏長者である。氏の解体とともに名目的地位と化すが、前者は摂関家、後者は徳川将軍家の称号として幕末まで存続した。
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[編集] 概要
大化以前の社会には様々な氏族があり、氏上(うじのかみ、このかみ)がこれを統率していた。氏上の初見は『日本書紀』天智天皇3年(664年)2月の「大氏の氏上に大刀を、小氏の氏上に小刀を、伴造等の氏上に干楯弓矢を賜う」という記事であるが、これは私的な存在であった氏上を公的に認めたものと推測される。氏上は地域集団の長として大きな影響力を有していたが、これ以降は天武天皇4年(675年)に氏の部曲(私有民)が廃止され(『日本書紀』)、天平宝字元年(757年)には公事以外で族人を糾合することが禁じられるなど(『続日本紀』)、律令制の中に組み込まれていった。それでも奈良時代においては、氏上の地位は朝廷の認可を必要とするものの氏人の協議により選ばれ、その任期も終身であり、古代の族長的性質を残していた。
氏上は平安時代になると氏長者と名称が変化し、氏族の中で最も官位の高い者が就任するようになった。必然的に氏長者は貴族社会に限定され、氏族集団内部の長というだけでは氏長者になることはできなくなった。また官位の逆転による交代もあり、終身的地位でもなくなった。文献上では伴氏、高階氏、中臣氏、忌部氏、卜部氏、越智氏、菅原氏、和気氏にも氏長者が存在したようであるが、平安後期には多くの氏族が貴族社会に留まることができず没落していった。南北朝期の北畠親房は『職原抄』に「凡称氏長者、王氏、源氏、藤氏、橘氏有此号」と記している。
[編集] 権能
氏長者の権能は、以下の事項である。
- 氏神の祭祀、氏社・氏寺の管理
- 大学別曹の管理
詳細は「大学別曹」を参照
- 藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、王氏の奨学院、和気氏の弘文院など。10世紀の初めに、大学で学ぶ子弟のために諸氏族は学曹という寄宿舎を設立するが、やがて大学寮の付属機関として大学別曹と呼ばれるようになった。勧学院は規模を拡張し、春日社・興福寺関係の事務全般を取り扱った。
- 氏爵の推挙
詳細は「氏爵」を参照
- 正六位上の氏人から一人を従五位下に推挙する制度。律令制では五位以上は貴族として多くの特権が認められるため、希望者は氏長者に熱心な働きかけをした。この権限は推挙する者を「是とし定める」ことから是定と呼ばれた。なお橘氏は平安中期に公卿が絶えたため長者と是定が分離し、是定は他氏の公卿が就任するようになった。