神功皇后

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神功皇后

在位期間
201年11月14日 - 269年6月3日
(神功元年10月2日 - 神功69年4月17日)
大臣 武内宿禰
将軍 武振熊命
先代 仲哀天皇
次代 応神天皇

皇后
在位期間
193年3月1日-201年11月14日
(仲哀2年1月11日-神功元年10月2日)

誕生 170年
崩御 269年6月3日4月17日
陵所 五社神(ごさし)古墳
別称 聖母(しょうも)
気長足姫尊
息長帯比売命
大帯比売命
大足姫命皇后
父親 息長宿禰王
母親 葛城高顙媛
子女 応神天皇
皇居 磐余稚桜宮(若桜宮)

明治時代以前は神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして15代の帝と数えられていた。
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神功皇后関係系図

神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) - 神功69年4月17日269年6月3日))は、仲哀天皇皇后。『』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。

三韓征伐を指揮した。

事跡

日本書紀』などによれば、201年から269年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫より玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。

渡海の際は、お腹に月延石鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市月讀神社京都市西京区月読神社福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫宇美応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。

神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰武振熊命の働きによりこれを平定したという。

実在性

明治時代以前は、『新唐書』220巻列伝第145 東夷 倭日本[1]仲哀死 以開化曾孫女神功爲王」、『宋史』491巻列伝第250 外国7 日本国[2]に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女 又謂之息長足姫天皇」とあり、日本でも神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして15代の帝と数えられていた。1926年(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外された。江戸時代から実在の人物かどうか様々な論考があったが、明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場では実在の人物として教えていた。現在では実在説と非実在説が並存している。

日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、中国晋の文献におけるの女王についての記述が引用されている。このため江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。しかしながらこの年は266年で卑弥呼はすでに死去しており、この倭の女王は台与の可能性が高いとされている(ヤマト王権の項など参照)。また、これとは別に、直木孝次郎は、斉明天皇持統天皇がモデルではないかとの説を唱えている。

神功皇后を卑弥呼台与と同じような巫女王であったとする見方もある[要出典]

系図

 
(1)神武天皇
 
神八井耳命
 
多氏族〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(2)綏靖天皇
 
(3)安寧天皇
 
(4)懿徳天皇
 
(5)孝昭天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天足彦国押人命
 
和珥氏族〕
 
 
(8)孝元天皇
 
大彦命
 
阿倍氏族〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(6)孝安天皇
 
(7)孝霊天皇
 
 
倭迹迹日百襲姫命
 
 
(9)開化天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉備津彦命
 
 
彦太忍信命
 
屋主忍男武雄心命
 
武内宿禰
蘇我氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚武彦命
 
吉備氏族〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(10)崇神天皇
 
豊城入彦命
 
毛野氏族〕
 
 
日本武尊
 
(14)仲哀天皇
 
(15)応神天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(11)垂仁天皇
 
(12)景行天皇
 
 
(13)成務天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊鍬入姫命
 
 
倭姫命
 
 
五百城入彦皇子
 
  ◇
 
仲姫命
(応神天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
彦坐王
 
丹波道主王
 
 
鐸石別命
 
和気氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  ◇
 
  ◇
 
気長宿禰王
 
神功皇后
(仲哀天皇后)
 
 
 
 

紀年

紀年については、『日本書紀』は百済三書を参照または編入している[3]。百済三書の年月は干支で記しているので60年で一周するが、『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運)繰り上げて(120年)書いているとされており、三書もそれに合わせて引用されているので、当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる[3]井上光貞によれば、日本書紀の編纂者は神功皇后卑弥呼に比定したこともあって、干支を2運繰り上げたとしている[3]。また、百済記は早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている[3]

在位年と西暦との対照表

以下、在位年と西暦との対照であるが、上記干支2運繰り上げ紀年論によると、各西暦に120年を足す。

神功皇后 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
西暦 201年 202年 203年 204年 205年 206年 207年 208年 209年 210年
干支 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子 己丑 庚寅
神功皇后 11年 12年 13年 14年 15年 16年 17年 18年 19年 20年
西暦 211年 212年 213年 214年 215年 216年 217年 218年 219年 220年
干支 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌 己亥 庚子
神功皇后 21年 22年 23年 24年 25年 26年 27年 28年 29年 30年
西暦 221年 222年 223年 224年 225年 226年 227年 228年 229年 230年
干支 辛丑 壬寅 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申 己酉 庚戌
神功皇后 31年 32年 33年 34年 35年 36年 37年 38年 39年 40年
西暦 231年 232年 233年 234年 235年 236年 237年 238年 239年 240年
干支 辛亥 壬子 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申
神功皇后 41年 42年 43年 44年 45年 46年 47年 48年 49年 50年
西暦 241年 242年 243年 244年 245年 246年 247年 248年 249年 250年
干支 辛酉 壬戌 癸亥 甲子 乙丑 丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午
神功皇后 51年 52年 53年 54年 55年 56年 57年 58年 59年 60年
西暦 251年 252年 253年 254年 255年 256年 257年 258年 259年 260年
干支 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯 庚辰
神功皇后 61年 62年 63年 64年 65年 66年 67年 68年 69年
西暦 261年 262年 263年 264年 265年 266年 267年 268年 269年
干支 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子 己丑

肖像が描かれた紙幣と切手

旧高額5円切手1908年
政府紙幣(一円券) 1878年明治11年)

明治時代改造紙幣にその肖像が用いられ、これが日本における最初の女性肖像紙幣となった。その原版はイタリア人技術者エドアルド・キヨッソーネが作成したため、西洋風の美人に描かれている。なお、中央銀行たる日本銀行発足以前の事であるためこの紙幣は日本銀行券ではなく、不換紙幣の「政府紙幣」であった。

逓信省は1908年に5円と10円の高額切手を発行したが、皇后の肖像が使われた。この肖像は紙幣のそれを参考にしたものであったが、当時5円と10円は高額であり郵便料金よりも電信電話料金の納付用に使われることが多かった。また1923年関東大震災で印刷所が被災し印刷原版が破損したため1924年より日本人風の肖像に図案が変更された。そのため切手収集家から前者を旧高額切手、後者を新高額切手と呼ばれている。

関連史蹟

陵墓

神功皇后の陵墓については、古事記では「御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り」、日本書紀では「狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る」と記している。狭城盾列陵とは佐紀盾列古墳群のことである。

承和10年(843年)、盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務天皇陵を混同していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にある。後に、「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していた。

その後、西大寺で「京北班田図」が発見され、これにより神功皇后陵が奈良市にある五社神(ごさし)古墳であることが判明し、文久3年(1863年)、五社神古墳が神功皇后陵に治定された。宮内庁は、この五社神古墳を神功皇后陵(狭城楯列池上陵)としている。

2008年、宮内庁日本考古学協会などの要請に答え、五社神古墳の立ち入り調査を許可した。これは、考古学者の要請に答えて古墳の調査が許可された初めての例となった。ただし調査は古墳外周の表層だけとされたため、調査ではさしたる成果は上がっておらず、宮内庁調査の確認と円筒埴輪列が新たに発見されたに留まっている。この古墳は4世紀末から5世紀初めの築造とされていたが、円筒埴輪列によってやや新しくなるのではないかと推測される。


神社・考古資料

住吉三神とともに住吉大神の1柱として、また応神天皇とともに八幡三神の1柱(祭神)として信仰されるようになる。

大分県宇佐神宮大阪府大阪市住吉大社をはじめ、福岡県福津市宮地嶽神社、福岡県大川市風浪宮など、いくつかの神社の祭神となっている。所縁ある福岡市香椎宮筥崎宮、福岡県宇美町宇美八幡宮壱岐市聖母宮でも祀られている。

そのほか、以下のものがある。

朝鮮遠征。1880年月岡芳年

参考文献

神功皇后を題材とした作品

ISBN 4-10-114805-8、下 ISBN 4-10-114806-6

  1. ^ ウィキソース出典  (英語) 新唐書/卷220#.E5.80.AD.EF.BC.8C.E6.97.A5.E6.9C.AC, ウィキソースより閲覧。 
  2. ^ ウィキソース出典  (英語) 宋史/卷491#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9C.8B, ウィキソースより閲覧。 
  3. ^ a b c d 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中公文庫、2007年,278-279頁,「百済記」については特に382-384頁

外部リンク

関連項目