神功皇后
神功皇后 | |
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大臣 | 武内宿禰 |
将軍 | 武振熊命 |
先代 | 仲哀天皇 |
次代 | 応神天皇 |
皇后 | |
誕生 | 170年 |
崩御 | 269年6月3日(4月17日) |
陵所 | 五社神(ごさし)古墳 |
別称 |
聖母(しょうも) 気長足姫尊 息長帯比売命 大帯比売命 大足姫命皇后 |
父親 | 息長宿禰王 |
母親 | 葛城高顙媛 |
子女 | 応神天皇 |
皇居 | 磐余稚桜宮(若桜宮) |
明治時代以前は神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして15代の帝と数えられていた。 |
神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日))は、仲哀天皇の皇后。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。
三韓征伐を指揮した。
事跡
『日本書紀』などによれば、201年から269年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫より玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。
神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。
実在性
明治時代以前は、『新唐書』220巻列伝第145 東夷 倭日本[1]「仲哀死 以開化曾孫女神功爲王」、『宋史』491巻列伝第250 外国7 日本国[2]に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女 又謂之息長足姫天皇」とあり、日本でも神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして15代の帝と数えられていた。1926年(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外された。江戸時代から実在の人物かどうか様々な論考があったが、明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場では実在の人物として教えていた。現在では実在説と非実在説が並存している。
『日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、中国晋の文献における倭の女王についての記述が引用されている。このため江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。しかしながらこの年は266年で卑弥呼はすでに死去しており、この倭の女王は台与の可能性が高いとされている(ヤマト王権の項など参照)。また、これとは別に、直木孝次郎は、斉明天皇と持統天皇がモデルではないかとの説を唱えている。
神功皇后を卑弥呼や台与と同じような巫女王であったとする見方もある[要出典]。
系図
(1)神武天皇 | 神八井耳命 | 〔多氏族〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)綏靖天皇 | (3)安寧天皇 | (4)懿徳天皇 | (5)孝昭天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天足彦国押人命 | 〔和珥氏族〕 | (8)孝元天皇 | 大彦命 | 〔阿倍氏族〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)孝安天皇 | (7)孝霊天皇 | 倭迹迹日百襲姫命 | (9)開化天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉備津彦命 | 彦太忍信命 | 屋主忍男武雄心命 | 武内宿禰 〔蘇我氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
稚武彦命 | 〔吉備氏族〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(10)崇神天皇 | 豊城入彦命 | 〔毛野氏族〕 | 日本武尊 | (14)仲哀天皇 | (15)応神天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(11)垂仁天皇 | (12)景行天皇 | (13)成務天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊鍬入姫命 | 倭姫命 | 五百城入彦皇子 | ◇ | 仲姫命 (応神天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦坐王 | 丹波道主王 | 鐸石別命 | 〔和気氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
◇ | ◇ | 気長宿禰王 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紀年
紀年については、『日本書紀』は百済三書を参照または編入している[3]。百済三書の年月は干支で記しているので60年で一周するが、『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運)繰り上げて(120年)書いているとされており、三書もそれに合わせて引用されているので、当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる[3]。井上光貞によれば、日本書紀の編纂者は神功皇后を卑弥呼に比定したこともあって、干支を2運繰り上げたとしている[3]。また、百済記は早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている[3]。
在位年と西暦との対照表
以下、在位年と西暦との対照であるが、上記干支2運繰り上げ紀年論によると、各西暦に120年を足す。
神功皇后 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
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西暦 | 201年 | 202年 | 203年 | 204年 | 205年 | 206年 | 207年 | 208年 | 209年 | 210年 |
干支 | 辛巳 | 壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 | 戊子 | 己丑 | 庚寅 |
神功皇后 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
西暦 | 211年 | 212年 | 213年 | 214年 | 215年 | 216年 | 217年 | 218年 | 219年 | 220年 |
干支 | 辛卯 | 壬辰 | 癸巳 | 甲午 | 乙未 | 丙申 | 丁酉 | 戊戌 | 己亥 | 庚子 |
神功皇后 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | 26年 | 27年 | 28年 | 29年 | 30年 |
西暦 | 221年 | 222年 | 223年 | 224年 | 225年 | 226年 | 227年 | 228年 | 229年 | 230年 |
干支 | 辛丑 | 壬寅 | 癸卯 | 甲辰 | 乙巳 | 丙午 | 丁未 | 戊申 | 己酉 | 庚戌 |
神功皇后 | 31年 | 32年 | 33年 | 34年 | 35年 | 36年 | 37年 | 38年 | 39年 | 40年 |
西暦 | 231年 | 232年 | 233年 | 234年 | 235年 | 236年 | 237年 | 238年 | 239年 | 240年 |
干支 | 辛亥 | 壬子 | 癸丑 | 甲寅 | 乙卯 | 丙辰 | 丁巳 | 戊午 | 己未 | 庚申 |
神功皇后 | 41年 | 42年 | 43年 | 44年 | 45年 | 46年 | 47年 | 48年 | 49年 | 50年 |
西暦 | 241年 | 242年 | 243年 | 244年 | 245年 | 246年 | 247年 | 248年 | 249年 | 250年 |
干支 | 辛酉 | 壬戌 | 癸亥 | 甲子 | 乙丑 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 | 庚午 |
神功皇后 | 51年 | 52年 | 53年 | 54年 | 55年 | 56年 | 57年 | 58年 | 59年 | 60年 |
西暦 | 251年 | 252年 | 253年 | 254年 | 255年 | 256年 | 257年 | 258年 | 259年 | 260年 |
干支 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 | 己卯 | 庚辰 |
神功皇后 | 61年 | 62年 | 63年 | 64年 | 65年 | 66年 | 67年 | 68年 | 69年 | |
西暦 | 261年 | 262年 | 263年 | 264年 | 265年 | 266年 | 267年 | 268年 | 269年 | |
干支 | 辛巳 | 壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 | 戊子 | 己丑 |
肖像が描かれた紙幣と切手
明治時代の改造紙幣にその肖像が用いられ、これが日本における最初の女性肖像紙幣となった。その原版はイタリア人技術者エドアルド・キヨッソーネが作成したため、西洋風の美人に描かれている。なお、中央銀行たる日本銀行発足以前の事であるためこの紙幣は日本銀行券ではなく、不換紙幣の「政府紙幣」であった。
逓信省は1908年に5円と10円の高額切手を発行したが、皇后の肖像が使われた。この肖像は紙幣のそれを参考にしたものであったが、当時5円と10円は高額であり郵便料金よりも電信電話料金の納付用に使われることが多かった。また1923年に関東大震災で印刷所が被災し印刷原版が破損したため1924年より日本人風の肖像に図案が変更された。そのため切手収集家から前者を旧高額切手、後者を新高額切手と呼ばれている。
関連史蹟
陵墓
神功皇后の陵墓については、古事記では「御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り」、日本書紀では「狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る」と記している。狭城盾列陵とは佐紀盾列古墳群のことである。
承和10年(843年)、盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務天皇陵を混同していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にある。後に、「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していた。
その後、西大寺で「京北班田図」が発見され、これにより神功皇后陵が奈良市にある五社神(ごさし)古墳であることが判明し、文久3年(1863年)、五社神古墳が神功皇后陵に治定された。宮内庁は、この五社神古墳を神功皇后陵(狭城楯列池上陵)としている。
2008年、宮内庁は日本考古学協会などの要請に答え、五社神古墳の立ち入り調査を許可した。これは、考古学者の要請に答えて古墳の調査が許可された初めての例となった。ただし調査は古墳外周の表層だけとされたため、調査ではさしたる成果は上がっておらず、宮内庁調査の確認と円筒埴輪列が新たに発見されたに留まっている。この古墳は4世紀末から5世紀初めの築造とされていたが、円筒埴輪列によってやや新しくなるのではないかと推測される。
神社・考古資料
住吉三神とともに住吉大神の1柱として、また応神天皇とともに八幡三神の1柱(祭神)として信仰されるようになる。
大分県の宇佐神宮、大阪府大阪市の住吉大社をはじめ、福岡県福津市の宮地嶽神社、福岡県大川市の風浪宮など、いくつかの神社の祭神となっている。所縁ある福岡市の香椎宮や筥崎宮、福岡県宇美町の宇美八幡宮、壱岐市の聖母宮でも祀られている。
そのほか、以下のものがある。
- 甲山
- 廣田神社
- 長田神社
- 生田神社
- 三石神社(神戸)
- 二宮神社(神戸)
- 宮地嶽神社
- 田蓑宿禰
- 牛窓神社
- 警固神社(福岡)
- 皿倉山
- 弓弦羽神社
- 大分八幡宮
- 花岡八幡宮(山口)
- 平山旅館
- 和白(福岡・日本議会最初の発源地とされている場所)
- 貫通石
- 七支刀
- 船鉾(祇園祭)
参考文献
- 『古事記』太安萬侶 撰
- 『日本書紀』舎人親王 撰
- 岡本堅次『神功皇后』
- 前田晴人『神功皇后伝説の誕生』(大和書房、1998年) ISBN 4-479-84049-4
- 関裕二『継体天皇の謎 古代史最大の秘密を握る大王の正体』(PHP文庫、2004年) ISBN 4-569-66284-6
神功皇后を題材とした作品
注
- ^ (英語) 新唐書/卷220#.E5.80.AD.EF.BC.8C.E6.97.A5.E6.9C.AC, ウィキソースより閲覧。
- ^ (英語) 宋史/卷491#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9C.8B, ウィキソースより閲覧。
- ^ a b c d 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中公文庫、2007年,278-279頁,「百済記」については特に382-384頁