涼月 (駆逐艦)
艦歴 | |
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計画 | 1939年度(マル4計画) |
起工 | 1941年3月15日 |
進水 | 1942年3月4日 |
竣工 | 1942年12月29日 |
除籍 | 1945年11月20日 |
その後 | 船体は福岡県若松港の防波堤 |
要目(計画) | |
排水量 | 基準:2,701英トン 公試:3,470トン |
全長 | 134.2m |
全幅 | 11.6m |
吃水 | 4.15m |
機関 | ロ号艦本式缶3基 艦本式タービン2基 2軸 52,000馬力 |
速力 | 33.0ノット |
航続距離 | 18ノットで8,000海里 |
燃料 | 重油:1,080トン |
乗員 | 263名 |
兵装 (1944年[1]) |
65口径10cm連装高角砲 4基8門 九六式25mm機銃 3連装5基 同単装4挺 61cm4連装魚雷発射管 1基4門 (九三式魚雷8本) 九四式爆雷投射器2基 九五式爆雷 54個 |
電探 (1944年[1]) |
21号電探1基 13号電探1基 |
水測兵装 | 九三式探信儀1基 (九三式水中聴音機1基)[2] |
涼月(すずつき)あるいは凉月[3][4][5]は、日本海軍の駆逐艦。秋月型駆逐艦の3番艦である。艦名は「さわやかに澄みきった秋の月」[6]を指す言葉であろうと言われる。
艦名の表記について
表記は、前述のように二通りある。「涼風」、「涼波」を参考にすると、所属していた第二水雷戦隊の戦時日誌では、タイプライターで作成した部分は「涼風」[7]あるいは「涼波」[8]であり、手書き部分は「凉風」[9]あるいは「凉波」[10]もあれば、「涼風」[11][12]あるいは「涼波」[13]とも書いてある。もっとも、タイプライターの活字に「凉」がなかったわけではなく、呉鎮守府の戦時日誌には「凉月」の表記がある[14]。戦時日誌に限ってみれば、双方の表記は混ぜこぜに使われており、統一されていなかったようである。
艦歴
1939年(昭和14年)度第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)による乙型一等駆逐艦の第106号艦。1941年(昭和16年)3月15日に三菱重工業長崎造船所で起工、1942年(昭和17年)3月4日に進水。同年12月29日に竣工した。
昭和18年
竣工後、横須賀鎮守府部隊に編入。昭和18年1月15日付で第三艦隊(小沢治三郎中将・海軍兵学校37期)に編入され、第十戦隊(木村進少将・40期)第六十一駆逐隊に配属される。同時に横須賀鎮守府部隊にも編入された。1943年(昭和18年)1月16日未明、「初月」とともに潮岬沖で浮上していたアメリカ潜水艦ハダック (USS Haddock, SS-231) を発見するも逃げられた[15]。2月1日から15日までは呉海軍工廠において機銃増備などの工事を受ける[16]。3月22日、第二航空戦隊(角田覚治中将・海兵39期)の空母「隼鷹」、「飛鷹」、重巡洋艦「利根」、「筑摩」を護衛して瀬戸内海を出撃し[17]、3月27日にトラック諸島に到着[18]。この頃、ソロモン諸島、ニューギニア方面への航空攻勢作戦である「い号作戦」の計画が進められており、パイロットはもちろんのこと、整備員など航空要員をラバウルに輸送する必要があった[19]。4月2日、「初月」とともにラバウルへの航空要員輸送のためトラックを出撃し、4月4日にラバウルに到着後直ちに出港、4月6日にトラックに帰投した[16]。4月中旬から5月中旬にかけては、トラックに出入りする艦船への護衛任務につく。5月17日には、戦死した連合艦隊司令長官山本五十六元帥(海兵32期)の遺骨を載せて日本に向かう戦艦「武蔵」の護衛でトラックを出港し、5月22日に横須賀に到着[20]。7月9日、南海第四守備隊を乗せた「利根」、「筑摩」、水上機母艦「日進」などを護衛して呉を出撃[21][20]。トラック、ラバウルを経由して7月22日にブカ島に到着する[20]。7月時下旬から9月上旬にかけてはトラックとラバウル、クェゼリン環礁との間でタンカーや軽巡洋艦「鹿島」などの護衛を行う[20]。9月と10月には機動部隊に随伴してマーシャル諸島方面へ出撃したが、会敵の機会がなかった[22]。11月10日、ラバウルからトラックに向かっていた輸送船団がアメリカ潜水艦スキャンプ (USS Scamp, SS-277) の攻撃を受け、輸送船東京丸(摂津商船、6,484トン)が沈没の危機に瀕したとの報を受け、「初月」とともにトラックを出撃[23]。現場に到着して東京丸の援護にあたったものの、東京丸は浸水がひどくなって11月12日に沈没した。東京丸沈没に先立つ同じ11月12日の朝、スキャンプは11月5日のラバウル空襲で損傷を受けトラックに戻る途中の軽巡洋艦「阿賀野」に魚雷を命中させて航行不能に陥らせた。東京丸援護を終えて間もなく「阿賀野」救援に駆けつけ[24]、トラックまで護衛した。12月7日、「初月」とともに「筑摩」、空母「瑞鶴」を護衛してトラックを出港し、12月12日に呉に到着[25]。修理を行った。
昭和19年
修理後の12月23日、ウェーク島に送られる独立混成第5連隊と戦車第16連隊主力を乗せた特設巡洋艦赤城丸(日本郵船、7,389トン)を「初月」とともに護衛して呉を出撃し、1944年(昭和19年)1月1日にウェーク島に到着した[26]。第一回輸送を終えて呉に帰投し、今度は砲兵大隊と工兵隊、衛生隊を赤城丸に乗せて1月15日に呉を出撃する[26]。しかし、翌1月16日10時45分ごろに北緯32度15分 東経132度26分 / 北緯32.250度 東経132.433度[27]の沖の島西方海上に差し掛かったところでアメリカ潜水艦スタージョン (USS Sturgeon, SS-187) の攻撃を受ける。スタージョンは艦首発射管から魚雷を4本発射し[28]、4つの命中音を確認した[29]。魚雷は前部と後部に1本ずつ命中し、火薬庫を誘爆させて前部は煙突より前方約34メートルを亡失、後部は118番フレームより後約46メートルを亡失した[30]。主砲、機銃、電探、ソナーなどあらゆる兵器が亡失したり損傷し、乗員も駆逐艦長瀬尾昇中佐以下多数が戦死し、生存者の中で最上級者は掌機長の機関特務中尉だった[31]。「初月」に曳航されて宿毛湾に到着後、電纜敷設艇「釣島」と特設掃海艇第六玉丸(西大洋漁業、275トン)の協力を得て[32]呉に帰投。調査した造船士官は、艦橋下方後部寄りの第一缶室の隔壁が設計通りの強度を示したため沈没を免れたと述べている[33]。1月19日から呉海軍工廠で8月3日まで復旧工事が行われた[31][34]。
戦列復帰後は瀬戸内海で訓練を行う。ところが、「若月」[35]とともに輸送作戦中の10月16日22時10分、北緯31度29分 東経131度54分 / 北緯31.483度 東経131.900度[36]の都井岬沖でアメリカ潜水艦ベスゴ (USS Besugo, SS-321) の雷撃を受ける。ベスゴは浮上攻撃にて[37]「ジグザグ航行をしている2隻の重巡洋艦」[37]に対して艦首発射管から魚雷を6本発射[37]。2分後、「重巡洋艦」の艦橋前に命中の水柱が立つのを見た[37]。この攻撃で艦首と一番砲塔下に魚雷が命中し、艦首部は18番フレームから前を切断、一番砲塔下に命中した魚雷は不発だったが船体に亀裂を生じさせた[31]。すぐさま呉に引き返し、10月17日から11月11日まで呉海軍工廠で修理を受けた。11月23日、マニラ方面への緊急輸送作戦に参加する「隼鷹」、駆逐艦「冬月」、「槇」とともに呉を出撃[38]。11月30日にマニラに到着して軍需品を陸揚げしたあと、12月3日に馬公に到着して日本に戻る途中の戦艦「榛名」と合流する[39]。12月6日、馬公を出港して日本本土に向かう。12月9日未明の佐世保に入港直前、部隊は野母崎沖でアメリカ潜水艦のウルフパックに発見される。「隼鷹」はレッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) の魚雷が2本命中して中破。続いて「槇」がシーデビル (USS Seadevil, SS-400) かプライス (USS Plaice, SS-390) の雷撃により損傷した。この輸送作戦の際、「冬月」ともども荒天に見舞われた際に船体にシワが発生した[40]。12月12日に呉に帰投後、12月27日まで呉海軍工廠で修理が行われ、修理完了後は瀬戸内海で訓練を行った[40]。二度の被雷のため、マリアナ沖海戦とレイテ沖海戦には参加できなかった。また、多号作戦支援部隊に編入されていたが、実際に作戦には投入されなかった[40]。なお、11月15日付で第十戦隊および第六十一駆逐隊が解隊したため、以降は第二水雷戦隊(司令官不在[41])第四十一駆逐隊に編入された[42][43]。
昭和20年
1945年(昭和20年)2月20日、第四十一駆逐隊は北号作戦で日本に戻ってきた古村啓蔵少将(海兵45期)以下の第二水雷戦隊司令部の指揮下に正式に入る[44]。3月19日の呉軍港空襲では、広島湾にて戦艦「大和」の護衛につく[45]。3月29日、海上特攻隊(伊藤整一中将・海兵39期)とともに三田尻沖に移動した[46]。
4月6日15時、海上特攻隊は徳山を出撃(坊ノ岬沖海戦)。19時50分からの第一警戒航行序列では「大和」の右側を占位し[47][48]、翌4月7日6時に第三警戒航行序列に切り替わってからは「大和」の左後方に位置した[49][50]。12時32分、アメリカ第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)からの艦載機の第一波がやってくる[51]。第一波の空襲が終わりに近づいてきた13時8分、空母エセックス (USS Essex, CV-9) のSB2C「ヘルダイバー」4機[52]から投じられた150キロ爆弾のうち一発が二番砲塔と艦橋間の甲板に命中して穴を開け、他の二発が後方への至近弾となった[52]。命中弾により火災が発生し、海図も全て焼失。通信装置を失い、ジャイロコンパスも破損した。この時点で第一罐室が浸水放棄されたが機関部人員に被害はなく、第二罐室による20ノットが発揮可能だった[53]。さらに操艦不能になった「大和」と衝突しかけたが、後進をかけることで衝突は回避された[54][53]。一番砲塔、二番砲塔も大破し、弾薬庫は一番砲塔のもの以外は全て浸水した[55]。この攻撃で戦死者57名、負傷者34名を出した[55]。
駆逐艦長平山敏夫中佐は既に戦闘不能と判断し、「大和」沈没後の14時30分頃から単艦で帰投開始[56][53]。通信装置は破損しており、作戦中止命令は受信できなかった。本艦は被弾により艦首が沈下しており、前進すると船体が潜ってしまう状態だった。そこで機関長は「後進強速黒二〇[53](後進強速の回転数に20回転プラス)」の紙を機械室や罐室にはりつけた。9ノットの速力を安定して発揮[57]。この時、空母イントレピッド (USS Intrepid, CV-11) のTBF「アヴェンジャー」が魚雷を放ってきたものの、命中しなかった[58]。海図もコンパスも失っていながらも、日本本土へ向かった。14時55分に「右舷至近弾大破火災 目下消火中」と打電したものの[59]、火災が一晩中鎮火しなかった為、アメリカ潜水艦に発見されることを誰もが恐れていたという[53]。15時15分には駆逐艦「初霜」に対して突入作戦が続行中かどうか信号で交信したが、「不明」との返事をもらう[60]。次いで15時25分には「冬月」に対して二軸運転で航行可能な旨報じた[61]。日没後、「冬月」が捜索を開始したが[62]、見つけることは出来ず、すでに先行していると推定された[63]。
4月8日9時32分、指宿航空隊機により、佐多岬の262度140海里の地点を北上しているのが発見される[64]。そして14時30分、ついに佐世保に帰投する[65]。帰着が遅く、すでに沈没してしまったと思われていたが[66]、突然の帰還に佐世保海軍工廠はサイレンを鳴らして歓迎した。しかし、前方への浸水が大で係留中にも浸水が止まらなかったので、大急ぎでタグボートを手配されて18時30分に第七船渠に収容することができたが[67][68]、排水を待ちきれず第七船渠内で着座してしまった[55]。大破した前方区画のうち、前部弾薬庫は区画内部から防水処置がされたため沈没を免れる[66]。自らの脱出口を絶ってまで気密を保つ作業を行った3名の乗員は、後に酸欠死している状態で発見された[66][53]。
修理は5月5日完成を目標に、停泊に差し支えない程度のものが行われ[69]、次いで本修理の施工に関しては昭和20年度中には実施しない事が決まった[69]。応急修理で破口部を閉塞の上、一番砲塔と二番砲塔、機銃を撤去[55]。6月10日に相浦に係留され、次いで7月5日付で第四予備艦となった[70]。7月と8月に対空戦闘を行い、うち8月の対空戦闘でP-51「ムスタング」1機を撃墜した[70]。11月20日に除籍。
戦後は損傷のため復員輸送艦としては使用されず、1948年(昭和23年)4月から5月にかけて旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で解体[71]。船体は「冬月」、「柳(桃型駆逐艦)」とともに福岡県北九州市若松区若松港の防波堤として利用された。現地では軍艦防波堤と呼ばれたが、その後埋められた。戦争を通じて三度の被害にあったがいずれも生還し、秋月型駆逐艦の中で一番の長命であった。
歴代艦長
艤装員長
- 赤沢次寿雄 中佐
艦長
- 赤沢次寿雄 中佐:1942年12月29日 -
- 瀬尾昇 中佐:1944年1月10日 - 1944年1月16日戦死
- 杉谷長秀 中佐:1944年7月10日 -
- 平山敏夫 中佐:1945年3月10日 -
凉月を取り上げた作品
- 澤章 「軍艦防波堤へ―駆逐艦凉月と僕の昭和二〇年四月」
沖縄での海上特攻を描いた小説。作者は最後の艦長である平山中佐の孫にあたる。
脚注
- ^ a b 機銃、電探数は『日本駆逐艦物語』p281の「あ号作戦後の駆逐艦兵装状況一覧表」による。1944年6月30日の調査。
- ^ 秋月型駆逐艦では水中聴音機は後日装備とされたらしい。装備時期は不明。『歴史群像 太平洋戦史シリーズ23 秋月型駆逐艦』p39、『写真 日本の軍艦 第11巻』p158による。
- ^ 『第十戦隊戦時日誌』C08030050000, pp.4,6,8 など
- ^ 『第八戦隊戦時日誌』C08030048900,pp. 26
- ^ 『呉防備戦隊戦時日誌』C08030369400, pp.43,44,45,46,49
- ^ 片桐, 348ページ
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.5,6,9
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101200, pp.11,12
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101800, pp.6
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101200, pp.13
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.10
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101800, pp.10
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.49
- ^ 『呉鎮守府戦時日誌』C08030328800, pp.6,10,30,31
- ^ 『大阪警備府戦時日誌』C08030498600, pp.19,33 、「SS-231, USS HADDOCK」p.67,68 、遠藤, 200ページ
- ^ a b 遠藤, 200ページ
- ^ 『呉防備戦隊戦時日誌』C08030367600, pp.46 、遠藤、200ページ
- ^ 木俣『日本空母戦史』452ページ
- ^ 木俣『日本空母戦史』453ページ
- ^ a b c d 遠藤, 201ページ
- ^ 木俣『日本水雷戦史』300ページ
- ^ 『第八戦隊戦時日誌』C08030048800, pp.14,15,31,32,33 、木俣『日本空母戦史』504、508ページ
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101500, pp.1
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101500, pp.5,6,7
- ^ 『第八戦隊戦時日誌』C08030048900, pp.30,31
- ^ a b 『戦史叢書13』472ページ
- ^ 『呉防備戦隊戦時日誌』C08030369400, pp.43
- ^ 「SS-187, USS STURGEON」p.189
- ^ 「SS-187, USS STURGEON」p.198
- ^ 遠藤, 166、202ページ
- ^ a b c 遠藤, 202ページ
- ^ 『呉防備戦隊戦時日誌』C08030369400, pp.47,48,49
- ^ #造船士官の回想 下184頁
- ^ 『第十戦隊戦時日誌』C08030050900, pp.17
- ^ 『呉防備戦隊戦時日誌』C08030369800, pp.24
- ^ 『呉防備戦隊戦時日誌』C08030369800, pp.3,23,24
- ^ a b c d 「SS-321, USS BESUGO」p.23
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.57
- ^ 木俣『日本空母戦史』796ページ
- ^ a b c 遠藤, 203ページ
- ^ 早川幹夫少将(海兵44期)は11月11日戦死。後任の木村昌福少将(海兵41期)は11月20日着任
- ^ 『第十戦隊戦時日誌』C08030051000, pp.56
- ^ 遠藤, 177ページ
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030103000, pp.8
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030103000, pp.45,53,54
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030103000, pp.55
- ^ 『天一号作戦海上特攻隊1YB主力戦闘詳報』C08030103100, pp.20
- ^ 『軍艦大和戦闘詳報』C08030566400, pp.3
- ^ 『天一号作戦海上特攻隊1YB主力戦闘詳報』C08030103100, pp.24
- ^ 『軍艦大和戦闘詳報』C08030566400, pp.3,4
- ^ 『天一号作戦海上特攻隊1YB主力戦闘詳報』C08030103100, pp.37
- ^ a b 木俣『日本水雷戦史』635ページ
- ^ a b c d e f 文藝春秋臨時増刊『目で見る太平洋戦争史』(昭和48年12月増刊号)178-179頁。
原田周三海軍中佐。涼月機関長談。 - ^ 石井公一郎『回想学徒出陣』76P涼月航海士談(中央公論社1993)
- ^ a b c d 遠藤, 203ページ
- ^ 『天一号作戦海上特攻隊1YB主力戦闘詳報』C08030103100, pp.43
- ^ 速度は文献によって差異があり、『艦長たちの軍艦史』p355、『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦』掲載の雨倉孝之「太平洋の群像「秋月型駆逐艦」の戦士たち」のp181で9ノット。同じく『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦』掲載の岡田幸和「日本駆逐艦の戦闘被害調査」のp164では3ノットとなっている。涼月機関長の記憶では9ノット。
- ^ 木俣『日本水雷戦史』638ページ
- ^ 『天一号作戦海上特攻隊1YB主力戦闘詳報』C08030103100, pp.44
- ^ 『天一号作戦海上特攻隊1YB主力戦闘詳報』C08030103100, pp.45,46
- ^ 『天一号作戦海上特攻隊1YB主力戦闘詳報』C08030103100, pp.46
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- ^ 『天一号作戦海上特攻隊1YB主力戦闘詳報』C08030103100, pp.56
- ^ a b c 遠藤, 188ページ
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030103000, pp.78
- ^ 『天一号作戦海上特攻隊1YB主力戦闘詳報』C08030103100, pp.56,57
- ^ a b 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030103000, pp.52
- ^ a b 遠藤, 204ページ
- ^ 木俣『日本水雷戦史』689ページ
参考文献
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- 呉防備戦隊司令部『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月三十一日 呉防備戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日~昭和20年4月6日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030369800
- 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127700
- 第十戦隊司令部『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月十五日 第十戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030051000
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和二十年二月一日至昭和二十年二月二十八日 第二水雷戦隊戦時日誌』『自昭和二十年三月一日至昭和二十年四月二十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030103000
- 第二水雷戦隊司令部『天一号作戦海上特攻隊1YB主力(大和2sd)戦闘詳報 自昭和二十年四月六日至昭和二十年四月八日沖縄島突入作戦』(昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030103100、C08030103200
- 軍艦大和『昭和二十年四月二十日 軍艦大和戦闘詳報 自昭和二十年四月六日至四月七日』(昭和20年4月6日~昭和20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030566400
- SS-231, USS HADDOCK(issuuベータ版)
- SS-187, USS STURGEON(issuuベータ版)
- SS-321, USS BESUGO(issuuベータ版)
- 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336
- 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書13 中部太平洋方面陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』朝雲新聞社、1968年
- 文藝春秋臨時増刊『目で見る太平洋戦争史』(昭和48年12月増刊号)、文藝春秋
- 遠藤昭『高角砲と防空艦』原書房、1975年
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦11 駆逐艦II』光人社、1990年、ISBN 4-7698-0461-X
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0386-9
- 石井公一郎『回想学徒出陣』(中央公論社1993)
- 堀元美『造船士官の回想(下)』朝日ソノラマ文庫、1994年8月。ISBN 4-257-17285-1。
- 「歴史群像」編集部『歴史群像 太平洋戦史シリーズ23 秋月型駆逐艦』学習研究社、2001年、ISBN 4-05-602063-9
- 岡田幸和『世界の艦船別冊 艦艇工学入門 -理論と実際-』海人社、1997年、ISBN 4-905551-62-5
- 林寛司・戦前船舶研究会「特設艦船原簿」「日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶 第104号』戦前船舶研究会、2004年
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 秋元実・編 『ウォーターラインガイドブック 日本連合艦隊編』改訂版、静岡模型教材協同組合、2007年10月改訂。 JANコード 4945187990224
関連項目