旅順攻囲戦

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旅順攻囲戦

203高地
戦争日露戦争
年月日1904年8月19日-1905年1月1日
場所旅順満州
結果:日本の勝利、ロシアの降伏およびロシア旅順艦隊の戦闘機能喪失
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 ロシアの旗 ロシア帝国
指導者・指揮官
乃木希典 ロシアの旗 アナトーリイ・ステッセリ
ロシアの旗 ロマン・コンドラチェンコ  
戦力
約51,000名

(第一回総攻撃時)

陸軍約44,000名

海軍約12,000名

その他約7,000名

(籠城戦開始時)

損害
戦死約15,400名

戦傷(延数)約44,000名

戦死約16,000名

戦傷(延数)約30,000名

日露戦争
第3軍の旅順への前進
第3軍による旅順包囲
攻撃準備中の日本軍
砲撃によって生じた黄金山麓石油庫の火災

旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、Siege of Port Arthur, 1904年明治37年)8月19日 - 1905年(明治38年)1月1日)とは、日露戦争において、ロシア帝国旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。

背景

ロシアは、1898年遼東半島租借以降、旅順口を第一太平洋艦隊の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、旅順口を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた(旅順要塞)。

日本は、日露戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満州との間の補給路の安全確保が必要であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が不可欠と見なしていた[注 1]

このため戦前より陸海軍双方で旅順への対応策が検討されたが、旅順艦隊を完全に無力化する方法として、大別して、旅順要塞の陥落、大口径艦砲[注 2]による撃沈、旅順港永久封鎖が考えられた[注 3]

海軍側は独力で旅順問題を処理することを考え、第一段階:港外奇襲、第二段階:港口封鎖(閉塞)、第三段階:港外からの間接射撃によって港内の艦艇を撃沈という作戦計画を立てた。これに基づき1903年の夏には間接射撃のための試験射撃を行った。陸軍側は参謀本部が満州攻勢作戦の研究を1902年より始め、その中で、旅順攻城を佐藤鋼次郎少佐が担当した。1903年11月頃の参謀本部内の意見は、兵力の大部分を遼陽方面への北進に集中し、旅順は一部の兵力による封鎖監視に留める考えが大勢だったが、佐藤少佐が攻略の必要性を主張し研究は続けられた[1]

1903年12月30日に陸海軍間で開戦に関する協議が行われた。「旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき」との海軍側の主張[注 4]と「臨時韓国派遣隊の派遣を優先すべき」との陸軍側の主張とが対立したが、陸軍が譲って海軍案に決着した。海軍は独力による旅順艦隊への対処を言明していたが[注 5]、陸軍はその後も旅順攻城の研究を進め、1904年1月、陸軍参謀本部による計画案が成り、陸軍省に所要資材の照会がなされた。

開戦後、海軍による港外奇襲港口閉塞作戦が実行されたが、不十分な結果で終わり、旅順艦隊の戦力は保全された。2月末頃からウラジオストク巡洋艦隊が活動を始め、3月以降は第二艦隊を対ウラジオストク巡洋艦隊専任に割かねばならなくなったが、港口の閉塞を目的とした作戦は続けられた。陸軍では、3月上旬までは封鎖監視で十分であると判断していたが、最終的に、3月14日、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定した。 3月27日、海軍の第二回閉塞作戦が実行されたが不成功だった。

4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執しており、4月6日大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文に「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある[注 6]。また海軍は12-13日に機雷を敷設した。

ロシアは5月にバルト海艦隊(バルチック艦隊)の主力艦船群の極東派遣を決定した。もしもこれが未だ健在の旅順艦隊と合流すれば、日本海軍の倍近い戦力となり、朝鮮半島周辺域の制海権はロシア側に奪われ、満州での戦争継続は絶望的になると考えられた。5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に終わった。5月9日より、日本海軍は、旅順港口近くに戦艦を含む艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換したが、主力艦が貼り付かざるを得なくなり増派艦隊への対応が難しくなった。15日には当時日本海軍が保有する戦艦の6隻のうち2隻を触雷により失った[注 7]。日本軍としては増派艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要に迫られ、海軍はこの頃陸軍の旅順参戦の必要性を認めざるを得なくなった。

このような経緯により攻城特殊部隊を擁する第3軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した乃木希典大将が、参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が任命された。軍参謀らには、開戦後に海外赴任先から帰国してきた者が加わった[注 8]。軍司令部は6月1日に本土を発ち、8日に大連に到着した。第3軍の主力としては、すでに金州城攻略戦を終えて主戦場と目される北方戦線に向かう第2軍から2個師団(第1師団第11師団)が抽出され、これに当てられた。

旅順要塞の構造

旅順は元々は清国の軍港で、露国が旅順を手中に収めた時点である程度の諸設備を持っていた。しかし防御施設などが旧式で不十分と判断し更なる強化を行った。1901年より開始されたこの工事は、203高地大孤山(標高約180 m)も含めた広い範囲に防御線を設置し守備兵2万5000を常駐させるものだった。しかし予算不足で規模を縮小され防御線は203高地や大孤山より港湾側に、守備兵も1万3000の常駐に変更された。このため要塞防衛線が港湾部に近すぎてしまい、仮に敵軍が要塞を包囲して重砲を投入すると港湾部が射程圏内に入ってしまい、また大孤山や203高地、海鼠山(南山坡山)などから弾着観測ができた。そのため開戦後に前進陣地や前哨陣地を設けて防御していたが完全とは言えず、艦隊を地上からの砲撃から守れない構造だった。また完成は1909年の予定だったので、1904年の日露開戦により未完成のまま(完工度は約40パーセント)戦争に突入することになった[2]。これら前哨陣地は第7師団長ロマン・コンドラチェンコ少将の精力的な強化工事が施された[3]

要塞の配置、規模は

  • 東正面
白銀山、東鶏冠山(北・南)、盤龍山(北、東、西)、松樹山各堡塁を中核とし、望台、永久砲台、旧囲壁(日清戦争時の要塞の構造物)、臨時築城陣地などで連接
  • 北正面
椅子山、大案子山、龍眼北方、水師営南方各堡塁を中核とし、砲台、野戦築城陣地などで連接
  • 西正面
西太陽溝などの各堡塁を中核とする。また203高地、化頭溝山、大頂子山などに野戦陣地を新設
  • 装備火砲
要塞砲350門、野砲67門、海軍砲186門、捕獲砲43門の合計646門。これを海上正面に124門、陸上正面に514門、予備8門に分配。
  • 機関砲
海上側に62門、陸上側に47門、予備10門の合計119門
  • 兵力
総員42000名(従来の要塞兵力に東シベリア狙撃兵第4、7師団などが駐留)

となっている[4]

要塞の主防御線はベトンで周囲を固めた半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕からなりあらゆる方角からの攻撃に備え、後方の高台(望台)に砲台を造り支援砲撃を行うことになっていた。さらに突破された場合に備えて堡塁と塹壕と砲台を連ねた小規模な副郭が旅順旧市街を取り囲んでいた。海上方面も220門の火砲を砲台に配備して艦船の接近を妨害するようになっていた[3]

開戦時、ロシア軍が満州に配備する戦力は6個師団であったが、その三分の一に当たる2個師団約3万名が旅順および大連地域に配備された。これに要塞固有の守備兵力、工兵、要塞砲兵なども含め最終的に4万4千名(これに軍属他7千名、海軍将兵1万2千名)が立て籠った。

経過

前哨戦

ロシア軍では、この要塞を含めた地域一帯を防衛するロシア関東軍が新設され軍司令としてアナトーリイ・ステッセリ中将、旅順要塞司令官にコンスタンチン・スミルノフ中将が就任。守備部隊として東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:ロマン・コンドラチェンコ少将)と同第4師団(師団長:アレクサンドル・フォーク少将)この他、東シベリア第5狙撃兵連隊や要塞砲兵隊、騎兵・工兵など総勢4万4千名、火砲436門(海岸砲は除く)が籠っていた[5]

日本海軍は、独力で旅順艦隊を無力化することを断念し、1904年7月12日に伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請した。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出した。6月31日、大本営からも陸軍に対して旅順要塞攻略を急ぐよう通達が出ていた。

しかし陸軍は、旅順要塞を攻略することを当初念頭に置いていなかったために、これら要塞の情報が不足していた。ロシア軍の強化した要塞設備に関する事前情報は殆どなく第三軍に渡された地図には要塞防御線の前にある前進陣地(竜眼北方堡塁、水師営南方堡塁、竜王廟山、南山坡山、203高地など)が全く記載されていなかった。防御線でも二竜山、東鶏冠山両堡塁は臨時築城と書くなど[6]誤記が多かった。

こうした中で要塞攻略の主軸をどの方向からにするかが議題となった。戦前の図上研究では平坦な地形の多い西正面からの攻略が有利であると考えられていた[7]。しかし第三軍司令部は大連上陸前の事前研究によりその方面からの攻略には敵陣地を多数攻略していく必要があり、鉄道や道路もないので攻城砲などの部隊展開に時間を要し早期攻略できないと考え東北方面の主攻に方針変更した[8]。しかし新たに軍令部次長となった長岡外史や、満州軍参謀井口省吾らが西方主攻を支持し議論となる。ただし、この主攻の選択はあくまで要塞攻略の主軸をどの方面にするかの話であり、後に出る203高地攻略とは別の議論である[9]。結局この議論は第三軍司令部が現地に到着する7月ごろまで持ち越される。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出していた。7月3日、コンドラチェンコ師団の一部が逆襲に転じるが塹壕に待ち構える日本軍の反撃に撤退した。

その後第三軍に第9師団後備歩兵第1旅団が相次いで合流し戦力が増強された。このあと乃木は懸案だった主攻方面を要塞東北方面と決定した。この理由には下記があった[10]

  1. 要塞の死命を制する望台は東北方面にある。望台(標高185m)は第二防衛線で最も標高が高く旅順港及び市街地全てを見渡せる。
  2. 西方主攻を行うには展開までに敵前の開けた平地を長駆移動せねばならず危険
    1. 鉄道も攻城砲などの砲を移動できる道路もないので砲兵展開が難しい
    2. 203高地や南山坡山などの前進陣地が多くあり、それらを攻略した上で要塞防御線攻略となるので時間が掛かる

準備を整えた第三軍は7月26日旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始する[11][12]。要塞の前進陣地は、主に西方に203高地近辺諸陣地、北方に水師営近辺諸陣地、東方に大小孤山諸陣地が存在しており、当面の主目標は東方の大孤山とされた。これらの防御施設は未完成だった。3日間続いた戦闘で日本軍2,800名、ロシア軍1,500名の死傷者を出し、30日にロシア軍は大孤山から撤退した。この頃乃木は、来るべき総攻撃の期日を、増援の砲兵隊の準備が整うのを待って8月19日とする決断をした[5]

8月7日、黒井悌次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊が大孤山に観測所を設置し[注 9]、旅順港へ12センチ砲で砲撃を開始。9日9時40分に戦艦レトウィザンに命中弾を与えた。またレトウィザンの直近に停泊していた艦船への命中弾は爆発を引き起こし、それがレトウィザンに浸水被害を与えた。

8月10日、旅順艦隊に被害が出始めたこと、また極東総督アレクセイエフの度重なるウラジオストクへの回航命令もあり、ロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)司令ヴィトゲフトは、ウラジオストクへ回航しようと旅順港を出撃した。海軍側が陸軍に要請した「旅順艦隊を砲撃によって旅順港より追い出す」ことは、これによって達成された。

しかし日本連合艦隊は黄海海戦で2度に亘り旅順艦隊と砲撃戦を行う機会を得つつも1隻も沈没せしめることなく、薄暮に至り見失い、旅順港への帰還を許してしまう[注 10]。帰港した艦艇の殆どは上部構造を破壊しつくされ旅順港の設備では修理ができない状況だった[13]。最も損害が軽微だった戦艦セヴァストポリだけは外洋航行可能にまで修理されたが、旅順艦隊はその戦闘力をほぼ喪失した[13]。帰港後は、大孤山から観測されないよう、狭く浅い湾内東部に停泊させた。

第一回総攻撃(明治37年8月19日-24日)

総攻撃を前に第三軍は軍司令部を柳樹房から鳳凰山東南高地に進出させた[14]。さらに団山子東北高地に戦闘指揮所を設け戦闘の状況を逐一把握できるようにした[15]。ここは激戦地となった東鶏冠山保塁から3キロという場所でしばしば敵弾に見舞われる場所であった。以降、攻囲戦は主にここで指揮が取られることになった。

8月18日深夜、第三軍(参加兵力5万1千名、火砲380門)各師団は其々目標とされる敵陣地の射程圏外まで接近し総攻撃に備えた。

翌8月19日、各正面において早朝より準備射撃が始まる。ロシア側は日本の砲兵陣地の位置を正確に把握できておらず、当初は反撃も散漫だったが、やがて本格的になり、この日は両軍合わせて500門の火砲が撃ち合う激しい戦闘となった[16]。乃木も午後1時に双台溝の236高地に登り戦況を視察した。ロシア軍ではこの砲撃で松樹山、二龍山、盤龍山、東鶏冠山、小案子、白銀山、望台の各保塁・砲台に大損害が出ており、東鶏冠山第二保塁では弾薬庫が爆発し守備兵が全滅し、二龍山保塁では主要火砲の6インチ砲がすべて破壊された。こうした光景を目の当たりにして日本軍前線の将兵の士気は大きく高まったという[17]。2日間の砲撃戦ののち、21日に第三軍は総攻撃を開始した。

第1師団の攻撃

総攻撃開始に先立つ19日午前6時、友安安治少将率いる後備歩兵第1旅団(第1師団の指揮下として右翼隊を形成)は目標の大頂子山に攻撃を開始した。一部が敵前至近距離に迫ったものの猛烈な反撃を受け撃退された。夜半になり夜襲を仕掛けるも戦況は好転しなかった[18]。20日には歩兵第二旅団(旅団長:中村覚少将)基幹の左翼隊は水師営南方高地までは順調に進んだがここで敵の抵抗にあい、それでも水師営の一部と同西溝の猛攻の末22日に占領。夜半には93高地を夜襲で奪取した。

明けて21日、師団長の松村務本中将は司令部を高崎山に移す。歩兵第1旅団(旅団長:山本信行少将)基幹の中央隊が第一師団の攻略目標である南山坡山(通称海鼠山)及びその北端の鉢巻山を総攻撃。22日までにさしたる抵抗もなく占領するがまもなく激しい逆襲が行われ白兵戦が幾度となく展開された[19]。日本側は増援を送ろうにも鉢巻山へ至るには敵の寺児溝北方陣地の麓を通らねばならず、占領部隊への増援、補給は至難だった。補給線の確保も失敗し兵士たちは匍匐前進で弾薬や糧食を運ばなければならなかった[20]

第9師団の攻撃

第9師団でも歩兵第18旅団(旅団長:平佐良蔵少将)基幹の右翼隊が19、20日と竜眼北方保塁へ攻撃を開始。しかしこの方面は攻撃側が身を隠すような草木もなく、付近の砲台から集中射撃を受けて大損害を被る[21]

21日、左翼隊の歩兵第6旅団(旅団長:一戸兵衛少将)が盤龍山南北の堡塁に攻撃を開始。配下の歩兵第7連隊では3人の大隊長のうち2人が戦死し、遂には連隊長大内守静大佐自らが先陣をきって突撃するも、28発もの銃弾を浴びて戦死する程の激戦となった。一戸少将は歩兵第35連隊を増援に送るが失敗し、先月30日に戦傷で交代したばかりの連隊長、折下勝造中佐が戦死してしまう。このため一戸は夜陰に乗じて攻撃する方法に切り替える[22]

22日午前0時、各隊は一斉に夜襲をかけるが、ロシア軍は探照灯や照明弾で周囲を照らし機関銃を乱射してそれを阻んだ。戦闘は明るくなっても続き後備歩兵第8連隊が増援、午前10時頃、盤龍山東堡塁の占領になんとか成功、午後8時には西堡塁も占領した。しかしこの間戦い続けた第7連隊は大損害を被り、確保時の残余兵力は将校以下71名だった[23]。ともかく第9師団は盤龍山東西堡塁の攻略に成功し、ここは半ば要塞の第二防衛線に食い込んだ要地で望台までは約1kmだった[24]

第11師団の攻撃

第11師団長土屋光春中将は司令部を大弧山北嶺に移すが、敵の銃撃を受け、参謀2名が戦死した。

歩兵第10旅団(旅団長:山中信義少将)は東鶏冠山北堡塁、第二堡塁を攻撃。北堡塁の方は直前に外壕が見つかり、工兵隊の犠牲のもと、巨大な外壕に二条の突入路を築き、部隊が突入するが集中砲火を浴び、突入隊隊長の本郷少佐以下多くの死傷者をだし、外壕に躍り込んだ隊は全員戦死した[25]。第二堡塁の方は占領には成功するも退却するロシア軍が放った火が壕内の弾薬に引火し爆発、それが引き金となる周囲の堡塁砲台から集中射撃を受け突入隊隊長の吉永少佐以下死傷者が続出し、弾薬も無くなり残余兵40名はやむ無く撤退。鉄条網下の地隙に援軍をまった[26]。僅か3時間の占領であった。

望台への攻撃

乃木は占領した盤龍山堡塁を起点として望台への攻撃を命じた。しかし盤龍山堡塁を占領する第九師団の戦力は予備兵力を含めても約1000名に激減しており、第1師団から歩兵第15連隊(二個大隊欠)を応援に回し、第11師団も東鶏冠山堡塁への攻撃で疲弊した歩兵第10旅団(旅団長山中少将は疲労で倒れた土屋師団長の代理で師団本部におり、指揮は歩兵第44連隊の石原大佐が執る)を応援に出す。戦力が整った各隊は24日午前2時より攻撃を開始する[27]

しかしこれらの突入も情報を事前に察知していたステッセル中将の指示で準備を整えていたロシア軍の反撃で各隊は死傷者が続出した。午前7時、最後の予備兵力の歩兵第12連隊第一大隊が投入されるが要塞からの砲撃が激しく突撃は延期された。

24日午後5時、乃木は総攻撃の中止を指示した。第一回総攻撃と呼ばれたこの攻撃で日本軍は戦死5,017名、負傷10,843名という大損害を蒙り、対するロシア軍の被害は戦死1,500名、負傷4,500名だった。第三軍はほぼ一個師団分の損害を出したことになる[28]

この頃からロシア軍側は、旅順港内に逼塞した太平洋艦隊の海軍将兵で複数の中隊単位の陸戦隊を編成し、艦船の中小口径砲の一部も陸揚げして陸軍部隊の増援を図った[注 11]

第二回総攻撃前半戦(明治37年9月19日-22日)

正攻法への変更

第三軍は第一回総攻撃を歩兵の突撃による強襲法で行ったが、これは砲弾数不足で十分な支援砲撃ができない中で、大本営からの速やかなる早期攻略の要請に応えようとしたためであった。しかし要塞(望台)には歯が立たず兵力に大損害を被った。乃木は攻撃方法を再考し、正攻法へ切り替える考えを固めた。これは占領した盤龍山東西堡塁から要塞前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進み進撃路を確保し、歩兵の進撃の際は十分に支援砲撃を行う方式であり、貴下の参謀に調査(地質や地形、敵情など)や作戦立案を指示した[29]。8月30日、軍司令部に各師団の参謀長と工兵大隊長、攻城砲兵司令部の参謀などを招集し、正攻法への変更を図る会議を行った[30]。しかし前線部隊の意見は砲弾不足などを理由に強襲法継続の主張が強かった。この会議は6時間に及んだが、最終的には乃木の決断で正攻法に変更する事になり[31]、9月1日よりロシア軍に近接するための塹壕建設を開始した[32]

ロシア側も盤龍山堡塁を奪われたのは痛手だった。8月30日にロシア軍はコンドラチェンコ少将の独断により盤竜山を奪い返そうと攻撃を行ったが、日本軍の反撃を受け攻撃兵力の3割を失い失敗した[33]

9月15日、第三軍は対壕建設に目途が立ち、兵員・弾薬も補充できた。17日に各部隊に指示し、部分的攻撃を19日に開始するよう命令した。今回は第1師団、第9師団が攻撃を担当し、第11師団は前面の敵の牽制を担った[34]

第1師団の攻撃

19日午前8時45分、攻城砲兵は敵牽制の砲撃を開始、午後1時には攻略目標である龍眼北方、水師営両堡塁に砲撃を集中した。午後5時頃、第1師団左翼隊(歩兵第2旅団)は水師営第1堡塁への突撃を開始した。しかし外壕の突破に手間取り大損害を被る[35]。中央隊(歩兵第1旅団)は順調に進撃し、目標の海鼠山の北角を占領する[36]。右翼隊(後備歩兵第1旅団)はこの攻撃より目標に加えられた203高地攻撃を任される。しかしここも敵の猛射を浴びて大損害を被ってしまう[37]

20日、苦戦する左翼隊に第9師団が龍眼北方堡塁の占領に成功したという一報が入る。奮起した同隊は第4堡塁へ突撃を敢行しこれを占領、更に攻城砲兵が第1堡塁へ砲撃を開始し敵は沈黙、午前11時には水師営の全堡塁は日本軍の手に落ちた。中央隊も山頂で白兵戦をしつつも午後5時には海鼠山を占領した。

しかし203高地攻略は容易ではなく、なんとか山頂の一角を占領しつつも直後にロシア軍の大逆襲が始まり、午前5時には山頂を奪われたばかりか第2線も奪われ後備歩兵第16連隊長も負傷した。その後第1師団は師団砲兵の総力を挙げて203高地を砲撃し、前線に幾度となく増援を送るも道中で敵陣地からの攻撃を受け前線に辿り着いた者はいなかった。突撃は翌21日も行われたが効果がなく、結局は攻撃を断念ずる。担当した右翼隊の残存兵力は310名にまで激減していた。

第9師団の攻撃

同師団は右翼隊(歩兵第18旅団)の歩兵第19連隊が龍眼北方堡塁正面を、歩兵第36連隊が同堡塁の咽喉部と背後の交通壕への攻撃を行う[38]。しかしここでも要塞側の反撃で大損害を受ける。しかし翌20日、攻城砲兵の支援砲撃を開始すると堡塁は瞬く間に抵抗力を失い、午前5時には攻略に成功する[39]

28センチ榴弾砲の投入

第一回総攻撃が失敗に終わった後、東京湾要塞および芸予要塞に配備されていた二八センチ榴弾砲(当時は二十八糎砲と呼ばれた)が戦線に投入されることになった[注 12]。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため戦地に設置するのは困難とされていたが、これら懸念は工兵の努力によって克服された。

二八センチ榴弾砲は10月1日、旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始。20日に占領した海鼠山を観測点として湾内の艦船にも命中弾を与え損害をもたらした[40]。しかし艦隊自身は黄海海戦ですでに戦力を喪失しており、この砲撃がロシア将兵の戦意に強い衝撃を加えることはなかった[41]。砲撃自体は良好な成果を収めたため逐次増加され、最終的に計18門が第3軍に送られた[42]

対壕建設の再開と砲弾不足

この戦いでの損害は日本軍は戦死924名、負傷3,925名。ロシア軍は戦死約600名、負傷約2,200名だった[43]。 24日より各部隊は攻撃目標に向けての対壕建設を再開したが敵に近づくにつれて相手からの阻害攻撃が激しくなり工事は停滞する[44]。それでも各師団の奮闘で突撃陣地の構築を18日には完了する[45]。これを受けて第三軍は再度の総攻撃を決断した。当時は28センチ榴弾砲の追加送付分が準備の出来る10月27日頃を総攻撃の日と考えていたが、各砲の砲弾の不足が深刻化しだしていた。乃木は大本営に1門300発の補給を要請した(因みに当時要塞を落とす際に必要な砲弾数は1門につき1000発が基本的な数だった)が、補給を受ける事は出来なかった[46]。また10月16日にはロシア第二太平洋艦隊(通称「バルチック艦隊」)がリバウ港を出航した事を受け、乃木は砲弾不足を承知で第二次総攻撃を行わざるを得ない状況下におかれた[47]

第二回総攻撃後半戦(明治37年10月26日-30日)

10月18日、第三軍は二龍山堡塁と、松樹山堡塁の同時攻略計画を打ち立てた。双方の堡塁は密接な関係に有り、攻撃区分では第9師団が担当であったが戦力の余裕がなく、松樹山堡塁攻撃は第1師団が担当する事にした[48]。 23日、第三軍は各参謀長会議を行い、26日の総攻撃を決定した。第1師団が松樹山堡塁、第9師団が二龍山堡塁と盤龍山堡塁東南の独立堡塁、第11師団は東冠山の各堡塁(但し攻撃は第1・9両師団の攻撃が成功した後)を攻撃目標とする[49]。 この時点での主要部隊の戦力は

  • 第1師団 6869名(将校含む・以下同)
  • 第9師団 7277名
  • 第11師団 6940名
  • 後備歩兵第1旅団 3636名
  • 後備歩兵第4旅団 3368名

であった[50]。早朝よりの攻城砲兵による砲撃の後、まず第1師団、第9師団が攻撃を開始した。

第1師団の攻撃

第1師団では左翼隊の歩兵第2連隊が敵散兵壕の動揺を捉え突入しこれを制圧。ここから松樹山へ坑道掘進を開始する[51]。ロシア側も坑道を掘り、爆薬を仕掛けて日本側の坑道を破壊するなどで抵抗した。29日になるとロシア軍は逆襲に転じ午前7時に散兵壕を奪取される。第1師団は直ちに逆襲に転じて午後1時30分にはこれを奪い返す[52]

翌30日、攻城砲兵の事前砲撃の後、第2連隊は松樹山堡塁への突撃を開始した。周囲からの砲火を浴びながら連隊は敵塁の真下まで進出するが外壕の突破に手間取っている間に大損害を被りやむなく撤退する[53]。そのため外壕外岸からの坑道作業に入るが攻撃準備完了まで期日を要することになる[54]

第9師団の攻撃

第9師団は右翼隊の歩兵第19連隊が二龍山堡塁の斜堤散兵壕を占領し坑道掘進を開始する[55]。更に左翼隊も歩兵第7連隊が盤龍山北堡塁に突撃し、その1角を制圧する[56]。二龍山堡塁では松樹山と同様に血みどろの坑道戦が展開される。

30日、まず右翼隊が二龍山堡塁の外壕の破壊に取りかかる。しかし敵塁からの集中射撃と松樹山からの側防射撃に阻まれ占領地を確保するのがやっとであった[57]。 他方、一戸少将が指揮する左翼隊は盤龍山東堡塁東南の独立堡塁(P堡塁)への攻撃を開始。午後1時、工兵隊の爆破した突撃路を使って歩兵第35連隊が突入。僅か2分で堡塁を制圧する[58]

しかし午後10時30分頃、ロシア軍が逆襲に転じ、占領部隊は将校を多数失い退却した。堡塁下にいた一戸少将は退却の報を受けると予備の1個中隊を自ら率いて奪還に向かい、奪取に成功した。一戸少将の勇猛な活躍ぶりから、後にこの堡塁は「一戸堡塁」と命名される[59]

第11師団の攻撃

第11師団は待機していたが松樹山、二龍山の占領がまだなので攻撃できずにいた。しかし既に攻撃準備が整っており、この際は多少の犠牲も覚悟して突撃すべしという結論になり、30日より攻撃を開始する[60]

30日午後1時、まず右翼隊の歩兵第22連隊が東鶏冠山北堡塁を攻撃しその1角を制圧。しかし第2堡塁に向かった歩兵第44連隊は集中砲火を浴びて壊滅する[61]

中央隊の歩兵第12連隊は第1堡塁に向かう。前面の散兵壕を蹴散らしつつ進撃し砲台も占領した。しかし周囲からの射撃を受け被害が続出し、戦線維持が困難になり退却を余儀なくされる[62]

31日、未だ士気旺盛な右翼隊は外岸側防を制圧。しかし血気にはやる一部部隊が砲兵の支援を待たずに突撃し壊滅。結局第11師団も東鶏冠山を制圧できず、坑道作業に移行していく[63]

総攻撃の中止

日本軍は戦死1,092名、負傷2,782名の損害を出すが、ロシア軍も戦死616名、負傷4,453名と日本軍以上の損害を受けた。乃木は各師団が坑道作業に入った事で作業完了までには期日が必要と判断。総攻撃を打ち切った[64]

日本軍は前半戦の作戦目的は203高地以外は達成した。しかし後半の主要防衛線への攻撃は第9師団がP堡塁を占領した以外は失敗。このため日本側は第二次総攻撃も失敗と考えた。

第三回総攻撃(明治37年11月26日-12月6日)

第二回総攻撃の失敗はバルチック艦隊の来航に危機感を募らせる海軍を失望させ、要塞攻略よりも艦隊殲滅を優先し、観測射撃のための拠点を得るため203高地を攻略すべしという意見が出てくるようになる[65]。他方第三軍の上級司令部である満州軍は当初より要塞攻略を優先する方針を変えず、そのために望台を最終攻略目標にすることを変えなかった。またそれに何ら寄与しない203高地攻略に反対だった。第三軍も二回目の総攻撃は失敗したとはいえ、東鶏冠山堡塁の一部や同山第一堡塁、一戸堡塁を占領することには成功し、東北正面の防衛線をあと一歩で抜くことが出来たので、引き続き要塞正面を主攻にするという立場だった[66]

11月14日、203高地主攻に固執する参謀本部御前会議で「203高地主攻」を決定する[67]。しかし満州軍総司令官大山巌元帥はこれを容れなかった。大本営からの要旨にある「旅順港内を俯瞰し得る地点を占領し、港内の敵艦、造兵廠などに打撃を与うることをのぞむ」で、203高地を直接名指しして命令していないことを逆手に取り、「第三軍司令官をして、是迄の計画に従い鋭意果敢に攻撃を実行せしめ、旅順の死命を制し得るべき『望台』の高地を一挙に占領せしむるの方針をとるべし…」[68]。「203高地を落としても観測点として利用するだけでしかなく、砲を備えて敵艦を沈めるには長大な期日を要し、目的を達成できない」[69]。などと反論し、要塞東北方面攻略の立場を崩さなかった。総参謀長の児玉源太郎大将も、10月までの観測砲撃で旅順艦隊軍艦の機能は失われたと判断して艦船への砲撃禁止を第三軍に命じた[70]。また海軍のバルチック艦隊来航の脅威を必要以上に誇張し、海軍の都合だけ考えて海上輸送を中止しようとする一連の動きに対し抗議した[71]。こういった上層部の意見の食い違いは乃木と第3軍を混乱させ、第三回総攻撃案に大きく影響を与えた。

11月中旬に盤竜山・一戸両保塁から両側の二竜山と東鶏冠山保塁の直下まで塹壕を掘ることに成功しさらに中腹からトンネルを掘り胸壁と外岸側防を爆破することを計画[72]。総攻撃は11月26日と決定された。また参謀本部も内地に残っていた最後の現役兵師団の精鋭、第7師団を投入、部隊を第1、第9師団の間に配置し総予備とした[73]

各師団の攻撃

11月26日、松寿山堡塁攻撃を担う第1師団左翼隊は午後1時より外壕より突撃した。しかし身を潜めていたロシア軍の奇襲と周囲からの集中砲火と内壕の敵兵の逆襲で突撃した兵は壊滅。午後2時50分には外斜面に退却するしかなかった[74]

第9師団も午後1時より二龍山堡塁へ突撃を開始した。松寿山堡塁などからの側射を受けて大損害を受けたが突入を続け、なんとか敵前100mの地隙に到達するがそれ以上は進撃できなかった[75]

第11師団は東鶏冠山北堡塁の胸塔2箇所に爆薬を仕掛け点火。その後歩兵第22連隊が突入した。しかし敵堡塁の破壊は僅かで白兵戦となり多くの犠牲をだす。午後1時40分には土屋師団長が重症を負い陣地の争奪が激化、占領地の維持は出来なかった[76]

白襷隊の突入

26日夜半、有志志願による特別支隊(第1師団の歩兵12.25.35連隊の選抜隊員を基幹)「白襷隊」が歩兵第2旅団長を、中村覚少将の指揮のもとに攻撃を行った。この突撃隊は夜間の敵味方の識別を目的として、隊員全員が白襷を着用していた[77]。白襷隊は午後5時に薄暮の中行動を開始、集結点で月が昇るのを待ち、午後8時30分、目標へ動き出した[78]

午後8時50分、白襷隊は一斉に突入を開始した。しかし目標の松樹山第4砲台西北角には幾重にも張り巡らされた鉄条網があり、その切断作業中に側背より攻撃を受ける。白襷隊はひるまず突入し散兵壕を目指すが前方に埋めてあった地雷により前線部隊は殆ど全滅。後続部隊も奮戦するが死傷者が相次ぎ第1線の散兵壕まで後退する[79]

午後10時30分頃、指揮を執っていた中村少将が敵弾を受けて負傷、その後同隊は翌27日午前2時頃まで激戦を繰り広げるも突破は不可能と判断され、退却となった[80]

この攻撃は敵陣突破に失敗し、この時点での第三軍の損害は約7千名に達した。しかし守るロシア側も一時二龍山堡塁の守備兵は数名になり、松寿山第4砲台も予備兵力が10名になるなど、もう少しで突破を許してしまうような状況に追い込まれており[81]、ロシア側にも白襷隊の勇敢さに驚嘆する記述が多く残されている。

203高地への主攻変更

11月27日未明、乃木は当初の攻撃計画が頓挫したことで攻撃目標を要塞正面から203高地に変更することを考える。第三軍参謀の白井二郎少佐は第1師団に203高地攻撃を打診したところ快諾を得た[82]。満州軍司令部より派遣されていた福島安正少将はこの意見に反対を述べ、あくまでも要塞東北方面攻撃を主張したが、乃木の判断で203高地への本格的な攻撃が決定される[83]

午前10時、軍命令で東北方面攻撃の一時中止と第1師団を中核とした203高地攻撃を行うことが下達、午後5時には大本営と満州軍総司令部にそのような主旨の報告を行う[84]. 指示を受けた攻城砲兵司令部は直ちに砲撃を203高地に変更し、28センチ榴弾砲全砲をもって砲撃を開始した[85]砲兵第2旅団は203高地攻撃に際して妨害攻撃をするであろう敵の各砲台への砲撃を開始した。対するロシア軍は203高地に500余名、その北東の老虎溝山(標高177m)に千名の兵を配し、万全の体制をとっていた[86]

203高地攻撃

27日午後6時、28センチ榴弾砲の事前射撃により203高地の中腹散兵壕を破壊、午後6時20分、第1師団右翼隊(後備歩兵第1旅団)、中央隊(歩兵第1旅団)が突撃を開始した。敵砲台は攻城砲兵及び師団砲兵が制圧し、右翼隊は鉄条網を排除しつつ前進し、一部は203高地西南部、敵の第2線散兵壕の左翼を奪取した。更に前進を続けるも周囲からの敵の大口径砲の援護砲撃で損害を被る[87]

中央隊は老虎溝山に突撃を開始、山頂散兵壕の一部を奪うが夜になって敵の逆襲により撤退した[88]

翌28日、第1師団は再び攻撃を開始した。右翼隊は後備歩兵第38連隊の増援を受け8時頃突撃を開始、第2線散兵壕を奪うが死傷者が続出し現在地の確保で精一杯になる[89]。友安旅団長は後備歩兵第16連隊を増援に回し、10時30分に山頂へ突撃し頂上を制圧した。しかし直ぐ様ロシア軍の逆襲にあい山頂を奪還される[90]。それでも左翼隊は粘り強く攻撃を続け、正午頃には西部山頂の1部を奪回し敵の逆襲に備えた[91]

一方の中央隊は203高地東北部に対する攻撃を意図し攻撃準備をしていたが、その間敵の攻撃を受けて歩兵第1連隊長の寺田錫類大佐が重症を負い、まもなく戦死する[92]。それでも旅団長馬場命英少将自ら指揮を取り突撃を繰り返すも効果なく、一時は東北部山頂を占領するも、敵に奪還された。

11月29日午前2時、第1師団より現在の師団兵力では203高地攻略は難しい旨の連絡が軍司令部に届く[93]、これを受けて乃木は予備の第7師団の投入を決意、午前3時に麾下の各部隊と満州軍総司令部、大本営にその旨を連絡した。この直後、満州軍より児玉総参謀長が旅順に赴く旨の連絡が入る[94]

午前7時、第7師団長大迫尚敏中将が高崎山の第1師団司令部に到着し、203高地攻撃の指揮権を継承した。大迫は第7師団と第1師団の残存兵力で攻撃部署を決める。

  • 203高地攻撃:友安治延(後備歩兵第1旅団長)少将指揮
    • 歩兵第1連隊1.3大隊、歩兵第26連隊2大隊、歩兵第28連隊、後備歩兵第15連隊1.3大隊、後備歩兵第16連隊、後備歩兵第38連隊2大隊、工兵1個中隊
  • 老虎溝山攻撃隊:吉田清一(第7師団歩兵第13旅団長)少将指揮
    • 歩兵第1連隊2大隊、歩兵第15連隊2大隊、歩兵第25連隊3大隊、歩兵第26連隊、工兵1個大隊半
  • 砲兵隊:兵頭雅誉(野戦砲兵第1連隊長)大佐指揮
    • 野戦砲兵第1連隊、野戦砲兵第7連隊、野戦重砲兵第1連隊1大隊[95]

30日午前6時、攻城砲兵は砲撃を開始、まず歩兵第28連隊が山頂東北部に突入。第三攻撃陣地まで前進するが敵の猛射で釘付けにされる。西南山頂は後備歩兵第15.16連隊が向かうがこれも側射を受けて損害を被り攻撃を断念する[96]

老虎溝山攻撃は午前10時より開始され、午後1時まで幾度となく波状攻撃を繰り返すが悉く撃退される[97]

午後4時50分、第1師団長より攻撃再開の命が下る。6時40分に東北部山頂に突入し、接戦のすえ一部占領に成功。その後一進一退の攻防で占領地の一角を死守することに成功した。 午後5時には203高地の完全占領の報が届き、大本営や満州軍に伝わるが誤報で、翌12月1日午前2時には敵に奪還される[98]

夜半、友安少将は増援の二個中隊を率いて前線に向かう旨、各部隊に伝令を出すが、その任務を帯びていた副官の乃木保典少尉は銃弾を受けて戦死する[99]

12月1日、死傷者の収容と態勢を整えるため、4日まで攻撃を延期する[100]。 正午、満州軍司令部から旅順へ向かった児玉満州軍総参謀長が到着。その途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知った児玉は大山満州軍総司令官に電報を打ち、北方戦線へ移動中の第8師団の歩兵第17連隊を南下させるように要請した[101]

12月1日から3日間を攻撃準備に充て、第3軍は攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行った[101]

12月4日早朝から203高地に攻撃を開始し、5日9時過ぎより、第7師団歩兵27連隊が死守していた西南部の一角を拠点に第7師団残余と第1師団の一部で構成された攻撃隊が西南保塁全域を攻撃し10時過ぎには制圧した[102]

12月5日13時45分頃より態勢を整え東北堡塁へ攻撃を開始し、22時にはロシア軍は撤退し203高地を完全に占領した。翌6日に乃木は徒歩で203高地に登り将兵を労うが、攻撃隊は900名程に激減していた[103]

12月5日の203高地陥落後、同地に設けられた観測所を利用した日本側の砲撃によりロシアの各艦は大多数はすでに戦力を失っていたが次々と沈没着底した。まず5日に戦艦ポルターヴァが後部弾火薬庫の誘爆で沈没、翌日には多数の命中弾を受けた戦艦レトヴィザンが沈み、ペレスヴェートポベーダの両戦艦も大きな損害を受けて8日に防護巡洋艦パラーダと共に沈没した。9日には装甲巡洋艦バヤーンが沈み、大型艦で生き残ったのは8日の深夜に港外に脱出したセヴァストーポリのみとなった[104]

この攻撃での損害は日本軍は戦死5,052名、負傷11,884名。ロシア軍も戦死5,380名、負傷者は12,000名近くに達した。両軍がこの攻防に兵力を注ぎ込み大きく消耗した。203高地からはロシア太平洋艦隊のほぼ全滅が確認され、児玉は12月7日に満州軍司令部へ戻った[103]

なお旅順港外に脱出した戦艦セヴァストポリと随伴艦艇に対して、日本海軍は30隻の水雷艇で攻撃し、12月15日の深夜の攻撃で同艦は着底し、航行不能となった[105]

要塞東北面突破とロシア軍の降伏

「水師営の会見」乃木将軍は降伏したロシア将兵への帯剣を許した

12月10日、第11師団による東鶏冠山北堡塁への攻撃を開始。15日に勲章授与のため兵舎を訪れていたコンドラチェンコ少将が二八センチ榴弾砲の直撃を受け戦死した。

18日には日本軍工兵が胸壁に取り付けた2トンの爆薬による爆破で胸壁が崩壊、ロシア軍は僅か150名の守備兵しかいなかったが果敢に反撃し第11師団は戦死151名、負傷699名もの損害を受け激戦の末夜半に占領した。ロシア側は150名中92名が戦死するという玉砕に近い抵抗だった[106]。乃木司令部は以降も胸壁や塹壕を完全に破壊してから突撃に移る方針を続けた。

28日には第9師団による二竜山堡塁への攻撃が始まる[107]。胸壁を3トン弱の爆薬で爆破し300名の守備兵の半数は生き埋めとなるが残兵が激しく抵抗、水兵の増援もあり双方射撃戦になる。しかし歩兵第36連隊が後方に回り込み、それを見たロシア軍守備隊の撤退により、29日3時に遂に占領された。第9師団は戦死237名、負傷953名の損害を被り、ロシア軍も300名以上の死者を出した[108]

31日、第一師団による松樹山堡塁への攻撃が始まりロシア軍守備兵208名のうち坑道爆破で半数が死亡、占拠した二竜山保塁からの援護射撃もあり後方を遮断することに成功、11時に降伏した。第一師団は戦死18名、負傷169名の損害を被りロシア軍も生存者は103名だった[109]

1月1日未明より日本軍は重要拠点である虎頭山や望台への攻撃を開始。ロシア軍はそれまで203高地攻防などで予備兵力がすでに枯渇し、東北面の主要保塁も落ちたことで士気は落ち込んでおり、首脳部も抗戦派は勢いを失っていた。日本軍は午後に望台を占領した。16時半にロシア軍は降伏を申し入れた[110]

5日に旅順要塞司令官ステッセリと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称え合い、ステッセリは乃木の2人の息子の戦死を悼んだ。また、乃木将軍は武士道精神に則り降伏したロシア将兵への帯剣を許した。この様子は後に文部省唱歌「水師営の会見」として広く歌われた。こうして旅順攻囲戦は終了した。日本軍の投入兵力は延べ13万名、死傷者は約6万名に達した。

影響

旅順に入城する日本軍の絵葉書
陥落後の旅順港
戦艦レトウィザンの被害状況

旅順要塞の攻略によって旅順艦隊は最終的に撃滅された。

日本軍は本格的な攻城戦の経験が少なかった。陸軍全体に近代戦での要塞戦を熟知した人間が少なく、第1回総攻撃では空前の大損害が生じてしまった。要塞攻略に必要な坑道戦の教範の欠如に関しては、当時は日本だけでなく欧米列強において火力万能主義の時代であったため、坑道戦術自体が軽視されていた。戦争直前の工兵監であった上原勇作も坑道教育にはあまり重視しておらず、むしろ前任の矢吹秀一工兵監時代に非常に坑道教育に力を入れていた。旅順戦においては、矢吹工兵監時代の記憶を辿って攻城教程を作成した[111]。戦後明治39年に坑道教範が作成され、小倉に駐屯していた工兵隊によって、初めての坑道戦訓練が敵味方に分かれて実施された。

軽量化が図られた上に毎分500連発と実用性の高い機関銃であるマキシム機関銃は、この戦闘で世界で初めて本格的に運用され威力を発揮した。機関銃陣地からの十字砲火に対し、従来の歩兵による突撃は無力であることを実戦で証明した。この状況を打開する攻撃法を日露戦争後も暫くは見いだすことはできなかった。同時代のヨーロッパ各国でも、機関銃をごく少数配備していただけで運用法も確立されていなかった。この戦闘における機関銃の威力は各国観戦武官によって本国に報告されたが、辺境の特殊事例としてほとんど黙殺された。その結果数年後に起こる第一次世界大戦緒戦で欧米列強の陸軍指導層は、機関銃や榴散弾の風雨に歩兵を生身で突撃させるという旅順攻囲戦第一次総攻撃と全く同じ事を繰り返し、日本以上に犠牲を払う事になった。ヨーロッパ各国がこの事実に気づき、塹壕に籠る機関銃の攻撃に対して有効な解決策が考え出されるのは第一次世界大戦戦車の開発や、歩兵による浸透戦術の採用まで待つことになった。

当時の日露両軍は世界的に見ても例外的に機関銃を大量配備していたが、早くから防衛兵器としての運用を考え出したロシア軍に対し、日本軍側はあくまでも野戦の補助兵器として考えていたので、初期には効果的な運用は行われていなかった。後に日本側もロシア側の運用法を応用した。

参加兵力

日本軍

第3軍 - 軍司令官:乃木希典大将

ロシア軍[112]

ロシア関東軍 - 軍司令官:アナトーリイ・ステッセリ中将

旅順攻囲戦に関する論点

203高地

203高地から見た防戦中の旅順港
1904年12月14日
同2006年1月
日本陸軍の二十八糎砲
日本海軍陸戦重砲隊の15センチ砲

203高地は要塞主防御線の外側に位置しており、ここの防御施設はいわゆる前進陣地として築かれた。

本高地から旅順港内が展望できるということはロシア側も開戦前から承知していたが、予算不足で規模が縮小されたこともあり防御線には組み込まれなかった[3]。開戦後は、コンドラチェンコ少将により補強され、総攻撃開始までにかなりの防御を有するまでになってはいた[113]。しかし他のロシア軍陣地から距離があり戦闘中には兵力投入の移動にも危険を伴うので従来通り前進陣地として運用する予定だった。

しかしながら戦闘を経てロシア軍は方針を変更して203高地を固守するようになり予備兵力を次々とここに注ぎ込んでいった。日本側としてみたら予備兵力の消耗を誘う上では最適の戦場であった[114]

203高地攻防戦の終局後、ロシア側の抵抗力は著しく減衰しており、12月中旬より行われた東北面の主防御線上の攻防戦では主要三保塁と望台という重要拠点が立て続けに陥落した。要塞司令官ステッセリが降伏を決断した理由は、予備兵力を消耗したことにより戦線を支えられなくなったためである[注 13]。203高地は、この意味では旅順攻囲戦において重要な場所であった。

203高地の攻防戦については、様々な見解が語られている。特に203高地の観測所としての価値を重視する見解が多い。本防御線の外から旅順港内のロシア艦艇を砲撃する場合の観測所として本高地は最適な場所であり、攻略は早期に行われるべきだったとするものである。

だが第三軍の作戦目的は要塞の攻略であり旅順艦隊の殲滅ではなかった[8]。実際にも総攻撃開始時点で第三軍に配備されていた重砲は最大で15センチ榴弾砲であり、戦艦を砲撃して大打撃を与える能力は持っていなかった[115]

また、観測所の設置自体は本高地以外でも可能であり、攻囲戦の早期から効果的に行われていた。第1回総攻撃以前の7月30日に、すでに占領していた前進陣地の一つである大孤山に観測所が設置されている。大孤山を観測所とする砲撃による損傷に耐えかねたために、旅順艦隊は旅順港を出て黄海海戦に至った。海戦後に旅順港に舞い戻った旅順艦隊は、以後戦局が進むにつれて諸処に増設された観測所群によって次第に停泊所を奪われていき、遂には龍河河口の浅瀬(干潮時には砂州に座礁して船体を傷め行動不能になることを免れない)に追い込まれた。

旅順港には大艦を収容できるドックがなく、砲撃による損傷の修理もままならなかった。また、艦船の乗組員を陸戦隊として地上戦に投入することは攻囲戦の初期から行われており、203高地が占領される以前より旅順艦隊の戦力は著しく低下していた。本高地が最適な観測所であったことは事実としても、戦況の進展に伴って、占領当時にはその価値は相当に減じていたと言える。

203高地の観測所としての価値を重視する場合、203高地が攻略されて旅順艦隊が壊滅し、これによって旅順要塞も存在意義を失って降伏したという見解に繋がるのだが、 実際には12月6日の203高地占領から1月1日の要塞降伏までは25日もの日数が存在した。旅順要塞の存在意義をいうのならば、艦隊の有無に関わらず、第3軍を可能な限り長く旅順攻略作戦に拘束することにも大きな意義があるわけで、旅順艦隊の存否がロシア軍が降伏を決断したことの主要因とは言えない。

第三軍司令部は、攻囲完成以後の継続的な砲撃によって旅順艦隊の戦闘力は失われつつあることを認識しており、大本営にもそのように報告した。しかしながら大本営は203高地に執着しており、ここへの攻撃を要求し続けた[注 14]。第三軍はこれに従わず、また第三軍が所属する満州軍総司令部[注 15]も大本営からの容喙に強く拒絶の意を示した。大山総司令と児玉総参謀長はそれぞれ大本営と山県参謀総長に電報を送り203高地主攻に不同意を伝えた[116]

大本営がこのように強硬に旅順攻囲戦に介入してきたのは、海軍側の意見を容れたものと思われる。このことから連想されたものか、203高地の攻略を陸軍に進言したのは海軍の秋山真之少佐であるとする説があるが、根拠に乏しく(書簡[注 16]は時期が遅すぎる)、現在では否定されている。

第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった。海軍からこの時点で203高地攻略の要請があったと小説などで描かれることも多い[117]が実際には、この時点で203高地攻略を論じられたことはなかった[118]。大本営が総攻撃前に唱えていたのは主目標を西北の椅子山、大案子山の突破、もしくは地形が平坦で進軍しやすいと予想される西方からの攻撃による要塞の攻略であり203高地云々は考慮されていないものであった。これらは鉄道線から離れていて策源地から遠く補給に難がある。更に平坦部は移動中に敵に姿を曝け出し被害を増す危険があったので却下された[119]。仮に、第1回総攻撃の時点で第3軍が203高地を主目標に含め、これを占領できたとしても、至近に赤阪山・藤家大山という防御陣地が構築されており、また背後に構築された主防御線内の多数の保塁・砲台から猛烈な砲撃を受けることは容易に想像でき、占領を維持することは困難であったと考えられる[注 17]

高地の占領をこの時点で維持できたとしても上記の通り第三軍は旅順艦隊を撃滅するだけの重砲を持ってなかった。この時点で所持する重砲は、艦船攻撃用には、海軍陸戦重砲隊の12センチ砲6門[注 18]のみで、装甲で覆われ重要部は30センチ砲にも耐える設計の戦艦に大打撃を与える力はない。陸軍側の重砲も15センチ榴弾砲16門と12センチ榴弾砲28門だが、最大の15センチ榴弾砲もこれは海軍の艦載砲より砲身も短く初速が低く艦船への攻撃力は劣る[115]。後に加わった陸軍の二十八糎砲も鋳鉄製などの理由でこの時代の主力艦に対する貫通力・破壊力は劣る。

それでも仮に旅順艦隊を殲滅出来たとしても、要塞守備隊を降伏させなければ第三軍は北方の戦線に向かうことができない。艦隊殲滅後にやはり正攻法による要塞攻略を完遂しなければならない以上、包囲戦全体に費やされる期間と損害は変わらないと予想される。むしろ史実ほど兵力を消耗することなく主防御線を堅固に守られてしまい、要塞の攻略は、より遅れた可能性すらある。

旅順攻略については、各論として陸軍、特に乃木第三軍の分析が多いが、海軍の失敗を陸軍が挽回したというのが総論として近年定着している。

開戦前の計画段階から陸軍の旅順参戦を拒み続けた海軍の意向に振り回され、陸軍の旅順攻撃開始は大幅に遅れた[注 19]。開戦から要塞攻略戦着手までの期間が長すぎたために要塞側に準備期間を与えることになったことは、旅順難戦の大きな要因として指摘される。しかし、近代戦における要塞攻防戦の何たるかを知らなかった当時の事情、またそもそも当時の日本の国力・武力を考えれば、結局のところ無理を承知でこのような作戦を行わざるを得なかったとも言える。

乃木希典

第3軍司令官 乃木希典

賛否両論ともにあり、それらが論じられてきたおよその経緯は次の通り。

日露戦争勃発時の乃木は休職中だったが、日清戦争の戦績から野戦が得意な将軍と評価されており、一般的にも高く評価されていた。乃木は長州戦争での従軍を皮切りに、それ以後も連隊長、旅団長、師団長、そして軍司令官のすべてで実戦経験を有する歴戦の指揮官である。また乃木は各軍司令官の中で最年少だった(野津64歳、黒木61歳、奥59歳、乃木56歳)。旅順攻略戦が難航すると、東京の乃木邸に投石されたり、軍司令部に批判の投書が多数寄せられるなど激しく批判された。その後攻略戦が勝利に終わり、水師営会見などの美談が喧伝されたことや、奉天会戦における活躍から、凱旋帰国時には非常に好印象をもって迎えられた。日露戦後も概ね評価は高く、明治天皇大葬の際に殉死するに及んで神格化された。

その後、伊地知幸介第3軍参謀長と犬猿の仲であった井口省吾満州軍参謀が陸軍大学校長を六年半(1906年(明治39年)2月-1912年(大正元年)11月)と長期に勤め、またその後、陸軍内部において長州閥排斥の気運が高まり、陸軍大学の教官が結束して山口県出身者を入学試験に合格させなかったことなどがあった。井口が陸軍大学校長を務めていた時期に入校し優等で卒業(1909年(明治42年)-1912年(大正元年))した谷寿夫が、後に陸大兵学教官となった際に日露戦争の政戦略機密戦史を著した。いわゆる戦争指導史であり俗に「谷戦史」[注 20]と呼ばれる。「谷戦史」中の旅順戦に関する記述は、伊地知第3軍参謀と意見を異にした長岡外史参謀次長、井口省吾満州軍参謀の書簡を原資料としたものが大部分を占め、実際の当事者である第3軍参謀部(伊地知幸介、大庭二郎白井二郎津野田是重ら)による記録によるものがなく、一方的見地に偏った資料が用いられており、また誤りも多い。
以上のような経緯が、後世の第3軍の戦争指導ならびに乃木・伊地知らの評価に影響を与えた。

太平洋戦争後の昭和40年代に「谷戦史」が『機密日露戦史』と題して原書房から刊行された[120]。その後、小説家司馬遼太郎が、旅順攻囲戦で日本軍が膨大な戦死者[注 21]を出したのは第3軍司令官の乃木と参謀長の伊地知幸介の無為無策が原因とする考えに基づいて小説を発表した。 司馬のいわゆる愚将論は一般的に受け入れられ、これと同じ考えに基づく書籍が多く出版された。しかし、これらには誤解・偏見を根底とした誤りが多く見られ、公平な評価とは言い難いものだった。これらの点を考察し直して当時の状況を考慮すると、史実程度の損害は、これをやむを得ないものと擁護する意見、またその程度で目的を達した事はむしろ評価すべきとの意見も出ている。一方で、人気の高い司馬小説は解説・ガイド本の類が発行される場合が多く、その中では小説の記述を事実と見なして書かれることが多いため、誤解・偏見を根底とした誤りに基づく評価も再生産され、未だに根強く支持されている。以上のように現在も賛否両論があり評価は定まっていない。

現在、攻城戦間に乃木が記した日記の内容が一部公開され、また福島県立図書館の佐藤文庫には「手稿本日露戦史(仮称[注 22])」の旅順戦関連部分が所蔵されていることが明らかになった。また以前から防衛研究所資料室に第三軍参謀大庭二郎の日記が所蔵されていることは知られていたが、長く研究資料とて活用されないままでいた。これらの考察が深まるにつれ、以後も評価は変化していくと思われる[注 23]

第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという[注 24]。また乃木が自ら失策を悔やみ、それに対する非難を甘受したことは、乃木の徳という見方と無能故の所作という見方ができる。

司馬遼太郎のような乃木無能論と正逆の立場から乃木の作戦を評価する声として、当時の従軍記者、スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn、1878-1950)の記録が挙げられる。ウォシュバンの指摘では、第一回総攻撃の後、乃木は即座に強襲策の無益さを悟り、工兵と一般士卒に、銃剣に変わって鶴嘴ととシャベルという見栄えはしないが効果的な武器を取らせ、塹壕をなるべく攻撃目標に向かって延伸し、余すところ200-30ヤードになった地点から、砲兵の援護射撃のもとに攻撃を開始するという攻撃方針に変更したとしている。さらに、203高地の重要性を指摘し第7師団を集中的に投入する方向で第三軍の軍議をまとめたのも乃木であったとしている[121]

第三軍司令部

司馬の作品を含め明治当時から現代に至る無能論の主な根拠には以下のものがある。

  1. 単純な正面攻撃を繰り返したといわれること。
  2. 兵力の逐次投入、分散という禁忌を繰り返したこと。
  3. 総攻撃の情報がロシア側に漏れていて、常に万全の迎撃を許したこと。
  4. 旅順攻略の目的はロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであったにも関わらず、要塞本体の攻略に固執し無駄な損害を出したこと。
  5. 初期の段階では、ロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず防備は比較的手薄であった。他の拠点に比べて簡単に占領できたにもかかわらず、兵力を集中させず、ロシア軍が203高地の重要性を認識し要塞化したため、多数の死傷者を出したこと。
  6. 旅順を視察という名目で訪れた児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更し、作戦変更を行ったところ、4日後に203高地の奪取に成功したと伝えられること。

などが多く述べられているが、最近では新資料の発見や当事者である第三軍関係者の証言・記録などから事実誤認、知識不足による誤った結論などであったことが分かってきている。上記の6点に対しても

  1. 第一次総攻撃以降は攻撃法を強襲法から塹壕を掘り進んで友軍の損害を抑える正攻法に切り替えており、単純な正面攻撃を繰り返したと表現することは事実ではない[122]。正面というのも、旅順要塞自体は全周囲を防御している要塞であり正面とか側面などというのは存在しない。北東方面も203高地のある北西方面も同等の防御機能を持っている[123]ので、自軍の部隊展開や補給面で有利な東北方面を主攻に選んだ判断は誤りではない。
  2. 兵力を分散するというのは機関銃や榴散弾が本格的に投入されだしたこの時代では逆に必須なことで、集中するとかえって犠牲を増やすだけである。塹壕戦の突破法として第一次世界大戦で編み出された浸透戦術も歩兵が小隊や分隊に散らばって目標に攻め込むものであり、第三軍はいち早くそれを取り入れたことになった。
  3. 総攻撃の情報が敵に漏れていたという確実な証拠は存在しない。当時の物資輸送面からして総攻撃に準備が1ヶ月は掛かるため、「毎月26日頃に攻勢をかけるのでロシア軍もそれに気付いて準備していた」という話は早期攻略を迫られた第三軍としては致し方ない面もある。
  4. 旅順攻略の目的は終始要塞攻略であり艦隊撃滅ではない「艦隊撃滅が目的だった」というのは誤り[124]。また第一次総攻撃時点で第三軍には重砲にその様な能力はないので[115]、艦船の撃滅自体不可能だった。第三軍が艦隊殲滅を目的に編成された部隊でない事が分かる。命令が要塞攻略である以上、それに何ら寄与しない203高地攻略は第三軍は選択できないのは当たり前である。11月に大本営が御前会議を開いてまで203高地主攻を決めたが、第三軍の上級司令部たる満州軍が反対しているので第三軍としては従来通りの攻撃を続けたことは当然である。是非はともかく、固執した点を問題視するなら第三軍ではなく満州軍の方が上級司令部である以上責任が大である[125]
  5. 203高地が初期の段階で防御が手薄だった事実はなく、第二軍の南山攻略戦後からすでに防御強化の工事が始められている[126]。第一次総攻撃時点で第三軍の12センチ榴弾砲の砲撃に耐えうる強固さを持っていたし(攻城砲兵司令部参謀佐藤鋼次郎中佐談[113])、守備兵力も9月時点で613名だった203高地は12月の最終攻撃時で516名であり[127]増強されているわけでもない。もし仮に当初より攻めるにしても、要塞北西方面は鉄道もなく主要な道路もないので部隊転換がしずらく[128]、早期に攻勢に出るよう要請する海軍や大本営の要請には答えられない。
  6. 目標を203高地に変更したのは児玉が来る以前、第三次総攻撃中で判断したのは乃木である。児玉ではない(児玉自身は203高地攻略に反対すらしている)。作戦も児玉が来てから変更された点は殆どなく、従来の第三軍のプランのまま実行されている。重砲の配置転換は12センチ榴弾砲と9センチ臼砲が数10門だけであり、主力の28センチ榴弾砲は動いていない。動いた重砲も目標を203高地ではなく遥か後方の陣地にしており、203高地攻撃に直接寄与していない。他にも同士討覚悟の連続砲撃はすでに攻城砲兵司令部によって行われていた[125]、と反論されている。

他にも、要塞構築に長じるロシアが旅順要塞を本格的な近代要塞として構築していたのに対して、日本軍には近代要塞攻略のマニュアルはなく、急遽、欧州から教本を取り寄せ翻訳していた。旅順要塞を甘く見ていたのは第三軍だけではなく、大本営も満州軍も海軍も同様である。また、陸軍が手本にした仏独両陸軍からして要塞攻略の基本は奇襲か強襲を基本としており[129]、当時の感覚では強襲法が「愚策」ではなかったことが分かる。逆にこの戦いで初めて問題提起されたとすら言える。

海軍の問題

海軍は日露開戦以来陸軍の旅順参戦をさせず、海軍独力での旅順艦隊の無力化に固執した。ぎりぎりまで陸軍の旅順参戦を拒み続け、陸海軍の共同和合を軽視無視した海軍の方針、乃木第3軍参戦(第1回総攻撃)までの旅順攻略における海軍の作戦失敗の連続[注 25]といった、海軍の不手際[注 26]も攻略の困難さの主因として無視できない。

軍中枢部の問題

  • 命令系統の問題
日露開戦後に現地陸軍の総司令部として設置された満州軍総司令部の方針と東京に存在した大本営の方針が異なり、それぞれが乃木第三軍に指令通達を出していたという軍令上の構造的な問題があり、第三軍の作戦に影響を与え続けた[注 27]。御前会議を経て11月半ばころにようやく、『旅順攻撃を主目標としつつも、陥落させることが不可能な場合は港内を俯瞰できる位置を確保して、艦船、造兵廠に攻撃を加える』という方針で満州軍総司令部(大山司令官)と大本営間の調整が付いた[120]
  • 補給の問題
弾薬の消費予測を陸軍省は日清戦争を基準に計算していたため、第三軍のみならず全軍で慢性的な火力不足、特に砲弾不足に悩まされていた。要塞攻略に際しては、欧州においては必要な砲弾数は1門につき千発が基本だったが第三軍の1門800発の要請に対し陸軍省は相談なしに1門400発と勝手に変更し激論となった。軍政側の砲弾備蓄の見積の甘さも責任として大きい事も指摘される[130]

児玉源太郎

満州軍総参謀長 児玉源太郎

旅順攻囲戦においては児玉源太郎満州軍総参謀長の功績が語られることがある。日本軍が203高地を攻略したのは児玉が旅順に到着した4日後であった。これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたと機密日露戦史で紹介され司馬遼太郎の作品などで世間に広まった。ただし、機密日露戦史は旅順戦に於いて第三軍の方針と反発した大本営側の人間の証言を取り入れ現場の第三軍側の証言を殆ど採用していない偏った内容の資料であり誤りも多いことが別宮暖郎、長南政義、原剛などの研究調査で判明し書籍などで発表されている[131]

まず、司馬の作品などで児玉らは203高地攻略を支持していたかのように描かれているが、児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持している。正攻法の途中段階で大本営や海軍に急かされ実施した2回の総攻撃には反対で、準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。そのためには港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当然203高地攻略も反対だった[132]

満州軍自身も児玉と同じく東北方面攻略を支持していた。しかし第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みがなくなると決心を変更し203高地攻略を決意した。これに満州軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍の白井参謀が説得した程だった[133]

児玉が来訪時に第三軍司令部の参謀に対して激怒し伊地知参謀長らを論破したとも言われているが、第三軍の参謀は殆どが児玉と会っておらず電話連絡で済ませている[注 28]ので事実ではない。地図の記載ミスで児玉に陸大卒業記章をもぎ取られたのは第三軍参謀ではなく第7師団の参謀であるし、戦闘視察時に第三軍参謀を叱責した話も事実ではない(この際同行していたのは松村務本第一師団長と大迫尚敏第七師団長)[134]

また児玉が命じたとされる攻城砲の24時間以内の陣地変更と味方撃ちを覚悟した連続砲撃も、児玉は実質的には何もしていない。すでに28センチ榴弾砲は第三軍に配備されていた全砲門が203高地戦に対して使用されているし、児玉来着から攻撃再開の5日までの間に陣地変更することは当時の技術では不可能である。実際のところは12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を203高地に近い高崎山に移しただけである[134]。味方撃ち覚悟で撃つよう児玉が命じたと機密日露戦史では記述されているが、攻城砲兵司令部にいた奈良武次少佐は「友軍がいても砲兵が射撃して困る」と逆に児玉と大迫師団長が攻城砲兵に抗議したと述べている。奈良少佐の「ロシア軍の行動を阻止するためには致し方ない」という説明に児玉は納得したが、第三軍の津野田参謀も「日本の山砲隊は動くものが見えたら発砲していた」と証言しており、児玉ではなく第三軍側の判断で味方撃ち覚悟で発砲していたことが分かる[135][134]

攻撃部隊の陣地変更などもなされておらず、上記の様に従来言われる児玉の指揮介入も大きなものではなかったことから見て、203高地は殆ど従来の作戦計画通りに攻撃が再開され第三軍の作戦で1日で陥落したことが分かっている。

近年、第三軍参謀白井二郎や独立砲兵大隊長上島善重の回想といった第三軍司令部側の史料から、児玉が旅順で実際に第三軍の作戦に指示を与えていたことを指摘する研究が新しく出されている[136][137]。ただし、これによると児玉は作戦立案自体は伊地知幸介第三軍参謀長以下の第三軍司令部に行わせており、児玉の発案だけで作戦が決まったとは述べられていない。上記の通り作戦自体ほとんど変更が見られない点から見ても、児玉の指導があったにせよ内容的には極めて少なかったと考えられている。

近年の傾向として、203高地攻めにおける児玉の関与は少なかったという見解が大勢であるが、これに反する意見を秦郁彦が『二〇三高地攻め「乃木・児玉対決シーン」の検証』[138]の中で提示している。この中で、秦は12月5日の突撃計画を「実質的には児玉が指揮した作戦と称してよい」「いかにも彼らしい果敢な着想が折りこまれていた」と述べ、児玉の関与が強かった事を主張している。

長岡外史

旅順攻略戦当時に参謀本部参謀次長の職にあった。開戦時の大山参謀総長と児玉参謀次長が、満州軍総司令部設置に当たり内地を離れ大陸に移動するに及んで児玉次長の後を任された。長岡はのちに「長岡外史回顧録」を纏め[注 29]、その中で旅順攻略戦についての感想を残している。長岡の記述は「谷戦史」などに引用されるなど、後世の旅順攻略戦研究に大きな影響を与えた。当時の陸軍中央部に位置した人物の記録であり貴重なものであることは間違いないが、その内容には明らかな誤りが認められる。

例えば9月の攻撃は、主防御線より外側の前進陣地を攻略対象としたものであり、龍眼北方保塁や水師営周辺保塁また203高地周辺の拠点の占領に成功しているのだが、「第一回総攻撃と同様殆ど我になんらの収穫なし」と誤りを述べている。また10月の旅順攻撃が失敗に終わったことについては「また全く前回のと同一の悲惨事を繰り返して死傷三千八百余名を得たのみであった。それもそのはずで、一、二、三回とも殆ど同一の方法で同一の堅塁を無理押しに攻め立てた」と述べており、主防御線への攻撃と前進陣地への攻撃の区別もなされず、また強襲法から正攻法へと戦法を変更したことについても触れていない。

203高地については「9月中旬までは山腹に僅かの散兵壕があるのみにて、敵はここになんらの設備をも設けなかった」と述べ、これを根拠として「ゆえに9月22日の第一師団の攻撃において今ひと息奮発すれば完全に占領し得る筈であった」との見解を述べている。この長岡の見解は多くの著作に引用されているが、これは現在の研究によれば否定される[139]

28サンチ榴弾砲の旅順送付についても、自己の関与が大きかったことを述べているが、現在では長岡の創作(擁護するとしても記憶違い)であると結論付けられている。同砲を旅順要塞攻撃に用いることは、第3軍編成以前の5月10日に陸軍省の技術審査部が砲兵課長に具申し陸軍大臣以下もこれを認め参謀本部に申し入れていた経緯がある。しかし参謀本部側は中小口径砲の砲撃に次ぐ強襲をもってすれば旅順要塞を陥落することができると判断しており、この提案を取り入れなかった。その後8月21日の総攻撃失敗ののち、寺内正毅陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に同砲を使用すべきと主張していた有坂成章技術審査部長を招いて25~26日と意見を聞いたのち採用することを決断し、参謀本部の山縣参謀総長と協議し、すでに鎮海湾に移設するための工事を開始していた同砲6門を旅順に送ることを決定したというのが実際の動きである[140][141]。しかし長岡談話によると、参謀本部側の長岡参謀次長が、総攻撃失敗ののちに同砲を旅順要塞攻撃に用いるべきという有坂少将の意見を聞いて同意し、そののち陸軍大臣の説得に向かい同意を得た[注 30]と、まったく違った経緯であったように記述している。また送付する段階において第3軍に伝えたところ、伊地知軍参謀長から「(巨砲は)送るに及ばず」との返電があったという記述もあるが、当時の電報の記録にはこのような文言は認められない。長岡自身は「電報があったはずだが見つからない」と日記に書いている。

これらの誤った見解また創作された話を根本として第三軍批判の大部が喧伝され、現在もそれは続いている。

東郷平八郎

乃木と共に日露戦争後に英雄化・神格化された東郷平八郎については、日本海海戦の輝かしい戦果の影響からか、旅順攻囲戦における分析および評価が、乃木に比して圧倒的に少ない。日露開戦直後の対地砲撃作戦敗退、3回に及ぶ港口閉塞作戦失敗、敗退ではないが詰めが甘く失敗と評される黄海海戦、海軍の作戦全般を指揮した東郷平八郎も旅順攻囲戦においては目立った戦績はない。陸軍の乃木の評価と共に、旅順攻囲戦での海軍の東郷の評価も必要という[誰?]も一部に存在[注 31]する。また評価はどうあれ、旅順要塞に乃木(陸軍)も東郷(海軍)も苦しめられたことは史実として残る。

21世紀以降の研究

旅順攻囲線についての考察・研究は、資料の発見・公開・活用により、今後も発展してゆくと思われる。近年においては、第三軍参謀らの資料が活用されつつあり、

  • 福井雄三『坂の上の雲』に描かれなかった戦争の現実」『中央公論』第119巻第2号、2004年2月、61-72頁。 
  • 長南政義「第三軍参謀たちの旅順攻囲戦~「大庭二郎中佐日記」を中心とした第三軍関係者の史料による旅順攻囲戦の再検討~」『國學院法研論叢』第39号、國學院大學、2012年。 
  • ゲームジャーナル編集部 編『坂の上の雲5つの疑問』並木書房、2011年。ISBN 978-4890632848 
  • 【総力特集】二〇三高地の真実-「旅順要塞」を陥落させた男たち-」『月刊 歴史街道』、PHP研究所、2011年11月、ASIN B005OASI28 

といった文献が発表されている。また、

といった書籍も刊行されている。

逸話

  • ロシア軍の敗因として、ビタミンC不足が原因の壊血病による戦意喪失が一因として挙げられている。旅順要塞内の備蓄食料には大豆などの穀物類が多く、野菜類は少なかった。一方、日本陸軍の戦時兵食は日清戦争と同じく白米飯(精白米6合)であったこともあり、脚気が大流行していた
  • 「明治三十七、八年日露戦役給養史」によれば、第三軍では8月頃から脚気対策のため麦飯もしくは重焼麺麭(乾パン)の配給が始まっている。しかし慢性的な補給不足に陥っていた日本軍は結局必要量を満たすことはできなかった。
  • 与謝野晶子は、旅順包囲軍の中に在る弟籌三郎を嘆く内容の『君死にたまふことなかれ』を1904年9月に『明星』で発表した。しかし実際には弟は第4師団所属であり、旅順攻囲戦には参加していない。

脚注

注釈

  1. ^ また最終的に旅順に立て籠ったロシア陸軍勢力(2個師団)は日本軍の補給にとって重要な大連港に対する脅威でもあった
  2. ^ もしくは徹甲性が優れた大口径要塞砲
  3. ^ 戦後判明したが、旅順艦隊は黄海海戦によりほぼ無力化されていた。
  4. ^ 海軍側は第一段階(奇襲)の機密保持を重視して、30日に初めてこの構想を陸軍に知らせた。
  5. ^ 事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。
  6. ^ (長南 2011b, p. 132)より。他にも同ページには期日が不明ながら軍令部参謀山下源太郎の「(陸軍の)上陸直後、海軍は旅順の陸上攻撃を要求せざるべし」との発言があったといい、なるべく陸軍の援助なく独力にて旅順を陥れんとする野心があった。
  7. ^ 触雷沈没したのは戦艦「初瀬」「八島」。海軍は一日の内に新鋭戦艦2隻が沈没したことを公表せず、1隻沈没として発表した。
  8. ^ 当時の先端知識を学んでいた人材、特にドイツで要塞戦を学んでいた井上幾太郎が参謀として加わったことは、旅順難戦の打開に大きく貢献した。
  9. ^ 海軍陸戦重砲隊中隊長だった永野修身は、海軍ではそれほどなじみのなかった観測を用いる間接射撃の実現に貢献した。
  10. ^ 一部損傷艦船はドイツの租借地であった山東半島に逃げ込んだが、同盟国であったドイツはこれら艦船の武装解除を行った
  11. ^ 8月に、戦艦巡洋艦などの大型艦1艦ごとに1個中隊を編成し、要塞の地区ごとの陸軍部隊の指揮下に派遣した。陸上戦闘での消耗は激しく、その後も増援が繰り返され、人員の面でも艦船の行動能力は次第に損なわれていった。
  12. ^ 撤去決定は明治37年8月5日。当初は鎮海湾と対馬へ移設することを予定していた (原 2002, p. 530)。
  13. ^ 要塞には降伏時、兵員1万6千人、砲弾8万発、銃弾200万発が残っていたとされるが、この兵力で25㌔に亘る要塞外周を守備するのは不可能である。スミノルフ中将、ゴルバトフスキー少将ら首脳陣の多くは徹底抗戦を主張したが、ステッセリはほぼ独断で降服を決定した。そのため、戦後厳しく糾弾され(大江志乃夫「世界史としての日露戦争」ほか)軍法会議で死刑を宣告された。しかし、攻囲戦開始時に陸海軍合計6万3千の兵力を用い、戦死者1万5千・負傷者3万を損じ、戦闘可能人員が1万6千名となるまで抗戦したこと、対する日本軍には戦死1万5千4百、負傷者4万5千という損害を与えたこと、何より8月19日の第一回総攻撃から降伏の1月1日まで持ちこたえ、第3軍が北方戦線に加わることを遅延せしめたことは、評価されるべきである。
  14. ^ 11月14日、御前会議において203高地奪取の御裁可を得た旨を満州軍に対し伝達。11月19日乃木宛親書で203高地占領を要請。11月22日勅語を乃木に対し伝達。
  15. ^ 開戦後の1904年6月に現地総司令部として満州軍総司令部が設置されたが、大本営からも指令が出され続けたため、指揮系統が錯綜し第3軍に要らぬ混乱を招いた。
  16. ^ 十一月二十七日、…(省略)…コノ際思切ツテ二〇三高地ニ向ヒ全力ヲココニ専注セラルルコト至極必要ト在候(海軍軍令部編纂『極秘・明治37、38年海戦史』中の書簡)
  17. ^ 10月の攻撃でも203高地を一時的には占拠したが奪い返されているし、第3回総攻撃では壮烈な争奪戦の結果7回も奪い返されている 。より多くの火力・兵力を203高地に集中させれば攻防回数はより少かったと予想できるが、より多くの将卒が機関銃の前に斃れたであろうとの指摘がある。(原剛・防衛研究所客員研究員など)
  18. ^ 海軍陸戦重砲隊は艦船攻撃用に十二斤速射砲(76mm)10門も用意していた。後に重砲の15センチ砲も加えられた。
  19. ^ 開戦は2月6日、7月12日に海軍軍令部長から参謀総長に対して旅順参戦を申し入れ、7月31日の満州軍総司令部宛の大本営通達、乃木第3軍の第1回総攻撃が8月19日。
  20. ^ 大正14年陸軍大学校調整、全十二巻二十一章におよぶ大著である。 表題には「日露戦史講義摘要録」と書かれているが、俗に「谷戦史」と呼ばれる。谷にはこれと別に、同年に陸大三年学生に講述した「日露戦史講義録」があるが、これとは全く趣を別にしたものである。
  21. ^ 主観的に「膨大」と表されることが多いが、客観的には旅順攻囲戦直後の児玉源太郎が指揮した奉天会戦における死者よりも圧倒的に(約7割)少ない。
  22. ^ 文芸春秋2010年12月臨時増刊号にて軍事史研究家別所芳幸が紹介した。公刊戦史の草案に当たるもので、公刊戦史編纂の際に削除された部分を知ることができる。
  23. ^ 例えば戦史研究家の長南政義が、大庭二郎の日記を活用し、また白井参謀、井上参謀の回想録などを駆使した論考(長南 2011b長南 2012)を発表している。
  24. ^ 現場では第1回総攻撃後、自傷兵(自らを傷つけて戦線を退こうとする兵)が多発し、第2回総攻撃前の9月25日付けで自傷兵を後方へ送還することを一事見合わせるよう通達が出ている。(鶴田禎次郎『日露戦役従軍日誌』)
  25. ^ 2月9日対地砲撃敗退、2月24日第1回港口閉塞作戦失敗、3月27日第2回港口閉塞作戦失敗、5月3日第3回港口閉塞作戦失敗。
  26. ^ 旅順における陸軍参戦を海軍は頑なに拒んだ。日露開戦前年にようやく軍令機関として陸軍と海軍が並列対等となったことも影響していると見る向きも多い。
  27. ^ 大本営は「先ず旅順を攻略し、雨期前には鳳凰城の線に進出する」というようなことを述べており、旅順要塞の防御力を実際より軽視しており、攻城準備を省略して、西方から奇襲して陥落させるという方針であった。一方で乃木は大本営参謀に対し「攻城計画の順序を省略し、奇策を用い又は力攻を勉むる如きは全局の利害に鑑み、責任を以て決行するを得ず」と述べ、攻城準備を行った上で第1回総攻撃を行ったが、おびただしい死傷者を出す結果となった。(沼田 2004谷 2004
  28. ^ 奈良武次少佐(当時は攻城砲兵司令部所属)の回想(歴史群像 2011, p. 70)。
  29. ^ 「長岡外史関係文書 回顧録編(長岡外史文書研究会)」によれば、大正12~15年頃に執筆作業をしたと推定されている
  30. ^ 「長岡外史関係文書 回顧録編(長岡外史文書研究会)」より。『機密日露戦史[120]』もこの長岡談話を基に記述されている。
  31. ^ 壊滅させた敵艦についても、海軍の東郷よりも陸軍の乃木の方が質的にも量的にも勝っていた(佐藤晃『太平洋に消えた勝機』)という評価も存在する。

出典

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参考文献

(資料)

  • 参謀本部編纂『明治37,8年日露戦史』。 
  • 参謀本部編纂『明治37,8年日露戦史』。 

(書籍)

(雑誌・ムック)

(論文)

  • 長南政義「第三軍参謀たちの旅順攻囲戦~「大庭二郎中佐日記」を中心とした第三軍関係者の史料による旅順攻囲戦の再検討~」『國學院法研論叢』第39号、國學院大學、2012年。 

外部リンク