小野田寛郎
小野田 寛郎 | |
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生誕 |
1922年3月19日(102歳) 和歌山県海草郡亀川村(現:海南市) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 |
1942 - 1945 (ただし 1974年まで戦闘を継続) |
最終階級 | 陸軍少尉 |
戦闘 |
第二次世界大戦 (ルバング島) 遊撃指揮・残置謀者 |
除隊後 | 小野田牧場経営 |
小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年(大正11年)3月19日 - )は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少尉で情報将校だった。陸軍中野学校二俣分校卒。太平洋戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰還を果たす。
略歴
生い立ち
和歌山県海草郡亀川村(現:海南市)に生まれる。父種次郎(県議会議員)、母タマエ(教師)、長兄敏郎(軍医中佐)、次兄格郎(元主計曹長)、姉千恵、弟滋郎(元少尉)。旧制海南中学校時代は県下有数の剣道選手として活躍(現在の段位は錬士五段)[1]。卒業後貿易会社に就職し、中華民国の漢口に渡り中国語を習得。
軍歴
上海の商事会社で働いていた頃現地召集を受けて、1942年、現役兵として歩兵第61連隊(和歌山)に入隊。転属等を経て、陸軍甲種幹部候補生に合格、陸軍予備士官学校に入学、卒業後、中国語や英語が堪能だった事から、当時軍の情報学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校として育成され「卒業」ではなく「退校命令」を受領する。
1944年12月、遊撃戦指導の任を与えられ、横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と命令を受けた[2]。また、派遣前には司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画のもとでフィリピンに派遣された。派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ短刀を渡された(この短刀は帰国後に実家に帰った際に母親に返している。)[3]。
日米開戦後日本軍の占領下におかれたフィリピンのルバング島に1944年12月31日着任。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には引き上げ命令が出ていたため戦意が低いことと、小野田には指揮権がないため相手にされず、1945年2月28日のアメリカ軍約一個大隊上陸後、日本軍各隊はアメリカ軍艦艇の艦砲射撃などの大火力に簡単に撃破され山間部に逃げ込んだ。小野田は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共にゲリラ戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都のマニラの位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。
日本敗戦後
1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、赤津勇一一等兵(1949年9月逃亡1950年6月投降)、島田庄一伍長(1954年5月7日射殺され戦死)、小塚金七上等兵(1972年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。日本では1945年9月に戦死公報を出されたが、1950年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。
フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡」と解釈した小野田はその後も持久戦法により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。
使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。これらの戦闘において、アメリカ軍レーダー基地司令官を狙撃し、重傷を負わせる等、多くの戦果を上げている。地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷した
手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。また、ゲリラ戦での主な食料として、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生するヤシの実を拾っていた。これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取していた。
また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。捜索隊はおそらく現在の日本の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、東京オリンピックや東海道新幹線等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事を実感し、それがためにかえって日本が敗戦したなどとは全く信じられなかったという。士官教育を受けた小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えた。
また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかった為に、30年間も戦い続ける結果となった。末期にはラジオで日本の競馬中継を聞き、小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。
だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚死亡後の孤独に対して疲労を深めていった。1974年に、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に孤独に苛まれていた小野田との接触に成功する。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。3月9日にかつての上司である谷口義美元少佐から文語文による山下奉文大将名の「尚武集団作戦命令」と口達による「参謀部別班命令(下記)」で任務解除・帰国命令が下る。
- 一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。
- 二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。
- 三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者は直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。
- 第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美
翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。小野田はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。小野田の投降式にはマルコス大統領も出席し、武装解除された。その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している。小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法の処罰対象になる。小野田は終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。
こうして小野田にとっての戦争が終わり、3月12日に帰国を果たした。小野田は足跡を残す事を恐れて暦は全て頭の中の記憶だけで把握していたが、30年の暮らしで6日間しかずれていなかった。小野田は発見時は51歳だったが、自分の寿命は60歳と決めていて、あと9年経って60歳になったらレーダー基地に決死の突入攻撃をして果てる覚悟だったという。
帰国以前
- 1950年 - フィリピンミンダナオ島で日本軍敗残兵が投降した際、無為に島民に銃殺される事件が生じる。復員庁では、日本軍将兵の無事帰国のため特別対策本部を設立する。
- 1951年 - 赤津勇一元一等兵が帰国する。残留兵の存在が明らかになるが、フィリピンの政情が不安定な為救出活動は行えず。
- 1954年 - フィリピンの山岳部隊が日本兵と遭遇。島田庄一元伍長の遺体が確認される。これを受けフィリピン政府は残留兵捜索隊の入国を許可する。
- 1954年5月、1958年、1959年5~12月 - 赤津元一等兵等投降者の証書に基き援護局職員及び小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友によるルバング島の残留日本兵捜索が行われるが、未発見に終わる。
- 1959年(昭和34年)12月11日 - 「死亡広報」が出される。なおこれに合わせて翌12月12日には故郷の和歌山県海南市にて親類の手により葬儀が行われた。
- 1969年5月31日 - 第62回戦没者叙勲により、戦没者として、勲六等単光旭日章に叙される。
- 1972年1月 - アメリカ領グアム島で横井庄一元伍長が発見される。日本兵の生き残りが今も各地に潜伏している事実が知られるようになる。
- 1972年10月19日 - フィリピンのルバング島にて警察軍に日本兵が射殺される。
- 1972年10月22日~25日 - 日本兵射殺事件を受け、厚生省援護局職員及び小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友が逐次ルパング島に赴く。遺体が小塚金七一等兵である事を確認する。小野田元少尉の捜索が行われるが発見には至らず(後に元少尉は捜索隊の存在を認知し、また密林の中で兄の姿を目撃していたが、アメリカの支配下の傀儡政権に強制されての行動だと推測していた事を告白している)。
- 1974年、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が小野田元少尉との接触に成功。3月にフィリピンに投降し、日本に帰国。3月12日16時15分から66分間にわたりNHKで放送された報道特別番組「小野田さん帰国」は45.4%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)の視聴率を記録[4]。
帰国後
帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や現地住民との銃撃戦によって多数の住民が死傷した出来事が明らかになった事(フィリピン政府当局の判断により、小野田への訴追は行われなかった)、また本当に敗戦を知らなかったのかという疑問が高まるに連れて、左翼的なマスコミや文化人からは「軍人精神の権化」、「軍国主義の亡霊」といった根拠のない批判も表れた。
小野田に対し、政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。天皇との会見も断り(自身が勝手に潜伏していたので、陛下は声の掛け様が無いだろうと判断)、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を参っている。
ブラジル移住
2年前に帰国し、驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、小野田の場合は父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道もあり、大きく変貌した日本社会に馴染めなかった(マスコミのヘリがゲリラ戦時の敵軍ヘリと重なって悩まされた時期もあった)。帰国の半年後に次兄のいるブラジルに移住して小野田牧場を経営する事を決意。帰国後結婚した妻の町枝と共に移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。
その後、「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰。自らの密林での経験を元に逞しい日本人を育成するとして、講演会や野営等を行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復し続けている。バブル景気の頃には日本での活動の拠点として購入した東京のマンションが暴騰し、ブラジルで築いた財産以上の資産価値になったことで、日本経済の行く末についても危機感を持ったと伝えられる。2004年12月17日、日本人として初めてサントス・ドゥモン勲章を、更に2005年11月3日、藍綬褒章を受章した。
2009年5月15日には来日し「小野田寛郎の日本への遺言」と題した講演を2時間に渡って行っている[5]。
妻・町枝は2010年現在、日本女性の会会長である。また愛媛県議会議員・森高康行を始めとして政界とも交流をもつ。
保守・右派系の活動家でもあり、日本を守る国民会議、日本会議代表委員等を歴任。社団法人日本緑十字社理事にも就任した。慰安婦問題の真偽に対しては日本の責任を否定する立場であり、2007年7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求めるチャンネル桜主導の抗議書には夫婦そろって賛同している[6]。 また、政府見解と異なる懸賞論文を投稿したとして更迭された、田母神俊雄元航空幕僚長を支持する「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」には、発起人として妻と共に名を連ねている。
その他エピソード
戦時中に自身が体験した人間が持つ潜在的な能力にも触れている。本当に命を賭けなければいけないと必死になった瞬間、頭が数倍の大きさに膨らむ感覚と同時に悪寒に襲われ身震いし、直後、頭が元の大きさに戻ったと感じると、あたりが急に明るく鮮明に見えるようになったという。「夕闇が迫っているのに、まるで昼間のような明るさになりました。そして、遠くに見える木の葉の表面に浮かぶ1つ1つの脈まではっきり認識することができました。そうなると、はるか先にいる敵兵の動きも手に取るように分かります。それこそ、相手が射撃をする直前にサッと身をかわして銃弾を避けることさえできると思いました」 。命を賭ける場面が、命を賭けなくても大丈夫だという自信に変わった瞬間だったという[7]。
また『月刊秘伝』2004年7月号でのインタビューでは「直進する物は物理的に見えるんですよ。(中略)真っ直ぐ自分のほうに伸びてくるんだから見えます。(中略)撃たれたときは、火を噴いている銃口から見えた。(中略)相手の突きを避けられるのだから避けられますよ。」と語っている。自身の著書である『小野田寛郎―わがルバン島の30年戦争』でも、銃弾は飛んでくるとき蒼白い閃光を放つから、それを避ければいいと語っている。
評価
中華人民共和国のウェブサイト『鳳凰網』歴史総合ページで紹介されると、「真の軍人だ」、「この兵士の精神を全世界が学ぶべきだ」、「大和民族は恐るべき民族。同時に尊敬すべき民族」などの賞賛する書き込みがあり、肯定的に評価する投稿の方が若干多かった。反日的な意見が多い当該サイトの書き込み欄では異例の反応であった[8]。
テレビ出演
- 終戦60年企画「おじいちゃん本当のこと聞かせて」石原さとみと小野田寛郎の戦争と平和を巡る旅(2005年12月28日、TBS)
- ハイビジョン特集 生き抜く 小野田寛郎(2005年初放送・2007年8月15日再放送・2010年12月16日再々放送・2011年3月6日再々々放送、NHK BSハイビジョン、NHK-BS2)
- メッセージ.jp(2008年1月29日初放送・2008年2月3日再放送BSフジ)
小野田寛郎を題材にした楽曲
イギリスのプログレッシブ・ロックバンド、キャメルが1981年に"Nude"(邦題:『ヌードの物語 ~Mr. Oの帰還~』)というコンセプトアルバムを発表している[9]。
著書
- 『わがルバン島の30年戦争』 (小野田寛郎, 講談社, 1974年)
- 『戦った、生きた、ルバン島30年』 (小野田寛郎、他, 講談社, 1974年)
- 『遥かに祖国を語る』 (小野田寛郎、酒巻和男, 時事通信社, 1977年)
- 『わがブラジル人生』 (講談社, 1982年) ISBN 4-06-145914-7
- 『子どもは野性だ』 (学習研究社, 1984年) ISBN 4-05-101464-9 (『鈴木健二のお父さん子どもに野性を贈ろう』と同じISBN)
- 『子どもは風の子、自然の子-『ジャングルおじさん』の自然流子育て』 (講談社, 1987年) ISBN 4-06-203382-8
- 『たった一人の30年戦争』 (東京新聞出版局, 1995年) ISBN 4-8083-0535-6
- 『わが回想のルバング島』 (朝日新聞社, 1995年) ISBN 4-02-261109-X
- 『極限で私を支えたもの』 (山田村教育委員会, 1997年)
- 『小野田寛郎-わがルバン島の30年戦争 (人間の記録 (109))』 (日本図書センター, 1999年) ISBN 4-8205-5769-6
- 『講演・シンポジウム記録集-平成11年』 (靖國神社崇敬奉賛会, 1999年)
- 『生きる』 (小野田寛郎[他], 富山県民生涯学習カレッジ, 2001年)
- 『智慧の実を食べよう。』(糸井重里編著, ぴあ, 2004年) ISBN 4-8356-0903-4
- 『君たち、どうする?』 (新潮社, 2004年) ISBN 4-10-471301-5
- 『だから日本人よ、靖国へ行こう』 (小野田寛郎,中條高徳, ワック, 2006年) ISBN 4-89831-091-5
- 『魚は水人は人の中-今だからこそ伝えたい師小野田寛郎のことば』 (原充男著, 小野田寛郎述. 清流出版, 2007年) ISBN 978-4-86029-161-7
- 『ルバング島戦後30年の戦いと靖国神社への思い (まほろばシリーズ 2)』 (明成社, 2007年) ISBN 978-4-944219-57-5
潜伏中の仲間
赤津勇一
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赤津勇一(あかつ ゆういち)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に途中で小野田グループと合流した日本兵。東京都出身。諸説では1949年9月にグループを離脱し1950年6月にアメリカ軍に投降した、1950年の戦闘での負傷でグループと離れ意識不明のところを6月にアメリカ軍に発見されたとされる。最終階級は一等兵。
島田庄一
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島田庄一(しまだ しょういち)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に小野田グループにいた日本兵。埼玉県小川町出身。1954年5月7日に起きたフィリピン警察軍との銃撃戦で眉間を撃ち抜かれ死亡。享年41。最終階級は伍長。
小塚金七
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小塚金七(こづか きんしち)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に小野田グループにいた日本兵。東京都八王子市出身。1972年10月19日に起きたフィリピン警察軍との銃撃戦で肩を撃たれて三八式歩兵銃を落とし、さらに胸を撃たれて倒れる。小野田は小塚の銃で5発、自身が持つ九九式短小銃で4発撃ち警察軍の攻撃を抑え、倒れた小塚を揺さぶるもその時には白目を向いて口から血を流しており既に死亡していた。享年51。最終階級は上等兵。小塚の死に対し小野田は「復讐心が高まった。目の前で30年もの戦友を殺された時の口惜しさなんてものはない」と後年怒りを込めて述べている。小塚の三八式歩兵銃は小野田が日本帰還後に小塚の両親に渡したと言われている。
脚注
- ^ 小野田自然塾 小野田寛郎プロフィール
- ^ p57 小野田寛郎の終わらない戦い
- ^ p56 小野田寛郎の終わらない戦い
- ^ 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、126頁、231頁。ISBN 4062122227
- ^ 日本に欠けているもの=覚悟2009年5月15日 荒川区議会議員小坂英二の考察・雑感
- ^ 抗議書への賛同者一覧 (PDF)
- ^ ブルーシー・アンド・グリーンランド財団ホームページ 『注目の人』No.030 連載期間:2008.01.09~2008.01.30
- ^ 【中国対日観】軍人精神に賞賛の声―ルバング島・小野田さん Searchina 2009/06/29
- ^ Nude (1981) The Giant Progweed
参考文献
- 小野田種次郎 『ルバングの譜(ウタ)―寛郎を捜しつづけて30年』 潮出版社、1974。(父親の手記)
- ―― (「小野田凡二」名義) 『回想のルバング―寛郎を待った三十年』 浪曼、1974。(同上。「凡二」は俳号)
- 小野田町枝 『私は戦友になれたかしら―小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』 (夫人の手記) ISBN 4-86029-013-5
- 鈴木紀夫 『大放浪―小野田少尉発見の旅』 (発見者の手記) ISBN 4-02-261116-2
- 1974年、文藝春秋刊の文庫化。
- ―― 「小野田少尉発見の旅」(『「文藝春秋」にみる昭和史 第3巻』ISBN 4-16-362650-6 に収録)
- 津田信 『幻想の英雄―小野田少尉との三ヵ月』 図書出版社、1977。
- 戸井十月著 『小野田寛郎の終わらない戦い』(新潮社,2005年)ISBN 978-4-10-403104-7
関連項目
- 残留日本兵
- 横井庄一
- ルバング島
- 小野田寛郎 実録・小野田少尉 遅すぎた帰還 - 2005年放送のテレビドラマ(フジテレビ系)。小野田を演じた中村獅童は、小野田に直接体験談を聞いたり演技指導を受けた。