宮川彬良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。白橋二朗 (会話 | 投稿記録) による 2021年1月12日 (火) 11:00個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

宮川 彬良
出生名 宮川 晶
生誕 (1961-02-18) 1961年2月18日(63歳)
出身地 日本の旗 日本 東京都
学歴 東京芸術大学音楽学部中退
ジャンル 付随音楽
J-POP
職業 作曲家
編曲家
ピアニスト
活動期間 1983年 -
公式サイト 宮川彬良 オフィシャルウェブサイト

宮川 彬良(みやがわ あきら、1961年2月18日 - )は、日本作曲家編曲家ピアニスト。本名は宮川 晶(読み同じ)。東京都出身。父は作曲家の宮川泰。妻はヴァイオリニストの宮川由利子。三児の父親である。

来歴・人物

和光高等学校卒業。東京芸術大学音楽学部作曲科中退。大阪芸術大学音楽学科元客員教授

ジャパンアクションクラブ (JAC)宝塚歌劇団劇団四季など、多くのミュージカル音楽や、東京ディズニーランドのショー音楽なども手掛けている。宮川によると、本国のスコアのクオリティの高さは勿論のこと『キッズ・オブ・ザ・キングダム』の編曲作業の際、25分のショーでコーラスグループが、30曲近くを巧みに歌い繋ぐという物に単調なコーラスばかりを見てきた日本のアレンジャーにはカルチャーショックだったと回想している[1]。なお、この時代に使用していた録音スタジオは後に『宇宙戦艦ヤマト2199』の録音にも使用したという[2]2004年には松平健の歌う『マツケンサンバII』が大ヒットし、第55回NHK紅白歌合戦で歌われた。また本人もコンサートCDを複数発売している。また、日本放送協会 (NHK) やJ-WAVEなどのラジオ番組にも出演し、主としてクラシック音楽を中心とした音楽の普及に努めている。

関西地区、特に宝塚周辺において、地域に密着した音楽活動も積極的に行っている。1995年からは大阪フィルハーモニー交響楽団のポップス・コンサートの音楽監督を担当、1996年にはその活動に対してABC国際音楽賞が贈られた他、後述のアンサンブル・ベガを率いて頻繁に演奏会を行っている。また、浜松海の星高等学校吹奏楽部、宝塚市立宝梅中学校吹奏楽部と共に自作の初演を行うなどしている。

1997年なみはや国体で用いられた楽曲「メドレーマーチ“Oh!Namihaya”」「グランドオペラなみはやの夢」を手掛けたことから、大阪市音楽団(現:Osaka Shion Wind Orchestra)と交流があり、2007年には、大阪市音楽団を指揮し、特別演奏会を公演、吹奏楽で初めてのCD「ブラスバンド・バラエティ 宮川彬良&大阪市音楽団」(ライブ版)をリリースする。このライブで、父宮川泰の曲(『宇宙戦艦ヤマト』、『ズームイン!!朝!』、『ゲバゲバ90分』等)を吹奏楽版に編曲するという親子のコラボレーションと「マツケンサンバ」の作曲家が吹奏楽と共演することが話題を呼んだ。2010年に大阪市音楽団のアーティスティック・ディレクターに就任し、民営化後の2014年からは音楽監督を務める。

父に似て非常に目立ちたがり屋であり、派手なパフォーマンスやトークなど共通する部分も多い。父同様テレビ出演にも積極的で、NHK教育テレビの『クインテット』に唯一人間として出演していたことで知られる。

宇宙戦艦ヤマトシリーズとの関わり

父・泰の代表作であり、自身のデビュー作でもある「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」には高校生当時から関わっている。『宇宙戦艦ヤマト 完結編』に曲を提供した1980年代までは本名である宮川晶の名でクレジットされていた。

高校生当時の1978年6月22日、武蔵野音楽大学のベートーベンホールにて泰の作曲・編曲による『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち 音楽集』の「白色彗星」を、「志村拓生」名義でパイプオルガンを用いて演奏している。しかし、当時はうまく演奏できず、テイクが36回に及んだという[3]。元々、同大学の教授に演奏を断られたため、オルガンを弾けるという理由で白羽の矢が立ったが、当時の彬良が弾いていたのはロックのオルガンであり、パイプオルガンは弾いたことがなかったそうである[4]

『ヤマトよ永遠に』では、とあるシーンのBGMを数曲作曲する。長めのものを1曲と短めのものを2、3曲作ったが、長めの曲はプロデューサーの西崎義展に「ヤマトの曲じゃない」と評されて未採用となり、短めの曲が採用された。なお、泰がポップス寄りだったのに対し、当時の彬良はクラシック寄りだったとのことであり、未採用に終わった曲は録音に立ち会っていた西崎が彬良による作曲と知らないにもかかわらず、演奏が始まった途端に「宮川(泰)さん、どうかしたのかと思った」とつぶやくほどそれまでの曲とかけ離れたものであり、後でテープで聞きなおしてみて自身も「これは父には書けない曲だ」と思ったそうである[4]。これ以降、何曲かを泰から任されるようになり、『宇宙戦艦ヤマトIII』では「第18機甲師団」や「バーナード星の戦闘」、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』では「大ディンギル帝国星」などを作曲した[5]。当人曰く「大ディンギル帝国星」は今でも自信作とのこと[4]

宇宙戦艦ヤマト 復活篇』では作曲の依頼を受けていたが、第1作への思い入れから「復活篇はないだろう」と感じたこと[6]や、新作のたびに泰が苦労していたことを知っていたために自信がなかったこと[4]などの理由により、断っていた。しかし、『永遠に』などで未採用に終わった曲のうちの何曲かが、劇中で使用されている[5]

宇宙戦艦ヤマト2199』についても当初は断ろうと思っていたが[4]、第1作のリメイク作品であることを聞いたうえ、「最初のヤマトをやりたい」というスタッフの意向に賛同し、依頼を快諾した[7]。なお、旧作用BGMのマスターテープは劣化して使えず、譜面も現存していないため、彬良は耳コピーで本作用の楽譜を2か月かけて起こしたという[3]

宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』についても、『宇宙戦艦ヤマト2199』に引き続き音楽を担当している。

アンサンブル・ベガ

1998年に、阪神大震災からの心の復興を目的として結成。演奏会の常連からは「アン・ベガ」と呼ばれ親しまれている。宮川彬良と東西のオーケストラの首席奏者8名から成り、演奏会における曲の作曲・編曲、ピアノ、司会を宮川彬良が担当している。結成以後から徐々に、演奏会の親しみやすさや、「8人なのにオーケストラの音がする」などと形容される演奏者のクオリティが話題になり始める。本拠が、宝塚市立文化施設ベガ・ホールという狭小な市民ホールであるのにも関わらず、次第にその活動地域を広げ、2003年からはNHK教育テレビで放映された音楽教養番組『クインテット』の演奏も担当、2007年には、初の東京公演を行う。演奏会は前記のベガ・ホールのほか、兵庫県立芸術文化センターにおいてその多くが行われる。2005年に、坂井時忠音楽賞を受賞している。

主な作品

演劇

テレビアニメ

テレビドラマ

バラエティ・ラジオ番組

吹奏楽曲

  • 組曲「ブラック・ジャック」(室内楽版、吹奏楽版の二種あり。吹奏楽版は上記の宝塚市立宝梅中学校が初演)
  • やらまいか行進曲(上記海の星高校が初演。「やらまいか」とは、浜松方言で「やってみようじゃないか」の意味)
  • 現代吹奏画報(バンド維新2017)
  • 僕らのインベンション(2020年度全日本吹奏楽コンクール課題曲III、全日本吹奏楽連盟委嘱作品)
  • 吹奏情話、八尾(八尾市委嘱作品)
  • Fun, Fun, Fantastico!
  • 吹奏楽のためのソナタ「ブラック・ジャック」
  • バレエ音楽「欲望という名の電車」
  • 生業(ナリワイ)
  • 大ラッパ供養

その他

出演

脚注・出典

  1. ^ 雑誌などの記事より
  2. ^ 宮川のツイートより
  3. ^ a b ワンダバ「ヤマト」 - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能、朝日新聞デジタル、2012年3月5日
  4. ^ a b c d e 『宇宙戦艦ヤマト2199』第四章パンフレットP26、27に掲載されているインタビューより。
  5. ^ a b 名義は宮川秦となっている。
  6. ^ 祝!「宇宙戦艦ヤマト」復活!宮川彬良先生インタビュー!、EnterJam、2012年4月6日
  7. ^ 先行上映記念特別番組『「宇宙戦艦ヤマト2199」上映直前!〜俺たちのヤマトSP〜』でのインタビューより。
  8. ^ ~ノッポさんのちいさな音楽劇~ ありがとう! グラスホッパー Archived 2009年7月19日, at the Wayback Machine.
  9. ^ “横山裕が手塚作品でダークヒーローに!「上を下へのジレッタ」演出は倉持裕”. ステージナタリー. (2016年11月10日). http://natalie.mu/stage/news/208702 2016年11月10日閲覧。 
  10. ^ 第156回(最終回)の劇中『家族みんなで歌自慢』のピアノ演奏者として出演もした。なお、父の宮川泰は、2003年の『てるてる家族』で音楽を担当した。

関連項目

外部リンク