奥寺康彦
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名前 | ||||||
愛称 | 東洋のコンピューター | |||||
カタカナ | オクデラ ヤスヒコ | |||||
ラテン文字 | OKUDERA Yasuhiko | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1952年3月12日(72歳) | |||||
出身地 | 秋田県鹿角市 | |||||
身長 | 177cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW(LWG, CF) / MF(LSH, LWB, DH) / DF(LSB) | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1970-1977 | 古河電工 | 100 | (36) | |||
1977-1980 | ケルン | 75 | (15) | |||
1980-1981 | ヘルタ・ベルリン | 25 | (8) | |||
1981-1986 | ブレーメン | 159 | (11) | |||
1986-1988 | 古河電工 | 43 | (3) | |||
代表歴2 | ||||||
1970-1987[1] | 日本 | 32 | (9) | |||
監督歴 | ||||||
1996 | ジェフユナイテッド市原 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2014年11月22日現在。 2. 2014年11月22日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
奥寺 康彦(おくでら やすひこ、1952年3月12日 - )は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。日本代表。秋田県鹿角市出身。株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)取締役会長。
人物
1970年代当時、世界最高峰のリーグと言われたドイツのブンデスリーガ(1976年-1984年までUEFAリーグランキング1位)で活躍した初めての日本人選手である。3つのクラブを渡り歩き計9年間プレーを続けレギュラーとして実績を残した。その正確無比の安定したプレースタイルで地元ドイツのファンから「東洋のコンピューター」というニックネームで呼ばれ、賞賛された。
欧州サッカー連盟主催の国際大会には6回出場しており、小野伸二に抜かれるまでアジア人最多だった。1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)ではアジア人として大会史上初となるゴールを記録している。なお、16年後の1994-95シーズンにタジキスタンのラシッド・ラヒーモフが得点を上げるまで奥寺以外のアジア人の得点者は現れなかった。
一般的に「日本人初のプロサッカー選手」として紹介される事が多いが[2][3][4]、2人目のプロサッカー選手であるとの異説もある(後述)。
来歴
古河電工時代
横浜市立東戸塚小学校を経て、横浜市立舞岡中学校でサッカーを始め、相模工業大学附属高等学校(現:湘南工科大学附属高等学校)から1970年に日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部に入部。1976年に古河がブラジル工場を持っていた縁でブラジル・パルメイラスに2ヶ月間留学して急成長を遂げ、ユース代表を経て日本代表に選出される。同年に代表ではムルデカ大会で得点王に輝き、古河ではJSL、天皇杯の二冠に貢献しベストイレブンに選出された。
海外移籍への経緯
1977年夏に日本代表がドイツにおいて分散合宿を行った際、当時の代表監督・二宮寛はブンデスリーガ(ドイツ1部リーグ)の1.FCケルンの監督であったヘネス・ヴァイスヴァイラーと親しかったことから、奥寺ら数人をケルンの合宿に参加させた。
当時、ケルンはスピードのある左ウイングを探しており、ヴァイスヴァイラーは同ポジションの奥寺に興味を持った。そこで、練習と称して事実上の入団テストを行ったうえで、奥寺に正式なオファーを出した。後に本人は、もし最初からあれが入団テストだと分かっていたら緊張して思ったとおりの力が出せなかったであろうと語っている。
奥寺は自分がブンデスリーガで通用するのか、失敗した場合に家族を養えるのかという不安から一度はオファーを断るが、再三に渡る国際電話でのオファーの果てに監督のヴァイスヴァイラー自ら奥寺を口説きに来日したため、日本サッカー協会に半ば強引に背中を押される形でドイツ行きを決意した。
1.FCケルン時代
同年10月ドイツへ渡り、10月7日に1.FCケルンと契約を交わし正式に入団。12日にはブンデスリーガのベンチ入りを果たし、10月22日、対MSVデュイスブルク戦で先発デビューを飾った[5]。
12月20日に行われたドイツカップ準々決勝、シュバルツバイス・エッセン戦で初ゴール(2得点)、ブンデスリーガでは1978年4月8日のカイザースラウテルン戦で初ゴールを記録。名将・ヴァイスヴァイラーの下で数々の活躍をみせ、1977-78シーズンのリーグ優勝とドイツカップ優勝の二冠に貢献した。優勝を決めた試合では途中出場ながら2ゴールを挙げた。
翌1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは準決勝に進出し、イングランドのノッティンガム・フォレストと対戦。アウェーの第1戦において貴重な同点ゴールを決め3-3のドローに追いついた[6][7]が、ホームの第2戦では0-1で破れ欧州制覇は成らなかった。
1980年にヴァイスヴァイラーがアメリカ・NASLのニューヨーク・コスモスへ移籍すると、後任監督カールハインツ・ヘダゴットの構想外となり、ベンチからも外れる。出場機会を求めて1980-81年シーズンの後半にブンデスリーガ2部所属のヘルタ・ベルリンへ移籍した。
ヴェルダー・ブレーメン時代
1部昇格に挑んでいたヘルタは最終的に昇格を逃したが、そのシーズンにヘルタに競り勝ち1部昇格を決めたヴェルダー・ブレーメンのオットー・レーハーゲル監督に認められ、翌1981-82シーズンからブレーメンに移籍する。
奥寺は左ウイングとしてブンデスリーガに渡ったが、レーハーゲルは守備的MFとしての奥寺の能力に注目した。守備の強さ、堅実なプレーに惹かれ、80年代なかばからヨーロッパの主流となった3-5-2システムの中で、奥寺は左ウイングバックという「天職」を与えられた。守備を行いながら、味方ボールとなると、ウイングそのものとなって攻撃の中核を担う。そうしたプレーはレーハーゲルをして「オク1人で他の選手の3人分の働きをしてくれる」と言わしめた。
1982年、1部1年目のブレーメンは、5位という好成績を残し、翌83年にはハンブルガーSVに次ぎ2位、そして84年5位、85年、86年と連続して2位。優勝は経験できなかったが、奥寺は最もコンスタントな選手として監督に信頼され、ファンから愛された。
ブンデスリーガには通算9年間在籍。63試合連続出場記録を樹立するなど、帰国するまでの9年間でブンデスリーガ通算235試合出場、25得点。この通算25点という記録は、2014年9月13日にマインツの岡崎慎司が通算ゴールを28点とするまで、ブンデスリーガにおける日本人選手の最多得点だった[8]。
古河復帰
1986年、「まだ自分の体が言うとおりに動くうちに」日本のサッカー界に持てる全てを伝えたいとして、日本に帰国し、古巣の古河電工に復帰した。
帰国した奥寺は木村和司と共に日本国内初のスペシャル・ライセンス・プレーヤー契約を結び注目を集めた。また古河の一員としてはこの年にアジアクラブ選手権優勝。日本代表にも復帰し1987年のソウル五輪アジア最終予選進出に貢献した。最終的に中国との争いとなり、左サイドバックとして第1戦では相手エースを完璧に抑え1-0の勝利に貢献したが、ホームの第2戦では奥寺の逆サイドを守備の穴として狙われ、0-2で落としソウル五輪出場は叶わなかった。
1987-88年シーズンを最後に現役を引退した。
引退後
Jリーグ参入のため、古河電工からクラブチーム化された「東日本JR古河サッカークラブ」(ジェフ市原の前身となるクラブ)のゼネラルマネージャーに就任。1996年には監督に就任したが成績不振から1シーズン限りで退任した。
1999年に横浜フリューゲルスのサポーター有志で結成された「横浜フリエスポーツクラブ」(横浜FC)のゼネラルマネージャーに就任、2000年からは代表取締役社長を兼任。
日本人初のプロサッカー選手
従来、日本人初のプロサッカー選手として紹介されてきたが、2000年代あたりから、1975年に香港の「東方足球隊」でプレーした佐田繁理(さだまさしの実弟)の方が日本人初のプロサッカー選手であるという紹介が一部メディアにより成される様になった[11][12][13][14]。ただし佐田は正式なプロ契約では無かったという説を採るメディアもあり、その場合は奥寺が日本初となる[11]。
逸話
- 奥寺は何故ドイツであれだけ長くプレーできたのかと質問された際、「自分はスーパーな選手ではなかったけれども、例えて言うなら1+1を必ず2にできるような確実性は持っていたからだろう」と述べている。
- ブレーメンに在籍していた1980年代に、ドイツでプレーしていることにかけて伊藤ハム「バイエルンソーセージ」のテレビCMに出演していた。
- 第22回(1986-87年)日本サッカーリーグの公式ポスターモデルとして出演し、その時「サラリーマンサッカーの時代は終わった」というキャッチコピーが登場し、日本サッカーがプロ化へ向かう事を象徴した[15]。
- 『キャプテン翼』37巻の77ページにて、経歴の説明と共に日本代表の監督として実名で登場している。自らの実力を試すために、翼は奥寺に対し一対一の勝負を挑んだが、奥寺を抜き去る事は出来なかった。架空の話ではあるが翼のドリブルを止めた数少ない登場人物となっている。
- ドイツで行われた2006年FIFAワールドカップ予選抽選会においてドロワーアシスタントに選ばれた。アジア連盟からは釜本邦茂が推薦されていたが、ドイツとの関係が深い奥寺が選ばれた。
所属クラブ
- 1970年 - 1977年 - 古河電気工業サッカー部
- 1977年 - 1980年 - 1.FCケルン
- 1980年 - 1981年 - ヘルタ・ベルリン
- 1981年 - 1986年 - ヴェルダー・ブレーメン
- 1986年 - 1988年 - 古河電気工業サッカー部
獲得タイトル
- 日本サッカーリーグ 1回(1976年)
- 天皇杯 1回(1976年)
- ブンデスリーガ 1回(1977-78)
- DFBポカール 1回(1977-78)
- アジアクラブ選手権 1回(1986-1987)
- ムルデカ大会得点王 1回(1976)
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1970 | 古河 | JSL | 7 | 3 | |||||||
1971 | 9 | 5 | |||||||||
1972 | JSL1部 | 8 | 0 | ||||||||
1973 | 18 | 6 | |||||||||
1974 | 18 | 5 | |||||||||
1975 | 18 | 9 | |||||||||
1976 | 18 | 8 | |||||||||
1977 | 4 | 0 | |||||||||
ドイツ | リーグ戦 | リーグ杯 | DFBポカール | 期間通算 | |||||||
1977-78 | 1.FCケルン | ブンデス1部 | 20 | 4 | 4 | 2 | 24 | 6 | |||
1978-79 | 24 | 5 | 3 | 1 | 27 | 6 | |||||
1979-80 | 30 | 6 | 8 | 1 | 38 | 7 | |||||
1980-81 | 1 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | |||||
1980-81 | ヘルタ・ベルリン | ブンデス2部 | 25 | 8 | 4 | 0 | 29 | 8 | |||
1981-82 | ブレーメン | ブンデス1部 | 30 | 2 | 4 | 0 | 34 | 2 | |||
1982-83 | 34 | 4 | 2 | 0 | 36 | 4 | |||||
1983-84 | 29 | 1 | 4 | 0 | 33 | 1 | |||||
1984-85 | 33 | 3 | 4 | 0 | 37 | 3 | |||||
1985-86 | 33 | 1 | 3 | 0 | 36 | 1 | |||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1986-87 | 古河 | JSL1部 | 21 | 2 | |||||||
1987-88 | 22 | 1 | |||||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 143 | 39 | |||||||
ドイツ | ブンデス1部 | 234 | 26 | 33 | 4 | 267 | 30 | ||||
ドイツ | ブンデス2部 | 25 | 8 | 4 | 0 | 29 | 8 | ||||
総通算 | 402 | 73 |
国際大会個人成績 | ||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
UEFA | UEFA EL | UEFA CL | ||||
1978-79 | 1.FCケルン | - | 2 | 1 | ||
1980-81 | 1 | 1 | - | |||
1982-83 | ブレーメン | 6 | 1 | - | ||
1983-84 | 4 | 0 | - | |||
1984-85 | 2 | 0 | - | |||
1985-86 | 2 | 0 | - | |||
通算 | UEFA | 15 | 2 | 2 | 1 |
代表歴
出場大会など
試合数
- 国際Aマッチ 32試合 9得点(1972-1987)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1970 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
1971 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1972 | 6 | 1 | 6 | 0 | 12 | 1 |
1973 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1974 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1975 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 |
1976 | 8 | 7 | 3 | 0 | 11 | 7 |
1977 | 4 | 0 | 25 | 8 | 29 | 8 |
1978 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1979 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1980 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1981 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1982 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1983 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1984 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1985 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1986 | 4 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 |
1987 | 5 | 1 | 10 | 2 | 15 | 3 |
1988 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
通算 | 32 | 9 | 47 | 10 | 79 | 19 |
得点数
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
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1 | 1976年8月8日 | マレーシア、クアラルンプール | インド | 5-1 | 勝利 | ムルデカ大会 |
2 | ||||||
3 | ||||||
4 | 1976年8月10日 | マレーシア、クアラルンプール | インドネシア | 6-0 | 勝利 | ムルデカ大会 |
5 | ||||||
6 | ||||||
7 | 1976年8月13日 | マレーシア、クアラルンプール | ビルマ | 2-2 | 引分 | ムルデカ大会 |
8 | 1976年8月20日 | マレーシア、クアラルンプール | マレーシア | 2-2 | 引分 | ムルデカ大会 |
9 | 1987年9月15日 | 日本、東京 | ネパール | 5-0 | 勝利 | ソウル五輪予選 |
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
1996 | J | 市原 | 9位 | 30 | - | 13 | - | 17 | 予選リーグ | 3回戦 |
脚注
- ^ a b “奥寺 康彦”. サッカー日本代表データベース
- ^ NHK衛星第1テレビジョン『証言ドキュメント 日本サッカーの50年「第二夜 迷走そして悲劇」』2010年5月3日放送。
- ^ 『Sports Graphic Number 765号』「[ブンデスの偉大な先駆者]奥寺康彦が伝授する越境成功術」P.41 2010年10月28日発売
- ^ 『Sports Graphic Number 765号』「[年表&傾向分析]日本人選手海外移籍の系譜」P.62 2010年10月28日発売
- ^ “Okudera, Yasuhiko - - 1. Bundesliga: alle Spielerstatistiken, News und alle personlichen Informationen” (ドイツ語). キッカー. 2013年9月6日閲覧。
- ^ 五輪代表 7・21メキシコ戦は吉兆の地 nikkansports.com2012年6月3日
- ^ N'ham Forest vs Cologne 1979 (Part Three)
- ^ “岡崎、日本人最多に感慨=独サッカー”. 時事通信社. (2014年9月14日) 2014年9月14日閲覧。
- ^ 奥寺康彦氏、永井良和氏ら4氏が殿堂入り nikkansports.com 2012年8月21日
- ^ AFC初代殿堂入り10名に奥寺氏、澤、キューウェル氏らが選出 サッカーキング 2014年11月22日
- ^ a b 福永稔彦『好奇心』(2004年12月7日付け24面)スポーツニッポン。
- ^ Sports Graphic Number665号, 吉崎英治『突撃!エイジーニョ20、海外組対談「誰を呼ぶべきか」』文藝春秋、2006年11月2日。
- ^ 月刊浦和レッズマガジン, 吉田みずほ『レッズとアーティストの蜜月関係/さだまさし』フロムワン、2006年4月。
- ^ SPORTS★LEGEND. “番組公式サイト内に書かれている「海外サッカープロ第1号は、奥寺康彦ではなく、?の弟。」という問題に対する回答”. 日本テレビ放送網. 2009年10月10日閲覧。
- ^ “記録で見る天皇杯全日本サッカー選手権大会の歴史。新たな歴史をつくるのはどのチームか――”. 日本サッカー協会 (2013年9月6日). 2014年8月28日閲覧。