垣内哲也

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垣内 哲也
富邦ガーディアンズ 1軍打撃コーチ #72
ヤクルト戸田球場にて(2020年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県日高郡日高川町
生年月日 (1970-06-06) 1970年6月6日(53歳)
身長
体重
186 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1988年 ドラフト3位
初出場 1991年6月18日
最終出場 2006年4月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

垣内 哲也(かきうち てつや、1970年6月6日 - )は、和歌山県日高郡日高川町出身の元プロ野球選手外野手、右投右打)・コーチ

経歴[編集]

西武時代[編集]

日高高中津分校から、1988年のプロ野球ドラフト会議西武ライオンズから3位指名を受け、契約金3,000万円・年俸400万円(金額は推定)で捕手として入団[1]分校出身者としてはプロ野球史上初の指名であった。強打・俊足の持ち主で、「秋山二世」、「和製大砲」と呼ばれる。

正捕手・伊東勤の存在で出場機会に恵まれなかったが、1990年にファームで頭角を現す。

1991年から強打を生かす為、外野手コンバートされた。イースタンリーグで本塁打、打点の2冠を獲得した。

1993年には一軍定着を果たし、外野だけでなく捕手としての出場もあった。

1994年読売ジャイアンツとの日本シリーズでは槙原寛己に三振に打ち取られ最後の打者になっている。

1995年には初の開幕スタメンを勝ち取り5月終了までに二桁本塁打を放つなど本塁打王争いにも加わっていたが、6月に入ると他球団のマークがきつくなりだし不振に陥る。オールスターゲームにも出場したが調子が上がらず8月末には故障離脱でシーズンを終える。シーズンでは95試合の出場ながらこの年初の二桁となる14本塁打を放った。

1996年には左翼手としてレギュラーに定着し、自身唯一の年間規定打席に到達しキャリアハイの28本塁打を記録した。

1997年には清原和博FAで読売ジャイアンツへ移籍、その穴を埋める期待をされるも、スランプや右膝の故障で不振に終わる。

1999年、大砲として期されたアーキー・シアンフロッコグレッグ・ブロッサーら助っ人陣の大誤算と主軸の鈴木健が不振に喘ぐ中、チーム最多の15本塁打を放ち復活。9月15日のロッテ戦では、9回裏無死無走者の打席で礒恒之からサヨナラ本塁打を放った[2]。以後3年連続で二桁本塁打を記録。

2002年オフ、椎木匠との交換トレード千葉ロッテマリーンズへ移籍[3]

ロッテ時代[編集]

2004年9月11日、選手会のストが前日に回避されて行われた日本ハムとのプレーオフ戦で、1点を追う9回裏二死無走者で打席に入り3塁ゴロに倒れ、敗戦と思われたが、小笠原道大の失策で出塁し、後続のタイムリーで生還して延長戦に突入する。そして、同点のままで迎えた11回裏の打席で井場友和からサヨナラ本塁打を放った[4]

2005年にはプレーオフ最終戦でヒットを放つなど、出場機会は減ったが指名打者代打の切り札として活躍。

2006年には開幕一軍に名を連ねるも、4月には二軍落ち。10月2日にロッテから戦力外通告を受け、現役を引退[5]3月26日のソフトバンク戦で三瀬幸司から放った3ラン本塁打が最後の安打・本塁打となった。イースタンリーグの最終戦では4番で先発出場、これが花道となった。

現役引退後[編集]

六本木のステーキ店「シルクロード」の店長として勤務。ロッテのネットライブ中継の解説を2007年より原井和也の代わりにつとめることになった。

2007年からはプロ野球マスターズリーグの東京ドリームスに所属。

2010年からは、落合博満が一軍監督を務めていた中日ドラゴンズで、打撃・外野守備走塁コーチを務めた[6]。しかし2011年限りで監督の落合らと共に退任した[7]

2012年から2013年までは、J SPORTSメジャーリーグ中継に解説者として出演した。

2013年末から落合がゼネラルマネジャーとして中日へ復帰したことを機に、2014年2月1日付で同球団のGM付関東地区担当調査役に就任、主にイースタン・リーグ視察を行った。その後2019年10月1日、同年限りで契約を満了し、来季契約を結ばないことが発表された[8]

2019年10月26日、2020年から東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍打撃コーチを務めることが発表された[9]。翌2021年は育成打撃コーチを務めた後[10]2022年は再び二軍打撃コーチを担当。同年10月14日、契約満了に伴い、同年限りで退任した[11]

2022年12月28日台湾プロ野球富邦ガーディアンズ2023年シーズンからの打撃コーチに就任した[12]

人物[編集]

素質は清原和博以上と言われ、和歌山出身なので「ミカンの大器」と言われた。一軍では通算110本塁打、ファームでも通算109本塁打を記録しており、一軍・ファーム双方で100本塁打以上を記録している唯一の選手である。ガンバレ日本プロ野球!?に出演した際にこのことを金村義明に報告したところ「プロ野球選手として一番自慢したらいかんことや」と冷静に突っ込まれている。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1991 西武 8 15 14 2 3 0 0 1 6 2 0 0 0 0 0 0 1 5 1 .214 .267 .429 .695
1992 7 8 7 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .143 .250 .143 .393
1993 47 98 86 12 19 4 1 5 40 11 1 3 1 0 11 0 0 30 3 .221 .309 .465 .774
1994 78 176 152 24 28 5 2 7 58 21 7 1 3 2 18 1 0 57 1 .184 .266 .382 .382
1995 95 339 305 40 66 10 2 14 122 37 2 3 2 1 27 2 4 107 5 .216 .288 .400 .688
1996 121 434 387 57 98 19 3 28 207 57 16 3 2 5 38 0 2 114 5 .253 .319 .535 .854
1997 64 149 129 17 29 8 1 3 48 12 2 0 1 1 16 1 2 48 1 .225 .318 .372 .690
1998 23 45 37 5 4 1 0 1 8 1 0 0 0 0 7 0 1 14 1 .108 .267 .216 .483
1999 113 392 359 44 89 11 0 15 145 49 7 0 2 2 27 0 2 83 5 .248 .303 .404 .706
2000 108 352 301 38 70 17 1 13 128 51 1 2 2 3 42 3 4 91 7 .233 .331 .425 .757
2001 91 237 195 26 44 5 1 14 93 38 0 2 0 2 34 0 5 52 5 .226 .352 .477 .829
2002 80 153 134 16 30 4 0 4 46 15 0 0 0 0 16 2 2 38 2 .224 .316 .343 .659
2003 ロッテ 17 29 24 1 3 0 0 1 6 2 0 0 0 0 5 0 0 12 1 .125 .276 .250 .526
2004 36 84 74 11 20 9 0 3 38 13 0 0 0 0 7 0 3 21 0 .270 .357 .514 .871
2005 24 43 38 3 5 2 0 0 7 3 0 0 0 0 5 0 0 21 0 .132 .233 .184 .417
2006 5 6 6 1 1 0 0 1 4 3 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .167 .167 .667 .833
通算:16年 917 2560 2248 297 510 95 11 110 957 315 36 14 13 16 254 9 26 698 37 .227 .310 .426 .736

年度別守備成績[編集]



捕手 三塁 外野














































1991 西武 - - 4 3 0 0 0 1.000
1992 1 1 0 0 0 0 1.000 0 0 0 - - 5 5 0 0 0 1.000
1993 8 3 2 0 0 1 1.000 6 4 2 .333 - 27 26 2 2 1 .933
1994 - - 75 82 3 0 0 1.000
1995 - 1 0 0 0 0 .000 92 170 6 5 4 .972
1996 - - 106 187 5 2 1 .990
1997 - - 45 42 5 3 1 .940
1998 - - 12 10 0 0 0 1.000
1999 - - 94 154 2 1 1 .994
2000 - - 94 141 6 3 1 .980
2001 - - 68 95 1 1 0 .990
2002 - - 58 43 0 1 0 .977
2003 ロッテ - - 8 5 0 0 0 1.000
2004 - - 26 27 0 0 0 1.000
2005 - - 8 6 0 0 0 1.000
2006 - - 2 1 0 0 0 1.000
通算 9 35 2 0 0 1 1.000 6 4 2 .333 0 1 0 0 0 .000 720 994 30 18 9 .983

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 39(1989年 - 同年途中)
  • 63(1989年途中 - 1991年)[注 1]
  • 33(1992年 - 1994年開幕直前)
  • 12(1994年開幕直前 - 1998年)[注 2]
  • 55(1999年 - 2002年)
  • 38(2003年 - 2006年)
  • 81(2010年 - 2011年)
  • 94(2020年 - 2022年)
  • 72(2023年 - )

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ シーズン途中に加入したオレステス・デストラーデが39番を着けるため変更。
  2. ^ 開幕直前に加入したロッド・ブリューワが33番を希望したため変更。

出典[編集]

  1. ^ 「垣内、西武入り内定」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1988年(昭和63年)12月2日付朝刊、19面(スポーツ面)。
  2. ^ 「垣内がサヨナラ弾」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)9月16日付朝刊、22面(スポーツ面)。
  3. ^ 「垣内と椎木も」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2002年(平成14年)11月16日付朝刊、18面(スポーツ面)。
  4. ^ 「ロッテ3位浮上」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2004年(平成16年)9月12日付朝刊、24面(スポーツ面)。
  5. ^ 「ロッテが5選手に戦力外通告」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2006年(平成18年)10月3日付朝刊、25面(スポーツ面)。
  6. ^ 中日 来季井上打2軍撃コーチ就任”. スポニチ Sponichi Annex (2009年10月25日). 2023年10月2日閲覧。
  7. ^ 首位浮上その日に…中日、9コーチと契約せず”. スポニチ Sponichi Annex (2011年10月6日). 2023年10月2日閲覧。
  8. ^ 中日森繁和SDら5人退団 球団社長「契約満了で」”. 日刊スポーツ (2019年10月1日). 2023年10月2日閲覧。
  9. ^ 楽天が垣内2軍打撃コーチ、星2軍バッテリー兼作戦守備コーチ就任を発表”. Full-Count (2019年10月26日). 2022年10月15日閲覧。
  10. ^ 2021シーズン コーチングスタッフに関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2020年11月12日). 2022年10月15日閲覧。
  11. ^ コーチ契約に関して”. 楽天イーグルス オフィシャルサイト. 2022年10月14日閲覧。
  12. ^ 郭泰源西武時期隊友 垣内哲也到富邦悍將當打擊教練”. setn. 2023年1月1日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]