共和制

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共和制(きょうわせい、: republic)は、人民または人民の大部分が統治上の最高決定権を持つ政体[1][2] 。一般には、政府の大半の意思決定が元首の裁量によってではなく、成立したを参照して行われる体制のこと。このため現在では君主制は共和制では無いとされる場合が多く、現代の一般的な定義では「共和制とは君主ではない元首を持っている政体」である[3][4][5]

「共和制」(リパブリック)の語源はラテン語の「res publica」で、「公共の事」との意味を持ち、更には「公共の政府を持つ国家」の意味で使用された。

日本では通常、「リパブリック」を制度の場合は「共和制」、特に政体の場合は「共和政」、国家の場合は「共和国」と訳している。また思想の場合は「共和主義」(republicanism)である。それぞれの対比語は、君主制、君主政、君主国(以上 monarchy)、君主主義(monarchism)である。

語源

英語で共和制や共和国を意味する「republic」の語源は「公共のもの」を意味するラテン語の“res publica”である[6]。制度を指す抽象名詞(共和制)と、そのような制度を持つ組織体(共和国)とを用語上、区別しない。これは、特定の個人や階級のためにではなく、全構成員の共通の利益のために存在するものとされる政治体制を指した。

漢語としての「共和」は、古代中国西周期、暴政を行った厲王が国人(諸侯と都市住民)に追放されたのち、空位の14年間を宰相の召公と周公が共同して統治に当たった(『史記』周本紀)、もしくは諸侯に推戴された共伯の和(共という国の伯爵で和という人物)によって王の職務が代行された(古本竹書紀年)時期を「共和」ということに由来する。この体制では世襲の王がおらず、有力者の合議による政治が行われたことから、大槻磐渓の示唆により箕作省吾がその著『坤輿図識』(1845年)で初めてこれを、“republic”の訳語として用いたものである[7]

政体

共和制は、その語源にもあるように国家を国民全体の共有財産として捉えることに政体上の特徴を有する。よって共和制国家における意思決定は国民全体の意志によるものでなくてはならないため、必然的に国民主権が要請される。ただし現代社会においては、物理的・技術的な制限から普通選挙による代議制によって国民の一般意思に代替させることがほとんどである。近代共和制の提唱者であるジャン=ジャック・ルソーは、選挙に基づく共和政を実質的な貴族政治であると批判している。

現在の共和国、あるいは国民主権を謳う共和制国家において厳密な意味での直接民主主義や、ルソーが理想とした「抽選による代表者の選出 (demarchy)」を行う国家は存在しない。ただし限定された直接民主主義を実施するスイスや、直接民主主義の実現を目指す政党(例としてハンガリーインターネット民主党)は存在する。また1977年から2011年までのリビアジャマーヒリーヤ体制(国民で憲法等を決める直接民主主義のイスラム共和制)という社会主義共和制であったが、この体制下では成文憲法も無いため国家元首も存在しなかった(リビア無血革命を決行した将校団を結成したカダフィ大佐が革命指導者として実質的な国家元首として君臨していた)。

共和制での国家の最高指導者は君主以外の全てが考えられ、民主的または独裁体制における大統領などや、社会主義国などの書記長国家主席イスラム共和国などの宗教的指導者、あるいは集団指導体制などがありうる。

共和制には二つの類型があり、政治家が国民によって選出される民主共和制と、政治家が国民によって選出されない寡頭共和制の2種類がある(後述)。また南米諸国(※エクアドルベネズエラ等除く)特有の政体類型として、立憲君主制立憲(政治)の部分を採用した立憲共和制と呼ばれる独自の共和制を採っている国家が存在する。

なお旧ボリビア共和国は近年ボリビア多民族国として国名変更しているが、政体が共和制であることに変わりはない。

またアメリカ合衆国のように明らかに共和制であるのにもかかわらず、国号に「共和国」を採用しない場合、歴史的な経緯から国家を全国民の共有財産と規定できなかったことを意味している。アメリカの場合、建国当初は個々の州が独立した主権を保ちつつ(州の主権は州民のみが有する)、「連邦共和国」として他国から独立しようとする動き(反フェデラリスト)があったため、「合衆国」(United States)という国号を採用せざるを得なかった。

共和制と民主主義

共和制とは君主制の対立概念であって、民主主義と必ずしも同義ではない。したがって、民主主義ではない共和制や民主主義的な君主制が存在する。

共和制かつ民主主義という意味の「共和制」国家は民主共和制ともいい、近代民主主義の先駆けとなったアメリカ合衆国フランス共和国が代表例である。両国とも市民革命によって君主制を廃して共和制とし、国民が自らの代表を選出して政治を行う民主主義を実現した。

民主主義の共和制と称する国家であっても、権力の移譲が行われず独裁化し実態として民主主義ではない国もある。例えば、大統領が終身在任制であったサパルムラト・ニヤゾフ政権下のトルクメニスタン共和国や、独裁的な権力の世襲を行っている朝鮮民主主義人民共和国などが挙げられる。また、世襲以外の方法で権力の移譲が行われるが、そこに国民が関与できない非民主的な国家制度もある。ソ連型社会主義国家(例:ソビエト連邦中華人民共和国)や、国民党時代の台湾が代表的である。ソ連型社会主義や、国民党時代の台湾は、一党独裁制であり、政治家は国民によって選出されない(ソ連型社会主義国のように政治家が選挙で議会の議員に選出される形態を取っている場合もあるが、選挙方法が形式的なものであったり、支配政党の幹部に実権があったりすることが多い)。

逆に君主が存在しても民主主義(国民主権)である場合もある。このような国家は憲法や慣習で君主の権限を制限することで、民主主義との両立を行っている。(制限君主制立憲君主制。例:英連邦王国諸国、オランダ王国日本国など)

歴史

自らを古代ギリシアローマの正統後継者と喧伝する近代西欧の思想では、古代ギリシアの都市国家や、古代ローマ共和国を共和制の端緒に位置づけている。ここでは、共和制とは、前述のように、特定の個人や階級のためにではなく、全構成員の共通の利益のために存在するものとされる政治体制を指す。古代ギリシアのポリスや古代ローマのキウィタスはこのような意味で共和制であると考えられてきたものである。それらの共和制の実態は、民主政治であることもあれば、貴族寡頭政治であることもあった。帝政ローマが皇帝により私物化されるようになると、批判者によって共和制が対立する概念として引き合いに出されるようになった。

国家のあるべき姿を共和制であると考える理念は中世以降のヨーロッパにおいても存在したが、実態としては貴族による寡頭共和制であった。中世イタリアの都市国家や、独立直後のネーデルラント連邦共和国など、共和国が数多く生まれたが、イタリア諸都市は寡頭制であり、共和国であったオランダでも総督(統領)を世襲する現王家の先祖であるオラニエ=ナッサウ家17世紀以降徐々に権力を強めていき、事実上の君主に近い地位につくようになった。絶対王政の時代には、これに反対する立場が、共和制の観念を用いるようになり、清教徒革命時のイングランドは共和国 (commonwealth) と称した(もっとも、実際は護国卿による独裁であり、護国卿位は世襲された)。ポーランド・リトアニア共和国では16世紀以降、貴族共和国体制がしかれ、国王を選挙で選びつつ、貴族身分による議会政治が定着した。

17世紀から18世紀までの西欧では、むしろ民主主義を批判しつつ共和主義を賛美するという思潮が強かったが、一方で、18世紀においてルソーは共和制を人民主権と結びつけて論じた。市民革命により1783年に独立したアメリカ合衆国や、1789年フランス革命によって成立したフランスの共和国が、民主政治をしく民主共和制のモデルとなり、19世紀には南アメリカに広まった。

20世紀には、1911年辛亥革命を皮切りにして共和制国家が増え始め、これらはヴァイマル共和国のような民主政治から、ソビエト連邦のような寡頭政治までさまざまであった。特に1945年第二次世界大戦終結以降は、元首民選の共和制(大統領制)をしく国家が世界中に広まった。そして1989年東欧革命や、1991年末のソビエト連邦の崩壊により、寡頭共和制は続々と倒され、民主共和制をしく国家がさらに増えた。

脚注

  1. ^ 法の精神」(シャルル・ド・モンテスキュー、1748年)Bk. II, ch. 1.
  2. ^ republic - Encyclopedia Britannica
  3. ^ はてなキーワード
  4. ^ republic - Dictionary.com
  5. ^ republic - Merriam-Webster
  6. ^ 「国民百科事典2」平凡社 p409 1961年4月30日初版発行
  7. ^ 穂積陳重『法窓夜話』、岩波文庫

関連項目