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「南京事件」の版間の差分

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一般国民には、厳しい報道管制と日本軍部の宣伝によって、国が流す報道内容からは事件の内容を知らされていなかった。1937年8月2日の憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」では、「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は諷刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項」などが言論取締りの対象とされた、とされる<ref>吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』 青木書店 55-56頁</ref>。
一般国民には、厳しい報道管制と日本軍部の宣伝によって、国が流す報道内容からは事件の内容を知らされていなかった。1937年8月2日の憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」では、「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は諷刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項」などが言論取締りの対象とされた、とされる<ref>吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』 青木書店 55-56頁</ref>。

== 国際社会や中国政府の対応 ==
南京事件の後、1938年1月に[[国際連盟]]の第100回理事会が開催された。中国の[[顧維鈞]]代表は、前年11月以降の日本の中国への軍事行動が、南京事件も含めて大きな悲劇を生んだことを演説で訴えた。そのうえで、2月2日に理事会は、その前年の10月に国際連盟の総会が決議した「中国への道義的支援」、つまり日本の軍事行動が[[九カ国条約]]及び[[不戦条約]]に違反していることから派生した決議を再度確認した。国際連盟はすでに前年9月にも中国の提訴により、日本の都市空爆への非難決議を出している。中国は、前年の11月のブリュッセルでの九か国条約会議(同じく日本の軍事行動が非難されつ宣言が採択されている)のときもその後も日本への経済的制裁までも求めたが、当時の英仏はまだその時期に日本への制裁行動に踏み切っていなかった<ref>「ドイツ外交官が見た南京事件」 石田勇治等 大月書店 (2001) 136-139頁</ref>。


== 事件の背景について ==
== 事件の背景について ==

2016年4月6日 (水) 14:23時点における版

南京事件(なんきんじけん)は、日中戦争支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍中華民国の首都南京市を占領した際(南京攻略戦)の12月13日の直前直後から約6週間もしくは最大で2ヶ月以内にわたって、当時の日本軍が、中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内の一般市民などに対して、戦時国際法に違反した殺傷等の行為を行ったとされる事件。この事件については、事件の規模、虐殺の存否を含めさまざまな論争が存在している(南京事件論争)。南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件 など多様な呼称がある(後述)。

2015年10月9日、ユネスコは「Nanjing Massacre (南京虐殺)」を巡る資料を記憶遺産に登録することを決めた[1][2][3][注釈 1]

事件の概要と経緯

日中戦争による第二次上海事変と南京攻略へ

1937年7月に始まった日中戦争は、満州事変以降も中国での権益を軍事力で守ろうとする日本と、蒋介石国民政府との衝突が全面戦争に発展したものであり。双方が宣戦布告を行わなかったので、日本は「戦争」でなく支那「事変」と呼んだ。

当初は華北から戦闘が始まり、その後、双方とも兵員を動員する中、ドイツの軍事顧問を得ていた蒋介石は、国際都市上海にて日本軍をおびき寄せて殲滅する作戦を立てた。その結果、8月に主戦場は上海に移ることとなる[4]。日本側も、中国に対して一撃を加えれば大人しく引き下がるものと考えており、暴支膺懲(乱暴な中国をこらしめる)というスローガンを世論に利用し、対決姿勢をとる。日本陸軍は上海派遣軍を送り、上海において、日中両軍の激しい戦闘が起こった(第二次上海事変)。しかし、かつての中国と異なり、近代的な軍事力と国民意識を持った中国軍の抵抗もあって、日本側は予想に反して大きな被害を出しつつ戦線は膠着状態であった。そして、その後日本陸軍の増派によって形勢は日本に有利となる。11月5日には杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われた中国軍は、上海方面より首都南京方面へと潰走した[5]第二次上海事変は、日本軍に多くの戦死者を出し、日本軍人に中国軍への復讐感情を植え付けることとなる[6]

11月7日に松井石根司令官率いる上海派遣軍は、第10軍とともに、両軍の上位に編成した中支那方面軍(司令官:松井石根)に改編された。そして、中支那方面軍は、軍中央の方針を無視して、11月19日には第10軍が、その後上海派遣軍が、撤退する中国軍の追撃を独断で始め、首都南京への侵攻をも目指した[7]。12月1日には軍中央が現地軍の方針を追認する形で中支那方面軍に南京攻略命令を下達する[8]。ただし、南京へ向かう日本軍は、食糧などを途中の農村地域で略奪しながら進軍したこともあり、後述の「南京事件の被害者(南京の一般市民」にも記載あるように多くの中国一般人への暴力行為や略奪が行われた[9]

また、日本海軍は、8月より渡洋爆撃と呼ばれる日本海軍機による首都南京への空襲を開始し、国際社会より非難されていた[10]。そして、日本外務省は、10月に中国に駐在するドイツ人外交官のトラウトマンを仲介とする、トラウトマン和平調停工作を開始し、軍事的経済的に日本にとって有利な要求を通した和平を中国側につきつけた。このトラウトマン工作は、結局、日本側が南京占領後に条件を釣り上げたために頓挫し、日中和平は遠のいたままになる。

南京入城までの両軍の動向

日本側

松井石根司令官率いる上海派遣軍第10軍12月8日には南京を包囲し、12月9日に松井司令官は、中国軍に対し無血開城を勧告した。中国軍が開城勧告に応じなかったために、日本軍は12月10日には攻撃を開始して、12月13日に南京城に陥落させた。12月29日、上海派遣軍は「南京本防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、我が方戦死八百、戦傷四千、敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品・小銃十二万九百・・・である」と発表した[11][12]。しかし、翌年1月、敵の損害は約八万、うち遺棄死体は約五万三、八七四」と算定した[13]。これにつき、防衛庁防衛研修所戦史室の『戦史叢書』は「日本軍の戦果発表が過大であるのは常例であったことを思えば、この数字も疑わしい」[13]とし、偕行社の『南京戦史』は「上海派遣軍発表の遺棄死体数は、中国防衛軍の総兵力判断6〜7万と比べ著しく過大である」[14]としている。

中国(中華民国)側

総退却した中国軍側であるが、11月に南京において高級幕僚会議が行われて、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に首都を南京から重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。中国側は南京に防衛線(複郭陣地)を構築して抗戦する構えを見せたが、日本軍は12月には南京城に迫る中、蒋介石12月7日に南京を脱出した。中国軍の複郭陣地を次々と突破した日本軍は12月10日に総攻撃を開始し、南京防衛司令官の唐生智12月12日に逃亡した。しかし、南京の中国軍の大半は組織的撤退を知らないか、知らされても安全に逃げられない状況であった。中国兵の中には塹壕に足を縛られて防戦させる者もいたし、唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門に仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊が置かれて撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)。そして、12月13日には中国軍は総崩れとなり南京城は陥落した。陥落時には南京城の北側から長江の対岸へと逃げようとした非常に多くの兵隊・一般人が、舟もない中で渡河しようとして、大半が途中で溺れ死んだと伝えられる[15]

南京事件の被害者

南京事件は、前述したとおり、(いつ)1937年12月13日の直前直後から約6週間もしくは最大で2ヶ月以内にわたって、(どこで)中華民国の首都南京市において、(誰が)当時の日本軍が、(誰に)中国側の一般市民および中国兵に対して、(何を)戦時国際法に違反した暴力行為でもって、(どうした)殺害や身体・性的な暴力被害や財物の損害を行ったことである。中国兵の被害者は主に殺害された者であるが、一般人には殺害のみならず身体・性的な暴力被害や財物の損害も存在した。

南京事件の被害者(南京の一般市民)

日本軍による南京市民に対する被害は、第二次上海事変の開始直後に起こった8月15日開始の渡洋爆撃と呼ばれる日本海軍機による南京空襲での死傷・戦災が最初であり、中国側の記録では10月までの二か月(その後も続く)の空襲で400人近くの市民が死亡した[16]。 日本軍の空襲によって、多くの南京市民が市街から遠方に避難し始め、100万人を越えるとされた南京城市の人口は大きく減少し、一方で11月に日本陸軍の中支那方面軍が南京周辺の広大な農村地域の近郊六県を含む南京行政区に進入したため、農村地域等から多くの被災者が南京城市に流れ込む現象も起きた[17]。また、日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、日本留学生などを「漢奸狩り」と称して殺害する事件も相次いでいた。

そして、その後日本軍が南京城を攻撃して陥落させた12月13日の前後以降に発生した日本軍の戦時国際法違反、いわゆる「南京事件」のうち、一般市民の被害にあたるものは、以下のとおりである。

①「陥落戦時の被害(南京城区での12月13日の南京陥落時と、その直前直後に発生)」

日本軍による南京城市陥落(12月13日)の前後に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が少なからず存在したとされる(城外を出て長江を渡って逃げる途中の市民(婦女子も含む)が兵士とともに銃撃を受けて殺された証言、日本兵による攻撃や暴力で殺害された証言(新路口事件)がある)[18]

②「12月14日後の占領期に発生した被害」

陥落後の日本占領期には、南京城内に残ったほとんどの市民は、当時の在留欧米人によって設定された南京安全区(クリックで説明にリンク)に避難した。しかし、南京安全区国際委員会の関係者の記録によると、南京安全区の内外において、日本軍による、市民への暴力・殺傷行為(南京安全区へ逃亡した中国兵掃討に関する誤認逮捕・処刑も含む)や物品強奪・建物器物損壊が行われた。

南京安全区国際委員会の関係者の記録:ジョン・ラーベの日記(日本語訳「南京の真実」)、(日本大使館への抗議交渉を行った)マイナー・シール・ベイツの証言、ジョン・マギーの証言や残したフィルム(マギー・フィルム)、多くの中国人女性を保護したミニー・ヴォートリンの日記(日本語訳「南京事件の日々」)などである[19]

南京安全区国際委員会のメンバーでもあるアメリカ人大学教員ルイス・S・C・スマイスの調査した南京事件の被害の信頼性の高い統計も含めた調査である「南京地区における戦争被害」(スマイス調査)によると、南京市部(南京城区)での日本軍による民間人の殺害・拉致後殺害は計6千6百人と推測されたが、別途1万2千人という推測値も示している。

以上のような、日本側の殺害、暴行、略奪等の内容や規模やその真偽についての論争があり、以下にその議論が詳しく記載されている。また、南京城区と設置された南京安全区の人口とその推移について犠牲者の情報と比較するために、以下にその議論が詳しく記載されている。

なお、前述したとおり、南京城市とその周辺ではなく、南京行政区(参考:南京国民政府の行政区分)という広大な農村部(日本の東京・神奈川・埼玉を含めた広さ)を中心とした地域において、日本軍はその地域に侵入したときに住民の殺害・強姦・強奪をそれも南京安全区の住民よりも数多くより非道かつ過酷な例も含めて行ったとされる日中双方の証言に基づく説があり、スマイス調査によると2万6千人以上の犠牲があったとされるが、これも一部の日本人研究者の意見(例:笠原十九司等)や中国側研究者の意見では、南京事件の被害に含められている[20]

南京安全区

南京安全区とは、南京攻略戦前の11月、アメリカ人宣教師(ジョン・マギーマイナー・シール・ベイツや女性宣教師 ミニー・ヴォートリンなど)を中心とする15名ほどによって、戦災に巻き込まれて南京城市から避難できない市民などを救済するために組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内にアメリカ大使館に協力を依頼して、設定した地域である。南京城市内の北西部にあり、面積は約4平行キロで城市内全域の1割程度であり、外国人施設・邸宅が多くある。ドイツのジーメンス南京支社の支配人であるジョン・ラーベが委員会の委員長となり、南京陥落前に南京安全区への市民の避難を呼びかけた。この安全区は被災民によって南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城市内の南京安全区外には住民が少ない状況となった[21]。日本側は、安全区には砲撃もせず(いわゆるラーベ感謝状に記載)、組織的な殺戮も起こしていないが、前述したような日本軍の市民や脱走兵(便衣隊以外)への暴行・殺傷行為を起こしている。

南京事件の被害者(中国兵)

「南京事件」の中国軍(南京防衛軍)の兵士の被害者とは、南京攻略戦以降に、日本軍に投降した(捕獲された)中国軍の捕虜、および摘出逮捕した同敗残兵や便衣兵の中で、戦時国際法で保護されるべきにも関わらず、日本軍によって殺害された者を指す。

旧日本軍の親睦組織偕行社のまとめた『南京戦史』(1993)によると、公式文書等に記載された捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応は以下の「公式文書による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応」の部隊別の一覧表のとおりである[22][注釈 2]が、公式文書での約1万2千人の殺害やその他の文書での計1万前後の殺害があり、その合計だけでも約2万2千人前後の殺害と資料に掲載されている。

この表の殺害数の中に日本軍の戦時国際法違反による殺害が含まれるとされている。当時の中国軍兵殺害については、2015年に日本テレビが製作した番組であるNNNドキュメント'15『シリーズ戦後70年 南京事件/兵士たちの遺言』においても当時の日本兵の証言とその検証が残されている[23]

交戦当時の戦時国際法として有効なものは、日本と中国の双方が批准したハーグ陸戦条約であるが、その第4条には「俘虜は人道をもって取り扱うこと」となっていた。

(注)中国側の南京防衛軍の当時の全体総数は、6-7万(「南京戦史」偕行社1993)、10万(秦郁彦説(台湾公式戦史から)、15万(笠原十九司説・孫宅巍説)と諸説あり、その中での捕虜等になる前に戦死した人数や逃亡し終えた人数も諸説がある[24]。南京城内外に残された大量の中国軍兵士を撤退させる方法が無く、指揮命令系統の崩壊により組織だった降伏も困難であった。そして、中国軍の正規兵には、軍服を脱いで民間人に紛れて逃走をはかったものが多数あった[25]

公式文書による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応
部隊 総数 対応 出典 適用
第114師団歩兵第66連隊第1大隊 1,657
12、13日に雨花門中国語版外で収容
処断 1,657
13日午後
第114師団歩兵第66連隊第1大隊戦闘詳報 雨花台事件
第6師団歩兵第45連隊第2大隊 約5,500
14日午前、下関で収容
釈放
14日午後
第6師団戦時旬報
第16師団歩兵第33連隊 3,096
10日 - 14日、紫金山北方 - 下関附近、太平山、獅子山附近の戦闘間
処断 3,096 歩兵第33聯隊戦闘詳報
第16師団歩兵第38連隊第10中隊 7,200
14日、堯化門中国語版附近
収容 7,200
17日、18日頃、南京へ護送
歩兵第38聯隊戦闘詳報
国崎支隊 (歩兵第41連隊基幹) 120
3日 - 15日
不明 120 第9旅団戦闘詳報
歩兵第41連隊第12中隊 2,350
14日夕、江興洲
釈放 2,350 第12中隊戦闘詳報
第16師団歩兵第20連隊第4中隊 328
14日、安全区中国語版東方
処断 328 第4中隊陣中日誌 「銃殺ニシテ埋葬ス」
第9師団 約7,000
13日 - 14日
処断 約7,000 第9師団作戦記録概要
第9師団歩兵第7連隊 (6,670)
安全区掃蕩間
処断 (6,670) 歩兵第7聯隊戦闘詳報
戦車第1大隊第1中隊 (320)
14日、掃蕩間
処断 (70) 第1中隊戦闘詳報 戦争処置
第3師団歩兵第68連隊第1大隊 8 不明 8 第1大隊戦闘詳報
第3師団歩兵第68連隊第3大隊 25 不明 25 第3大隊戦闘詳報
第16師団歩兵第9連隊第2大隊 19 不明 19 第2大隊戦闘詳報
集計 (公式文書) 約27,000 収容 7450、釈放 7850、不明 172、処断 約12,000 『南京戦史』は「大雑把な目安にすぎない」としている。
公式文書以外による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応
部隊 総数 対応 出典 適用
山田支隊 (歩兵第65連隊基幹) 8,000
14日 幕府山附近で収容された14,000のうち非戦闘員6,000は釈放
逃亡 7,000、処断1,000
14日夜、4,000が逃亡、残余は観音門へ連行
戦史叢書 幕府山事件
第16師団第30旅団 約2,000
24日 - 翌年1月5日、安全区内の兵民分離
収容 約2,000 佐々木少将私記』 その他入院中の500は収容
第16師団第19旅団歩兵第20連隊第12中隊及第3機関銃中隊 200 - 300 処断 200 - 300 『小戦例集』、『牧原日記』
第16師団第30旅団歩兵第33連隊 数百
16日、17日、紫金山北方
処断 数百 『佐々木少将私記』
第16師団第30旅団歩兵第38連隊 数百
16日、17日、紫金山北方
処断 数百 『佐々木少将私記』 掃蕩戦間の処分
第16師団第30旅団 数千
24日 - 翌年1月5日、南京近郊、不逞の徒
処断 数千 『佐々木少将私記』 下関にて処分

外国メディアによる報道

南京事件は、事件発生直後の12月15日以降から、広く欧米社会のマスコミを通じて以下のとおりに報道された。アメリカの『シカゴ・デイリーニューズ(英語版)』(12月15日付)[26]や『ニューヨーク・タイムズ』(12月18日、19日付)[27]、イギリスの『タイムズ(ロンドン・タイムズ)』(12月20日)[28]のような有力紙の記事、ロイター通信社による新聞記事によって、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為が日本軍によって行われたとして伝えられて報道された[29]。 これ等の報道は、南京に在留していたジャーナリストが、日本軍の南京占領後しばらくして脱出し、船舶無線を使って報道をおこなった(戦時中のために無線が日本軍によって管理されていたため)。その後、1938年以降も新聞記事や雑誌(アメリカ雑誌「ライフ」誌の特集(1月、5月)で報道される[30]

日本政府の反応・当時の陸軍高級軍人の証言・一般国民への情報

南京占領時の日本政府の反応についてであるが、外務省の福井南京総領事代理の報告や岡本上海総領事の詳細な報告によって、南京事件が深刻な事件として外務本省に伝えられた。南京安全区国際委員会の抗議も届き、「東亜局第一課の部屋には、報告書や写真が山積みとなった」。石射猪太郎東亜局長が事態を重くみて、陸軍軍務局に伝達したが、その結果、現地の南京総領事が陸軍によって突き上げられる始末であった。広田弘毅外務大臣より陸軍大臣の杉山元への軍紀粛正の申し入れがあった。その結果、1月に陸軍参謀本部の本間雅晴が現地に派遣され、その報告を受けて現地の中支那方面軍司令官の松井石根が日本に召還された。ただし、広田は閣議では事件を明らかにしなかったために、極東国際軍事裁判では、残虐行為に対して不作為と判断された[31]

その当時、陸軍の高級幹部である、松井石根司令官の後任の中支那方面軍司令官の畑俊六や中国派遣軍である第十一軍司令官に就いた岡村寧次大将のように当時の南京派遣軍の規律に否定的な評価をした人もいた[32]

一般国民には、厳しい報道管制と日本軍部の宣伝によって、国が流す報道内容からは事件の内容を知らされていなかった。1937年8月2日の憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」では、「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は諷刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項」などが言論取締りの対象とされた、とされる[33]

国際社会や中国政府の対応

南京事件の後、1938年1月に国際連盟の第100回理事会が開催された。中国の顧維鈞代表は、前年11月以降の日本の中国への軍事行動が、南京事件も含めて大きな悲劇を生んだことを演説で訴えた。そのうえで、2月2日に理事会は、その前年の10月に国際連盟の総会が決議した「中国への道義的支援」、つまり日本の軍事行動が九カ国条約及び不戦条約に違反していることから派生した決議を再度確認した。国際連盟はすでに前年9月にも中国の提訴により、日本の都市空爆への非難決議を出している。中国は、前年の11月のブリュッセルでの九か国条約会議(同じく日本の軍事行動が非難されつ宣言が採択されている)のときもその後も日本への経済的制裁までも求めたが、当時の英仏はまだその時期に日本への制裁行動に踏み切っていなかった[34]

事件の背景について

南京城内で避難民にまぎれて逃亡を企てた中国軍正規兵を調べる憲兵(毎日新聞昭和13年1月1日発行)

南京事件は、その事実関係や戦時国際法との関係などについては、殺害の規模やその妥当性について論争がある。

南京攻略戦を前(12月7日)に、松井石根司令官は、「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を自軍に示していた。その一方で、当時の日本軍の中支那方面軍の状況として、南京に向かうまでの行程で食糧を調達しつつの進軍が略奪・非行につながったこと、その行程である南京行政区の農村部において日本軍による住民の殺害・強姦・強奪がすでに発生するという軍紀の緩み[35]、非行を取り締まる憲兵の少なかったこと[36]、捕虜となることを恥とする習慣から相手国の捕虜への軽侮につながったこと[37]などが指摘されている。

また将校までが「軍の規律を求めた松井石根軍司令官の通達」を無視した行動を行っていた[38]、第二次上海事変において、日本軍人が遭遇した戦友の多くの犠牲を伴う、中国軍との厳しい戦いによる被害が、中国側への復讐感情を芽生えさせた原因[39]であるとの指摘がある。

日中歴史共同研究の報告書(日本側)では、南京事件が起きた原因として日本側・中国側のそれぞれに以下の誤りがあったとした[40]

日本側の問題:(宣戦布告ない事変であったために)中国兵捕虜の取り扱い指針の欠如と占領後の住民保護を含む軍政方針の欠如。略奪による進軍が原因の軍紀の緩み。憲兵の少なさ。

中国側の問題:南京防衛の誤りと指揮統制の放棄と民間保護対策の欠如。国民政府や軍首脳は、(兵士・住民の)人命を保護しようとする配慮がなかったため、南京安全区国際委員会ジョン・ラーベも国民政府軍首脳に対して批判したと伝えられる。


中支那方面軍の編成

中支那方面軍は上海派遣軍と第10軍から構成される。南京攻略時の主な部隊を示した。攻略に参加していない部隊、通信隊や鉄道隊、航空隊、工兵隊、兵站部隊などは略している。

戦後の軍事裁判における扱い

この事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判南京軍事法廷で審判された。

極東国際軍事裁判では、直接の訴因(第四十五)については時期や事象が広範すぎるとして直接の判断は回避し、他の訴因において事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。また、前述したとおり広田弘毅も、日中戦争のときの外務大臣として南京事件の対応に不作為があったとされて有罪・死刑となった[41]

南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で事件は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅向井敏明、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦王は訴追されなかったが、これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。

「人道に対する罪」と訴因

ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった[42]

東京裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである[43]。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる[43]。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる[43]

このような起訴方針についてオランダとフィリピン(戦後アメリカの植民地から独立)、中華民国側からアングロサクソン色が強すぎるとして批判し、中華民国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での残虐行為を追加させた[要出典]

東京裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(訴因53-55)の三種類にわかれ、南京事件はこのうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた[44][45]

論争

この問題は事実存否や規模、殺害人数[46]、戦闘行動と戦争犯罪(不法殺害)の区別、作戦指導の妥当性、写真の誤用や証言の食い違い等に論争があり、これらを巡って現在でも議論が続けられている。

2010年日中歴史共同研究公表[47]に際し、中国側主席委員・歩平が「単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為(が行われた)という認識を持つことである」との発言からも伺えるように、論点とすべき歴史的資料が十分に得られない研究実態を前提として特に中国側から見て単なる事実(史実)調査にとどまらない政治的要素が含まれる[48]

日本政府の見解

日本政府は、日本軍の南京入城後に非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないとしつつ、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であるとの立場をとっている[49]

名称の種類と変遷

南京事件については、「南京大虐殺事件」「南京虐殺事件」「南京残虐事件」「南京暴虐事件」「南京大虐殺」「南京暴行事件」「南京アトロシティー(家永三郎洞富雄ら)[50]」「南京大残虐事件(洞富雄)[51]」など、多様な表記と呼称がある。呼称の種類および変遷について、以下概説する。

東京裁判
1946年(昭和21年)4月29日に起訴され、5月3日に開廷した東京裁判での呼称は「訴因第四十五」であり、ここでは鏖殺(おうさつ)[注釈 3]・殺戮と記述されている[52]。英文ではslaughter the inhabitantsないしunlawfully killed and murderedとされている[53]。開廷後の一週間後の同年5月10日の朝日新聞記事では「南京大虐殺事件」という呼称がみられ[注釈 4]、同年10月9日の貴族院第90回帝国議会において星島二郎が「南京事件」という呼称を使用している[54]
1948年(昭和23年)2月19日の検察側最終論告では「南京残虐事件」、2月25日の検察側最終論告では「南京における残虐行為」「南京事件」「南京強姦」、4月9日の弁護側最終弁論では「南京略奪暴行事件」、不提出書類のタイトルでは「南京ニ於ケル虐殺」「南京大虐殺死難者埋葬処ノ撮影」、1948年(昭和23年)11月4日の判決では和文「南京暴虐事件」[55]英文「THE RAPE OF NANKING」[56]などと表記されている[57]
戦後の教科書における表記
敗戦直後、教科書はいわゆる「墨塗り教科書」であったが、1946年に文部省著作による小学校用教科書「くにのあゆみ下」と中学校用教科書「日本の歴史」が刊行され、事件について記述がなされた(事件名は表記なし)[58]。1947年に学校教育法で教科書検定制度が導入されてからは1949年から検定教科書が使用される。
1952年に刊行された実業之日本社による高校用教科書「現代日本のなりたち 下」では「南京暴行事件」と表記された[58][59][60]
55年体制から1960年代まで
1955年(昭和30年)、日本民主党が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットを刊行し、「(社会科)教科書は偏向している」と主張する第一次教科書批判が起こる[61]。同年の保守合同による自由民主党成立後、55年体制下で教科書への検定強化が進んだ。1955年の大阪書籍、1964年の東京書籍などの教科書には南京攻略について記述されるにとどまり、残虐行為については記述されなかった[58][59][61]。なお1962年に家永三郎が編集した『新日本史』(三省堂)では「南京大虐殺(アトローシティー)」と表記されており[62]、1965年から家永教科書裁判が開始されている。
1956年に刊行された『世界歴史事典』[63]および、1961年の『アジア歴史事典』[64]などでは、「南京事件」で立項している[65]
1966年には毎日新聞記者五島広作下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社)が、1967年には洞富雄が『近代戦史の謎』(人物往来社)が、1968年には家永三郎が『太平洋戦争』(岩波書店)では、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら「南京大虐殺」について記述した[66]
1970年代
国会では1971年(昭和46年)7月23日の第66回参議院外務委員会で西村関一により「南京虐殺事件」および「南京大虐殺事件」という表記が使用されている[67]
1971年8月末から朝日新聞で連載を開始した本多勝一「中国の旅」(1972年刊行)が反響を呼び、南京事件について多数の記事が執筆される[注釈 5]。なお当時記事タイトルにおいて「南京大虐殺」を使用したものには「」1971年8月号「隠されつづけた南京大虐殺」がある[68]
1972年4月に鈴木明が「諸君!」に「『南京大虐殺』のまぼろし」を発表し、広範囲にわたる南京事件論争が開始されるともに、「南京大虐殺」についてマスコミで報道されるようになる。例えば、同年11月には三留理男「中国レポート(最終回) 冷酷な皆殺し作戦 南京大虐殺」『サンデー毎日』(72年11月19日号)などがある[69]。鈴木は1973年に文芸春秋社から同題で単行本を刊行する。
歴史学者の洞富雄は1972年に『南京事件』[注釈 6]を刊行した後、鈴木明への反駁として1975年に『南京大虐殺--「まぼろし」化工作批判』[70]を刊行し、以降、著書名でも「南京大虐殺」を使用する[71]。また洞が編集した『日中戦争史資料 8 南京事件』[72]は、1973年の版では「南京事件」という呼称を著書名において使用していたが、1985年に同書が青木書店より再刊された際には『日中戦争 南京大残虐事件資料集』と改題された[73]。一方で藤原彰本多勝一との共著では1987年の著書名に「南京事件」を使用している[74]
1978年の東京書籍の教科書では「南京虐殺」として記載されるなど、事件についての記述がなされるようになる[75]
第一次教科書問題と1980 - 1990年代
1980年には自民党が機関紙『自由新報』で「いま教科書は」を連載、国語・社会科教科書を批判するという第二次教科書批判が起きる[58]。1982年には「侵略」を「進出」に書き換えたと誤報道され、中国の干渉を招き外交問題に発展した第一次教科書問題が起きた。その結果、近隣諸国条項が検定規準として定められた。その後1984年の東京書籍教科書では「ナンキン大虐殺」と表記される。1987年の大阪書籍と教育出版の教科書では「南京虐殺事件」と表記され、1995年の実教出版の高校教科書「日本史B」では「南京大虐殺」というコラムが記載された[要出典]
そして1984-85年には、旧陸軍関係者偕行社が、日本軍証言者による「証言による『南京戦史」を刊行(後に1989年に「南京戦史」として刊行)した。1983年ころ、旧日本陸軍の将校の親睦団体である偕行社は、30万人虐殺に疑問を持って南京問題を取り上げることを決め、機関紙『偕行』の1983年10月号と11月号で関連情報の提供や協力を呼びかけた。1984年4月号から1985年2月号まで畝本正巳による「証言による南京戦史」が11回に渡り連載された。その証言の過程で、日本軍の不法行為を示す多くの証言が集まり、1985年3月号の「証言による南京戦史 (最終回) その総括的考察」において、編集部を代表して加登川幸太郎が「一万三千人はもちろん、少なくとも三千人とは途方もなく大きな数」「この膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ない」「この大量処理には弁明の言葉がない」「旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ。むごいことであった。」と記した[76]
歴史学者の秦郁彦が1986年には「南京事件」(中公新書)を発表。同書では「虐殺」の表記に関しては括弧を使用する。笠原十九司[77]が「南京大虐殺」という表記を使用する。なお笠原十九司は「南京事件は南京大虐殺事件の略称」としたことがあるが[78]、笠原は著書名としては「南京事件」を多用している[79]
アイリス・チャンが1997年に著したThe Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War IIが話題をあつめ、「ザ・レイプ・オブ・南京」という日本語呼称が注目された。
近年の動向
近年の教科書表記では、山川出版社(『詳説日本史』)と東京書籍が「南京事件」[80][81]、帝国書院が「南京大虐殺」[82]、清水書院が「南京大虐殺事件」[83]山川出版社(『詳説世界史』)と日本文教出版が「南京虐殺事件」[84][85]と各教科書が多様な表記を行っている。なお、大阪書籍の2005年の教科書では「被害者数については、さまざまな調査や研究が行われていて確定されていません」と脚注に表記されている[要出典]
2010年に報告書が公開された外務省日中歴史共同研究日本語論文において「南京虐殺事件」の表現が使用された。
その他、井上久士小野賢二笠原十九司藤原彰吉田裕本多勝一渡辺春巳などが集まった研究会は「南京事件調査研究会」としている。

日本国外における表記

中国または中華民国[86]ではほぼ一定して「南京大屠殺」と呼称される。欧米では「Nanking Atrocities」あるいは「The rape of Nanking」「Nanking (Nanjing) Massacre」などと呼ばれるが論者により一定しない。

Nanking Incident表記に関する日本国外での議論
アメリカのジャーナリストポール・グリーンバーグ英語版は、『アーカンソー・デモクラット=ガゼット英語版』2007年3月7日付「否認の魅力」記事において、"the Nanking Incident"(南京事件)という言い方はありふれた婉曲表現であり、ドイツの教科書においてホロコーストをthe Auschwitz Incident(アウシュビッツ事件)と称するようなものだとして批判した[87]

南京事件を扱った作品

映画

戦時中の映画
日本映画
中華圏映画
欧米映画

小説

漫画

脚注

注釈

  1. ^ 記憶遺産登録対象は、中国が提出した資料であり、以下の3つの部分から構成される。(1) 1937年-1938年の、大量虐殺に関する資料 (2) 1945年-1947年の、中国の軍事法廷による戦後の調査や戦争犯罪裁判の資料 (3) 1952年-1956年の、中華人民共和国司法当局の資料。--UNESCO » Communication and Information » Memory of the World » Register » Full list of Registered Heritage » Documents of Nanjing Massacre(英語)
  2. ^ 『南京戦史』編集委員会が平成元年四月までに収集した公式文書等に記載された数字を何等考察を加えることなく転載したものである。
  3. ^ みなごろしにすること
  4. ^ 「磯谷、谷両氏南京へ」南京大虐殺事件の責任を問われた谷寿夫元中将と磯谷廉介元中将は、近く上海から南京へ護送され、国防部軍事法廷で裁判に付される(以下略)。
  5. ^ 本多は南京事件、南京大虐殺、南京大暴虐事件と様々な呼称を使用している。「南京への道」他
  6. ^ 新人物往来社。1967年の洞富雄『近代戦史の謎』を増補したもの。

出典

  1. ^ 日本の制止実らず=中国申請の「南京」認定-ユネスコ記憶遺産」『時事通信』、2015年10月10日。2015年10月14日閲覧。
  2. ^ 記憶遺産に中国申請の「南京事件」」『NHK』、2015年10月10日。2015年10月14日閲覧。[リンク切れ]
  3. ^ New inscriptions on the International Memory of the World Register (2014-2015)” (英語). Memory of the World (official website). Memory of the World. 2015年10月14日閲覧。
  4. ^ 秦 (2007) 54-58頁
  5. ^ 秦 (2007) 60-65頁
  6. ^ 秦 (2007) 65-67頁
  7. ^ 秦 (2007) 73-75頁
  8. ^ 秦 (2007) 75-78頁
  9. ^ 笠原 (1997) 92-106頁
  10. ^ 笠原 (1997)、17頁、36-37頁
  11. ^ 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年)、156頁
  12. ^ 『朝日新聞』昭和12年12月30日掲載
  13. ^ a b 支那事変陸軍作戦 1、436頁。
  14. ^ 南京戦史 (1993)、300頁。
  15. ^ 笠原 (1997) 126-140頁
  16. ^ 笠原 (1997)、17頁、36-37頁
  17. ^ 笠原 (1997)、84-92頁 115頁
  18. ^ 「最後の殿様 徳川義親自伝」徳川義親、講談社、1973年。笠原 (1997)、138頁、ラーベ『南京の真実』(講談社, 1997年)213頁
  19. ^ 「南京の真実」ジョン・ラーベ 講談社文庫2000年、「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」 ミニー・ヴォートリン 大月書店 1999年、「ドイツ外交官の見た南京事件」 大月書店 2001年、「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 笠原十九司 岩波現代文庫 岩波書店
  20. ^ 笠原 (1997)、84-92頁、97-106頁。秦 (2007)、69-71頁。
  21. ^ 「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 笠原十九司 岩波現代文庫 岩波書店78-82頁
  22. ^ 南京戦史 (1993)、342 - 343頁。
  23. ^ 放送 日本テレビ制作 2016年10月4日 翌日時間午前1時10分から55分 日本テレビ 再放送10月11日(BS日本テレビ) http://www.ntv.co.jp/document/back/201510.html
  24. ^ 秦 (2007)、312頁
  25. ^ 秦 (2007) 97頁
  26. ^ 記事アーカイブあり。日本語訳「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」より 464-468頁
  27. ^ 記事アーカイブあり。日本語訳「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」より 417-422頁 422-425頁。秦 (2007)、1-7頁にも訳文等あり。
  28. ^ 記事アーカイブあり。日本語訳「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」より503-505頁
  29. ^ 英文記事資料あり The Nanjing Atrocities Reported in the U. S. Newspapers, 1937-38
  30. ^ 1月10日号「ライフ」P.50 「The Camera overseas The Japanese Conqueror brings A Week of Hell to China」、5月16日号「ライフ」P.13「These Atrocities Explain Jap Defeat」
  31. ^ 『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』服部龍二、中央公論新社〈中公新書〉2008年、p.184-185 p260。「破滅への道―私の昭和史、上村伸一、鹿島研究所出版会、1966年 81頁。「外交官の一生」、石射猪太郎、中公文庫 332‐333頁
  32. ^ 花山信勝著 「平和の発見」方丈堂出版 229頁、「岡村寧次大将史料(上)」原書房 290-291頁、『続・現代史資料4 陸軍(畑俊六日誌)』 みすず書房 120-121頁
  33. ^ 吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』 青木書店 55-56頁
  34. ^ 「ドイツ外交官が見た南京事件」 石田勇治等 大月書店 (2001) 136-139頁
  35. ^ 笠原 (1997)、84-92頁、97-106頁。秦 (2007)、69-71頁。
  36. ^ 「憲兵三十一年」上砂勝七、1955年、東京ライフ社、P175-P178、笠原 (1997) 62-72頁、秦 (2007) 216-224頁。
  37. ^ 秦 (2007) p.196-198。
  38. ^ 秦 (2007) p.224-229。
  39. ^ 秦 (2007)、67頁。
  40. ^ 波多野澄雄; 庄司潤一郎 (2010年1月31日). “<近現代史> 第2部 第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 (PDF)”. 第1期「日中歴史共同研究」報告書. p. 271(PDFファイルの通し番号). 2013年9月28日閲覧。
  41. ^ 『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』服部龍二、中央公論新社〈中公新書〉2008年、p.184-185 p260
  42. ^ 日暮 (2008)、26頁・118頁
  43. ^ a b c 日暮 (2008)、113頁
  44. ^ 日暮 (2008)、116頁
  45. ^ 日暮 (2002)[要ページ番号]
  46. ^ 極東国際軍事裁判における判決では 20 万人以上 (松井司令官に対する判決文では 10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では 30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠しており、日本側の研究では 20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている。波多野・庄司、7頁
  47. ^ "日中歴史共同研究(概要)" (Press release). 外務省. 2010-01. 2010-07-28閲覧 {{cite press release2}}: |date=の日付が不正です。 (説明)
  48. ^ “日中歴史研究「中間〜右」の学者と認識一致は大成果―中国メディア”. サーチナ. (2010年2月1日). http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0201&f=politics_0201_005.shtml 2010年7月28日閲覧。 [リンク切れ]
  49. ^ "歴史問題Q&A 問6.「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。" (Press release). 外務省. 2014年6月3日閲覧
  50. ^ 家永三郎『新日本史』(三省堂、1962年[要ページ番号])や洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社、1967年[要ページ番号]
  51. ^ 『日中戦争 南京残虐事件資料集』青木書店、1985年[要ページ番号]
  52. ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 日本語 レファレンスコード A08071274100 で閲覧可能
  53. ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 英文 A08071243700 で閲覧可能
  54. ^ 帝国議会議事録1946年10月9日[1]
  55. ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 A08071307600 P.170
  56. ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 A08071272300 P.174
  57. ^ 『日中戦争史資料 8 南京事件1』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社 昭和48年11月25日初版発行[要ページ番号]
  58. ^ a b c d 俵義文「南京大虐殺事件と歴史教科書問題」藤原彰『南京事件をどうみるか 日・中・米研究者による検証』(青木書店、1998年)所収、118頁
  59. ^ a b 戦争加害の観点から見た歴史教育のあり方 ―「南京大虐殺」問題の考察を通して― (PDF)
  60. ^ 開隆堂の教科書「歴史的内容を主としたもの 下」1954年[要ページ番号]では「(日本)軍が(南京)市民にひどい暴行を加えた」と記述。
  61. ^ a b 笠原 (2007)、101-103頁
  62. ^ 『家永教科書裁判』日本評論社、1998年、167頁
  63. ^ 全10巻、平凡社、1956年[要ページ番号]
  64. ^ 全10巻、平凡社、1961年[要ページ番号]
  65. ^ 笠原 (2007)、102-103頁も参照
  66. ^ 笠原 (2007)、103頁
  67. ^ 第066回国会 外務委員会 第1号 昭和四十六年七月二十三日(金曜日)午後三時十五分開会 「南京虐殺事件」(2回)、「南京大虐殺事件」(1回)
  68. ^ 笠原 (2007)、109頁
  69. ^ 笠原 (2007)、109頁
  70. ^ 現代史出版会、1975年
  71. ^ 『決定版・南京大虐殺』徳間書店ほか
  72. ^ I, II. 日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社、1973年[要ページ番号]
  73. ^ 『日中戦争 南京残虐事件資料集』青木書店、1985年。笠原 (2007) も参照。
  74. ^ 『南京事件を考える』大月書店、1987年
  75. ^ 堀尾輝久「教科書問題―家永訴訟に託すもの―」岩波書店、1992年[要ページ番号]
  76. ^ 「証言による南京戦史 (最終回) その総括的考察」『偕行』昭和60年3月号、18頁。
  77. ^ 笠原 (1997)
  78. ^ 笠原 (2007)、12頁・208頁。また「歴史学事典 7 戦争と外交」(弘文堂、2009年)笠原執筆記事においても同様の見解が記載[要ページ番号]
  79. ^ 笠原十九司参照
  80. ^ 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦ほか『詳説日本史』山川出版社、2004年(高等学校地理歴史科用、2002年文部科学省検定済)p.330
  81. ^ 東京書籍2006年p.188
  82. ^ 帝国書院2006年[要ページ番号]
  83. ^ 清水書院2006年[要ページ番号]
  84. ^ 江上波夫・山本達郎・林健太郎・成瀬治ほか『詳説世界史・改訂版』山川出版社、2001年(高等学校地理歴史科用、1997年文部科学省検定済)p.310
  85. ^ 日本文教出版2006年[要ページ番号]
  86. ^ 台北市にある国軍歴史文物館展示による
  87. ^ The charms of denial。同記事は[2]でも閲覧可能。2011年10月22日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク