徳川恒孝

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德川 恒孝(徳川 恒孝、とくがわ つねなり、1940年2月26日 - )は、徳川宗家第18代当主。松平一郎の次男。学習院大学政経学部卒業学位経済学士(学習院大学)。元日本郵船副社長。公益財団法人徳川記念財団初代理事長WWFジャパン代表理事。公益財団法人東京慈恵会会長。公益財団法人斯文会名誉会長。元一般社団法人横浜港振興協会会長

年譜[編集]

系譜[編集]

ちなみに、恒孝の母方の祖父で系譜上の養父に当たる徳川家正は最後の貴族院議長であり、父方の祖父に当たる松平恒雄は貴族院に代わって成立した参議院の最初の議長である。また、家正の外孫として宗家を継いだことばかりが着目されて女系子孫と誤解されることも多いが、先述したように会津松平家は徳川家の御家門であり、恒孝はれっきとした家康の男系子孫でもある。

逸話[編集]

  • 祖父の家正から養子に望まれたとき、恒孝は父の一郎の前に現れて「なぜボクだけがよそへ行かなければいけないのですか」と訊いた。すると、一郎は「お前は大飯を食うからだ」と答えた。当時は戦中から戦後にかけての窮乏期だったため、恒孝を家正が説得した最後の決め手は「おいしいものを沢山食べさせてあげる」だったという[2]。しかし本人の講演会での談によれば、実際には養父である家正らは非常に粗食家であった為に思った様にご飯を食べさせてもらえなかった。幼少の恒孝は空腹に耐えかね実家の松平家にご飯を食べに帰り、その際に状況を察していた母豊子は恒孝の分も食事を用意していたそうである。
  • 徳川宗家の当主として先祖の祭祀に多大な時間を割いている。正月でいうと10日が5代目、24日が2代目、30日が11代目の命日にあたるため、墓所である上野寛永寺増上寺に参らなければならない。家康の命日の4月17日には、静岡久能山東照宮へ束帯に威儀を正して出かけて行く。月遅れの5月17日に、今度は日光東照宮で同様の祭があり、ここにも束帯で出向く。その他、歴代将軍の側室など徳川宗家ゆかりの人々の墓には年末年始や盆にまとめて参る。会社勤めの傍ら、こうして月平均2-3日を先祖の供養に費やさねばならないため、その都度有給休暇を振り当て、個人的な休みを返上するなどの努力により時間をやりくりしていた[3]
  • 日本郵船に勤務していた際、恒孝と加賀前田家18代当主前田利祐(現宮内庁委嘱掌典)は、一時期、本社の同じ部署で勤務していたことがあり、その時の上司が「徳川と前田家の当主を使うのは太閤豊臣秀吉)以来だろうな」と笑ったという逸話がある。
  • 長男の家廣がベトナム人と結婚したときに猛反対した。一時期は家廣の廃嫡も噂されたが、「(長男に)早く後を継いでもらいたい」と発言している[4]ことから、現在は少なくとも黙認しているものとみられる。

著書[編集]

単著[編集]

  • 『江戸の遺伝子 いまこそ見直されるべき日本人の知恵』PHP研究所、2007年 /PHP文庫、2009年
  • 『日本人の遺伝子』PHP研究所 2012年

共著[編集]

  • 『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老孟司共著 PHP研究所 2010年

脚注[編集]

  1. ^ 静岡商工会議所最高顧問の委嘱について(24.2.23 静岡商工会議所記者懇談会資料)
  2. ^ 本田靖春『現代家系論』p.226(文藝春秋社1973年
  3. ^ 本田靖春『現代家系論』p.226-227(文藝春秋社、1973年)
  4. ^ 『週刊朝日』2014年3月28日号

外部リンク[編集]