勧修寺

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勧修寺
勧修寺宸殿.jpg
宸殿
所在地 京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6
位置 北緯34度57分42.37秒 東経135度48分27.27秒 / 北緯34.9617694度 東経135.8075750度 / 34.9617694; 135.8075750座標: 北緯34度57分42.37秒 東経135度48分27.27秒 / 北緯34.9617694度 東経135.8075750度 / 34.9617694; 135.8075750
山号 亀甲山
宗派 真言宗山階派
寺格 大本山
本尊 千手観音
創建年 900年昌泰3年)
開基 醍醐天皇承俊(開山)
札所等 真言宗十八本山10番
文化財 書院、蓮華蒔絵経箱、仁王経良賁疏(重要文化財)
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本堂
観音堂

勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている[1]。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。

 また1872年10月30日(明治5年9月28日)から1881年(明治14年)6月にかけて勧修寺内の一部を勧修小学校として使用されていた。

歴史[編集]

創建[編集]

『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、1470年文明2年)兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏皇室の援助により復興された[2]

宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)であった。弥益の娘・宮道列子藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁した。彼らの間に生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。なお、高藤と列子のロマンスについて『今昔物語集』に説話が残されている(後述)。

創建年代については上述の通り昌泰3年とするのが一般的だが、異説もある。勧修寺は延喜5年(905年)、定額寺に列せられているが、この時の太政官符には「贈皇后(胤子)が生前に建立した」旨の記述があり、これに従えば、胤子の没した寛平8年(896年)以前の創建となる。

前述の通り、勧修寺は延喜5年(905年)に定額寺に列せられ、皇室と藤原氏の援助を受けて栄えた。天永元年(1110年)、7世長吏となった寛信(1084 - 1153)は藤原高藤8世の孫・藤原為房の子で、東寺長者、東大寺別当などを歴任した人物である。「勧修寺法務」とも称された寛信は真言密教の事相に通じ、真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされている。

中世以降[編集]

南北朝時代、後伏見天皇第7皇子の寛胤法親王(1309 - 1376)が15世長吏となって以来、勧修寺は宮門跡寺院となり、幕末まで法親王ないし入道親王が入寺した。中世の勧修寺は現在の京都市山科区勧修寺一帯を領するほか、各地に広大な寺領をもち、真言宗小野流の中心寺院、皇室ゆかりの寺院として最盛期を迎えた。建武3年(1336年)の「勧修寺寺領目録」によると、勧修寺の寺領は加賀国郡家荘をはじめ、三河、備前など18か荘に及んでいた。

その後、応仁の乱と文明2年(1470年)の兵火で寺は焼失。豊臣秀吉伏見街道を造るに際し境内地を削られるなどして次第に衰退する。寺が再興されるのは天和2年(1682年)、霊元天皇皇子の済深法親王が29世長吏として入寺してからであった。法親王が東大寺大仏殿再建に功があったとして、寺領が1,012石に加増された。現存する本堂、宸殿、書院等の伽藍は、霊元天皇、明正天皇などの旧殿を下賜されたものである。済深法親王に次いで30世となった尊孝法親王は伏見宮出身であった。法親王の叔母にあたる真宮理子(さなのみやまさこ)が紀州藩出身の将軍・徳川吉宗の正室であった縁で、紀伊国の約100か寺が勧修寺の末寺となった。西国札所として著名な紀三井寺護国院は、現在は真言宗から独立しているが、元は勧修寺の末寺であった。幕末の32世済範入道親王も伏見宮の出身であったが、後に還俗して山階宮晃親王となった。

近代[編集]

真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も勧修寺は「真言宗」にとどまっていたが、明治40年(1907年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立。勧修寺は山階派本山となった。その後、第二次大戦中には宗教団体法の施行により、既存仏教各派の統合が進められ、真言宗各派は完全に統合されたが、戦後の昭和27年(1952年)に再度山階派として独立している。

藤原高藤と宮道列子に関する説話[編集]

今昔物語集』には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。列子には娘がいた。6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。

境内[編集]

灯籠
氷室の池の杜若

山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表している。境内東側には手前から宸殿、書院、五大堂、本堂などが建つ。境内西側は氷室池を中心とした庭園であり、池に面して楼閣風の観音堂(昭和初期の建立)が建つ。

  • 宸殿-元禄10年(1697年)に明正天皇の旧殿を下賜されたものという。入母屋造、桟瓦葺き[3]。内部は書院造である。明治5年9月勧修小学校が開校時、ここが校舎なった[4]
  • 書院-貞享3年(1686年)に後西天皇の旧殿を下賜されたものという(明正天皇の旧殿とも)。入母屋造、杮(こけら)葺きで、一の間の違棚は「勧修寺棚」として知られる。障壁画は土佐光起・光成父子の作とされるが、狩野派の作とする説もある。書院前の庭にある燈籠は徳川光圀寄進と伝え、「勧修寺型燈籠」と呼ばれる。
  • 本堂-寛文12年(1672年)に霊元天皇の仮内侍所を下賜されたもので、元は近衛家の建物であったという。本尊千手観音立像は醍醐天皇の等身像と伝えるが、現存の像は室町時代頃の作である。

庭は勧修寺氷池園という池泉庭園である。中心を占める池は氷室の池といい蓮で知られており、平安時代には1月2日にここに張った氷を宮中に献上してその厚さによって五穀豊穣を占ったと言われている。

文化財[編集]

重要文化財

  • 書院
  • 蓮華蒔絵経箱
  • 仁王経良賁疏
  • 金剛頂瑜伽経 巻第一、二(2007年度指定)

なお、奈良国立博物館所蔵の国宝「刺繍釈迦如来説法図」(奈良時代または中国・唐時代)はもと勧修寺の所蔵で、第二次大戦後に国有になったものである。

寺紋(宗紋)[編集]

裏八重菊

施設[編集]

  • 勧山学院山階文庫

勧修寺門跡諸大夫・侍[編集]

所在地[編集]

京都市山科区勧修寺(かんしゅうじ)仁王堂町27-6

脚注[編集]

  1. ^ 中世の文書記録等には「くわんしゆし」と表記されたものもあり、「かんじゅじ」と読まれることもあったことがわかるが、平成時代の勧修寺門跡である筑波常遍は「正式の読みは『かじゅうじ』である」と著書で明言している(筑波常遍・横山健蔵『京の古寺から 4 勧修寺』、淡交社、1995)
  2. ^ 法親王とは皇族男子で親王宣下後に出家した者。宮門跡とは代々皇族が住持を務める別格寺院のこと
  3. ^ 桟瓦は丸瓦と平瓦を交互に葺く「本瓦葺き」に対し、一般住宅で使用されるような形の瓦を指す
  4. ^ 出典・京都市発行・市民しんぶん山科区版第203号(平成24年11月15日発行)4面の記事「勧修小学校 創立140周年 記念祝典開催」より

参考文献[編集]

  • 『国史大辞典』、吉川弘文館
  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
  • 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛南』、駸々堂、1986
  • 筑波常遍・横山健蔵『京の古寺から 4 勧修寺』、淡交社、1995
  • 梅原猛『京都発見 7』新潮社、2004

関連項目[編集]