ダーティ・ダンシング

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ダーティ・ダンシング
Dirty Dancing
監督 エミール・アルドリーノ
脚本 エレノア・バーグスタイン
製作 リンダ・ゴットリーブ
製作総指揮 ミッチェル・キャノルド
スティーヴン・ルーサー
出演者 パトリック・スウェイジ
ジェニファー・グレイ
ジェリー・オーバック
シンシア・ローズ
音楽 ダニー・ゴールドバーグ
マイケル・ロイド
撮影 ジェフ・ジャー
編集 ピーター・C・フランク
配給 ベストロン・ピクチャーズ
公開 アメリカ合衆国の旗 1987年8月21日
日本の旗 1987年11月21日
上映時間 101分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
製作費 $6,000,000[1]
興行収入 $213,954,274[1]
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ダーティ・ダンシング』(Dirty Dancing)は、1987年アメリカ合衆国製作の青春恋愛映画。家族と共に夏休みを過ごすティーンエイジャーの女の子が、父に逆らってダンスのインストラクターと恋に落ちるという内容である。映画のほぼ3分の1を占めるのが、『ハイスクール・ミュージカル』でも有名なケニー・オルテガ振付によるダンス・シーンで、映画ラストは「映画史上、最も鳥肌だつダンス・シーン」として知られている[2][3]

当初は、新しいスタジオが無名俳優を使って撮った低予算映画とみなされていたが、ダーティ・ダンシングは大ヒット映画となり、2009年までに世界で2億1400万ドル以上を稼ぎ出した[4]。ホームビデオとしても100万部以上売れた初めての作品であり[4]、2枚のサウンドトラックはプラチナディスクを獲得、その中の「タイム・オブ・マイ・ライフ (I've Had) The Time of My Life」はゴールデングローブ賞アカデミー歌曲賞グラミー賞を受賞した[5]。この映画を基に2004年には「 Dirty Dancing: Havana Nights 」を作製、舞台版がオーストラリア、ヨーロッパ、北アメリカで上演され、ブロードウェイ進出も計画されている。

あらすじ[編集]

1963年の夏、17歳のニューヨーカー、ベイビーことフランシス・ハウスマン(ジェニファー・グレイ)は、裕福なユダヤ人家族と一緒にキャッツキル山地にあるケラーマン[6]のリゾートに避暑に来ていた。ベイビーはマウント・ホリヨーク大学に進学して経済学を学び、ピース・コーボランティアに取り組む予定だった。彼女の名は合衆国内閣初の女性閣僚フランシス・パーキンスにちなんでつけられた。彼女の父ジェイク(ジェリー・オーバック)は、リゾートのオーナー、マックス・ケラーマン(ジャック・ウェストン)の担当医だった。

ベイビーは、リゾートでダンスのインストラクターを務める労働者階級のスタッフ、ジョニー・キャッスル(パトリック・スウェイジ)に夢中になる。ベイビーはスイカを運ぶのを手伝って彼らのパーティーに招待され、彼らが踊る「ダーティ・ダンシング」つまりマンボを初めて目にする。その後ベイビーは、ジョニーのダンス・パートナー、ペニー・ジョンソン(シンシア・ローズ)がロビー・グールド(マックス・カンター)の子を妊娠して取り乱す場面に出くわす。ロビーは女たらしのウェイターで、ベイビーの姉リサにも近づいていた。ロビーの「 Some people count, some people don't 」という言葉で、彼が妊娠に責任を持つつもりがないことを知ったベイビーは、ペニーの違法中絶手術の費用を父に出してもらう。彼らを助けようとベイビーは、ジョニーとペニーが近隣リゾートのシェルドレイクで毎年取り組んできたパフォーマンスでペニーの代役を務めることになる。

ジョニーからダンスを教わるうち、ベイビーの雰囲気も変わり、恋が芽生える。シェルドレイクでの彼らのパフォーマンスはほぼ成功に終わったが、ベイビーはまだダンスのクライマックスでのリフトを怖がっており、その部分は完成していなかった。ケラーマンのリゾートに戻ると、ペニーのヤミ中絶手術が失敗し、ペニーが痛みに苦しんでいることを知る。ベイビーは父に助けを求めるが、彼はペニーを妊娠させたのがジョニーだと思い、ジョニーやその友人たちと一切関わるなと命ずる。しかしベイビーは、父の言いつけに背き、内緒で会い続ける。二人の関係は、ジョニーがリゾート客の財布を盗んだという嫌疑をかけられた際に明らかになる。彼のクビを防ぐためベイビーは、その夜自分がジョニーと一緒にキャビンにおり、彼が犯人ではありえないと証言するのである。ジョニーの窃盗容疑は晴れたが、客と関係を持ったために結局クビにされる。しかしベイビーの献身的な行為に、ジョニーは「たとえ何を犠牲にしてでも、他人を助けようとする意志を持つ人々が存在する」ことを理解する[7]

映画のクライマックスでは、クビになったにも関わらず、シーズンの最後のダンスをベイビーと踊るためにジョニーがリゾートに戻ってくる。ベイビーの席を決めたハウスマン家を批判して、この映画で最も有名なセリフ「誰もベイビーを離したりしないさ Nobody puts Baby in a corner. 」を口にし、ジョニーは家族のテーブルからベイビーを引っ張り出す。ハウスマン医師は、ロビーがうっかり口走った言葉からペニーを妊娠させたのがロビーであってジョニーではないと気づき、謝罪する。映画の終わりは有名なダンス・シーケンスであり、ベイビーは恐れを克服、ジョニーが彼女を空中に高くリフトする。部屋はナイトクラブと化し、スタッフもパトロンも、共に踊るのである。

キャスト[編集]

役名 俳優 日本語吹替
フランシス・“ベイビー”・ハウスマン ジェニファー・グレイ 岡本麻弥
ジョニー・キャッスル パトリック・スウェイジ 山形ユキオ
ペニー・ジョンソン シンシア・ローズ 高島雅羅
ジェイク・ハウスマン ジェリー・オーバック 山内雅人
マージョリー・ハウスマン ケリー・ビショップ 此島愛子
リサ・ハウスマン ジェーン・ブラッカー 藤生聖子
マックス・ケラーマン ジャック・ウェストン 宮川洋一
ニール・ケラーマン ロニー・プライス
ロビー・グールド マックス・カンター 古田信幸
ビリー・コステッキ ニール・ジョーンズ 茶風林
ヴィヴィアン・プレスマン ミランダ・ギャリソン 沢田敏子
ティト・スアレス チャールズ・“ホニ”・コールズ 北村弘一
シュマッカー夫人 ポーラ・トルーマン 京田尚子
マジシャン ブルース・モロー 秋元羊介
スタン ウェイン・ナイト 島香裕
その他声の出演:東富士郎稲葉実菅原淳一
演出:小山悟、翻訳:たかしまちせこ、調整:小野敦志、制作:東北新社、担当:小笠原恵美子、宮澤徹

制作[編集]

制作準備[編集]

『ダーティ・ダンシング』は、脚本家エレノア・バーグスタイン自身の子ども時代の経験に基づいて描かれている。彼女はニューヨークのユダヤ人ドクターの娘であり、家族と共にキャッツキルで夏を過ごし、「ダーティ・ダンシング」コンテストに参加、少女時代はベイビーと呼ばれていた。1980年、バーグスタインはマイケル・ダグラス主演の映画『It's My Turn』の脚本を書いた。しかし映画のプロデューサーになまめかしいダンス・シーンをカットされ、ひどく落胆することになる。彼女は新しい物語に取りかかり、ほとんどダンス一本に絞りこんだ。1984年、MGM役員のアイリーン・ミゼルに原案を提出して気に入られ、バーグスタインとプロデューサーのリンダ・ゴットリーブはチームとなる。彼女らは映画の舞台を1963年に設定、バーグスタイン自身の人生に基づいてベイビーのキャラクターを考え、ジョニーのキャラクターはマイケル・テラスを基に設定した。マイケルは1985年、物語のリサーチで訪れたキャッツキルでバーグスタインが出会ったダンス・インストラクターである。彼女は1985年の11月に脚本を書き上げたが、MGMの経営状態が変わり、脚本はお蔵入りもしくは保留状態となった。バーグスタインは脚本を他のスタジオに持ち込んだが断られ続け、ようやく関心を示したのがセンチュリー・シティに新しくできたスタジオ、ベストロン映画社長のオースティン・フルストだった。ベストロンの副社長ミッチェル・キャノルド自身も子ども時代にキャッツキルで過ごしたことがあり、この脚本に興味を持った。彼と、もう一人の副社長ドリ・ベリンスタインは映画の資金調達を始めることに同意、ふさわしい監督を探すよう求めた。ゴットリーブとバーグスタインが選んだのは、エミール・アルドリーノであった。彼は1983年のドキュメンタリー『He Makes Me Feel Like Dancin'』でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞していた。アルドリーノは主要作品を監督したことはなかったが、プロジェクトに熱心に取り組み、陪審員義務で隔離されている場所から、自分が最も監督にふさわしいというメッセージを送りさえした。映画は認可され、500万ドルという低い予算が組まれた。当時映画の平均予算は1200万ドルであった[8]

バーグスタインは振付師にケニー・オルテガを選んだ。オルテガは伝説的ダンサーのジーン・ケリーに鍛えられていた[9]。映画のロケーションとして、キャッツキルに適当な場所を見つけられなかったので、彼らは、ノースカロライナ州レイク・ルアーとバージニア州ロアノークに程近いマウンテン・レイクの、2つの場所を組み合わせ、慎重に編集を行って、すべての撮影が同じエリアで行われたように見せることにした[10]

キャスティング[編集]

アルドリーノ監督は、演技もできるダンサーにこだわった。彼は、1983年の映画『フラッシュダンス』で採られたような「ダンス吹き替え」方式の適用を望んでいなかった。ヒロインのベイビーことフランシス・ハウスマンに、バーグスタインは26歳のダンサー、ジェニファー・グレイを選んだ。彼女は1972年の映画『キャバレー』でオスカーを獲得した俳優ジョエル・グレイの娘でもあり、父同様、ダンスがうまかった。主演男優にと最初に彼らが考えたのは、20歳のビリー・ゼインだった。当初ジョニー役は浅黒いエキゾチックなイタリア人という設定になっており、この意味でゼインの外見はぴったりだったが、グレイと組んでダンスのテストをしてもしっくりしなかった。次に考慮されたのが34歳のパトリック・スウェイジで、『アウトサイダー』やグレイと共演した『若き勇者たち』での演技が目に留まったのだった。スウェイジはジョフリー・バレエ団出身でダンス経験も豊富だった。プロデューサーらはスウェイジを希望したが、彼のマネージャーはこの案に反対した。脚本を読んだスウェイジがジョニーの多面的性格を気に入り、ジョニーの設定はイタリア系からアイルランド系に変更された。グレイはこの選択を歓迎しなかったが、これは『若き勇者たち』撮影の際、スウェイジとうまくいかなかったからである。しかし実際に二人が会ってダンスのスクリーン・テストにこぎつけると、その相性の良さは明らかであった。バーグスタインは「息をのむようだった」と表現している[11]

他に、ベイビーの父で医師のジェイク・ハウスマン役にブロードウェイ俳優のジェリー・オーバックが、ベイビーの姉リサ・ハウスマン役にはジェーン・ブラッカーが選ばれた。バーグスタインはまたシュマッカー夫人役に、友人でセックス・セラピストの医師ルース・ウェストハイマーを、その夫役にジョエル・グレイを振り当てようとした。しかしシュマッカー夫人がクレプトマニア患者役であることを知ってウェストハイマーは手を引き、代わりに79歳のポーラ・トルーマンに役が振られ、ジョエル・グレイもキャスティングから外された。ニューヨークのラジオ・パーソナリティで友人のブルース・モローを、バーグスタインは最初、ソーシャル・ディレクター役に振り当てようとしたが、後でマジシャン役を依頼している。ソーシャル・ディレクターの役は、当時無名のウェイン・ナイト(のちに『となりのサインフェルド』や『3rd Rock from the Sun』で有名になった)に振り当てられた[12]。ベイビーの母役は、始めリン・リプトンに決定しており、冒頭ハウスマン一家がケラーマンのリゾートに到着する場面で、リプトンが前の座席に座っているのが数秒映っているが、金髪が確認できる程度である。リプトンは撮影開始直後に病気になり、性欲豊かなリゾート客ヴィヴィアン・プレスマン役がすでに決定していたケリー・ビショップに役が回った。ビショップがハウスマン夫人の役に移って、映画の振付アシスタントだったミランダ・ギャリソンがヴィヴィアン役を演じた[13][14]

撮影[編集]

キャッツキル山地における典型的なファミリー・リゾート地

既に夏は終りに近づいており、リハーサルに2週間、撮影には44日しか充てられないという過密スケジュールだった。キャストはバージニア州ペンブロークのマウンテン・レイク・リゾートのホテルに宿泊し、急いでリハーサルを済ませると、ジャック・ウェストンなど踊らないキャストも含めて、ほとんど全キャストが出演するディスコ・パーティーの撮影に入った[15]。ダンスと酒はほとんどノンストップで続き、この環境の中、主役のグレイとスウェイジは、役柄に合わせたキャラクターを身につけ始めた。バーグスタインはこれを基に、俳優たちが自分たちの感覚に任せてアドリブで演じるのを奨励した。彼女はまたセクシュアルな緊張感を生み出すため、ダンスのステップがいかに親密で「挑発的」でも、ダンサーは全員半年間、他のどんな種類の身体的接触をも避けなければならない、と宣言した[11]

撮影は1986年9月5日にスタートしたが、降雨だったりうだるような暑さだったりの天候に悩まされた。外気温が41°Cまでになった上に、撮影に要したカメラや照明のために、内部の温度は 49°C 程になったこともあった。振付師のケニー・オルテガによれば、20分間の撮影で10人が気絶した日もあったという。年長のポーラ・トルーマンは卒倒し、地元の緊急治療室に運びこまれて脱水症状の治療を受けた。パトリック・スウェイジもまた病院へ行く羽目になった。スタントマンは必要ないと主張し、「バランス」の場面で繰り返し丸太から落下した結果、膝をひどく痛め、腫れから体液を抜かねばならなくなった[11]

撮影が遅れて秋に食い込むことになったため、美術担当は秋の葉を緑にペイント・スプレーして凌いだ。気まぐれな天気は正反対の方向に傾き、息苦しいほどの暑さから急激に下がって、気温は4°Cになった。その結果、有名な水泳シーンは10月の非常に寒い環境下で撮影された。スタッフは温かいコート、手袋、ブーツを身に着けていたが、スウェイジとグレイは夏の軽装で、繰り返し冷たい水に飛び込んだ[10]。その楽天的な性格にかかわらず、グレイはのちに水が「ものすごく」冷たかったと述べ、もし「若くてハングリー」でなかったなら湖に飛び込まなかったかもしれないと言っている[13]

2人の主役の関係は、撮影を通じて変化していった。前の共演作『若き勇者たち』で、既に彼らはいがみ合っていた。スクリーン・テストを受けた時には、非常にポジティブに事は運んだが、最初の協力体制はすぐに消え、あらゆるシーンの前に「対決する」ようになった[11]。制作スタッフの間では、主役2人の敵愾心のせいで、ラブシーンの撮影が失敗するのではないか、という懸念が生まれていた。この問題の解決に向け、プロデューサーのバーグスタインとアルドリーノ監督は、最初の「息をのむような」相性だったスクリーン・テストを、もう一度見るよう主役2人に命じた。これが望ましい効果を得て、スウェイジとグレイはエネルギーと熱意をもって、再び撮影に取り組むことができた[13]

アルドリーノ監督はアドリブ演技を推奨し、俳優が「脚本外」の演技を行ってもカメラを回し続けることがよくあった。その一例として、グレイがスウェイジに背を向けて、その前に立っているシーンが挙げられる。この場面で、グレイの腕はスウェイジの頭の後ろに回され、彼は指をグレイの腕に這わせている。同じポーズが、映画のポスターにも採用された。真剣で愛情のこもった場面として描かれたのだが、グレイは消耗しきっており、動きが微妙で、スウェイジが試みるたびにくすくす笑ってしまい、アルドリーノが何度撮り直しをしても、止めることができなかった。スウェイジは早くこのシーンを撮り終わりたくてうずうずし、グレイの振る舞いに腹を立てていた。しかしプロデューサーは撮り続けるよう求め、グレイのくすくす笑いとスウェイジのいらいらした表情を、そのまま映画に採用した。結果としてこの場面は映画の中でも最も有名になり、振付師ケニー・オルテガは「映画の中でも最もデリケートで正直な瞬間」の1つだとした[11]

撮影後の編集制作[編集]

撮影は1986年10月27日、予算も期間も予定通りに完了した。しかし撮影チームの誰ひとり、ラフ・カット版が気に入らず、ベストロン社の役員は映画興行が失敗するだろうと考えていた。試写を見た人々の39パーセントは、堕胎がサブ・プロットであるとは理解しなかった。1987年5月、プロデューサーのアーロン・ルッソが試写を見た。ベストロン社重役のミッチェル・キャノルドによれば、最後まで見終わったルッソは、「ネガを燃やして、保険を集めろ」と言っただけだったという[11]

さらに、スポンサー会社が映画を宣伝するかどうかでまた論争が起きた。ニキビ用製品クレアラシルの発売元は、この映画を、広告ターゲットである10代の若者に向けた情報媒体とみなしていた。しかし映画に中絶シーンが含まれることを知ると、その部分をカットするように求めた。バーグスタインが拒絶すると、クレアラシルはプロモーションを降りた。そこでベストロンが自社で映画をプロモートし、1987年8月16日を公開初日と設定した。ベストロン社重役は、週末の劇場で映画を封切る計画を立て、次いでそれをまっすぐホームビデオ部に送った。ベストロン社は映画作製に携わる以前は、ビデオ配給業務を扱っていたからである[2]。この時点で、どれほど多くの人々がこの映画を好まなかったかを考え、プロデューサーのゴットリーブは当時の心情を、「封切りの時に『もし』人々が私をどやしつけなかったなら、わたしはひたすら感謝しただけだったろう」と語っている[11]

批評[編集]

映画が公開された1987年8月16日付けの『ニューヨーク・タイムズ』批評欄は、「ダーティ・ダンシングの純粋なビートが心を揺さぶる Dirty Dancing Rocks to an Innocent Beat.」という見出しを載せた。『タイムズ』の批評家は映画を「1963年夏のアメリカのメタファー - 規律正しく、裕福で、良識にあふれた、一種のユダヤ風キャメロット」と呼んだ[16]。他の評価は、さまざまに別れた。ジーン・シスケルは、ジェニファー・グレイの演技やキャラクターの成長が気に入り、映画を「悪くない marginal Thumbs Up」と評したが、ロジャー・イーバートは「プロットがばかばかしい」から「だめだ Thumbs Down 」と言い[17]、「異なる背景を持つ子ども同士の、たいくつで、簡単に先が読める愛の物語」だとした[18]。『タイム』誌はあまり熱意を示さず、「エリノア・バーグスタインの脚本が、もし最後もっと手際良く感動的であれば、映画の歌やダンスの持つラフなエネルギーが見る者を感動させ、分別のささやく疑いをやり過ごさせただろう。」と評した[19]

批評記事には関係なく、映画は、予想されていたような10代ではなく、大人の観客を引きつけ、彼らに「再度観る価値あり」と高く評価された[13]。 多くの観客が、映画を一度見た後、二度目を観るために本当に劇場に戻った[13]。口コミにより映画は全米1位となり、10日で1,000万ドルの記録を突破した。11月までには国際的な評価も得て、封切り7か月以内に6,300万ドルを売り上げ、アメリカ中にダンス・ブームをもたらした[11]

『ダーティ・ダンシング』は1987年の映画のうち、最高益を生みだしたものの1つとなり、世界で1億7,000万ドルの利益を上げた[20][21]

映画の支持率は、封切りののちも上昇し続けた。1988年のレンタル率は1位となり[22]、映画ビデオとしては初めて100万部を売り上げた。オリジナルの封切りから10年後の1997年に、映画が再公開された時には、パトリック・スウェイジハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに自身の星を彫られ[23]、ビデオの売り上げも月に40,000部以上を保っていた[23]。2005年の段階でDVDは年に100万部[24]、2007年の段階で1,000万部以上を売り上げている[25]

英国のスカイ・ムービーによる2007年5月の調査では、『ダーティ・ダンシング』は「最も女性が観た映画」1位に輝き、『スター・ウォーズ』三部作や『グリース』、『サウンド・オブ・ミュージック』、『プリティ・ウーマン』より上位にランク付けされた[26]。その人気ぶりから、「女の子のための『スター・ウォーズ』」と呼ばれるようにもなった[3][27][28]。英国の『デイリー・メール』誌2008年4月の記事で『ダーティ・ダンシング』は、ベイビーのセリフ「この部屋を出たら、これからの人生、あなたと一緒だった時のような思いは2度とないと思うと怖い I'm scared of walking out of this room and never feeling the rest of my whole life the way I feel when I'm with you.」など「これまでに最も引用された恋愛映画」1位にランク付けされた[29]。映画の音楽もまたかなりの影響力があった。エンディング・テーマ「(I've Had) The Time of My Life」は、英国で「最も葬式で流されたポピュラー・ソング」3位に挙げられた[3]

受賞歴[編集]

音楽[編集]

ダンスのリハーサルや映画のいくつかのシーンには、バーグスタインが個人的に集めていたグラモフォン・レコードの音楽が使われた。 映画に音楽をあてる時期になると、ベストロン社はジミー・イエナーを音楽監督に任命した。イエナーは、過去にジョン・レノンスリー・ドッグ・ナイトの歌やアルバムをプロデュースしたこともある人物で、映画撮影時に使われた音楽にこだわり、バーグスタインが集めていた歌の使用ライセンスを取った。彼はまた、新曲「She's Like the Wind」を歌うようパトリック・スウェイジに協力を求めた。スウェイジは数年前ステイシー・ウィデリッツと共に、1984年の映画「Grandview, U.S.A.」の曲作りに取り組んだ経験があったのである[11]

映画の背景音楽は、ジョン・モリスが作曲した。ケラーマンの発表会シーンの歌の歌詞は映画のために書き下ろされたが[13]、よく母校を象徴する歌とされる「アニー・ライル」もまた歌われた[36]

ケニー・オルテガとアシスタントのミランダ・ギャリソンは、それぞれすべてのテープを聞き、フィナーレの曲を選んだ。その中で最後に聞いた曲「The Time of My Life」がイメージにぴったりだったとオルテガは語っている[31]。それからビル・メドレージェニファー・ウォーンズによる録音が行われたとイエナーは説明している。「The Time of My Life」は1988年のグラミー賞 最優秀デュエット賞、アカデミー歌曲賞ゴールデングローブ賞 主題歌賞を獲得した[31][32]

エリック・カルメンなどが参加した映画のサウンドトラックは、オールディーズのリバイバル集となり[37]、その売り上げはRCAレコード社をも驚愕させた。 フランク・プリヴァイトによると、シングルが発売される前ですでに、100万枚の追加注文があったという[11]

サウンドトラック・アルバムは、Billboard 200のアルバム売上で、18週間も販売数1位を維持、11回プラチナディスクとなり、世界中で4200万部以上を売り上げた[38]。1988年2月に発売された2枚目のアルバム『More Dirty Dancing』も、何度かプラチナアルバムを獲得した[39]


関連作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b Dirty Dancing”. Box Office Mojo. Amazon.com. 2012年1月23日閲覧。
  2. ^ a b Vernon, Polly (2006年10月10日). “Hey Baby – we're all Swayze now”. The Guardian (London). http://film.guardian.co.uk/features/featurepages/0,,1868781,00.html 2007年5月15日閲覧。 
  3. ^ a b c Winterman, Denise (2006年10月24日). “"The Time of Your Life"”. BBC News. 2007年5月15日閲覧。
  4. ^ a b Singh, Anita (2009年9月16日). “Patrick Swayze, the man who inspired a generation of women to dance, has died”. The Telegraph. http://www.telegraph.co.uk/culture/film/film-news/6193195/Patrick-Swayze-the-man-who-inspired-a-generation-of-women-to-dance-has-died.html 2010年1月9日閲覧。 
  5. ^ Craughwell, Kathleen (1997年8月18日). “Save the Last Dirty Dance for the Revival; Movies: 'Dirty Dancing,' the Catskills love story with forbidden footwork, steps out again for its 10th birthday.”. Los Angeles Times 
  6. ^ Mountain Lake Hotel”. 2009年2月7日閲覧。
  7. ^ Johnny: "Nobody puts Baby in a corner. Sorry about the disruption, folks, but I always do the last dance of the season. This year somebody told me not to. So I'm gonna do my kind of dancin' with a great partner, who's not only a terrific dancer, but somebody who's taught me that there are people willing to stand up for other people no matter what it costs them. Somebody who's taught me about the kind of person I want to be: Miss Frances Houseman."
  8. ^ Bergstein, Eleanor, producer (2007年) (DVD). Dirty Dancing: 20th anniversary. Lions Gate.. "Tribute to Emile Ardolino" 
  9. ^ Hartlaub, Peter (2003年1月16日). “Choreographer Kenny Ortega's ode to disco”. San Francisco Chronicle. http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/chronicle/archive/2003/01/16/DD168837.DTL 
  10. ^ a b Clark, Paul (2007年4月30日). “'Dirty Dancing' marks 20 years with return to big screen”. Asheville Citizen-Times 
  11. ^ a b c d e f g h i j Dirty Dancing, The E! True Hollywood Story, first aired September 3, 2000
  12. ^ Moore, Frazier (1992年11月7日). “You may know Wayne Knight whether you know you do or not”. Chicago Tribune (AP) 
  13. ^ a b c d e f (DVD) Dirty Dancing: 20th anniversary. Lions Gate.. (2007年) 
  14. ^ Some scenes shot with Lipton in the role of Mrs. Houseman, can be viewed on the 20th anniversary Dirty Dancing 2007 DVD
  15. ^ The hotel is the Mountain Lake Hotel, and it now offers "Dirty Dancing weekends." Mountain Lake Hotel Home Page”. 2008年3月4日閲覧。
  16. ^ Freedman, Samuel G. (1987年8月16日). “'Dirty Dancing' Rocks to an Innocent Beat”. ニューヨーク・タイムズ: p. A19. http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F40712F83A5C0C758DDDA10894DF484D81&showabstract=1 2008年5月3日閲覧。 
  17. ^ Siskel, Gene, Ebert, Roger (1987年8月21日). “Video review on Siskel & Ebert and The Movies”. 2008年3月4日閲覧。
  18. ^ Ebert, Roger (1987年8月21日). “Review of Dirty Dancing”. シカゴ・サンタイムズ. 2007年6月7日閲覧。
  19. ^ Schickel, Richard (1987-09-14). “Cinema: Teenage Turmoil”. タイム. http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,965450,00.html 2007年6月8日閲覧。. 
  20. ^ Wiams, William (2004年11月20日). “Baby in the Underworld: Myth and Tragic Vision in Dirty Dancing (pdf)”. 2008年4月6日閲覧。
  21. ^ “Private Dancers”. The Age. (2005年6月15日). http://www.theage.com.au/news/Arts/Private-dancers/2005/06/14/1118645804253.html 2007年5月26日閲覧。 
  22. ^ “Home Video Top Cassettes of 88 from Billboard magazine”. The Orlando Sentinel. (1988年12月30日) 
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  24. ^ Brown, Sandy (2005年7月14日). “Lions Gate grabs Swayze Rights”. TheStreet.com. http://www.thestreet.com/stocks/sandybrown/10232495.html 2008年3月17日閲覧。 
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  26. ^ Star Wars 'is top film obsession'”. BBC News (2007年5月6日). 2008年3月17日閲覧。
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外部リンク[編集]