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[[1988年]]にプロ入り。エルティンは[[1991年]]から[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]に挑戦を始め、[[1991年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]初出場でシングルス4回戦に進出し、男子テニスツアーのダブルスで年間4勝を挙げた。[[1992年]]から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[オランダ]]代表選手となり、同年6月に[[イギリス]]・[[マンチェスター]]の大会でシングルス初優勝を果たす。キャリアの最初期はいろいろな選手とダブルスのペアを組んだが、[[1993年]]からエルティンはほとんどの大会で4歳年上の[[ポール・ハーフース]]と組むようになった。[[1993年]]4月、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ジョージア州]][[アトランタ]]大会でシングルス2勝目を挙げる。[[1994年]]からエルティン&ハーフース組は世界の頂点を争うコンビになり、[[1994年全豪オープン|全豪オープン]]と[[1994年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で4大大会男子ダブルスの年間2冠を獲得した。2人は全豪オープン決勝で[[バイロン・ブラック]]([[ジンバブエ]])&[[ジョナサン・スターク]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])組を 6-7, 6-3, 6-4, 6-3 で破り、4大大会ダブルス初優勝を飾った。全米オープン決勝では[[マーク・ウッドフォード]]&[[トッド・ウッドブリッジ]]組を 6-3, 7-6 で破り、エルティン&ハーフース組と「ウッディーズ」がダブルスでしのぎを削り始める。ダブルス年間2冠を獲得した[[1994年]]は、シングルスでも年間2勝を挙げ、[[1994年全仏オープン|全仏オープン]]4回戦で[[ウクライナ]]の[[アンドレイ・メドベデフ]]に敗れた。
[[1988年]]にプロ入り。エルティンは[[1991年]]から[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]に挑戦を始め、[[1991年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]初出場でシングルス4回戦に進出し、男子テニスツアーのダブルスで年間4勝を挙げた。[[1992年]]から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[オランダ]]代表選手となり、同年6月に[[イギリス]]・[[マンチェスター]]の大会でシングルス初優勝を果たす。キャリアの最初期はいろいろな選手とダブルスのペアを組んだが、[[1993年]]からエルティンはほとんどの大会で4歳年上の[[ポール・ハーフース]]と組むようになった。[[1993年]]4月、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ジョージア州]][[アトランタ]]大会でシングルス2勝目を挙げる。[[1994年]]からエルティン&ハーフース組は世界の頂点を争うコンビになり、[[1994年全豪オープン|全豪オープン]]と[[1994年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で4大大会男子ダブルスの年間2冠を獲得した。2人は全豪オープン決勝で[[バイロン・ブラック]]([[ジンバブエ]])&[[ジョナサン・スターク]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])組を 6-7, 6-3, 6-4, 6-3 で破り、4大大会ダブルス初優勝を飾った。全米オープン決勝では[[マーク・ウッドフォード]]&[[トッド・ウッドブリッジ]]組を 6-3, 7-6 で破り、エルティン&ハーフース組と「ウッディーズ」がダブルスでしのぎを削り始める。ダブルス年間2冠を獲得した[[1994年]]は、シングルスでも年間2勝を挙げ、[[1994年全仏オープン|全仏オープン]]4回戦で[[ウクライナ]]の[[アンドレイ・メドベデフ]]に敗れた。


[[1995年]]、エルティンとハーフースは[[1995年全仏オープン|全仏オープン]]男子ダブルス決勝で[[スウェーデン]]ペアの[[マグナス・ラーソン]]&[[ニクラス・クルティ]]組を 6-7, 6-4, 6-1 で破り、3個目の4大大会タイトルを獲得した。[[1995年]]のエルティンはシングルスでも好調で、[[1995年全豪オープン|全豪オープン]]と[[1995年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の2大会でベスト8に入った。これがエルティンの4大大会シングルス自己最高成績である。[[1996年]]、エルティンとハーフースは[[アトランタオリンピックにおけるテニス競技|アトランタ五輪]]の[[オランダ]]代表選手に選ばれた。男子ダブルス準決勝で「ウッディーズ」に 2-6, 7-5, 16-18 で敗れた2人は、準決勝敗退の2組による「銅メダル決定戦」でも[[ドイツ]]代表の[[デビッド・プリノジル]]&マルク=ケビン・ゲルナー組に 2-6, 5-7 で敗れ、オランダ代表としての五輪銅メダルを逃した。この後、2人は[[1996年全米オープン (テニス)|1996年全米オープン]]と[[1997年ウィンブルドン選手権|1997年ウィンブルドン]]の男子ダブルス決勝でも「ウッディーズ」に敗れる。[[1997年]]のウィンブルドン・ダブルス決勝は、2人には初舞台であったが、この時は[[1993年ウィンブルドン選手権|1993年]]からウィンブルドンの男子ダブルス連続優勝記録を続けていた「ウッディーズ」の5連覇を阻止できなかった。ウィンブルドン・ダブルス準優勝の後、エルティンは地元[[オランダ]]・ロスマレン大会を最後に男子ツアーのシングルスから撤退し、その後は専らダブルスのみで活躍した。
[[1995年]]、エルティンとハーフースは[[1995年全仏オープン|全仏オープン]]男子ダブルス決勝で[[スウェーデン]]ペアの[[マグナス・ラーソン]]&[[ニクラス・クルティ]]組を 6-7, 6-4, 6-1 で破り、3個目の4大大会タイトルを獲得した。[[1995年]]のエルティンはシングルスでも好調で、[[1995年全豪オープン|全豪オープン]]と[[1995年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の2大会でベスト8に入った。これがエルティンの4大大会シングルス自己最高成績である。[[1996年]]、エルティンとハーフースは[[1996年アトランタオリンピックテニス競技|アトランタ五輪]]の[[オランダ]]代表選手に選ばれた。男子ダブルス準決勝で「ウッディーズ」に 2-6, 7-5, 16-18 で敗れた2人は、準決勝敗退の2組による「銅メダル決定戦」でも[[ドイツ]]代表の[[デビッド・プリノジル]]&マルク=ケビン・ゲルナー組に 2-6, 5-7 で敗れ、オランダ代表としての五輪銅メダルを逃した。この後、2人は[[1996年全米オープン (テニス)|1996年全米オープン]]と[[1997年ウィンブルドン選手権|1997年ウィンブルドン]]の男子ダブルス決勝でも「ウッディーズ」に敗れる。[[1997年]]のウィンブルドン・ダブルス決勝は、2人には初舞台であったが、この時は[[1993年ウィンブルドン選手権|1993年]]からウィンブルドンの男子ダブルス連続優勝記録を続けていた「ウッディーズ」の5連覇を阻止できなかった。ウィンブルドン・ダブルス準優勝の後、エルティンは地元[[オランダ]]・ロスマレン大会を最後に男子ツアーのシングルスから撤退し、その後は専らダブルスのみで活躍した。


[[1998年]]、ヤッコ・エルティンは[[1998年全豪オープン|全豪オープン]]・[[1998年全仏オープン|全仏オープン]]・[[1998年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で4大大会男子ダブルス「3連勝」を成し遂げ、ツアーで年間「10勝」を獲得した。[[1998年全豪オープン|全豪オープン]]だけは、パートナーはハーフースではなく、[[スウェーデン]]の[[ヨナス・ビョルクマン]]と組んで地元[[オーストラリア]]の「ウッディーズ」を 6-2, 5-7, 2-6, 6-4, 6-3 で破って優勝している。[[1998年全仏オープン|全仏オープン]]では、エルティンとハーフースは[[ダニエル・ネスター]]([[カナダ]])&[[マーク・ノールズ]]([[バハマ]])組を 6-3, 3-6, 6-3 で破り、3年ぶり2度目の優勝を果たす。そしてついに、2人は[[1998年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]男子ダブルスで初優勝を飾り、男子テニス史上4組目の「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を達成した。エルティンとハーフースは、2年連続2度目のウィンブルドン決勝で[[マーク・ウッドフォード]]と[[トッド・ウッドブリッジ]]を 2-6, 6-4, 7-6, 5-7, 10-8 で破り、4時間5分の激戦の末に「ウッディーズ」のウィンブルドン・ダブルス6連覇を阻止した。ところが、2人は4大大会年間最終戦の[[1998年全米オープン (テニス)|全米オープン]]に出場できなくなり、ここでエルティンの男子ダブルス「年間グランドスラム」のチャンスが消えてしまう。年末の男子ツアー最終戦「ATPツアー選手権」(現在の名称は「[[テニス・マスターズ・カップ]]」)で、2人は全仏決勝で破った[[ダニエル・ネスター]]&[[マーク・ノールズ]]組を 6-4, 6-2, 7-5 で破り、5年ぶり2度目の優勝で有終の美を飾った。エルティンは[[1998年]]のシーズンを最後に、28歳で現役を引退した。
[[1998年]]、ヤッコ・エルティンは[[1998年全豪オープン|全豪オープン]]・[[1998年全仏オープン|全仏オープン]]・[[1998年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で4大大会男子ダブルス「3連勝」を成し遂げ、ツアーで年間「10勝」を獲得した。[[1998年全豪オープン|全豪オープン]]だけは、パートナーはハーフースではなく、[[スウェーデン]]の[[ヨナス・ビョルクマン]]と組んで地元[[オーストラリア]]の「ウッディーズ」を 6-2, 5-7, 2-6, 6-4, 6-3 で破って優勝している。[[1998年全仏オープン|全仏オープン]]では、エルティンとハーフースは[[ダニエル・ネスター]]([[カナダ]])&[[マーク・ノールズ]]([[バハマ]])組を 6-3, 3-6, 6-3 で破り、3年ぶり2度目の優勝を果たす。そしてついに、2人は[[1998年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]男子ダブルスで初優勝を飾り、男子テニス史上4組目の「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を達成した。エルティンとハーフースは、2年連続2度目のウィンブルドン決勝で[[マーク・ウッドフォード]]と[[トッド・ウッドブリッジ]]を 2-6, 6-4, 7-6, 5-7, 10-8 で破り、4時間5分の激戦の末に「ウッディーズ」のウィンブルドン・ダブルス6連覇を阻止した。ところが、2人は4大大会年間最終戦の[[1998年全米オープン (テニス)|全米オープン]]に出場できなくなり、ここでエルティンの男子ダブルス「年間グランドスラム」のチャンスが消えてしまう。年末の男子ツアー最終戦「ATPツアー選手権」(現在の名称は「[[テニス・マスターズ・カップ]]」)で、2人は全仏決勝で破った[[ダニエル・ネスター]]&[[マーク・ノールズ]]組を 6-4, 6-2, 7-5 で破り、5年ぶり2度目の優勝で有終の美を飾った。エルティンは[[1998年]]のシーズンを最後に、28歳で現役を引退した。

2018年9月12日 (水) 11:54時点における版

ヤッコ・エルティン
Jacco Eltingh
基本情報
国籍 オランダの旗 オランダ
出身地 同・ヘールデ
生年月日 (1970-08-29) 1970年8月29日(53歳)
身長 187cm
体重 80kg
利き手
バックハンド 片手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1988年
引退年 1998年
ツアー通算 48勝
シングルス 4勝
ダブルス 44勝
生涯通算成績 518勝291敗
シングルス 127勝147敗
ダブルス 391勝144敗
生涯獲得賞金 4,920,410 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト8(1995)
全仏 4回戦(1994)
全英 ベスト8(1995)
全米 2回戦(1993・95)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 優勝(1994・98)
全仏 優勝(1995・98)
全英 優勝(1998)
全米 優勝(1994)
優勝回数 6(豪2・仏2・英1・米1)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 19位
ダブルス 1位

ヤッコ・エルティンJacco Eltingh, 1970年8月29日 - )は、オランダヘルダーラント州ヘールデ出身の元男子プロテニス選手。ダブルスの名手として活躍し、同じオランダポール・ハーフースとペアを組んで、4大大会の男子ダブルス部門ですべてのタイトルを獲得する「キャリア・グランドスラム」を達成した。彼らのライバルにはオーストラリアペアの「ウッディーズ」(マーク・ウッドフォードトッド・ウッドブリッジのこと)がいて、オランダペアの2人と「ウッディーズ」は1990年代の男子テニス界を代表するダブルスコンビとして数々の名勝負を繰り広げた。1996年ウィンブルドン男子シングルス優勝者になったリカルト・クライチェクも、同世代のオランダ人選手である。エルティンの自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス4勝、ダブルス44勝を挙げた。身長187cm、体重80kg、右利き。

来歴

1988年にプロ入り。エルティンは1991年から4大大会に挑戦を始め、ウィンブルドン初出場でシングルス4回戦に進出し、男子テニスツアーのダブルスで年間4勝を挙げた。1992年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップオランダ代表選手となり、同年6月にイギリスマンチェスターの大会でシングルス初優勝を果たす。キャリアの最初期はいろいろな選手とダブルスのペアを組んだが、1993年からエルティンはほとんどの大会で4歳年上のポール・ハーフースと組むようになった。1993年4月、アメリカジョージア州アトランタ大会でシングルス2勝目を挙げる。1994年からエルティン&ハーフース組は世界の頂点を争うコンビになり、全豪オープン全米オープンで4大大会男子ダブルスの年間2冠を獲得した。2人は全豪オープン決勝でバイロン・ブラックジンバブエ)&ジョナサン・スタークアメリカ)組を 6-7, 6-3, 6-4, 6-3 で破り、4大大会ダブルス初優勝を飾った。全米オープン決勝ではマーク・ウッドフォードトッド・ウッドブリッジ組を 6-3, 7-6 で破り、エルティン&ハーフース組と「ウッディーズ」がダブルスでしのぎを削り始める。ダブルス年間2冠を獲得した1994年は、シングルスでも年間2勝を挙げ、全仏オープン4回戦でウクライナアンドレイ・メドベデフに敗れた。

1995年、エルティンとハーフースは全仏オープン男子ダブルス決勝でスウェーデンペアのマグナス・ラーソンニクラス・クルティ組を 6-7, 6-4, 6-1 で破り、3個目の4大大会タイトルを獲得した。1995年のエルティンはシングルスでも好調で、全豪オープンウィンブルドンの2大会でベスト8に入った。これがエルティンの4大大会シングルス自己最高成績である。1996年、エルティンとハーフースはアトランタ五輪オランダ代表選手に選ばれた。男子ダブルス準決勝で「ウッディーズ」に 2-6, 7-5, 16-18 で敗れた2人は、準決勝敗退の2組による「銅メダル決定戦」でもドイツ代表のデビッド・プリノジル&マルク=ケビン・ゲルナー組に 2-6, 5-7 で敗れ、オランダ代表としての五輪銅メダルを逃した。この後、2人は1996年全米オープン1997年ウィンブルドンの男子ダブルス決勝でも「ウッディーズ」に敗れる。1997年のウィンブルドン・ダブルス決勝は、2人には初舞台であったが、この時は1993年からウィンブルドンの男子ダブルス連続優勝記録を続けていた「ウッディーズ」の5連覇を阻止できなかった。ウィンブルドン・ダブルス準優勝の後、エルティンは地元オランダ・ロスマレン大会を最後に男子ツアーのシングルスから撤退し、その後は専らダブルスのみで活躍した。

1998年、ヤッコ・エルティンは全豪オープン全仏オープンウィンブルドンで4大大会男子ダブルス「3連勝」を成し遂げ、ツアーで年間「10勝」を獲得した。全豪オープンだけは、パートナーはハーフースではなく、スウェーデンヨナス・ビョルクマンと組んで地元オーストラリアの「ウッディーズ」を 6-2, 5-7, 2-6, 6-4, 6-3 で破って優勝している。全仏オープンでは、エルティンとハーフースはダニエル・ネスターカナダ)&マーク・ノールズバハマ)組を 6-3, 3-6, 6-3 で破り、3年ぶり2度目の優勝を果たす。そしてついに、2人はウィンブルドン男子ダブルスで初優勝を飾り、男子テニス史上4組目の「キャリア・グランドスラム」を達成した。エルティンとハーフースは、2年連続2度目のウィンブルドン決勝でマーク・ウッドフォードトッド・ウッドブリッジを 2-6, 6-4, 7-6, 5-7, 10-8 で破り、4時間5分の激戦の末に「ウッディーズ」のウィンブルドン・ダブルス6連覇を阻止した。ところが、2人は4大大会年間最終戦の全米オープンに出場できなくなり、ここでエルティンの男子ダブルス「年間グランドスラム」のチャンスが消えてしまう。年末の男子ツアー最終戦「ATPツアー選手権」(現在の名称は「テニス・マスターズ・カップ」)で、2人は全仏決勝で破ったダニエル・ネスターマーク・ノールズ組を 6-4, 6-2, 7-5 で破り、5年ぶり2度目の優勝で有終の美を飾った。エルティンは1998年のシーズンを最後に、28歳で現役を引退した。

4大大会ダブルス優勝

男子ダブルスの4冠達成ペア

外部リンク