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:幸盛の遺体は、曹洞宗観泉寺の住職、珊牛和尚がその遺体を引き取り、石金堂(清講堂)に埋葬されたと伝える。寺内には幸盛の位牌も安置されている。戒名は「幸盛院鹿山中的居士」。また、明治35年には、第14世金地祖英師が新たに墓石を建設した。戒名も追贈され「幸盛院殿鹿山中的大居士」となる 。
:幸盛の遺体は、曹洞宗観泉寺の住職、珊牛和尚がその遺体を引き取り、石金堂(清講堂)に埋葬されたと伝える。寺内には幸盛の位牌も安置されている。戒名は「幸盛院鹿山中的居士」。また、明治35年には、第14世金地祖英師が新たに墓石を建設した。戒名も追贈され「幸盛院殿鹿山中的大居士」となる 。


;大徳寺玉林院内の墓([[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野大徳寺町)
;[[大徳寺]][[玉林院]]内の墓([[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野大徳寺町)
:寛保3年(1743年)5月22日、幸盛の子孫である大坂の商人、鴻池家当主をはじめ18名によって建立された。 鴻池家は先祖の菩提を弔うために、江戸時代中期の寛保年代に、玉院林の中に位牌堂を創建した。この位牌堂は「南明庵」と称され、幸盛の位牌もそこに安置されている。この南明庵の向かいの墓所に幸盛の墓がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十四にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也、子孫一宗、鴻池十八人相與に謀り、樹石を紫野玉林禅院に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 寛保三年歳舎癸亥五月廿二日 現住比丘大龍宗丈誌す」。
:寛保3年(1743年)5月22日、幸盛の子孫である大坂の商人、鴻池家当主をはじめ18名によって建立された。 鴻池家は先祖の菩提を弔うために、江戸時代中期の寛保年代に、玉院林の中に位牌堂を創建した。この位牌堂は「南明庵」と称され、幸盛の位牌もそこに安置されている。この南明庵の向かいの墓所に幸盛の墓がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十四にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也、子孫一宗、鴻池十八人相與に謀り、樹石を紫野玉林禅院に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 寛保三年歳舎癸亥五月廿二日 現住比丘大龍宗丈誌す」。


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:宝暦14年(1764年)5月22日、幸盛の子孫である山中永辰と山中一信によって建立された。幸盛の墓は本堂脇の墓所中央に位置し、周囲に山中一族の墓碑がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十(四)にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也。子(孫)山中永辰、同一信、相與に謀り、樹石を広宣し、流布山本願満足寺に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 宝暦十四年歳舎甲申五月廿二日 当山丗七世日視誌す」。
:宝暦14年(1764年)5月22日、幸盛の子孫である山中永辰と山中一信によって建立された。幸盛の墓は本堂脇の墓所中央に位置し、周囲に山中一族の墓碑がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十(四)にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也。子(孫)山中永辰、同一信、相與に謀り、樹石を広宣し、流布山本願満足寺に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 宝暦十四年歳舎甲申五月廿二日 当山丗七世日視誌す」。


;金戒光明寺金光院内の墓(京都府京都市[[左京区]]黒谷町 )
;[[金戒光明寺]]金光院内の墓(京都府京都市[[左京区]]黒谷町 )
:金光院の奥の墓所中央、文殊堂へ通じる石段の登り口に、幸盛の五輪塔が建立されている。傍には、亀井茲矩と茲矩の妻(幸盛の養女)の2基の五輪塔がある。幸盛の五輪塔には、次の銘文が刻まれる。「潤林院殿太誉淨了大禅定門 、天正六年七月十七日」。
:金光院の奥の墓所中央、文殊堂へ通じる石段の登り口に、幸盛の五輪塔が建立されている。傍には、亀井茲矩と茲矩の妻(幸盛の養女)の2基の五輪塔がある。幸盛の五輪塔には、次の銘文が刻まれる。「潤林院殿太誉淨了大禅定門 、天正六年七月十七日」。



2015年9月6日 (日) 20:52時点における版

 
山中幸盛
ファイル:山中幸盛像(部分).JPG
山中幸盛像(広瀬中学校蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文14年8月15日1545年9月20日)?
死没 天正6年7月17日1578年8月20日
改名 山中甚次郎、亀井甚次郎、山中鹿介幸盛
別名 鹿介(通称)、山陰の麒麟児(渾名)、
鹿之介、鹿之助、鹿助
戒名 幸盛寺殿潤淋淨了居士
幸盛寺殿潤林淨了居士
幸盛院殿鹿山中的大居士
幸盛院殿大誉淨了大居士
秋峰億勇居士
潤林院殿太誉浄了大禅定門
幸盛院鹿山的中居士
忠光院信譽宗英居士
墓所 阿井の渡し、観泉寺、幸盛寺本満寺玉林院金戒光明寺、徳雲寺、静観寺
主君 尼子義久勝久
氏族 山中氏宇多源氏佐々木氏流、又は橘姓近江山中氏庶流)
父母 父:山中満幸、母:なみ(立原綱重の娘)
養父:亀井秀綱
兄弟 幸高幸盛、女(飯田定正の正室)
正室亀井秀綱の娘
幸元幸範吉和義兼
養女:亀井茲矩
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山中 鹿介 幸盛[1](やまなか しかのすけ ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方武将尼子氏家臣。実名は幸盛(ゆきもり)、幼名は甚次郎[2](じんじろう)。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦[3]を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は有名である。

生涯

出自・若き日

幸盛の前半生は、確実な史料が残っておらず不明な点が多い。通説によれば、天文14年8月15日(1545年9月20日)に出雲国富田庄(現在の島根県安来市広瀬町)に生まれたとされる(詳しくは#出自の謎を参照。)。

山中氏の家系も不明な点が多い。山中家の系図はいくつか存在するが[4]、有力な説としては宇多源氏の流れを汲む佐々木氏京極氏)の支流で、尼子氏一門衆である。尼子清定の弟である山中幸久を祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。

山中家は尼子氏の家老[5]であったが、父・満幸が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた[6]。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち[7]、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手柄を立てた[8]

16歳のとき、主君・尼子義久伯耆尾高城攻めに随行し、因伯(現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取った[9]

幸盛は次男であったため、尼子の重臣である亀井氏の養子となるが[10]、後に山中家に戻り当主である兄の幸高(甚太郎)に替わって家督を継いだ。

尼子氏の滅亡

永禄5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏の当主・毛利元就[11]尼子氏を滅ぼすため出雲国へ進軍する[12]。毛利氏は天文24年10月(1555年)に陶晴賢厳島の戦いで破ると[13]弘治3年には大内氏を滅ぼし[14]、防長2国(周防国長門国。)を新たに支配していた。また、永禄5年6月には石見国を勢力下に治め[15]中国地方の一大勢力となっていた[16]。一方の尼子氏は、当主であった尼子晴久が永禄3年12月24日(1561年1月9日)に急死したため[17]、晴久の嫡男義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等[18]もあり勢力が衰えつつあった。

元就に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永禄5年12月(1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣を構え[19]、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化させる。

永禄6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる白鹿城[20]へ攻撃を開始する[21]。この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠点であった。

同年9月21日(1563年10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大将とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する[22]。戦いの結果は、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した(白鹿城の戦い)。退却の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を担当し、追撃する吉川元春小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退。敵の首を7つ討ち取った[23]。なお、白鹿城は同年10月中旬頃に落城している[24]

永禄7年(1564年)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関[25]で戦い、幸盛もこれに参戦する[26]。このとき、日本海側からの補給拠点である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆国の拠点確保と勢力の挽回に努めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆国の重要拠点の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れた[27]。以後、伯耆国は毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立化していくのである。

永禄8年4月(1565年5月)[28]、毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣を構えると[29]、城下の麦を刈り取って[30]月山富田城へ攻撃を開始する。。

同年4月17日(1565年5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う[31]第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口[32](しおたにぐち)で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退している[33]。また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取っている[34]

永禄8年4月28日(1565年5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ[35]、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した[36]

同年9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は品川将員[37]を一騎討ちで討ち取っている(山中幸盛・品川将員の一騎討ち)。また同月、幸盛は、白潟(現在の島根県松江市)に滞在していた小河内幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多数の兵を討ち取った[38]

永禄9年5月24日(1566年6月11日)、毛利軍は再度月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出来なった[39]

永禄9年11月21日(1567年1月1日)、城内の兵糧が欠乏し将兵の逃亡者も相次いだため[40]、これ以上戦うことが出来ないと判断した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る[41]。そして同月28日(1567年1月8日)、義久は城を明け渡し[42]、ここに戦国大名尼子氏は一時的に滅びることとなる[43]。義久ら尼子3兄弟[44]は、一部の従者[45]と共に円明寺[46]へ連行され幽閉されることとなった[47]。幸盛は随従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた[48]。その後、幸盛は尼子家を再興するため尽力することとなる。

幸盛の尼子再興運動は、概ね3回に分けて見ることができる。

第一回尼子再興

ひとよしさん(島根県松江市八雲地域)。幸盛が毛利との戦いの時、腰かけ休憩したとされる岩。幸盛の手の跡が残っていると伝えられる。

尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。その後、永禄9年~永禄11年間(1566年1568年)の幸盛の足取りは定かでない。諸説によれば、有馬温泉で傷を癒した[49]後に順礼の姿をして東国へ赴き、武田氏武田信玄)・長尾氏上杉謙信)・北条氏北条氏康)などの軍法をうかがい、越前朝倉氏家風を尋ね入り[50]、その後、に上ったとされる[51]

永禄11年(1568年)、幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺をしていた尼子誠久の遺児・尼子勝久還俗させると[52]、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがった。

永禄12年4月(1569年5月)、毛利氏の当主・毛利元就大友氏を攻撃するため九州へ軍を派遣すると[53]、挙兵の機会をうかがっていた幸盛は、出雲国へ侵攻を開始する[54]

このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは山名祐豊であった[55]山名一門総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領国であった備後伯耆因幡国毛利氏によって制圧されてきており、勢力回復を図るにあたって手を結んだと考えられえる[56]。もっとも、その後、毛利氏から要請を受けた織田信長の軍によって領内を攻められ[57]、支援はままならなかったようである。

永禄12年6月23日(1569年8月6日)[58]、幸盛は丹後但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると[59][60]、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する[61]。幸盛らがここで再興の激を飛ばすと、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結し、5日の内に3000余りの軍勢になったという[62]。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元竜が籠もる新山城(真山城)を攻略して居城とすると[63]山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった。

永禄12年7月中旬[64]、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり[65]、また、城内より投降者がでる[66]など尼子方が優勢であった。

しかし、同じ頃、石見国で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な状態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して同軍の救援に向う[67]

救援に駆けつけた幸盛は、この石見の毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域の平野部あたり )で撃破すると(原手合戦)、その後、出雲国内において16の城を攻略[68]。その勢力を6,000余りにまで拡大させた[69]

また、毛利元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた米原綱寛[70]三刀屋久祐などの出雲国の有力国人を相次いで味方につけると[71]、出雲国の一円を支配するまでになった[72][73]

さらに、伯耆国においても尾高城を始め、中央の八橋城因幡国との境にある岩倉城など、多くの主要な城を攻略[74]。謀略を用いて末吉城の神西元通を寝返らせたのをはじめ[75]日野郡一帯を支配する日野衆を味方につける[76]など、伯耆国全土にも勢力を拡大していった。その他、因幡[77]備後備中[78]美作国[79]においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている。

加えて永禄12年10月11日(1569年11月19日)、大内輝弘大内家再興を目指して周防国へ攻め込み[80]、築山館跡を占領する事態が発生する[81]

こうして中国地方は再び戦火につつまれ、騒乱の地となったのである。

同月15日(1569年11月23日)、相次ぐ領内の反乱により支配体制の危機を感じた毛利元就は、反乱軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する[82]

同月18日(1569年11月26日)、吉川元春小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰着すると[83]、同月25日頃に大内家再興軍の反乱を鎮圧する[84]。輝弘は富海で自刃し[85]、大内家再興の戦いは僅か半月足らずで終結するのである(大内輝弘の乱)。反乱を鎮圧した毛利軍は、同年12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還している[86]

永禄13年1月6日(1570年2月10日)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため居城・吉田郡山城より大軍を率い出陣する[87]。毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。

一方の尼子再興軍は、先の原手郡の戦いや隠岐為清の反乱(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲国の拠点である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため、幸盛ら尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部山(現在の島根県安来市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える[88]

同年2月14日(1570年3月20日)[89]、幸盛ら尼子再興軍は、この布部山の地で毛利軍と戦い敗北する(布部山の戦い)。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として残り、軍の崩壊を防いだ後に居城の新山城へ帰還している[90]

戦いに勝利した毛利軍は、翌日の2月15日に月山富田城に入城し[91]、尼子再興軍の包囲から城を開放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。

同年6月(1570年7月)、布部山の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城高瀬城の2城となるまで追いつめられていた[92]。7月~8月には、両城下で毛利軍による麦薙ぎが行われる[93]など危険な状態となるが、同年9月5日(1570年10月4日)、安芸国毛利元就が重病におちいり、吉川元春を残して毛利輝元小早川隆景らの軍が国許へ帰還する[94]と状況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返すのである。

清水寺島根県安来市清水町)の札打ち巡拝路にある、山中鹿介の槍砥石。この石で幸盛が槍を砥いだとされる。

幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠点である十神山城や末吉城など、出雲伯耆国の境にある城を次々と奪還するとともに[95]、一時、清水寺要害を攻略して[96]再び月山富田城へ迫った。

また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連携を図るため、宍道湖北部に満願寺城を建設[97]。吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城(平田城)へ攻め込む[98]など、その攻勢を強めている。

さらに、このとき、隠岐国国人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており[99]日本海側の制海権も取得しつつあった。幸盛ら尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大するのである。

元亀元年10年6月(1570年11月3日)、出雲国における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、この状況を打開するため、直属の水軍部隊・児玉就英を出雲へ派遣させる[100]。出雲国で苦戦する毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪取しようと計画したのである。

この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、同年10月下旬頃には十神山城[101]、同年12月には満願寺城が落城する[102]など、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していくこととなる[103]

そして、元亀2年8月20日(1971年9月8日)頃には、最後の拠点であった新山城が落城[104]。籠城していた当主である勝久は、落城前に脱出して隠岐へ逃れている[105]

同じ頃[106]、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ、吉川元春に捕らえられる[107]。幸盛は尾高城へ幽閉されることとなるが、その後、隙をついて脱出している[108]

こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、第1回目の再興運動は失敗に終わるのである。

第二回尼子再興

尾高城から脱出した幸盛は、海を渡って隠岐国へ逃れると、元亀3年3月~4月(1572年2月~3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬国に潜伏する[109]。そして、瀬戸内海の海賊・村上武吉美作三浦氏の重臣・牧尚春らと連絡を取りつつ[110]、再び尼子家再興の機会をうかがっていた。なお、このとき幸盛は亀井性を名乗っていたようである[109]

元亀4年(1573年)初頭、幸盛は但馬国から因幡国へ攻め込み、桐山城を攻略して拠点とすると[111]、因幡の地で様々な軍事活動を開始する。幸盛は、この因幡の地を足がかりに、伯耆出雲方面への勢力の拡大を計画していたと思われる。

このとき、因幡国の実質的な領主は、毛利方の国人・武田高信であった。高信は、永禄6年(1563年)に当時の因幡国の領主・山名豊数と争って勝利を収めると[112]、毛利氏と連携をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。

幸盛ら尼子再興軍は、豊数の弟で山名氏再起を目指す山名豊国を味方につけると[113]、因幡の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると(鳥取のたのも崩れの合戦[114]、高信の居城・鳥取城攻めを本格化させる。

天正元年8月1日(1573年8月28日)[115]、幸盛ら尼子再興軍は、約1,000の兵を率いて武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると[116]、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した[117]

攻略した鳥取城には豊国が入り、幸盛ら尼子再興軍は、私部城に本拠を構え居城とした[118]。幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3000余りに拡大し[119]、東因幡一円の支配に成功した[120]

ところが同年11月上旬[121]、鳥取城に籠もる豊国が、田公高次などの懐柔により毛利方に寝返る事件が発生する[122]。幸盛ら尼子再興軍は、わずか1ヶ月余りで毛利氏に鳥取城を奪われてしまうのである。

鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い[123]、因幡平定に向けて尽力することとなる。

因幡国内で毛利軍と交戦する一方[124]美作三浦氏備前浦上氏豊前大友氏などの反毛利勢力と連携を図るとともに[125]、密かに織田信長配下の柴田勝家と連絡を取って[126]体制の立て直しを図っていった。

これら戦いの中で幸盛は、天正2年11月(1574年12月)、三浦氏の居城・高田城宇喜多直家軍を撃退し功績を挙げたとして、大友宗麟から火薬の原料となる塩硝1壷をもらい受けるなどしている[127]

天正3年5月(1575年7月)、幸盛ら尼子再興軍にとって更なる苦難となる事態が発生する。但馬山名祐豊が、毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を締結するのである[128]

かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は織田信長に但馬の支配権や生野銀山に対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であったからである[129]

但馬山名氏の支援を受けれなくなった幸盛は、天正3年 6月14~15日(1575年7月21~22日)に因幡の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠点をここに移す[130]。元の居城・私部城には亀井茲矩が入ったとされる。

この若桜鬼ヶ城は、因幡から但馬・播磨へ向かう山間交通路の結節点に位置しており、交通の要衝であった。敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる[131]

同年6月(1575年7月)、吉川元春小早川隆景は、約47,000[132]の兵を率いて因幡へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する[133]。元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、同年8月29日(1575年10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する[134]

幸盛ら尼子再興軍は、この毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、同年10月(1575年11月)上旬頃には茲矩が籠もったとされる私部城が落城し[135]、因幡における尼子再興軍の拠点はこの若桜鬼ヶ城の1城を残すのみとなるのである。

しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、山陽方面で織田氏と毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、同年10月21日(1575年11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多数の付城を築いて[136]因幡から撤退する[137]。幸盛ら尼子再興軍は、毛利軍の撃退に成功するのである。

ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡や[138]・浦上氏の勢力が衰退したこと[139]、また支援を受けていた三浦氏が毛利氏に降伏したこと[140]などもあり、尼子再興軍は因幡の地において完全に孤立化する。

さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、天正4年 5月(1576年6月)頃、幸盛ら尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡から撤退する[141]

こうして、第2回目となる再興運動は失敗に終わるのである。

第三回尼子再興

因幡より撤退した幸盛は、織田信長を頼りへ上る[142]。京で信長に面会した幸盛は、信長より「良き男」と称され、四十里鹿毛という駿馬を賜わったという[143]。その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。

天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は明智光秀の軍に加わり、但馬八木城攻めや丹波の籾井城攻めに参加する[144]

同年11月(1576年12月)、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する波多野赤井軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている[145]

天正5年10月(1577年11月)、幸盛は、織田氏嫡子織田信忠に従い、片岡城攻めや松永久秀が篭城する信貴山城攻めに参加する(信貴山城の戦い[146]

幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り[147]、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた[148]。また、この戦いで幸盛は、 久秀配下の将・河合将監を一騎討ちで討ち取っている[149]

同年10月(1577年11月)、信長の命令を受けた羽柴秀吉播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。

同年12月(1578年1月)、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠点である上月城を攻略すると、幸盛は、主君である尼子勝久と共にその城に入る[150]。幸盛ら尼子再興軍は、この城を拠点として最後の尼子家再興を図って行くこととなる[151]

この上月城は小城であったが、備前美作播磨の国境に位置し、この地域を治める上で重要な拠点であった。城番となった幸盛は、この区域の守備を行うと共に、織田氏美作・江見氏との仲介を行うなど、美作国人の懐柔・調略を行っていくこととなる[152]

天正6年2月1日(1578年3月9日)、宇喜多軍の将・真壁次郎四郎が約3000の兵で上月城を攻める[153]。この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している[154][155]

同年2月中旬(1578年3月下旬)、三木城別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する事件が発生する[156]

織田氏と交戦状態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、同年4月(1578年5月)、吉川元春小早川隆景ら率いる3万以上の兵[157]をもって播磨に進軍する。そして同月18日(1578年5月24日)、幸盛ら尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する[158]

同年5月4日(1578年6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、荒木村重らと共に1万の軍[159]を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する[160]

しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや[161]、同年6月21日(1578年7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって[162]、同月26日( 1578年7月30日) 、陣を引き払い撤退する[163]

その結果、上月城は孤立無縁となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため[164]、同年7月5日(1578年8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する[165]上月城の戦い)。

降伏の条件として、勝久及び弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる[166]。その他、毛利氏に敵対した多く者は処刑され[167]、それ以外の者は許され解放された[168]

人質となった幸盛は、備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる[169]。しかし、途上の備中国の合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏の刺客により謀殺された[170]

こうして幸盛による尼子家再興の夢は、ここに潰えるのである。

その後

鹿介神社(島根県安来市広瀬町布部)。幸盛を祀った神社。霊験あらたかにして、願解きには古武器類を奉納する習わしがあった。

幸盛の死は尼子再興運動の終幕ではあったが、尼子遺臣団の完全な解体とはならなかった。上月城陥落時、亀井茲矩率いる部隊は秀吉に従い難を逃れていたためである。尼子遺臣団の一部はこの亀井家の家臣団として再編成され近世大名への道を歩み始める。その後は東軍に属して関ヶ原の戦いでも前衛の部隊として参戦、徳川幕藩体制に組み込まれ、幕末を迎えた。

長男とされる山中幸元(鴻池新六)は父の死後、武士を廃して摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市)で酒造業を始めて財をなし、のちに大坂に移住して江戸時代以降の豪商鴻池財閥の始祖となった。

衰亡した主家に忠誠を尽くして戦い続け、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。特に江戸時代には忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が創られていく。これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話が教科書に採用された。

出自の謎

月山富田城にある「山中屋敷跡」。幸盛誕生の地とされる。
幸盛の屋敷にあったとされる五輪塔 。現在は近くの常光寺の墓地に移転されている。

幸盛の前半生は、確実な史料が残っておらず不明な点が多い。軍記史料も、生まれた場所や年など記載に相違がある。

出生の日

一般的に、出生日は天文14年8月15日(1545年9月20日)とされる。これは『太閤記』『後太平記』によって記載され[171][172]、他の軍記史料には明確な出生日の記述が見られないからである。

名将言行録』によれば「天正6年7月2日(1578年8月5日)に34歳で死亡」と記載され[173]、逆算すると天文14年に生まれたことになり、『太閤記』『後太平記』に記載される年と一致する。

しかし、もっとも成立の古い『雲陽軍実記』では、天正6年7月13日(1578年8月16日)に39歳で死亡したと記載される[174]。これを逆算すると、生まれた年は天文9年(1540年)になる。また、『陰徳太平記[175]、『中国兵乱記』[176]においても天正6年に39歳で死亡したとする。そのため、出生年を天文9年とする説がある。

なお、通説では、死亡した日は天正6年7月17日(1578年8月20日)とされる。これは『山中系図草案』『片寄家譜』によるものである[177]

出生の地

出生地においても定かでない。一般には、月山富田城(現在の島根県安来市広瀬町 (島根県))に生まれたとする。これは『太閤記』によって記載され[178]、現在も屋敷跡が存在する。『雲陽軍実記』『後太平記』では鰐淵寺(現在の島根県出雲市別所町)に生まれたと記載される[179][180]。同じく屋敷があった地が伝えられる[181]。その他、信濃(長野県)の見上城で出生した説もある[182]

評価

山中幸盛像「月百姿」(月岡芳年作・1886年、ウォルターズ美術館所蔵)
頼山陽
嶽々(がくがく)たる驍名(ぎょうめい)、誰が鹿と呼ぶ、虎狼(ころう)の世界に麒麟(きりん)を見る[183](勇名をはせた幸盛(鹿介)は、鹿という名前であるけれども、誰が鹿と呼べようか。幸盛は戦国乱世(食うか食われるかの世界)の麒麟である)。
勝海舟
ここ数百年の史上に徴するも、本統の逆舞台に臨んで、従容として事を処理したる者は殆ど皆無だ。先づ有るというならば、山中鹿介と大石良雄であろう[184](ここ数百年間の歴史を遡って見ても、本当の逆境に挑んで、慌てず落ち着いて処理した者はほとんどいない。もしいるとするなら、山中鹿介と大石良雄だろう)。
板垣退助
私は常に山中鹿之介なるものを愛するのであります。彼は尼子の忠臣でありまして、尼子の衰運回復すべからざる時に、身を致して顧みなかった男であります[185]
陰徳太平記
尼子再興軍の大将は尼子勝久であったが、軍事計略のすべては幸盛の脳裏より出たものであった。数ヵ年間、山陰山陽に武威を振るい、寡兵で大軍に勝つこと数え切れないほどであった。その武名は天下に響き渡り、樵(きこり)の子供や猟師の老人までもが日常の会話にしたほどであった。しかし、果報にも限りがあるように、天運を使い果たして意味も無く誅されたことは無残であった[186]
『中国兵乱記[187]
武勇の達人として天下にその名を知られていたが、天命を全うできず、39歳で討ち滅ぼされ、名を後世に残した。惜しまない者はなかった[188]
名将言行録
幸盛の勇力は抜群であり、才智にも長けていた。当時の人は幸盛を「楠木正成より勝る」と言って褒めたたえた。そのため、七重八重に取り囲んだ敵も幸盛の姿を見ると皆退却した。また、幸盛が城に籠もると敵は和談して戦いを避けた[189]
主家再興を自らの使命とし、各地をさ迷いながらも幾度の苦難を乗り越え、兵を起し戦い続けた。その道のりは厳しく、100度打ちのめされ、1000回挫折を味わうものであったが、進むことはあっても退くことはなかった。最後は志半ばで倒れてしまったが、その義勇の名は一時天下に鳴り響いた[190]

人物・逸話

月山富田城跡の太鼓壇公園に建つ山中鹿介幸盛の銅像。1978年、幸盛没後400年を記念して建立された。

容貌

勇猛な美男子であったとされる幸盛であるが、その容貌については諸説がある。

雲陽軍実記』(19歳 、品川将員との一騎討ちの時)
背丈は5尺あまりと見えて中肉で色白く、容貌がすぐれた男であった[191]
太閤記』(幼少期)
普通の子供とは容姿が違っていて、眼光がすぐれ、手足も太く逞しかった。幼いながらもその立ち振る舞いは、たいそうきっぱりしていて、不敵にすらあった[192]
名将言行録』(34歳、死亡時)
幸盛は討ち取られたとき、たいへん立派な髭を生やしていた。その髭は、針先のように鋭く尖って非常に堅く、障子を突くと簡単に貫くほどであった[193]

鎧冑の姿

幸盛は三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑をした姿でよく知られる。講談や小説などにおいてもこの姿で描かれることが多い。月山富田城跡に建つ、幸盛の銅像もこの姿で作成されている。通説では、この冑は山中家に先祖代々から伝わるもので、幸盛が家を継ぐにあたって譲られたとされる。しかし『太閤記』や『雲陽軍実記』などの軍記資料によると、その冑の様相は多少異なる。

太閤記
「16歳の春、半月の前立てがある冑をつけていた」と記載され、鹿の角の脇立ての描写はなく、前立ても三日月でなく半月である[194][195]
雲陽軍実記』・『陰徳太平記
「赤糸縅(おど)しの鎧に、牡鹿の角を備えた冑をしていた。その牡鹿の角は、銀粉で装飾され5節に分かれていた」と記載され、鹿の角の立物はあるが、三日月の前立ての記載はない[196][197]
名将言行録
太閤記』に記載される「半月の前立がある冑」の描写ほかに、幸盛が病弱であった兄から冑を譲り受ける記載がある。その冑は「長さ6尺の鹿の双角を前立てに挿めていた」とあり、冑に備え付けられた鹿の角は、脇立ではなく前立てにあったと記載している[198]

鹿介という名

幸盛の通称(字)、鹿介の命名についての逸話がある。幸盛の幼名は甚次郎といい、病弱な兄に代わって家督を継ぐときに改名して鹿介と称した。一般には、このとき譲り受けた冑に三日月の前立てと鹿の角の脇立がついていたため、冑にちなんで名前を鹿介と改めたとされる。その他には、山の中で鹿の如く走り廻る姿を見て名前を鹿介としたとする説[199]などもあるが、軍記資料に残る改名の理由は次のとおりである。

太閤記
長月(9月)のある日、甚次郎(幸盛)は同輩の秋宅甚介と寺本半四郎と共に夜番をしていた。甚次郎は退屈していたので「苗字にちなんで名前を変えてみようではないか」と両友にもちかけた。2人も「なるほど、それは良いことだ」と言って了解したので、3人はそれぞれ、山中鹿介、秋宅庵之助、寺本障子之助と名乗るようになった[200]
名将言行録
あるとき、甚次郎(幸盛)は兄の甚太郎から、長さ6尺の鹿の双角を前立てに備えた冑を譲り受けた。甚次郎はその冑を身につけ戦場に出ると、人はその威風堂々とした姿を見てたちまち恐れ服した。これにより、幸盛は自らを鹿之助(鹿介)と称するようになった[201]

所持品

  • 総長約264cm(刃長172.0cm、反り3.0cm、茎長 92.0cm)の石州大太刀(石州和貞 作)を使用していたとされ、大山祇神社へこの太刀を奉納している。現在もこの太刀は大山祇神社に展示され、観覧することができる。
  • 上月城落城後、吉川元春に投降した際に所持していたと伝わる「鉄錆十二間筋兜(てつさびじゅうにけんすじかぶと)」が現存する。護符を兜の中に入れて用いたと伝えられ、現在は吉川史料館に展示されている。
  • 「荒身国行の太刀[202]」を所持していた[203]。阿井の渡しで殺害された時に持参しており、その後は毛利輝元が所持した[204]
  • 『享保名物帳』 によると、天下五剣の1つ「三日月宗近」を一時所持したとされる[205]

武勇

尼子十勇士」の筆頭とされる[206]。 また、尼子武将の中で特に智勇・忠義に優れた3人[207]、「尼子三勇士」(「尼子三傑」)の1人とされる[208]

山名軍で猛将として知られた菊池音八や、高野監物、有名な品川将員との闘い、松永久秀配下の河合将監をいずれも一騎討ちで討ち取っている。

首供養を2度行っている[209][210]。首供養は、33の首級を挙げたら1回行う。つまり、34歳の生涯で66以上の首級を挙げたことになる。

幸盛は、生まれて数ヶ月で4・5歳の子供のように見え、2・3歳頃には武勇と智略が優れ遊戯も普通の子供と異なり、8歳のとき人を討った[211]。10歳の頃から弓馬・軍法を学び、13歳のときに敵を討ち取って手柄をたてた。成長するにつれ、器量は世に超え、心は強く深謀遠慮、人を賞するにあたって依怙贔屓(えこひいき)がなかった[212][210]

16歳のある春の日、幸盛は「今日より30日以内に武勇の誉れ(戦功)を挙げたい」と三日月に祈った。ほどなくして、主君の尼子義久山名氏の伯耆尾高城を攻め、幸盛もこれに随行する。この戦いで幸盛は、因伯(現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取り戦功を挙げる。このため幸盛は、これより一生の間、三日月を信仰したという[212][210]

毛利軍が月山富田城を攻めた際に、幸盛が1人で毛利軍約40人と戦い、19人を討ち取り、残りの軍勢も撃退した逸話がある。永禄5年(1562年)、毛利軍は出雲へ攻め入り、尼子軍拠点の月山富田城を包囲する。幸盛が1人城下の民家で休息していると、毛利軍の兵30~40騎余が攻め寄せてきた。幸盛は民家から出ると、最初に乗り駆けてきた2人の兵を切って落とし[213]、続いて来た兵も乱戦して16・17人を討ち取った。残った兵も幸盛1人で切り立てて撃退している。撃退後、幸盛は民家の年老いた尼に「飯はないか」と言って尋ね、出された椎の葉に盛られた飯を食べ、富田月山城へ帰った[212][210]

尼子が滅亡し、幸盛が諸国を放浪していた時の逸話がある。あるとき、幸盛が一晩の宿を借りて寺に泊まったていた際、盗賊14人が寺を襲ってきた。幸盛は謀略を用い、1人で盗賊すべてを生け捕りにしてしまった。盗賊は「今まで盗みをすること約100回、戦いも70回あまり行いましたが、このようなことは初めてです。名前を教えてください」と尋ねたが、幸盛は「何を言う、さっさと去れ」と言って[214]、名前を告げずに立ち去った[210]

品川大膳との一騎討ちについては、史料により異同がある。尼子側の記述『雲陽軍実記』や『太閤記』では、品川は弓を使って鹿介を攻撃しようとしたが、尼子氏の武将に弓を用いて邪魔をされ失敗し、鹿介と品川は接近戦を行い、一進一退の攻防の末に鹿介が品川を見事に討ち取ったと記されている。毛利側の資料『陰徳太平記』では、品川が優勢に勝負を進め、鹿介は追い詰められたが僚友の秋上宗信の助力で勝ったと記されている。史料によって異同があり事実は不明であるが、参考として史料の成立としては『雲陽軍実記』の方が『陰徳太平記』より100年前後古く、『太閤記』は『陰徳太平記』より数十年早く執筆されている。なお、それぞれの史書は、その成立上の経緯もあり、歴史上の事実とは異なる部分も多く、一次資料としての信憑性については、各項目を参照のこと(詳細は「山中幸盛・品川将員の一騎討ち」を参照)。

武辺への助言・判断

明智光秀の家臣であった野々口丹波が、幸盛に一騎討ちについて尋ねた逸話がある。野々口は「自分は一騎討ちを3度行い首級をあげましたが、その時の様子は良く分からず朦朧としたものです。しかし世の中には、たった1度の戦いで詳細に覚えている者もいます。その人は生まれつき勇気があるのでしょうか」と幸盛に尋ねた。幸盛はたいへん感心し、「あなたは正直な人だ。言葉を飾り、嘘をついて名をあげようとする人が多い世の中にあってはめずらしい人だ。自分も4~5個の首級をあげたときは、あなたと同じだった。7~8個のときに夜が明けたようになり、10個の首をとることには、敵の内冑を突いた場所までよく見え、子供の遊びのように杖で討ち倒すことができた。あなたも経験を重ねれば、自分の言ったことが分かるだろう」と答えた[209][210]

明智光秀の家臣であった野々口彦助(野々口丹波と同一人物か?)が、幸盛に功名をあげる方法を尋ねた逸話がある。幸盛は「合戦の前には必ず目が見えなくなるものだ。よく心得ておかれよ」と言ったが、彦助は最初それほどのこととも思わなかった。しかし、朝霧がなびいて物の色も区別がつかない戦場に立ったとき、彦助は幸盛が教えたことを思い出した。「ここで目が見えないのは私が気おくれしているからだろう」心を静めるため目をふさぎ、そして目を開くと、心もさわやかに目もはっきり見えたので、みごと敵の首を取って功名をあげたとされる[215]

若武者が将来勇敢な武士になれるかどうか、幸盛が判断する逸話がある。ある日、初陣を終えた2人の若者が幸盛にそれぞれ話しかけた。ひとりは「敵に向かうと震えが生じて、しっかり敵を見ることもできず、討ち取った敵がどんな鎧であったかも覚えていません」と話した。別のひとりは「自分はそうではありません。敵がどんな鎧を着て、どんな馬に乗り、組み合った場所など鮮明に覚えています」と話した。2人が帰った後、幸盛は傍の人にこう語った。「最初に話した若武者は、立派で勇敢な武士になるだろう。後に話した若武者は、はなはだ心もとない。もしかしたら、他人のあげた敵の首を拾い取って自分の手柄としたのではないだろうか。さもなくば、次の戦で討たれてしまうだろう」はたして後日、その言葉のとおりとなった[216]

心遣い

隠岐為清らが美保関で反乱を起こした際(美保関の合戦)、幸盛らはこれを制圧するため攻めるが、為清に反撃され窮地に追い込まれる。その後、横道兄弟(横道高光、横道高宗)、松田誠保らが救援に駆けつけ奮戦、結果、為清を捕縛しこの戦いに勝利した。この時尼子勝久は幸盛らに遠慮して、横道らに感状を出すことを差し控えていた。しかし幸盛は「この合戦で彼らの加勢がなければ、自分の一命はなかったことでしょう。緒戦に敗れた我々に遠慮することはありません。賞罰は明らかにし、政道に依怙贔屓 (えこひいき)があってはなりません」と勝久を諫め、早々に感状を渡すよう言上した。勝久はこれを喜び、すぐに横道らに感状を渡したとされる[217][218][210]

明智光秀の家臣であった野々口丹波が、幸盛を我が家へ招待するときの逸話がある。野々口が幸盛を我が家へ招待した後に、光秀からも「風呂を炊いたから家に来ないか」と招待があった。野々口の家はあばら家であったが、幸盛は「野々口と先約があるので、いけません」と笑って光秀に答えた。光秀もまた笑って、「幸盛をこれで招待してやれ」と野々口に言い、雁1羽と鮭1尾を授けた[209][210]

山中幸盛の花押天正6年7月8日 遠藤勘介宛書状より。

幸盛から配下の遠藤勘介に宛てた書状が残っている。捕らえられ、阿井の渡しで殺害されるまでの間に書かれた、幸盛の最後の書状とされる。「永々牢を遂げられ、殊に当城籠城の段、比類無く候。向後において、いささかも忘却有るまじく候。然れば、何くへなりとも、御奉公あるべく候 恐々謹言[219](「長い間の牢人生活を終えられ、特にこの前の籠城戦(上月城の戦い)では、比類の無い戦いぶりでした。このことは今後一生忘れません。これからは何処へでも奉公されますように、恐れながら謹んで申し上げます」)。

その他

幸盛の母、山中なみはたいへんな賢母であったとされる[220]。幸盛の父は若くして亡くなったため、なみ1人の手で幸盛は育てられた。稼ぎ手がいなかったため家は貧しく、衣服を買うお金に困るほどであった。そのため、自ら畑で麻を育て、その麻で幸盛に服を作っていたが、自分はぼろぼろな服を着て生活していた。また、同じように貧しい子供がいれば、服を与え、宿泊させ、食事をふるまった。世話になった子供らは皆これに感心し、大きくなってから幸盛に協力するようになったとされる[212][221][210]

山中なみの教育についての逸話がある。なみは幸盛に対し「そなたに従う人々と苦楽を共にしなさい。戦いに敗れたときに仲間を見殺しにしたり、また手柄を独り占めにするようなことをしてはいけません。」と言って教えた。幸盛も常にその言葉を忘れず、教えに従ったとされる[212][210]

毛利軍の将、神西元通を寝返らせ仲間にしたときの逸話がある。幸盛が尼子勝久を擁して出雲へ攻め入ったとき、元通は伯耆の末石城の城番をしていた[222]。尼子時代に元通と旧交のあった幸盛は、元通を味方にしたいと考え、まずその心情を探ろうと計画する。幸盛は元通に禅僧を遣わすと、今の心情を扇に書くようお願いする[223]。元道は「ふるから小野の 元柏(もとがしわ)」とだけ記し禅僧に渡すと、幸盛にこの扇を届けるよう伝える。届いた扇を見た幸盛は「これは『いそのかみ ふるから小野の 元柏 元の心は わすられなくに[224]という古歌の一節だ。元通も尼子のことが忘れられないだろう」と考え、再び禅僧を元道へ遣わし、尼子に味方するようお願いする。はたして元通はお目付け役の中原善左衛門を切り、尼子再興軍に味方することとなった。なお、元通はその後上月城落城まで付き従い、尼子勝久と共に切腹し自害している[225][226][210]

敵軍に敗れ捕虜となった幸盛が、から逃げ出す逸話がある。尼子氏滅亡後、幸盛は、尼子家再興を目指し出雲で戦いを繰り広げていたが、敗れて末吉城で降伏することとなる。その後、尾高城へ幽閉されることとなった幸盛は「赤痢になった」と偽って何度も厠へ通い[227]、あまりの頻度に付き添っていた監視役が付いてこなくなると、その隙を突いて逃げ出すこと[228]に成功したという[229][230]

天正6年7月(1578年8月)、幸盛の籠もっていた上月城は毛利軍に攻められ、援軍の羽柴秀吉軍が撤退したこともあり、毛利氏に降伏することになる。幸盛は降伏に際し、勝久の助命を再三にわたり毛利軍の吉川元春小早川隆景に申し立てたが、両将は「勝久が切腹しなければ、城内の者を悉く皆殺しにする」と言って許さなかった。万策尽きた幸盛は、勝久に向かい涙を流しながら「 このたびは殿の命を救うため再三にわたって申し立てしましたが、元春・隆景は承知しませんでした。この上は、力なく武運も尽きたと思って御自害ください。自分もお供するのは当然ですが、特に敵の吉川元春は憎い仇なので、偽って降参し近くに寄ったとき刺し違え、当家多年の鬱憤を晴らすつもりです。命を惜しみ不義の降人と思われるのは口惜しいですが、すぐに三途の川で追いつき、その時こそ忠義に嘘偽りのないことをお示しします」と申し立てた。それに対し、勝久は「自分は、普通なら法衣を纏い抖藪行脚(とそうあんぎゃ)をして生涯を終える身なのに[231]、一時的とはいえ尼子家の大将として数万の軍勢を率いることができた。わずかな期間であったが良い夢を見させてもらった。今ここに自害するに及んで何の恨みがあるだろうか。ましてや、自分が死ぬことで部下の命が助かるならば、むしろ大将としては幸いなことだ。また、元春と刺し違えて仇をとることはたいへん立派なことだが、元春は智勇に優れておりそのような機会は訪れないだろう。それよりは、生き長がらえ、別の尼子庶子を探し出し、その者を大将として助け、尼子の再興を目指して欲しい」と言って幸盛に別れを告げた[232]

墓所

阿井の渡し(岡山県高梁市)にある幸盛の墓所
観泉寺(岡山県高梁市落合町)にある幸盛の墓所
幸盛寺(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)にある幸盛の墓所
巌倉寺(島根県安来市広瀬町富田)にある供養塔
静観寺山門前(広島県福山市鞆の浦)にある幸盛の首塚
阿井の渡しの墓(岡山県高梁市落合町阿部)
幸盛は、備中松山に在陣する毛利輝元へ送られる途中、阿井の渡しで殺害される。正徳3年(1713年)10月、幸盛の死を哀れみ、松山藩士であった前田市之進時棟と佐々木軍六が、この地に墓石を建立した。碑文に次のように記載される。「尼子十勇、儕輩絶倫、不得伸志、無遭干時、忠肝義膽、爰樹爰封、殊勲偉績、千載流芳。前田時棟謹銘」。
観泉寺境内の墓(岡山県高梁市落合町阿部)
幸盛の遺体は、曹洞宗観泉寺の住職、珊牛和尚がその遺体を引き取り、石金堂(清講堂)に埋葬されたと伝える。寺内には幸盛の位牌も安置されている。戒名は「幸盛院鹿山中的居士」。また、明治35年には、第14世金地祖英師が新たに墓石を建設した。戒名も追贈され「幸盛院殿鹿山中的大居士」となる 。
大徳寺玉林院内の墓(京都府京都市北区紫野大徳寺町)
寛保3年(1743年)5月22日、幸盛の子孫である大坂の商人、鴻池家当主をはじめ18名によって建立された。 鴻池家は先祖の菩提を弔うために、江戸時代中期の寛保年代に、玉院林の中に位牌堂を創建した。この位牌堂は「南明庵」と称され、幸盛の位牌もそこに安置されている。この南明庵の向かいの墓所に幸盛の墓がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十四にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也、子孫一宗、鴻池十八人相與に謀り、樹石を紫野玉林禅院に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 寛保三年歳舎癸亥五月廿二日 現住比丘大龍宗丈誌す」。
本満寺実泉院内の墓(京都府京都市上京区寺町)
宝暦14年(1764年)5月22日、幸盛の子孫である山中永辰と山中一信によって建立された。幸盛の墓は本堂脇の墓所中央に位置し、周囲に山中一族の墓碑がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十(四)にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也。子(孫)山中永辰、同一信、相與に謀り、樹石を広宣し、流布山本願満足寺に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 宝暦十四年歳舎甲申五月廿二日 当山丗七世日視誌す」。
金戒光明寺金光院内の墓(京都府京都市左京区黒谷町 )
金光院の奥の墓所中央、文殊堂へ通じる石段の登り口に、幸盛の五輪塔が建立されている。傍には、亀井茲矩と茲矩の妻(幸盛の養女)の2基の五輪塔がある。幸盛の五輪塔には、次の銘文が刻まれる。「潤林院殿太誉淨了大禅定門 、天正六年七月十七日」。
幸盛寺内の墓(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)
元は明照山持西寺と称し、宝徳年中(1449年 - 1452年)に凝阿上人によって開かれた寺である。場所も今の場所でなく、鹿野西北山麓にあった。文禄元年(1592年)、鹿野城主であった亀井矩茲が、幸盛の菩提を弔うため、明照山持西寺の住職照誉に命じて寺を現在の場所に移し、名も鹿野山幸盛寺と改称し建設した。慶長13年(1608年)には、矩茲によって、備中の遭難地より幸盛の遺骨の数片が集められ、境内に幸盛の墓が建設されている。墓碑銘には次のように記載される。「天正十一癸未七月二日 為幸盛寺殿潤琳淨了居士 沙門蓮社照誉上人建之」。寺内には幸盛の位牌も安置される。戒名は「幸盛寺殿潤淋淨了居士」。
巌倉寺内の供養塔(島根県安来市広瀬町富田)
慶長7年(1602年)7月、堀尾吉晴の夫人(奥方)が幸盛の忠義を讃え、巌倉寺の境内に建立した。一時、第2次世界大戦中に食糧増産のあおりをうけ、甘藷(さつまいも)畑になり、境内の世代墓の片隅に移転されていた。寺内には幸盛の位牌も安置される。位牌の裏には次のように記載される。「天正六年戊寅七月十七日 於備中阿部渡為毛利氏討死 寛永二十年癸未二月 當山二十二世観譽建之」。戒名は「幸盛寺殿潤林淨了居士」。
静観寺山門前の首塚(広島県福山市鞆町後地)
備中松山城で毛利輝元の首実験を受けた幸盛の首は、ここの地に送られたとされる。当時、毛利氏に身を寄せていた足利義昭はこの地に滞在していたので、その首実検に供するためである。石碑は自然石をそのまま利用して刻文はなく、近くに「山中鹿之助首塚」の標石がある。寺内には幸盛の位牌も安置される。戒名は「幸盛院殿大譽淨了大居士 」。
徳雲寺境内の首塚(広島県庄原市東城町菅)
幸盛の首は、鞆の浦に送られ埋葬されたが、非業の死を遂げた彼を憐れむ尼子の残党の手により夜陰に紛れ密かに首を掘り出して、尼子勝久が幼少時に過した徳雲寺へと運び本堂の裏山へ手厚く埋葬し供養したという。石碑は自然石をそのまま利用して刻文はなく、後に「山中鹿之助幸盛公首塚」の標石がある。寺内には幸盛の位牌も安置される。戒名は「幸盛院鹿山的中居士 」。
浄教寺内の供養塔(広島県広島市西区草津本町)
昭和52年(1977年)7月、幸盛の子孫である山中豊子が400回忌の追善菩提の為に、浄教寺の境内に供養碑を建立した。幸盛の供養碑銘には次のように刻まれる。「四百年忌、昭和五十二年七月十七日、幸盛院殿鹿山中的大居士、天正六年七月十七日歿、俗名山中鹿之介幸盛、行年三十四歳、如意観泉寺前住珊牛和尚授与、幸盛院殿大誉淨了」。
末吉城跡の供養塔(鳥取県大山町末吉)
地元では古くから幸盛の供養塔と伝えられている。2000年(平成12年)10月以前までは同集落内の個人宅の庭先にあったが諸事情により現在の国道9号線の交差点横(この場所は末吉城の城門跡と伝えられる)に移動した。供養碑は五輪塔であり刻文はなく、近くに「山中鹿之介の供養塔」の標柱がある。
忠山砦跡の供養塔(島根県松江市美保関町)
幸盛の供養碑は忠山山頂の片隅にあり、石碑が建立された年代は不明であるが、小さな茶色い長方形の幸盛の供養碑銘には次のように刻まれる。「南無妙法蓮華経 山中鹿之助一族供養塔」。

系譜

山中幸盛を主題とした作品

小説
絵本
  • 文:鹿介を子どもたちに伝える会 絵:玉井詞『山中鹿介-やまなかしかのすけ』(ハーベスト出版 1998年) ISBN 4-938184-17-6
漫画
ゲーム

脚注

  1. ^ 鹿介が正しい。自筆状にそのように自署している。鹿之助や鹿之介などは間違って広まった名前である((永禄12年)10月1日 富兵部大夫 宛て 尼子氏家臣連署奉書「富家文書」ほか)。
  2. ^ 『太閤記』では山中甚次郎(巻十九 山中鹿助伝)。『陰徳太平記』では池田甚次郎(巻第五十六 山中鹿の助最後の事)。『後太平記』では山川甚次郎(巻第四十 山中鹿之助品川狼介勝負之事)
  3. ^ ありとあらゆる苦難のこと。七難と八苦。「七難」は7種の災難で経典により内容が異なる。『法華経』では、火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖難・怨賊難。『薬師経』では、人衆疾病難・他国侵逼難・自界叛逆難・星宿変怪難・日月薄蝕難・非時風雨難・過時不雨難。『仁王経』では、日月失度難・星宿失度難・災火難・雨水難・悪風難・亢陽難・悪賊難。「八苦」は人生上の8種の苦難のこと。生・老・病・死の4苦に愛別離(あいべつり)・怨憎会(おんぞうえ)・求不得(ぐふとく)・五陰盛(ごんじょう)を加えたもの(広辞苑より)。
  4. ^ 『尼子盛衰人物記』p309 個人所蔵。『山中鹿介幸盛-戦国ロマン広瀬シリーズ4-』p104 個人所蔵。『島根縣史 六-守護地頭時代』 大正15年6月30日 島根県内務部島根縣史編纂掛 島根県など。
  5. ^ 『佐々木文書』「尼子家分限牒」によれば中老。ただし、尼子家分限牒は江戸時代に製作され、その信憑性については諸説ある。
  6. ^ 『陰徳太平記』巻第五十六「山中鹿の助最後の事」 尼子家十人の家老に列すと雖も、食地も微小に座敷の次第も末也し、然に幸盛父は幼少にして離れ、一人の母に養育せられて成長す。
  7. ^ 『後太平記』巻第四十「山中鹿之助品川狼介勝負之事」 八歳にして敵を射ちしかば
  8. ^ 『太閤記』巻十九「山中鹿助伝」 十歳の比より弓を習ひ、軍法を執心し、武勇の道を専とせしが、十三歳の比、手柄なる太刀打をし能首捕てけり。
  9. ^ 『太閤記』巻十九「山中鹿助伝」 菊池音八と渡し合わせ、暫し相戦ひしが、終に菊池を討て首をさし上げたり。此菊池は因伯二州にをひて隠れなき勇者なりき。
  10. ^ 幸盛は一時期、亀井性を名乗っていたため亀井家の養子であったとされる(元亀2年3月11日 松田兵部丞宛て 亀井鹿介幸盛・立原源太兵衛尉久綱 尼子勝久袖判奉行人連署奉書「鴻池家旧蔵文書」)ほか。
  11. ^ 実際の毛利氏の当主は、元就の長男・隆元であったが、実権は元就が掌握していたとされる。
  12. ^ 永禄5年7月29日 心東堂 宛て 三吉隆亮書状写「閲覧録遺漏 浄泉寺文書」。
  13. ^ 天文24年10月20日 井上又右衛門 宛て 小早川隆景感状「閥閲録11」ほか。厳島の戦いが行われたのは、天文24年10月1日。
  14. ^ 「・・・、仍内藤(内藤隆世)被討果由、誠太慶此事候、屋形(大内義長)御事茂一途之事御整肝要候、・・・」(弘治3年4月3日 阿曾沼少輔十郎 宛て 毛利隆元書状「閥閲録35」ほか。)。「一、長州且山之儀落去候而、内藤弾正忠(内藤隆世)頸夜前到来候、屋形(大内義長)之儀茂今明日中可有到来候、・・・」(弘治3年5月9日 刑部大輔・兒玉若狭守 宛て 毛利元就書状「閥閲録84」)。弘治3年4月2日に内藤隆世が、続いて4月3日に大内義長が死亡した説が有力(『新裁軍記』より。)。これによって大内氏は実質滅亡した。
  15. ^ (永禄5年)6月23日 川尻浦齋藤源左衛門 所持 毛利元就 ・同隆元連署書状写「閥閲録遺漏4-1」
  16. ^ 安芸国備後国備中国周防国長門国石見国伯耆国美作国出雲国に渡る勢力となっていた。
  17. ^ 『佐々木文書』尼子義久家臣人数帳「佐々木文書二三七」。
  18. ^ 永禄4年、毛利氏による石見国への侵攻に際し、幕府から毛利氏(・大友氏)との和睦の斡旋を受けていた義久は((永禄)4年4月10日 大館伊予守・進士美作守 宛て 足利義藤御内書「佐々木文書235」ほか。)、積極的に毛利軍と戦うことをしなかった(毛利氏は朝廷の斡旋に従わなかった)。その結果、石見の尼子方の国人は見捨てられた格好となり、滅亡又は毛利方へ味方する者が続出した。そして、この情勢を見た他国の尼子方の国人も次々と毛利方へ鞍替えした。
  19. ^ (永禄5年12月) 兼重彌三郎 宛て 毛利元就書状写「閲覧録52」ほか。
  20. ^ 『雲陽軍実記』第三巻「富田勢出張先鋒争ひ 並びに白鹿の麓合戦、尼子方敗北の事」 尼子籏下にて 、禄の第一は白鹿、第二は三沢、第三は三刀屋、第四は赤穴、第五は牛尾、第六高瀬、第七神西、第八熊野、第九真木、第十大西なり。
  21. ^ 永禄6年8月20日 棚守左近衛将監 宛て 毛利元就書状「厳島野坂文書」ほか。小白鹿ほか、丸(曲輪)、小屋(根小屋・武家屋敷)がすべて落とされ、残すところ本丸のみであることが記載されている。
  22. ^ 『雲陽軍実記』第三巻「富田勢出張先鋒争ひ 並びに白鹿の麓合戦、尼子方敗北の事」永禄6年9月21日。牛尾三河守は軍の備えとして9月23日に出陣した。
  23. ^ 『後太平記』巻第三十六「出雲国馬潟原合戦之事」。 『中国兵乱記』では、撃退は4度、敵の首は5つ(『中国兵乱記』一の巻「毛利元就が雲州へ攻め入った事」)。
  24. ^ 永禄6年10月17日 棚守左近衛将監 返報 吉川元春巻数并供米返事「厳島野坂文書」。 『二宮佐渡覚書』では、永禄6年10月29日(1563年11月14日)に落城(『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」)。
  25. ^ 『雲陽軍実記』では三保関(現在の美保関町)。『陰徳太平記』では弓の浜(現在の弓ヶ浜)。
  26. ^ 幸盛は第2陣に控える。『雲陽軍実記』『陰徳太平記』。
  27. ^ 『雲陽軍実記』第三巻「杉原播磨守盛重と山中、立原、秋上等三保関軍のこと」。『陰徳太平記』巻三十七「杉の原盛重伯州泉山の城に入る 付 弓の浜合戦之事」及び「泉山合戦之事」。
  28. ^ 永禄8年6月14日 村山四郎大夫 宛て 乃美隆興書状写「毛利氏四代実録考証論断」ほか。
  29. ^ 『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。『二宮佐渡覚書』では星上山でなく京羅木山と記載。
  30. ^ 永禄8年5月2日 児玉若狭入道 宛て 毛利元就書状写「閲覧録84」ほか。
  31. ^ 『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。『雲陽軍実記』では、4月18日。4月17日は凶日なので、1日伸ばした。
  32. ^ 月山富田城への3つの進入口の1つ。塩谷口は南側に位置する。他は、北側の菅谷口(すがたにぐち)と西側の御子守口(おこもりぐち)。
  33. ^ 『雲陽軍実記』第三巻「富田惣攻め三所合戦 並びに毛利勢、荒隈帰陣の事」。『陰徳太平記』巻三十八「富田城下三箇所合戦之事」。
  34. ^ 『太閤記』巻十九「山中鹿助伝」 甚次郎は衆を離れ進み出、高野監物と鑓を合せ、終に高野を討てけり。(永禄7年の春と記す。年の間違いか又は違う戦いか)
  35. ^ 永禄8年5月9日 井上又右衛門尉 宛て 毛利元就・同輝元連署感状写「閲覧録11」ほか。
  36. ^ 『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。永禄8年5月3日に荒隈城へ入った。
  37. ^ 品川大膳(しながわだいぜん)あるいは棫木狼之介(たらぎおおかみのすけ)ともいう。
  38. ^ 『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。『陰徳太平記』では、船陰に隠れていた幸綱に、幸盛は膝口をしたたかに切られ負傷している。(『陰徳太平記』巻三十九「富田所々付け城 並 山中鹿助夜討事」)。
  39. ^ 永禄9年5月28日 原田長左衛門尉 宛て 平賀広相感状写「平賀共昌集録旧記」ほか。毛利軍が、月山富田城の「七曲」まで攻めていたことが分かる。
  40. ^ 永禄9年6月28日 児玉若狭入道 宛て 毛利元就書状写「閥閲禄84」。近頃(永禄9年6月頃)、尼子に従う者が50人100人と逃げ出してきていると記している。
  41. ^ 永禄9年11月21日 毛利元就他3名連著血判状写「佐々木家旧蔵文書」「閲覧録29」。
  42. ^ 開城時、義久らに従う尼子家家臣は、わずか134名しかいなかった(「佐々木文書237」永禄9年11月28日下城、相届供仕衆中)。
  43. ^ 永禄9年11月28日 冷泉四郎 御返報 小早川隆景書状「冷泉家文書」「閥閲禄102」。
  44. ^ 尼子三郎四郎義久尼子八郎四郎秀久尼子九郎四郎倫久の3人。
  45. ^ 義久へは、宇山右京亮・立原備前守・本田豊前守・同与二郎・大西十兵へ(大西十兵衛)・牧彦右衛門・力石兵庫・津野森四郎二郎・福頼四郎右衛門・本田太郎左衛門・真野甚四郎・高尾惣五郎・正覚寺(大塚助五郎)の21名。倫久へは、多賀勘兵へ(多賀勘兵衛・佐藤助三郎・重蔵坊・山崎惣左衛門の5名。秀久へは、松浦治部丞・松井助右衛門・他9名(宇山被官・矢田五郎左衛門・作野助四郎・立原被官・河上助四郎・小者之聟・本田被官・広江彦五郎・中間源右衛門)。(『二宮佐渡覚書』「尼子三兄弟御供の衆」)。
  46. ^ 広島県安芸高田市向原町長田にあった。現在は屋敷跡が残る。
  47. ^ 『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」 永禄9年12月14日に円明寺に到着した。
  48. ^ 『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」。『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。
  49. ^ 『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有事」。
  50. ^ 『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」。
  51. ^ 『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」。その他の軍記資料でも京に上ったとする。
  52. ^ 『桂岌圓覚書』 尼子勝久、京都東福寺出家にて居られ候つるを人躰に取立て。
  53. ^ (永禄12年)4月28日 赤名右京亮 宛て 毛利輝元書状「閥閲録37」。元就が出陣したのは4月26日。
  54. ^ 元亀2年4月5日 吉川元春起請文「三沢文書」。
  55. ^ 『陰徳太平記』によれば、但馬国の垣屋播磨守を頼ったとする(『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」)。
  56. ^ 『西国の戦国合戦-戦争の日本史-』P180(山本浩樹 著 吉川弘文館2007年)。
  57. ^ (永禄12年)8月19日 毛利元就ほか13名 宛て 日乗朝山書状安「益田家文書二八」。当時、毛利氏織田氏は友好的な関係であった。毛利氏は、京都に送り込んだ使僧の朝山日乗を通じて信長に合力を要請。「雲伯因三ヶ国合力」として、織田軍の木下藤吉(木下秀吉)、坂井右近(坂井政尚)が2万の兵で但馬に攻め込み、生野銀山、子盗、垣屋などの城を攻略している。また、「備作両国御合力」として、木下助右衛門尉、同左衛門尉(木下祐久)らが2万の兵で播磨に攻め込み、増井、寺蔵院などの城を攻略。その後、備前に進んで天神山城に攻め込む予定であることが記されている。
  58. ^ 『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」。
  59. ^ 永禄12年9月15日 日御碕検校 宛て 尼子氏家臣連署奉書「日御碕神社文書」。「丹州(丹後国)」から船数百艘に乗って島根半島に上陸したことなどが記載されている。同日、同人に宛てた尼子勝久の寄進状には「但馬国」と記載されており、他の資料の関係から「但州(但馬国)」の誤りではないかとの指摘もある。
  60. ^ 『雲陽軍実記』『陰徳太平記』によれば、但馬国から海賊・奈佐日本之介の手を借りて隠岐国へ渡り、隠岐の国人・隠岐為清の協力を得て島根半島に上陸したとする。(『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」)。(『雲陽軍実記』第四巻「尼子勝久雲州へ攻め入り、並びに旧交馳け集まり敵城を攻め落とす事」)。
  61. ^ 永禄12年9月15日 日御碕検校 宛て 尼子勝久寄進状「日御碕神社文書」。「但馬国」から島根半島に上陸し、忠山に入ったことが記載されている。
  62. ^ 『雲陽軍実記』第四巻「尼子勝久雲州へ攻め入り、並びに旧交馳け集まり敵城を攻め落とす事」。『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」。
  63. ^ 『森脇覚書』「九州御陣之事」。
  64. ^ 永禄12年7月19日 野村信濃入道 宛て 毛利元就書状「閥閲録123」ほか。
  65. ^ 『桂岌圓覚書』冨田の城に天野隆重籠り居られ、兵粮これ無く候て難儀に及び候。
  66. ^ 永禄12年9月27日 加儀太郎右衛門尉 宛て 天野隆重書状「閥閲録160」ほか。月山富田城内の馬来、河本、湯原氏らが尼子軍に投降したことが記されている。
  67. ^ 『雲陽軍実記」第四巻「所々尼子方蜂起 並びに富田合戦の事」。
  68. ^ 『雲陽軍実記』第四巻「秋上伊織介富田敗北 並びに山中鹿之助異見の事」。『陰徳太平記』では、15城(『陰徳太平記』巻四十三「諸国毛利家に背く 付 立花の城明け渡す事」)。
  69. ^ 『雲陽軍実記』第四巻「秋上伊織介富田敗北 並びに山中鹿之助異見の事」。『陰徳太平記』でも同数(『陰徳太平記』巻四十三「諸国毛利家に背く 付 立花の城明け渡す事」)。
  70. ^ 永禄12年8月12日 米原平内兵衛尉 宛て 尼子勝久書状「松原家文書」。綱寛は、以前より尼子方から誘いを受けており、大友宗麟の勧めもあって(永禄12年5月17日 米原平内兵衛尉 宛て 大友宗麟書状「松原家文書」)尼子方へ寝返った。
  71. ^ 『太閤記』巻十九「元就群難之事」。毛利方についていた三沢為清、三刀屋久祐、高瀬備前守、米原綱寛が、幸盛の誘いにより尼子方についたことが記されている。後に、三沢為清と三刀屋久祐は毛利につく。
  72. ^ 永禄12年7月25日 新藤就勝 宛て 天野隆重書状「竹矢家文書」。出雲国内の在々所々の者が、残すことなく雲伯諸牢人(尼子再興軍)に従ったことが記されている。
  73. ^ 『桂岌圓覚書』山中鹿之介、其外雲伯諸牢人、雲州へ乱入り仕り候。雲州一国存分に任せ候。
  74. ^ 永禄13年3月3日 湯原平次 宛て 吉川元春書状写「閥閲録115」。永禄13年3月頃に、八橋城、岩倉城といった伯耆の中部~東部にかけての毛利の城が尼子再興軍の攻撃を受けて落城の危機に追い込まれていることが分かる。ほどなく両城は落城。
  75. ^ 『雲陽軍実記』第五巻「神西三郎左衛門再び尼子方一味の事」ほか。
  76. ^ 永禄12年7月27日 某興幸感状「米井家文書」。永禄12年9月10日 某興幸感状「米井家文書」。日野山名・日野・進・原氏などの日野衆が、毛利氏を離反して尼子再興軍を支援。以後、日野衆は、尼子再興軍が上月城の戦いで滅ぶまで、一貫して支え続けていく。
  77. ^ 元亀2年5月15日 山田出雲守 宛て 吉川元春書状写「山田家古文書」。毛利方の山田重直が、尼子方の因幡国の荒神山城(現在の鳥取市鹿野町河内)を攻撃したことが記されている。
  78. ^ 永禄13年3月14日 進平次郎 宛て 日野土佐守秀清・進玄蕃充允幸経 連署書状「閥閲録130」。永禄13年4月4日 某興幸 感状「米井家文書」。元亀2年3月19日 某興幸 感状「米井家文書」。元亀2年5月9日 原又太郎 宛て 尼子勝久感状「米井家文書」。永禄13年3月~元亀2年5月にかけて、尼子方の日野衆と毛利方の宮氏が備中・備後の国境付近で戦っていたことが分かる。
  79. ^ 永禄(1)2年7月21日 足立十兵衛尉 宛て 香川美作守光景・蔵田与三右衛門尉元貞連署起請文写「香川家文書」ほか。雲州牢人(尼子再興軍)が、美作国の高田城を攻めたことが記されている。
  80. ^ (永禄12年)10月28日 立花勤番 各御中御陣所 宛て 吉弘左近太夫鑑理書状写「無尽集」。大内輝弘が海を渡って秋穂(現在の山口県山口市秋穂)に上陸し、山口に攻め込んだことが記載されている。
  81. ^ (永禄12年)11月18日 野村信濃入道 宛て 小早川隆景書状「閥閲録123」。大内輝弘が山口の築山に籠もったことが記載されている。
  82. ^ 元亀4年10月2日 井上又右衛門尉 宛て 小早川隆景書状「閥閲録11の2」。
  83. ^ (永禄12年)10月28日 立花勤番 各御中御陣所 宛て 吉弘左近太夫鑑理書状写「無尽集」。
  84. ^ 永禄12年10月25日 舟越淡路守 宛て 毛利輝元書状「閥閲録159」。10月24日には周防の白松北南・岐波・床波(いずれも山口県宇部市)の軍を討ち果たし、今日(25日)には長門の有穂(秋穂)の軍を掃討するだろうと記されている。
  85. ^ 寛永12年1月11日 新屋山三郎 宛て 毛利秀就加冠状 「閥閲録85」。永禄12年10月25日に、大内輝弘が防州富海の茶臼山で切腹したことが記されている。
  86. ^ 『桂岌圓覚書』元就様、輝元様、霜月廿三日長府を御立ち成され、吉田へ御帰陣成され、御両殿様諸勢残り無く御打納め候。
  87. ^ (永禄13年)1月5日 毛利輝元 宛て 吉川元春自筆書状「毛利家文書」。
  88. ^ 1月28日には多久和城(島根県雲南市三刀屋町多久和)を毛利軍が攻め落としており((永禄)13年2月1日 南湘院 南方宮内少輔 宛て 毛利元秋書状写「閥閲録47」ほか)、この布部山の地を抜けると月山富田城はすぐそこである。
  89. ^ (永禄13年)2月18日 赤名右京亮 宛て 毛利元就書状写「閥閲録37」ほか。
  90. ^ 『雲陽軍実記』第五巻「毛利大勢攻め上り多久和城明渡し 並びに布部大合戦の事」。
  91. ^ 『桂岌圓覚書』其日は元の御陣に御打納め成され、次の日、十五日富田へ御座成され候。
  92. ^ (元亀元年)6月8日 堀立壱岐守 宛て 吉川元春書状写「堀立家証文写」。出雲においては、尼子方の残っている城は新山城と高瀬城のみであり、その城下で放火を行ったことなどが記されている。
  93. ^ (元亀元年)7月29日 棚守左近衛将監 宛て 小早川隆景書状「切り紙、厳島野坂文書」。(元亀元年)8月26日 乃美兵部丞 宛て 毛利元就書状写「閥閲録11」ほか。
  94. ^ (元亀元年)9月5日 渡辺左衛門太夫ほか3名 宛て 毛利輝元・小早川隆景連署書状写「閥閲録55」。
  95. ^ (元亀元年)9月25日 湯原右京進 宛て 毛利輝元・毛利元就・小早川隆景連署書状写「閥閲録115」ほか。
  96. ^ (元亀元年)10月14日 国司雅楽允 宛て 毛利元就書状写「閥閲録55」。10月8日に、清水山に籠もる尼子軍を毛利軍が攻撃し、戦功を挙げているのが記載されている。
  97. ^ (元亀元年)10月25日 名井豊前守ほか5名 宛て 毛利輝元・毛利元就連署書状「知新集」所収文書(「閥閲録124」)。
  98. ^ (元亀元年)10月15日 岡又十郎 宛て 吉川元春・口羽通良連署書状「折紙、岡家文書」ほか。10月15日には、吉川元春が籠もる手崎城へ尼子軍が攻め込み、毛利軍が防戦に努めていたことが分かる。
  99. ^ 永禄13年9月29日 隠岐弾正左衛門尉 宛て 尼子勝久宛行状写「国代考証」所収文書。
  100. ^ (元亀元年)10月6日 児玉与八 宛て 毛利元就書状写「閥閲録100」。
  101. ^ (元亀元年)11月1日 児玉与八 宛て 毛利輝元・毛利元就連署書状写「閥閲録100」。
  102. ^ (元亀元年)12月12日 末国左馬助 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録128」。
  103. ^ 高瀬城は元亀2年3月19日に落城((元亀2年3月22日)国司雅楽允ほか2名 宛て 毛利輝元・毛利元就連署書状写「閥閲録55」)、伯耆の岩倉城は元亀2年5月14日に落城((元亀2年5月15日)山田出雲守 宛て 吉川元春書状写「山田家古文書」)など。
  104. ^ (元亀2年)8月24日 野村信濃守 宛て 毛利輝元書状「野村家文書」。同じ頃、伯耆における尼子再興軍の最後の拠点・八橋城が落城している((元亀2年)8月27日 山田出雲守 宛て 吉川元春書状「山田家文書」)。
  105. ^ (元亀3年)6月20日 牧兵庫助 宛て 志賀鑑信書状「切紙、石見牧家文書」。
  106. ^ (元亀2年)8月20日 湯原右京進 宛て 毛利元秋書状写「閥閲録115」。8月20日頃までに末吉城は落城。
  107. ^ 『森脇覚書』「雲州御弓矢最終の事」。末石と申城に、山中鹿介罷居り候。
  108. ^ 『森脇覚書』「雲州御弓矢最終の事」。尾高城に幽閉されたことと、鹿介が脱出したことなどが記載されている。
  109. ^ a b (元亀3年)3月11日 村上中務少輔 宛て 牧尚春書状写(「島家遺事」所引森藩島家文書)ほか。
  110. ^ (元亀3年)4月8日 牧兵庫助 宛て 村上武吉書状写(切紙、石見牧家文書)ほか。
  111. ^ 因幡民談記』国主之部「山中鹿之助当国に来り、所々戦之事」。
  112. ^ 永禄6年12月11日 山名豊数宛行状写 「譜録」秋里。(永禄6年)閏12月14日 山名徳寿丸・宗詮連署書状 「譜録」秋里。
  113. ^ 太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有事」。『因幡民談記』国主之部「山中鹿之助当国に来り、所々戦之事」ほか。
  114. ^ 因幡民談記』国主之部「鳥取タノモ崩之事」。その他、甑山城の戦いは『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』にも記載がある。『因幡民談記』は天正元年8月1日。『雲陽軍実記』は天正元年8月。『陰徳太平記』は元亀3年8月に戦いがあったと記載。
  115. ^ 天正元年8月21日 中井与三郎 宛て 尼子勝久感状写「閥閲録120」。
  116. ^ 『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有る事」。
  117. ^ (天正年間)10月18日 吉川元春・元長連署覚書「藩中諸家古文書纂」。天正元年9月27日 久芳因幡守 宛て 吉川元春書状写「閥閲録117」ほか。鳥取城は9月27日より前に落城。城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏。
  118. ^ 鳥取県公立文書館 県史編さん室『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県 2010年)P94。『太閤記』では鳥取城の本丸に尼子再興軍が、二の丸に豊国が入ったとする(『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有る事」)。また、『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』などの軍記資料では、その後、幸盛は鳥取城を退出し、京に上り織田信長に謁見。そして再び因幡へ攻め入り、再度鳥取城を落としたとする。
  119. ^ 『雲陽軍実記』第五巻「山中鹿之助漂泊、社寺宝物押領 並びに因伯度々合戦の事」。『陰徳太平記』では13城、勢力は3000余りで同じ(『陰徳太平記』巻第五十一「山中鹿助と大坪甚兵衛与合戦之事」)。
  120. ^ (天正元年)9月22日 野村信濃入道 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録123」。(天正元年カ)9月24日 野村信濃入道 宛て 粟屋就秀・粟屋元勝・粟屋元真連署書状写「閥閲録123」。毛利軍が、鹿野城を因伯仕切りの城と位置づけ、因幡の中央に位置する布勢天神山城を最前線の城として整備するよう指示していることが分かる。
  121. ^ (天正元年カ)11月12日 井原小四郎 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録40」。
  122. ^ (天正2年)3月26日 田公次郎左衛門尉 宛て 吉川元春書状写「吉川家中并寺社文書」。
  123. ^ 天正2年)3月26日 田公次郎左衛門尉 宛て 吉川元春書状写「吉川家中并寺社文書」。私部城にいる幸盛が、因幡国内で様々な調略活動を行っているので油断できないと元春が田公氏に伝えていることが分かる。
  124. ^ 天正2年)10月5日 牛尾大蔵左衛門尉(春信) 宛て 吉川元春感状写「集古文書」ほか。鳥取城下や岩井方面(鳥取県岩美郡岩美町)で合戦に及んでいることが分かる。
  125. ^ (天正2年カ)8月2日 牧兵庫助 宛て 大友宗麟書状(切紙、石見牧家文書)。(天正2年)11月18日 牧兵庫助 宛て 浦上左京入道(宗鉄)書状(切紙、石見牧家文書)ほか。尼子再興軍が大友氏・三浦氏・浦上氏と連携を取り合っていたことが分かる。
  126. ^ (天正元年)12月12日 井上又右衛門尉 宛て 安国寺恵瓊自筆書状「吉川家文書610」。
  127. ^ (天正2年カ)11月19日 亀井鹿介 宛て 大友宗麟書状(切紙、橋本家文書)。
  128. ^ [!1]天正3年5月28日 吉川駿河守(元春) 宛て 山名韶熈(祐豊)・山名氏政連署書状「吉川家文書577」。山名豊国らの仲介によって、天正3年正月頃には和平に向けた合意がなされていた((天正3年)正月26日 吉川駿河守(元春) 宛て 山名韶熈書状「吉川家文書580」)。
  129. ^ 鳥取県公立文書館 県史編さん室『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県 2010年)P98。
  130. ^ 『中務大輔家久公御上京日記』天正3年6月17日条「国立国会図書館所蔵」。天正3年、島津家久が京へ上った時につけていた日記。6月17日の日記のなかで、2・3日前に山中鹿助が若桜鬼ヶ城の城主を謀略により生け捕り、城に入ったことが記されている。
  131. ^ 鳥取県公立文書館 県史編さん室『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県 2010年)P99。
  132. ^ 『陰徳太平記』巻第五十一「私部の麓合戦之事」。吉川軍27,000、小早川軍20,000の兵。『雲陽軍実記』では45,000の兵(『雲陽軍実記』第五巻「山中鹿之助漂泊、社寺宝物押領 並びに因伯度々合戦の事」)。
  133. ^ 天正3年6月7日 吉川駿河守(元春) 宛て 垣屋豊続書状(切紙、「吉川家文書597」)。このとき、山名豊国が但馬の山名祐豊にも因幡への出兵を要請していたことが分かる。
  134. ^ (天正3年)9月18日 草刈氏軍忠状写「閥閲録34」。8月29日、若桜鬼ヶ城下で草刈氏が毛利方として参戦し、戦っていることが分かる。
  135. ^ 天正3年)10月13日 吉川駿河守(元春) 宛て 山名韶熈(祐豊)書状(切紙「吉川家文書584」。
  136. ^ (天正3年)10月15日 国対(国司就信)・黒三(黒川蒼保) 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録55」。元春が若桜鬼ヶ城の周りに付城を築いていることなどが記されている。
  137. ^ (天正3年)10月21日 大坪甚兵衛尉 宛て 吉川元春書状(切紙、中村家文書)。東西弓箭儀(織田氏への対策)を毛利家の中で協議するため、吉田郡山城へ一時帰国する必要となったこと。若桜鬼ヶ城を落とすことができず、無念であることなどが記載されている。
  138. ^ (天正3年)6月7日 吉川駿河守(元春) 宛て 垣屋豊続書状(切紙「吉川家文書597」。三村氏の居城・松山城は6月7日までに落城。小早川隆景が調略により松山城を降したことが記載されている。なお、『備中兵乱記』によれば5月22日に落城(『備中兵乱記』巻の中「元親が阿部山へ落ちたこと」)。三村氏の当主・三村元親は6月2日に自害(『備中兵乱記』巻の下「元親の最後の事」)。
  139. ^ (天正3年)9月14日 吉見正頼 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録6」。浦上氏の居城・天神山城が、この9月14日までには落城していたことが分かる。
  140. ^ (天正3年)9月14日 吉見正頼 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録6」。9月11日、三浦氏の居城・高田城が落城し、これにより三浦氏は事実上滅亡した。
  141. ^ (天正4年)5月7日 吉川駿河守(元春) 宛て 八木豊信書状(切紙、「吉川家文書599」)。若桜鬼ヶ城の周りに多数の付城が築かれていたため、やがて尼子再興軍が城を捨てて退去したことが記されている。
  142. ^ 『太閤記』では、天正3年正月10日に近江国の安土山へ行き信長に謁見。その後、岐阜にいる織田信忠へ会いに行った(『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有事」)。『 陰徳太平記』では元亀2年、明智光秀の仲介で信長に謁見した(『陰徳太平記』巻第四十九「山中幸盛立原久綱信長に謁する」)。
  143. ^ 『陰徳太平記』巻第四十九「山中幸盛立原久綱信長に謁する」。
  144. ^ 慶長16年3月13日『渡辺助允覚書』「島根県立図書館蔵文書」。
  145. ^ 慶長16年3月13日『渡辺助允覚書』「島根県立図書館蔵文書」。その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした(『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有る事」)。
  146. ^ 慶長16年3月13日『渡辺助允覚書』「島根県立図書館蔵文書」。『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有る事」。
  147. ^ 慶長16年3月13日『渡辺助允覚書』「島根県立図書館蔵文書」。
  148. ^ 『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有る事」。
  149. ^ 慶長16年3月13日『渡辺助允覚書』「島根県立図書館蔵文書」。『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有る事」。『太閤記』では信貴山城を攻めた際、『 渡辺助允覚書』では片岡城を攻めた際のこと。また、『 渡辺助允覚書』では河合将監を河人将監と記載。
  150. ^ (天正5年)12月5日 下村玄蕃助 宛て 羽柴秀吉書状「下村家文書」。
  151. ^ 勝久は、このとき遠く離れた[[出雲国]|出雲]の熊野大社安堵状を出すなど、出雲への復帰の意思を示していることが分かる(天正5年12月8日 尼子勝久安堵状写(切紙、「熊野神社文書」))。
  152. ^ (天正6年)正月18日 江見九郎次郎 宛て 羽柴秀吉書状写「美作古簡集」ほか。
  153. ^ 天正6年1月末に出陣、翌日に上月城の手前60余りで布陣した。
  154. ^ 『備前軍記』巻第四「羽柴秀吉と宇喜多勢が播州で合戦の事」。『陰徳太平記』巻第五十四「尼子勝久上月城に入事」。
  155. ^ 『備前軍記』や『陰徳太平記』などによれば、①上月城を秀吉軍が落とす②勝久・幸盛らが京へ上った隙をついて宇喜多軍が上月城を落とし、真壁彦九郎が城主となる③尼子再興軍が上月城を攻め、奪回④上月城に籠もる幸盛ら尼子再興軍が、宇喜多軍の真壁次郎四郎を撃退⑤宇喜多直家が自ら大軍を率い上月城を攻め、尼子再興軍は上月城を捨て撤退。⑥再度、秀吉軍が上月城を攻め落とし、尼子再興軍が入城。と上月城の所有が二転三転している。
  156. ^ (天正6年)3月22日 小寺官兵衛尉 宛て 織田信長朱印状「黒田文書」。
  157. ^ (天正6年)5月晦日 以徹尊老 宛て 吉川元長自筆書状「西禅永興両寺旧蔵文書」。此方の軍は3万と記載。此方とは吉川軍だけか、又は小早川・宇喜多軍を含めてかは不明。『家忠日記』では毛利軍は8万(『家忠日記』天正6年5月「増補史料大成」)
  158. ^ (天正6年)4月22日 湯原弾正忠 宛て 吉川元春書状写「閥閲録115」。
  159. ^ (天正6年)5月晦日 以徹尊老 宛て 吉川元長自筆書状「西禅永興両寺旧蔵文書」。羽柴秀吉、荒木村重らが軍を率いており、その兵力は推定1万であることなどが記載されている。
  160. ^ (天正6年)5月6日 内藤小七郎 宛て 吉川元春書状写「閥閲録125」。
  161. ^ 『信長公記』巻十一。
  162. ^ (天正6年)6月28日 児玉元良 宛て 毛利輝元書状写「閥閲録17」。
  163. ^ 『信長公記』巻十一。滝川一益、明智光秀、丹羽長秀らの軍が、毛利軍の動きに対処するため三日月山に登り、秀吉軍は高倉山の陣を引き払い書写山まで撤退した。
  164. ^ (天正6年)5月晦日 以徹尊老 宛て 吉川元長自筆書状「西禅永興両寺旧蔵文書」ほか。5月下旬ごろの上月城の落人が話すことには、城には水と兵糧が全く無い状態となっていた。
  165. ^ (天正6年)7月5日 日野五郎・立原源太兵衛・山中鹿助 宛て 吉川元春外三名連署起請文写「天野毛利譜録」。
  166. ^ (天正6年)7月12日 一色式部少輔 宛て 吉川元春自筆書状「吉川家文書」。尼子勝久と尼子助四郎には切腹を申しつけたこと。毛利家に敵対する者を悉く処刑したこと。幸盛を人質として捕らえていることなどが記載されている。
  167. ^ 『桂岌円覚書』によれば53人。「芸州へ不忠の者五三人、勝久同前に打果し・・・」。
  168. ^ (天正6年)7月5日 日野五郎・立原源太兵衛・山中鹿助 宛て 吉川元春外三名連署起請文写「天野毛利譜録」。毛利方の条件を尼子方が飲めば、城内の衆を残らず助けること。幸盛らは人質となることが記載されている。
  169. ^ (天正6年)7月12日 一色式部少輔 宛て 吉川元春自筆書状「吉川家文書」。(天正6年)7月10日 楢崎三河守 宛て 小早川隆景書状(切紙、「楢崎家文書」)。幸盛が備中松山へ向け出発したのは7月10日。
  170. ^ 天正14年 福間元明覚書写「閥閲録83」。
  171. ^ 『[太閤記]]』巻十九「山中鹿助伝」。
  172. ^ 『後太平記』巻第四十「山中鹿之助品川狼介勝負之事」。ただし、巻第四十二 「山中鹿之助被誅事」には、天正6年(1578年)に39歳で死亡したと記載され、年齢があわない。
  173. ^ 名将言行録』巻三「山中幸盛」。天正六年七月二日、害に遭ふ。年三十四。
  174. ^ 雲陽軍実記』第五巻「木下藤吉郎秀吉、播州上月城加勢 並びに尼子勝久、氏久生害の事」。
  175. ^ 陰徳太平記』巻第五十六巻 「山中鹿の助最後の事」
  176. ^ 『中国兵乱記』四の巻 「山中鹿之助が誅せられた事」
  177. ^ 米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社、1989年)P118。また『山中家譜草案』は、享年37歳と記載されるとする。
  178. ^ 太閤記』巻十九「山中鹿助伝」。雲州富田之庄に於て出生。
  179. ^ 雲陽軍実記』第五巻「山中鹿之助漂泊、社寺宝物押領 並びに因伯度々合戦の事」。鰐淵寺の麓は鹿之助出生の地にて、即ち山中屋敷とてありける処なれば。
  180. ^ 『後太平記』巻第四十「山中鹿之助品川狼介勝負之事」。雲州鰐淵山の麓、武蔵坊弁慶が育ちたる屋敷に生まれ。
  181. ^ 現在は、会社の資材置き場となっている。
  182. ^ 依田武勝『山中鹿之助-歴史新発掘-川中島合戦の落し子の生涯』(叢文社 2010年)P169。
  183. ^ 「山中幸盛」と題する七言絶句(漢詩)より。「山陰の麒麟児」と呼ばれるゆえんとされる。(原文)「存孤杵臼何忘趙 乞救包胥暫託秦 嶽々驍名誰喚鹿 虎狼世界見麒麟
  184. ^ 氷川清話』第七章 世人百態より。
  185. ^ 明治26年(1893年)12月29日、議会解散の前日に、当時の自由党総理(党首)であった板垣退助は以下のように話を続け、解散に屈してはならないと党員を激励した。「彼は常に七難八苦に遭わしめ給えと、三日月を拝したということであります。又彼の述懐に、憂きことの なおこの上に 積もれかし 限りある身の 力ためさん ということを申しております。彼の三日月を拝したというのは、如何なる意を以て拝したのであるかということは、出雲の人に就いて聞きましても分りませんが、私自ら解釈したつもりで居りまする。彼の満月となります時は必ず欠くるものである。彼の三日月の微々として雲間に光る処が、其不満なる有様、是れ士志の同感をなす処であるということでありまする」。米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社、1989年)P149。
  186. ^ 陰徳太平記』巻第五十六 山中鹿の助最後の事 より。
  187. ^ 元和元年(1615年)、賀陽郡刑部郷経山城主であった中島大炊助元行が、自己の体験した合戦とその功績を子孫に残すため著したもの。
  188. ^ 『中国兵乱記』四の巻 山中鹿之助が誅せられた事 より。
  189. ^ 『名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「幸盛、勇力群を絶し、才智兼備せり。時人幸盛を稱して、楠木正成にも勝りしなんど言へり。去ればにや、七重八重取囲みたる敵も、幸盛の印を出だせば、皆悉退却れり。幸盛だに籠れば、和談して無事を為すと曰ふ」
  190. ^ 『名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「幸盛流離顛沛の身を以って兵を起し、主家を興復する事を己が任と為し、崎嶇間關、百挫千折すと雖も進むことあって、退くことなし。竟に志業成らずして死すと雖も、一時義勇の名天下を震動せり」
  191. ^ 雲陽軍実記』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事 より。「其の骨柄五尺余りと見えて、中肉、色白く、風俗美しき男」
  192. ^ 太閤記』巻十九 山中鹿助伝 より。「尋常の児童には面がはりし、眼ざし一廉有て手足太ふ逞しく、おさなわざも大さはやかに、ふてきにも有りし」
  193. ^ 名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「幸盛鬚髯甚だ壯なり。其の鬚莖を以て窓紙を鑽すに穿つこと鍼の如し」
  194. ^ 『太閤記』巻十九 山中鹿助伝 より。「十六歳の春、甲の立物に半月をしたりける」
  195. ^ 名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「十六歳の春冑の立物に半月をしたりける」
  196. ^ 雲陽軍実記』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事 より。「赤糸縅しの鎧に男鹿の五鎖懸けたる角を銀にて卓物したる甲を着・・・」
  197. ^ 『陰徳太平記』巻三十九 山中鹿の助品川狼の助合戦之事 より。「赤糸縅しの鎧に小男鹿の五鎖打たる角を、銀にて泥みて卓物とし・・・」
  198. ^ 名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「鹿双角長六尺なるを冑額に挿めり」
  199. ^ 依田武勝 著『山中鹿之助-歴史新発掘-川中島合戦の落し子の生涯』P177より。根拠となる資料の詳細は不明。
  200. ^ 太閤記』巻十九 山中鹿助伝 より。「長月比、夜番のつれづれに、秋宅甚介と寺本半四郎に氏姓に因みて名をかへてんやと有りしかば、尤も宜しからんとて、山中鹿介、秋宅庵之助、寺本障子之助とぞ名乗ける」
  201. ^ 名将言行録』巻三 山中幸盛 より。「幸盛の兄を甚太郎と曰ふ、常に鹿双角長六尺なるを冑額に挿めり。後に之を幸盛に與(与)ふ、幸盛身體壯大冑して陣に臨むに、人其巍然たるを見て輙ち恐れ服す、依て鹿之助と稱す」
  202. ^ 鎌倉時代中期の京の刀工「来国行」作の太刀。
  203. ^ 『桂岌圓覚書』 誰々見候ても常の刀にあらず候。あらみ国行を鹿介持ちたる由内々取沙汰候。
  204. ^ 『老翁物語』より。『桂岌圓覚書』の内容に加え、幸盛が頸にかけた袋の中に「大海のつぼ(茶入れ)」を持っていたこと、及びこれら太刀と茶入れは毛利輝元に献上され「荒身国行の太刀」については輝元が所持したことが記載されている。『陰徳太平記』(巻五十六「山中鹿の助最後の事」)・『後太平記』(巻第四十二「山中鹿之助被誅事」)にも同様の内容が記載。後に輝元から豊臣秀吉に献上されたとされる。
  205. ^ 『享保名物帳』 下巻 「宗近、國近、國俊、國次、長谷部、信國、了戒、當麻、包永、貞宗の部」。
  206. ^ 名将言行録』によれば、尼子十勇士とは、尼子晴久が部下4万人余りの中から選び出した、勇力の優れた10人の人物と記載する。その中でも幸盛を第一とした。
  207. ^ 山中鹿介、立原源太兵衛、熊谷新右衛門の3人。
  208. ^ 雲陽軍実記』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事 より。
  209. ^ a b c 武将感状記』巻の四「山中鹿之助の述懐」。
  210. ^ a b c d e f g h i j k 名将言行録』巻之三 山中幸盛より。
  211. ^ 太閤記』には記載がない。
  212. ^ a b c d e 太閤記』巻十九 山中鹿助伝 より。
  213. ^ 幸盛が最初の兵を切って落とすと、次の兵は馬から降り立ち、3尺5寸の太刀を抜いて向かってきた。幸盛は「やさしのおのこや(けなげな奴だ)」と言って、おがみぎりに切ると、相手は微塵になって谷底へ転がり落ちていった。
  214. ^ 神仏がご覧になっている前で殺生は良くないと思い、寺の住職と相談して盗賊は解放することにしていた。
  215. ^ 『常山紀談』巻十一による
  216. ^ 『耳嚢』巻一による。
  217. ^ 陰徳太平記』より。
  218. ^ 『雲陽軍実記』より。
  219. ^ (原文)「永々被遂牢、殊当城籠城之段無比類候、於向後聊忘却有間敷候、然者何へ成共可有御奉公候 恐々謹言 七月八日 幸盛(花押) 〆進藤勘介殿 山鹿」
  220. ^ 崔元暉、呂栄公の母にも劣らないと記載される。
  221. ^ 陰徳太平記』巻五十六 山中鹿の助最後の事 より。
  222. ^ 元通は以前尼子家に使えていたが、1564年永禄6年)の月山富田城の戦いのときに降伏して、以後毛利氏に従っていた。
  223. ^ 禅僧は「幸盛殿と元通殿は現在敵味方に分かれていますが、幸盛殿は元通殿と旧交忘れがたく、貴殿をなにかと心配しておられます。貴殿がご健在であることをお伝えしますので、この扇に何か一筆お書きください。持ち帰って幸盛殿に見せれば安心なさるでしょう」と言って元通へお願いした。
  224. ^ 意味は「古い枯れた幹ばかりの野に 古くからある柏 その柏のように 以前からの気持ちを忘れてはいません」。古今和歌集 巻第十七 雑歌上886 題知らず よみ人知らず
  225. ^ 『雲陽軍実記』第五巻 神西三郎左衛門再び尼子方一味の事 より。
  226. ^ 『陰徳太平記』巻四十三 神西三郎左衛門志を変する事 より。
  227. ^ 『雲陽軍実記』では昼夜70~80回。『陰徳太平記』では一晩に170~180回厠に通ったと記載。
  228. ^ 『雲陽軍実記』では、厠の透垣(板と板、または竹と竹との間を少し透かしてつくる垣根)を乗り越え、底樋(ため池などの底の水を取水する)の水門を抜けて逃げたと記載。『陰徳太平記』では、 厠の樋を游り(くくり)て逃げ出したと記載。
  229. ^ 『雲陽軍実記』 第五巻 「毛利元就公病死、山中鹿之助偽りて降参、並びに勝久公隠州落ちの事」。
  230. ^ 『陰徳太平記』 巻第四十八 「山中鹿の助出奔 付り 尼子勝久走於隠州に逃之事」。
  231. ^ 勝久は当初、京都の東福寺の僧であった。
  232. ^ 『陰徳太平記』巻五十六 上月城没落 付 勝久自害の事 より。

参考文献

  • 山口県文書館 編修『萩藩閥閲禄 第一巻~第四巻、別巻、遺漏』(マツノ書店 1995年)
  • 東京大学史料編纂所 編纂『大日本古文書-家わけ第九 吉川家文書之一-』(財団法人 東京大学出版会 1997年 覆刻) ISBN 4-13-091091-4
  • 三坂圭治 校注『戦国期 毛利氏史料撰 』(マツノ書店 1987年) 中に『桂岌圓覚書』『老翁物語』を含む)
  • 米原正義 校注『戦国期 中国史料撰』(マツノ書店 1987年) 中に『二宮佐渡覚書』『森脇覚書』を含む)
  • 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第六巻』(早稲田大学出版部 1913年) 中に『後太平記』を含む
  • 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第七巻』(早稲田大学出版部 1913年) 中に『後太平記』を含む
  • 香川景継陰徳太平記 全6冊』米原正義 校注(東洋書院、1980年) ISBN 4-88594-252-7
  • 河本隆政『尼子毛利合戦 雲陽軍実記』勝田勝年 校注(新人物往来社 1978年)
  • 河本隆政『新雲陽軍実記-戦国ロマン広瀬町シリーズ6』(ハーベスト出版、1973年) ISBN 978-4-938184-10-0
  • 小瀬甫庵太閤記-新日本古典文学大系60』檜谷昭彦・江本裕 校注(岩波書店 1996年) ISBN 4-00-240060-3
  • 土肥経平『新釈 備前軍記』柴田一 編著(山陽新聞社 1986年) ISBN 4-88197-598-6
  • 著者不明(中国兵乱記:中島元行)『 新釈 備中兵乱記(中に中国兵乱記を含む)』加原耕作 編著(山陽新聞社 1987年) ISBN 4-88197-517-X
  • 湯浅常山 原著『戦国武将逸話集-注釈『常山紀談』巻一~七』大津雄一・田口寛 訳注(勉誠出版 2010年) ISBN 978-4-585-05441-2
  • 湯浅常山 原著『続 戦国武将逸話集-注釈『常山紀談』巻八~十五』大津雄一・田口寛 訳注(勉誠出版 2011年) ISBN 978-4-585-05442-9
  • 岡谷繁実名将言行録(一)〔全8冊〕』(岩波書店 1943年) ISBN 4-00-331731-9
  • 熊沢猪太郎『武将感状記-智・仁・勇 逸話集』真鍋元之 訳・編(緑樹出版 1991年)
  • 根岸鎮衛耳嚢(上)〔全3冊〕』長谷川強 校注(岩波書店岩波文庫〉、1991年) ISBN 4-00-302611-X
  • 勝海舟『氷川清話』江藤淳・松浦玲 編(講談社 2000年) ISBN 4-06-159463-X
  • 広瀬町教育委員会 編集『尼子氏関係資料調査報告書』(広瀬町教育委員会 2003年)
  • 広瀬町教育委員会 編集『出雲尼子史料集(上巻)(下巻)』(広瀬町教育委員会 2003年)
  • 平原金造監修『ふるさと絵本「井上赳・山中鹿介」』(安来市教育委員会 2012年)
  • 島根縣学務部島根縣史料編纂掛『島根縣史 六』(島根県 1927年)
  • 島根県古代文化センター『戦国大名尼子氏の伝えた古文書-佐々木文書-』(島根県古代文化センター 1999年)
  • 山本浩樹『西国の戦国合戦-戦争の日本史12-』(吉川弘文館 2007年) ISBN 978-4-642-06322-7
  • 鳥取県公立文書館 県史編さん室『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県 2010年)
  • 米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社、1989年) ISBN 4-404-01648-4
  • 妹尾豊三郎『山中鹿介幸盛-戦国ロマン広瀬町シリーズ4』(ハーベスト出版、1971年) ISBN 978-4-938184-07-0
  • 妹尾豊三郎『詩文に表れた月山と幸盛-戦国ロマン広瀬町シリーズ9』(ハーベスト出版、1976年) ISBN 978-4-938184-11-7
  • 依田武勝『山中鹿之助-歴史新発掘-川中島合戦の落し子の生涯』(叢文社 2010年) ISBN 978-4-7947-0648-5

関連項目

先代
山中幸高
山中氏歴代当主
1560年 - 1578年
次代
山中幸元