三日月宗近

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

三日月宗近(みかづきむねちか)は、平安時代に作られたとされる日本刀太刀)である。天下五剣の一つ。日本国宝に指定されている。

国宝指定名称は「太刀 銘三条(名物三日月宗近) 附 糸巻太刀拵鞘(たち めい さんじょう めいぶつみかづきむねちか つけたり いとまきたちこしらえさや)」。

概要[編集]

平安時代の刀工・三条宗近の作で、刀身に鎬と反りのある形式の日本刀としてはもっとも古いものの一つである。「天下五剣」の中でも最も美しいとも評され、「名物中の名物」とも呼び慣わされた。「三日月」の号の由来は、刀身に三日月形の打除け(うちのけ、刃文の一種)が数多くみられることによるものとされる。

制作年代については諸説あるが、古伝書の伝える一条天皇の治世(10世紀末から11世紀初)から12世紀頃の作とみるのが一般的である。

室町時代に編纂された刀剣書である「長享銘盡」には、以下のように記述されている。

三条小鍛治、寛和元<乙酉(きのととり)>御即位御門ヲ一条ノ院ト申、神武ヨリ六十六代也。……後鳥羽院御釼鵜丸造之。少納言入道信西所持ノ釼同。釼名ノ打ヤウ三条宗近トモ打。只三条トモ打。三日月ト云太刀造之。寺丸ト云釼也。又畠山庄次郎重忠太刀三尺一寸造之。又弁慶長刀岩融三尺五寸造之。

このことから、遅くとも室町中期(1489年)には、「三条宗近作の三日月と云う太刀」が人々に知られていたと判断することができる。

刀身・外装[編集]

刃長二(約80.0cm)、反り九分(約2.7cm)。細身で反りが高く(反りが大きい)、踏ん張りの強い(刀身の鍔元の幅が広く、切先の幅が狭く、その差が大きいこと)極めて優美な太刀である。地鉄は小板目肌がよく約(つ)み、ところどころ大肌まじり、地沸が厚くつき、地景入る。刃文は小乱れ主体で小足入り、小沸つき、匂口深く、三日月形の打のけがしきりに入る。中ほどから上は二重刃、三重刃となり、帽子も二重刃となって先は小丸ごころに返る。茎(なかご)は生ぶで雉子股(きじもも)形となる。通常の太刀と異なり、佩表でなく佩裏に銘(「三条」二字銘)を切る[1][2]

以下は引用である。

 俗にいふ『天下五口の太刀』―鬼丸國綱、童子切安綱、三池大傳太、實丸經次のうへに立って、天下随一と稱される名刀が、三日月宗近の一口。三條小鍛冶の名と共に、獨り刀劍の覇を稱へて居りながら、かつて世間に姿を見せたことのない業物である。刀身が二尺六寸四分、氷柱のような秋水の冴え、鮮やかなる燒刄の匂ひ、ともに他の覬覦をゆるさぬ。…(中略)その陽の下を、光芒、水の滴る如くにいよいよ冴えて、歴史と傳説を綴りこんで來た、刀壽千年、その奇しき姿である。…二尺六寸四分の業物、この尖先から少しさがったところに、閃々たる大亂れのうちから、美しき地肌のうへに飾って、利鎌のような三日月の形、恰も亂雲をかって獨り皎々たるたる趣、これがはっきり窺はれるのも、巨匠一代、驚くべき腕の冴えではあるまいか。宗近に三日月の三字を冠らせられたのも、この所以からである。燒刄のほごれといふものゝ、作らんとして作れぬもの。名匠この刀身に、魂を鍛え入れてこそ、始めて求められるものだといふ。…ことに、この三日月宗近の一口に、他の追随をゆるさぬ、それに二つの驚きがある。それはこの刀が千年の歴史を持ちながら、その瑠璃色の如き肌のうへに、一點の汚れと染みもないことである。このやうなことは、全く奇蹟の現はれだといはれている。それからもう一つは、神秘的威厳といってもよいぐらひの、宗近のみが持つ刀の上品さがあることである。 --『日本名寶物語』(讀賣新聞社著、誠文堂出版、1929年)

附属品として金具のいくつかが欠損した金梨地桐紋蒔絵糸巻太刀拵の鞘部分のみが現存しているが、この拵えは安土桃山時代以降に作られたもので、それ以前にどのような拵に収められていたかは不明である。

松平定信によって編纂された『集古十種』には、「河内國愛宕山蔵小鍛治宗近太刀圖」として、総長三尺六寸二分(約109.7cm)、柄長七寸二分(約21.8cm)の黒漆塗(鞘部のみは青漆掛け)黄色糸巻、赤革の帯取に八尺(約242.2cm)の鼠色の太刀緒を通した革包太刀の拵えが記載されており、文献によってはこれが三日月宗近の拵とされていることがあるが、この拵えに収められていたことを確定的に示す史料はない。

伝来[編集]

豊臣秀吉の正室高台院が所持し、その後、寛永元年(1624年)に遺品として徳川秀忠に贈られ、以来徳川将軍家の所蔵となった。

1933年1月23日付で重要文化財(当時の旧国宝)に指定[3]。1951年6月9日付で文化財保護法に基づく国宝に指定されている[4]。 太平洋戦争後に徳川家から金貸しを経て[5]、他の個人所蔵家に渡る[6]1992年平成4年)に当時の所蔵者から東京国立博物館に寄贈され[7]、以後、同館の所蔵となっている。

伝来について[編集]

三日月宗近の伝来については諸説あり、高台院から徳川秀忠に送られる以前の伝来については確定しておらず、確かな史料も少ない。

大永7年(1527年)に権大納言・日野内光が恵勝寺合戦で野死(討死)にした際に、当時“五阿弥切り”とよばれていた三日月宗近で奮戦したとされる。その後、日野内光の菩提を弔うため、友軍だった畑山卜山が三日月宗近を高野山に納めたということが徳川家の記録にあるというが、徳川将軍家の「御腰物台帳」には記されていない。また、畑山卜山とは畠山尚順のことであるが、尚順は内光より五年前、つまり大永2年(1522年)7月17日に病死しているため、卜山による三日月宗近奉納説は成立しないとされている。

また、永禄の変で足利義輝が襲撃してきた三好三人衆松永久秀の軍に対し、将軍家に代々継承される刀を畳に突き刺し奮戦したという俗説が流布されているが、義輝の武勇伝が確認できる史料「足利季世紀」「永祿記」には、利刀を突き刺したとあり名刀とは記されておらず三日月宗近も登場しない[8]

さらに、永禄の変から最も近い時期に記されたフロイスの日本史には「幾多の刀を取り替えて奮戦した」などとは一切書いておらず、「名刀を使用して戦った」という部分から疑問視されるものである。足利義昭から羽柴秀吉に下賜された、という伝来もあるが、こちらも史料による裏付けはない。

尼子氏の家臣で忠義の逸話で知られる山中鹿之介(山中幸盛)が一時佩用してたという伝承、また高台院の従者で似名の「山中鹿之助」なるものが与えられて佩用していたという伝承[9]があるが、伝承の枠を出ない。
鹿之助は三日月を信仰し、武具に三日月を記したといい、現存する鞘には桐と菊の金蒔絵があり、金具にはすべて三日月・雲・桐などの色絵が施されており、鹿之助が佩用していたという伝承が正しいとすれば、この拵えは、鹿之助が作らせたということも考えられる。

なお、江戸時代初期の三日月宗近の押形埋忠家の「埋忠銘鑑」(大正6年(1917年)刊行[10])に記載されているが、それには樋があり、銘も太刀銘で茎の中ほどにあり、目釘孔の位置も、現在“三日月宗近”として東京国立博物館に所蔵されているものと異なっている。この点については、押形の写し間違いか、現存する三日月宗近が徳川家の所蔵していた太刀とは別の太刀であるとも考えられる。

また、昭和四年の時点で実際に三日月宗近を観賞できた者は限られており、当時の所有者であった徳川将軍家十六代家達公をのぞけば、宮内省御用係として御物の管理を任されていた松平頼平氏、他一木宮相、犬養木堂氏、その他一、二人だという[11]

脚注・出典[編集]

  1. ^ 宗近の作は銘を「宗近」と切るものと、「三条」と切るものがあり、前者は御物、後者は三日月宗近のほか、岐阜県南宮大社蔵のものが著名である。
  2. ^ 作風解説は以下の文献による。
    • 『ブック・オブ・ブックス 日本の美術42 甲冑と刀剣』、小学館、1976(解説は佐藤寒山)
    • 『週刊朝日百科 日本の国宝 45』、朝日新聞社、1997(解説は小笠原信夫)
  3. ^ 昭和8年1月23日文部省告示第15号
  4. ^ 昭和27年1月12日文化財保護委員会告示第2号
  5. ^ 矢島忠正『特殊鋼の父渡邊三郎 : その生涯と日本特殊鋼』里文出版、2005年、10章。
  6. ^ 昭和22年4月17日文部省告示第54号
  7. ^ 寄贈年は特別展図録『創立120年記念 日本と東洋の美』(東京国立博物館、1992)に
  8. ^ 義輝が自ら武器を手に取って戦ったことはフロイスの『日本史』、同時代の公家、山科言継の『言継卿記』に記述されているが、永禄の変について言及されている史料の中で義輝が振るった刀が何であるかを特定できる記述はない。「将軍家秘蔵の名刀を用いて戦った」という逸話の大元は、江戸時代後期に頼山陽の著した『日本外史』であるが、文中では「伝家の宝刀十余口」とのみ書かれており、具体的に三日月宗近の名が挙げられているわけではない。更に、上記の通り『日本外史』は江戸時代後期の作であるため、義輝が幾多の名刀を取り替えつつ戦ったという箇所自体の信憑性が極めて薄いものとされる。
  9. ^ 享保名物帳
  10. ^ 初版が大正6年、再訂版が昭和7年、追補改訂版が昭和43年に刊行されている。 もととなったものは慶長から慶安に至る間に、埋忠寿斎・明甫らのもとに、刀の金具製作・磨り上げ・象嵌入れ・彫刻などに来たものの控え帳で刀の押形のほかに、日付・寸尺・折紙の枚数・依頼の用件・細工人などが書き入れてある。 有益な書であるため、江戸期の刀剣人が競って筆写した。中村八太夫が蔵していたものを、ある愛刀家が文政11年に、国別に整理し、題を「埋忠銘鑑」と改め出版した。
  11. ^ 『日本名寶物語』(讀賣新聞社著、誠文堂出版、1929年)

刀剣用語の説明

  • 地沸(じにえ) - 刃文を構成する鋼の粒子が肉眼で1粒1粒見分けられる程度に荒いものを沸(にえ)、1粒1粒見分けられず、ぼうっと霞んだように見えるものを匂(におい)と称する。沸も匂も冶金学上は同じ組織である。沸と同様のものが地の部分に見えるものを地沸と称する。
  • 地景(ちけい) - 地の部分で沸がつらなって線状となり、黒光りして見えるものを指す。同質のものが刃中に現れるものを金筋と称する。
  • 足(あし) - 地と刃の境から刃縁に向かって延びる短い線状のものを足、同様のものが刃中に孤立しているものを葉(よう)という。
  • 匂口(においくち) - 地と刃の境目。これが線状に細く締まっているものを「匂口締まる」と言い、その他作風によって「匂口深い」「匂口冴える」「匂口うるむ」等と表現する。
  • 帽子(ぼうし) - 切先部分の刃文のことで、流派や刀工の個性が現れやすく、鑑賞、鑑定上も見所となる。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]