岩倉城 (伯耆国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
logo
岩倉城
鳥取県
二の郭跡
二の郭跡
別名 岩倉山城
築城主 小鴨元兼
主な城主 小鴨氏
廃城年 慶長5年

岩倉城(いわくらじょう)は、鳥取県倉吉市岩倉にある中世の日本の城山城跡)跡。標高247mの岩倉山に所在し、岩倉山城とも記される。

概要[編集]

鎌倉時代に小鴨氏により築城され、小鴨氏歴代の居城と伝わる。小鴨氏は少なくとも平安時代末期にまでさかのぼる一族であり、古代は伯耆国衙の在庁官人を務め、「介」を名乗る家柄であった。鎌倉・室町と代々守護代を務め、室町時代には守護山名氏の下で重用されたが、山名氏衰退と同時に勢力も衰えていった。

大永4年(1524年)、尼子氏の伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)により落城。(但し、五月崩れの存在は現在では否定されている)永禄5年(1562年)、毛利氏を頼った小鴨氏は旧領を回復し、南条氏の家臣団に組み込まれた。その前後に南条宗勝の二男・南条元清が家督を継承したとみられる。

しかし天正7年(1579年)小鴨元清は実兄の南条元続らと共に毛利氏を離反し織田氏に帰属。毛利氏は吉川元長を派遣し、圧倒的な軍勢をもって岩倉城に攻撃をしかけたが、南条氏らの協力を得てこれを退けた。しかし、毛利氏の包囲は狭められ、攻撃も一段と激しくなり、天正10年(1582年)9月~10月にかけて落城した。城主・小鴨元清は南条元続らと京都もしくは播州に逃れたとされる。

天正12年(1584年)頃にかけて所謂京芸和睦により、城を回復したと見られるが、その後の詳細は不明である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで主家の南条氏が西軍に属し、改易されたことにより廃城となった。

伯耆民諺記』によると永禄12年(1569年尼子勝久ら尼子再興軍に、天正8年(1580年)吉川元春に、同10年(1582年)吉川元長に攻められる、激戦地となった。

中村一忠米子城時代に廃城となり、城下の人たちが米子に移住したところが岩倉町である。

関連項目[編集]