立原久綱

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立原久綱
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 享禄4年(1531年)?
死没 慶長18年4月26日1613年6月14日
別名 通称:源太兵衛尉
戒名 節山院珠榮全忠居士
墓所 島根県松江市東津田の長源寺
島根県安来市伯太町粕原地区
島根県雲南市加茂町立原地区
主君 尼子晴久義久勝久
氏族 清和源氏飯沼氏立原氏
父母 父:立原幸綱(綱重?)あるいは福屋兼雄
兄弟 幸隆久綱、なみ(山中満幸室)
正室:福屋隆兼あるいは加藤経盛
充忠里村隆兼室、
養子:里村隆兼?
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立原 久綱(たちはら ひさつな)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将尼子氏の家臣。尼子三傑の1人。山中幸盛の叔父にあたり、尼子義久の参謀として毛利元就との戦いでは活躍した。

生涯[編集]

立原氏は尼子氏の直臣にあたり、久綱も奉行衆として尼子晴久の発給文書に連署している。

立原幸綱[1]の子として誕生。永禄6年(1563年白鹿城を攻めた毛利氏に対し、主君・尼子義久は9月23日に弟・倫久を大将として亀井秀綱以下1万余を白鹿城の後詰に送った。義久の近習衆筆頭格であった久綱は、積極的救援策を主張するも、大身家老達に圧されて受け要られなかった。馬潟原[2]に陣を引いた後詰軍は、大橋川を渡り和久羅付近まで進出したものの撃退されてしまう。撤退する際、久綱と山中幸盛は殿として追撃する毛利軍に著しい損害を与えて、倫久を富田まで逃げ延びさせる事に成功する。永禄8年(1565年)、月山富田城の攻防戦では尼子倫久麾下に、山中鹿介・秋上宗信と共に塩谷口を守った。翌永禄9年(1566年) 月山富田城が落城した際は、降伏申しでの使者として交渉。その水際立った対応に依り、毛利氏より2,000貫で仕官を誘われたが断り京へ隠棲した。

後に幸盛・神西元通らと共に、尼子一族の尼子勝久を擁して尼子氏再興に尽力する。永禄12年9月(1569年10月)の美保関の合戦では、敵側の隠岐為清の軍勢が尼子再興軍を窮地に陥れた際、自刃を判断した山中幸盛を励まし態勢を挽回させた。織田信長に援助を請うため上洛した際は、「立原は男も良きが、立振舞も尋常なり」と評されて「貞宗の太刀」を与えられた。特に尼子氏が織田信長と手を結ぶ事ができたのは久綱の功績によるものである。尼子再興軍は秀吉の中国征伐軍に組み込まれる。天正5年(1577年)に上月城を毛利方より奪還、久綱ら復興軍は上月城を拠点とする。天正6年(1578年)、織田配下の秀吉の方針に不満をもった別所長治の離反による三木合戦に秀吉が兵を割かなければならなくなる。隙をついて毛利3万の軍が上月城に進軍、秀吉は三木合戦を継続しながら、上月城に援軍を送ろうとするが、信長は、三木合戦へ援軍を送る決定を下す、秀吉の再三による尼子再興軍への援軍嘆願も、信長は却下する。毛利軍による兵糧攻めで上月城が落城し尼子勝久や幸盛が死に、尼子氏の再興が絶たれると、自身も毛利軍の捕虜となるが、「病を理由に回復したら処分を下す」との配慮で毛利軍の監視下に置かれるが脱走。上洛し蜂須賀氏の下にいた娘婿(岳父とも)の福屋隆兼を頼り、阿波国渭津に居住した。慶長18年(1613年)4月26日に83歳で世を去っている。

徳島藩には、藩士それぞれの家系や由緒を記載した『蜂須賀家家臣団家譜史料』が残っているが、その系譜から福屋(里村)隆兼の父親が立原源太兵衛尉久綱となっており、「実の親子関係である」とする旨の記載となっている。この点は尼子側の書籍等が記載している両者の関係が「娘婿」また「義理の父親」であるとする関係が全く異なっている。久綱の出自に関しても、福屋宮内少輔兼雄(福屋宮内少輔慶兼か?)の子と記載しており、本姓を福屋としていたが、尼子義久から立原姓を賜り立原と称したとしている。

後裔に島根県知事を務めた恒松制治がいる。

脚注[編集]

  1. ^ あるいは福屋兼雄
  2. ^ 現在の松江市東津田町及び馬潟町周辺。
先代:
福屋兼雄
福屋氏歴代当主
? - ?
次代:
福屋隆兼