「キケ・サンチェス・フローレス」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
36行目: | 36行目: | ||
;バレンシア |
;バレンシア |
||
ヘタフェでの手腕を買われ、2005-06シーズンより古巣バレンシアの監督に就任。就任初年度からリーグ戦を3位で終え、[[UEFAチャンピオンズリーグ|チャンピオンズリーグ(CL)]]の出場権を確保した。翌2006-07シーズンは多くの怪我人を抱えながらも、国内リーグでCL出場圏内の4位確保に成功。CLでは[[ASローマ]]を抑えてグループリーグを首位通過すると、決勝トーナメント1回戦で[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]を撃破。準々決勝で[[チェルシーFC]]に敗れたものの、ベスト8の成績を残した。3年目のシーズンは開幕戦で |
ヘタフェでの手腕を買われ、2005-06シーズンより古巣バレンシアの監督に就任。就任初年度からリーグ戦を3位で終え、[[UEFAチャンピオンズリーグ|チャンピオンズリーグ(CL)]]の出場権を確保した。翌2006-07シーズンは多くの怪我人を抱えながらも、国内リーグでCL出場圏内の4位確保に成功。CLでは[[ASローマ]]を抑えてグループリーグを首位通過すると、決勝トーナメント1回戦で[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]を撃破。準々決勝で[[チェルシーFC]]に敗れたものの、ベスト8の成績を残した。3年目のシーズンは開幕戦で黒星を喫すると低迷し、第9節の[[セビージャFC]]戦に0-3で敗れた後に解任された。 |
||
;ベンフィカ |
;ベンフィカ |
||
2008-09シーズン、[[ホセ・アントニオ・カマーチョ]]の後任として[[ベンフィカ]]の監督に就任<ref>[http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/portgul/2395506/2963340 ベンフィカ キケ・フローレス氏の監督就任を発表]</ref>。開幕前には[[ホセ・アントニオ・レジェス]]や[[パブロ・アイマール]]を獲得する大型補強を敢行した。リーグ戦では年を越すまで無敗を続けたものの、後半に失速。最終順位は3位で翌シーズンのCL出場権を逃した。また、[[UEFAカップ]]ではグループリーグ最下位に終わった。契約期間はあと一年残っていたものの、シーズン終了後に双方合意のもとで契約を解除した<ref>[http://jp.uefa.com/news/newsid=836925.html ベンフィカのサンチェス・フローレス監督が退団]</ref>。 |
|||
;アトレティコ・マドリード |
;アトレティコ・マドリード |
||
[[2009年]]10月、シーズン途中に[[アトレティコ・マドリード]]の監督 |
[[2009年]]10月、シーズン途中に[[アトレティコ・マドリード]]の監督に就任。深刻な不振に陥っていたチームを7ヶ月間で建て直した<ref>[http://jp.uefa.com/uefaeuropaleague/news/newsid=1486224.html 優勝だけを見据えるキケ・フローレス監督]</ref>。リーグ戦は9位に終わったものの、[[UEFAヨーロッパリーグ 2009-10|ヨーロッパリーグ]]で優勝、[[コパ・デル・レイ]]では準優勝を果たした。シーズン終了後には1年間の契約延長に合意した<ref>[http://jp.uefa.com/uefaeuropaleague/news/newsid=1492588.html アトレティコ、フローレス監督と契約延長]</ref>。 |
||
翌2010-11シーズンは、8月に行われた[[UEFAスーパーカップ]]で[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]を破り優勝<ref>[http://www.soccer-king.jp/news/spain/article/id=3667 キケ・フローレス「選手たちを称賛したい」]</ref>。幸先のよいスタートを切ったものの、エースFWの[[ディエゴ・フォルラン]]との確執が度々報じられ<ref>[http://www.goal.com/jp/news/73/スペイン/2011/05/13/2483662/キケフォルランのことは複雑な問題 キケ:「フォルランのことは複雑な問題」]</ref><ref>[http://www.goal.com/jp/news/73/スペイン/2011/05/15/2487484/キケ確執が取りざたされるフォルランを招集外に キケ、確執が取りざたされるフォルランを招集外に]</ref>、チーム状態が悪化。リーグ戦は7位に終わり、ヨーロッパリーグでもグループステージで敗退。シーズン終了と同時に辞任した。 |
翌2010-11シーズンは、8月に行われた[[UEFAスーパーカップ]]で[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]を破り優勝<ref>[http://www.soccer-king.jp/news/spain/article/id=3667 キケ・フローレス「選手たちを称賛したい」]</ref>。幸先のよいスタートを切ったものの、エースFWの[[ディエゴ・フォルラン]]との確執が度々報じられ<ref>[http://www.goal.com/jp/news/73/スペイン/2011/05/13/2483662/キケフォルランのことは複雑な問題 キケ:「フォルランのことは複雑な問題」]</ref><ref>[http://www.goal.com/jp/news/73/スペイン/2011/05/15/2487484/キケ確執が取りざたされるフォルランを招集外に キケ、確執が取りざたされるフォルランを招集外に]</ref>、チーム状態が悪化。リーグ戦は7位に終わり、ヨーロッパリーグでもグループステージで敗退。シーズン終了と同時に辞任した。 |
||
== |
== 指導方針 == |
||
特に組織戦術に重きを置くタイプの監督である。バレンシア時代は全体をコンパクトに保ったうえで、ボールを奪った後は素早いカウンターを仕掛ける、堅守速攻のサッカーを志向した<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/12182?page=3 キケ・フローレス 「戦術を語るには2日かかる」page 3]</ref>。また、この戦術をチームに浸透させるため、視聴覚室を新設し、ここでのミーティングを頻繁に行った<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/12182 キケ・フローレス 「戦術を語るには2日かかる」page 1]</ref>。 |
|||
{{スポーツ選手の出典明記|選手=監督|戦術|section=1|date=2011年6月}} |
|||
ヘタフェ、バレンシアを指揮した際は、選手の特長を生かし、前線からの組織的なプレスと統率の取れたライン・コントロールによる守備を重視したスタイルを用いた。バレンシアでは視聴覚室を新設し、映像による戦術確認を徹底した。アトレティコでも守備組織の構築を徹底し、[[ダビド・デ・ヘア]]、[[アルバロ・ドミンゲス]]などの若手を積極的に抜擢している。 |
|||
一方で、選手が犯すミスには厳しく、罰として招集メンバーから外すこともあった<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/1464484/ キケ・フローレス監督「ミスを罰する時が来た」]</ref>。 |
|||
守備面ではイタリアの[[アリゴ・サッキ]]、攻撃面ではオランダやフランスのスタイルに影響を受けたようである。 |
|||
== |
== 家族 == |
||
父親の[[イシドロ・サンチェス]] |
* 父親の[[イシドロ・サンチェス]]は[[1960年代]]に黄金期の[[レアル・マドリード]]でプレーした元サッカー選手。 |
||
* 有名な[[フラメンコ]]の踊り手で[[女優]]の[[ロラ・フローレス]]は叔母にあたる。 |
|||
== 選手歴 == |
== 選手歴 == |
2011年9月16日 (金) 10:46時点における版
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
本名 | エンリケ・サンチェス・フローレス | |||||
ラテン文字 | Enrique Sánchez Flores | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | スペイン | |||||
生年月日 | 1965年2月2日(59歳) | |||||
出身地 | マドリード | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
代表歴 | ||||||
1987-1991 | スペイン | 15 (0) | ||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
エンリケ・サンチェス・フローレス(Enrique Sánchez Flores , 1965年2月2日 - )は、スペインのマドリード出身のサッカー指導者、元サッカー選手。現役時代のポジションはDF。
経歴
選手時代
右サイドバックとして、バレンシアCF、レアル・マドリード、およびレアル・サラゴサでプレー。バレンシアではキャリアの大半となる10シーズンを過ごし、2シーズンを過ごしたレアル・マドリードではリーガ・エスパニョーラ制覇を経験した。
スペイン代表としても15試合に出場し、1990年のワールドカップ・イタリア大会のメンバーにも選出された。
監督時代
- キャリア初期
レアル・マドリードの下部組織で指導者としてのキャリアをスタート。2004-05シーズンに1部リーグ初昇格のヘタフェCFの監督に招聘されると、降格候補の筆頭格に挙げられていたクラブを13位に導き、1部リーグ残留を果たした。
- バレンシア
ヘタフェでの手腕を買われ、2005-06シーズンより古巣バレンシアの監督に就任。就任初年度からリーグ戦を3位で終え、チャンピオンズリーグ(CL)の出場権を確保した。翌2006-07シーズンは多くの怪我人を抱えながらも、国内リーグでCL出場圏内の4位確保に成功。CLではASローマを抑えてグループリーグを首位通過すると、決勝トーナメント1回戦でインテルを撃破。準々決勝でチェルシーFCに敗れたものの、ベスト8の成績を残した。3年目のシーズンは開幕戦で黒星を喫すると低迷し、第9節のセビージャFC戦に0-3で敗れた後に解任された。
- ベンフィカ
2008-09シーズン、ホセ・アントニオ・カマーチョの後任としてベンフィカの監督に就任[1]。開幕前にはホセ・アントニオ・レジェスやパブロ・アイマールを獲得する大型補強を敢行した。リーグ戦では年を越すまで無敗を続けたものの、後半に失速。最終順位は3位で翌シーズンのCL出場権を逃した。また、UEFAカップではグループリーグ最下位に終わった。契約期間はあと一年残っていたものの、シーズン終了後に双方合意のもとで契約を解除した[2]。
- アトレティコ・マドリード
2009年10月、シーズン途中にアトレティコ・マドリードの監督に就任。深刻な不振に陥っていたチームを7ヶ月間で建て直した[3]。リーグ戦は9位に終わったものの、ヨーロッパリーグで優勝、コパ・デル・レイでは準優勝を果たした。シーズン終了後には1年間の契約延長に合意した[4]。
翌2010-11シーズンは、8月に行われたUEFAスーパーカップでインテルを破り優勝[5]。幸先のよいスタートを切ったものの、エースFWのディエゴ・フォルランとの確執が度々報じられ[6][7]、チーム状態が悪化。リーグ戦は7位に終わり、ヨーロッパリーグでもグループステージで敗退。シーズン終了と同時に辞任した。
指導方針
特に組織戦術に重きを置くタイプの監督である。バレンシア時代は全体をコンパクトに保ったうえで、ボールを奪った後は素早いカウンターを仕掛ける、堅守速攻のサッカーを志向した[8]。また、この戦術をチームに浸透させるため、視聴覚室を新設し、ここでのミーティングを頻繁に行った[9]。
一方で、選手が犯すミスには厳しく、罰として招集メンバーから外すこともあった[10]。
家族
選手歴
指導歴
- ヘタフェCF 2004 - 2005
- バレンシアCF 2005 - 2007
- ベンフィカ 2008 - 2009
- アトレティコ・マドリード 2009 - 2011
獲得タイトル
選手として
- バレンシアCF:
- セグンダ・ディビシオン: 1986-87
- レアル・マドリード:
- リーガ・エスパニョーラ: 1994-95
監督として
- アトレティコ・マドリード:
- UEFAヨーロッパリーグ: 2009-10
- UEFAスーパーカップ: 2010
- コパ・デル・レイ: 準優勝 2009-10
監督としての成績
2011年5月21日現在
Team | Nat | From | To | Record | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
G | W | D | L | GF | GA | +/− | Win % | ||||
バレンシアCF | 2005年5月31日 | 2007年10月29日 | 110 | 57 | 24 | 29 | 169 | 111 | +58 | 51.82 | |
ベンフィカ | 2008年5月24日 | 2009年6月8日 | 44 | 25 | 9 | 10 | 73 | 47 | +26 | 56.82 | |
アトレティコ・マドリード | 2009年10月23日 | 2011年5月22日 | 102 | 42 | 23 | 37 | 164 | 135 | +29 | 41.18 |