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浅見俊雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浅見 俊雄
名前
カタカナ アサミ トシオ
ラテン文字 ASAMI Toshio
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1933-10-03) 1933年10月3日(91歳)
出身地 埼玉県浦和市(現さいたま市
選手情報
ポジション HB
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

浅見 俊雄(あさみ としお、1933年10月3日 - )は、日本の元サッカー審判員、元サッカー選手、元サッカー指導者東京大学日本体育大学名誉教授。元国立スポーツ科学センター長、日本サッカー協会顧問、アジアサッカー連盟規律委員会副委員長。

略歴

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埼玉県浦和市(現さいたま市)出身。東京大学教育学部体育学科卒業。選手時代のポジションはハーフバック[1]埼玉県立浦和高等学校2年次の1950年に国民体育大会準優勝、3年次の1951年に高校選手権、国体、関東大会の三冠に貢献した[2]。また同年には公式戦28試合、練習試合24試合の合計52試合無敗の記録を残した[3]。その後、東京大学に進学し運動会ア式蹴球部に所属。1952年度(1953年1月)第1回大学選手権にて優勝。4年次には主将を務めた。

23歳で審判資格を取得し審判員の道へ進む。東京大学教養学部教授を務める傍ら、日本サッカー協会1級審判員、FIFA国際審判員として数多くの試合の主審を務めた。また1964年東京オリンピックではグループリーグのイランvsメキシコ戦で副審を務めている[4][5]

1994年に東京大学を定年退官後はJリーグ審判委員長、Jリーグ常勤理事、日本体育大学教授、国立スポーツ科学センター初代センター長(2001年から2004年)、文部科学省中央教育審議会委員(第1期、第2期)を歴任した。

2004年、秩父宮記念スポーツ医・科学賞受賞。

2008年には、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場の将来を検討する文部科学省の「調査研究協力者会議」で代表を務めた[6]

2010年8月17日日本サッカー殿堂入りが発表された[7][8]

2013年5月3日アジアサッカー連盟のAFC功労賞ゴールドスターアワードを受賞した[9]

2016年4月、瑞宝小綬章

選手歴

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指導歴

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  • 埼玉県立浦和高等学校 コーチ
  • 1964年 日本ユース代表 監督
  • 1967年-1975年 東京大学 監督 

審判歴

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主な著書

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  • 『サッカー』ベースボール・マガジン社、1960年(※竹腰重丸、田中純二との共著)
  • 『身体運動学概論』大修館書店、1976年10月20日。NDLJP:12133054 
  • 『詳解サッカーのルール : ルールの解説と審判法』大修館書店、1984年2月1日。NDLJP:12172758 
  • 『現代体育・スポーツ大系』講談社、1984年
  • 『人間と身体運動 - 体育・スポーツ科学のあしたをみつめて』杏林書院、1984年
  • 『スポーツの科学 - よりうまく強く楽しく』東京大学出版会、1987年
  • 『詳解サッカーのルールと審判法―新ルールの解説と審判法』大修館書店、1992年
  • 『子どもの健康とスポーツ』 医歯薬出版、1996年(※村田光範、大槻文夫との共著)
  • 『詳解サッカーのルールと審判法』大修館書店、2002年
  • 『サッカーレフェリーズ 2007/2008』日本サッカー審判協会、2007年

脚注

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  1. ^ 現在のミッドフィールダー
  2. ^ 同期に倉持守三郎(元浦和高校サッカー部監督)、2年下に轡田隆史がいる。
  3. ^ 全国高等学校体育連盟『高校サッカー60年史』講談社
  4. ^ Iran - Mexico Match Report FIFA Olympic Football Tournament TOKYO 1964
  5. ^ (東京五輪物語)サッカー 落とし穴、前代未聞の珍事 朝日新聞 2014年11月1日閲覧
  6. ^ 国立競技場の本格的改修を検討、文部科学省 - ケンプラッツ、2008年6月3日
  7. ^ 日本サッカー協会 (2010年). “第7回日本サッカー殿堂 掲額者”. 2010年8月23日閲覧。
  8. ^ 日本サッカー協会 (2010年). “浅見俊雄” (PDF). 2010年8月23日閲覧。
  9. ^ AFC功労賞にJFA浅見俊雄顧問ら3人”. 日本サッカー協会 (2013年5月10日). 2013年5月11日閲覧。