武井守正
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武井 守正(たけい もりまさ、天保13年3月25日(1842年5月5日) - 1926年(大正15年)12月4日)は日本の武士(姫路藩士)、政治家、実業家。幼名寅三。鳥取県再置後第2代知事。男爵。作曲家武井守成の父。
経歴
[編集]父は姫路藩士・武井領八。藩校好古堂に学び安政4年(1857年)専業生に抜擢され、京都の宮原潜叟に儒学を、大坂の萩原広道に国学を学ぶ。
帰藩後好古堂授読を命ぜられたが、勤王派に加盟、国事に奔走。 1864年(元治元年)に脱藩を企てたことが露見して永牢の身となる。王政復古を受けて約5年後に釈放、自宅謹慎となる[1]。その後、新政府に出仕。白石県権知事、平県権令などを歴任、内務省・農商務省各局長などを経て1888年(明治21年)10月鳥取県知事となり、1891年(明治24年)4月まで在任。明治25年(1892年)1月21日石川県知事に任命されたが、2月2日依願免官となる。明治24年(1891年)12月22日、貴族院勅選議員に任ぜられ[2]、1923年(大正12年)7月12日、枢密顧問官に転じ[3]、同月23日に貴族院議員を辞職した[4]。
1893年(明治26年)から実業界に転じ帝国海上保険、日本商業銀行、明治商業銀行などを創立し役員となった。1907年(明治40年)男爵を授けられた。1909年(明治42年)11月21日、錦鶏間祗候に任じられた[5]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9]
- 1903年(明治36年)12月14日 - 旭日小綬章[10]
- 1907年(明治40年)9月23日 - 男爵[11]
- 1926年(大正15年)12月4日 - 帝都復興記念章[12]
系譜
[編集]- 武井家
武井領八━━武井守正━━武井守成
- 父・武井領八 - 姫路藩士
- 妻・ふじ - 住友喜三郎長女[13]
- 次男・武井守成
- 娘・和(1877年生) - 牧野鑑造(早稲田大学教授)の妻[13]
- 娘・とし(1881年生) - 箕田長三郞の妻[14]。長三郞は、横浜市会議員、横浜七十四銀行副頭取も務めた横浜の大手美術商・箕田長次郞の子で家業を継いだ[15]
- 娘・みづゑ(1886年生) - 小幡酉吉の妻[13]
- 娘・富子(1904年生) - 女子学習院卒。北畠義郎の妻[13]
その他
[編集]鳥取県民に好感をもたれ、離任に際し県民の留任運動が起きている。
脚注
[編集]- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、324頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『官報』第2546号、明治24年12月23日。
- ^ 『官報』第3286号、大正12年7月13日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、31頁。
- ^ 『官報』第7950号、明治42年12月22日。
- ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
- ^ 『官報』第2112号「叙任及辞令」1890年7月15日。
- ^ 『官報』第1252号「叙任及辞令」1916年10月2日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ 『官報』第6138号「叙任及辞令」1903年12月16日。
- ^ 『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ a b c d 武井守成『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 箕田長三郞『人事興信録』第8版 昭和3(1928)年7月
- ^ ウォルターズ美術館所蔵のフィラデルフィア万国博覧会における日本の出品物の概要 坂本久子、近畿大学九州短期大学研究紀要,36,1-15 (2006-12-01).
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 545頁
- 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 新人物往来社 2003年 411頁
関連項目
[編集]外部リンク
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日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 武井(守正)家初代 1907年 - 1926年 |
次代 武井守成 |