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デビュー戦のマスクは雑な作りの粗悪なもので、マントもまるでシーツのような物であった。佐山自身は物理的な羞恥の他にも、漫画の世界を現実に持ち込むことは「新日本プロレスで浮いた存在」になるのではないかと懸念していたが、数々のオリジナルムーブとフィニッシュのジャーマンスープレックス・ホールドでデビュー戦にして人気をさらった。
デビュー戦のマスクは雑な作りの粗悪なもので、マントもまるでシーツのような物であった。佐山自身は物理的な羞恥の他にも、漫画の世界を現実に持ち込むことは「新日本プロレスで浮いた存在」になるのではないかと懸念していたが、数々のオリジナルムーブとフィニッシュのジャーマンスープレックス・ホールドでデビュー戦にして人気をさらった。
  新日本プロレス伝統の[[ストロングスタイル]]をベースに、全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培った[[ルチャリブレ]](メキシコ式プロレス)の空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。佐山自身はそのファイトスタイルは、実況の[[古舘伊知郎]]によって「'''四次元プロレス'''」、「'''四次元殺法'''」と形容された。この時期の代表的な好敵手として、ダイナマイト・キッド、[[マーク・ロコ|ブラック・タイガー]]、[[スティーブ・ライト]]、[[小林邦昭]]などが挙げられる。また、[[アントニオ猪木]]や[[藤波辰爾|藤波辰巳]]と組んでの6人タッグマッチにも出場し、[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]、[[ビル・イーディー|マスクド・スーパースター]]、[[ドン・ムラコ]]などヘビー級の外国人選手とも対戦した。
新日本プロレス伝統の[[ストロングスタイル]]をベースに、全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培った[[ルチャリブレ]](メキシコ式プロレス)の空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。佐山自身はそのファイトスタイルは、実況の[[古舘伊知郎]]によって「'''四次元プロレス'''」、「'''四次元殺法'''」と形容された。この時期の代表的な好敵手として、ダイナマイト・キッド、[[マーク・ロコ|ブラック・タイガー]]、[[スティーブ・ライト]]、[[小林邦昭]]などが挙げられる。また、[[アントニオ猪木]]や[[藤波辰爾|藤波辰巳]]と組んでの6人タッグマッチにも出場し、[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]、[[ビル・イーディー|マスクド・スーパースター]]、[[ドン・ムラコ]]などヘビー級の外国人選手とも対戦した。


タイガーマスクの試合を中継した『[[ワールドプロレスリング]]』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。子供たちの間では、新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していたが、新日本プロレスでの活動には突然終止符が打たれた。[[1983年]]8月4日に奇しくもデビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた[[寺西勇]]戦終了後の8月10日、新日本プロレスに契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言。その直後、テレビ朝日系のバラエティ番組『[[欽ちゃんのどこまでやるの!?]]』にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。
タイガーマスクの試合を中継した『[[ワールドプロレスリング]]』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。子供たちの間では、新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していたが、新日本プロレスでの活動には突然終止符が打たれた。[[1983年]]8月4日に奇しくもデビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた[[寺西勇]]戦終了後の8月10日、新日本プロレスに契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言。その直後、テレビ朝日系のバラエティ番組『[[欽ちゃんのどこまでやるの!?]]』にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。
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* [[修斗|シューティング]]創設期、91年の夏合宿の様子がテレビ番組で放送されたことがある。プロレスを芝居と称して(後述)真剣勝負を謳っていた同団体のイメージに違わず、佐山が弟子を「本気で蹴っていない」という理由で[[竹刀]]で滅多打ちにし、流血する弟子が出るなど、厳しい練習風景が撮られている。途中、カメラマンが「こんなところを撮るな」と恫喝されており、真剣味ある映像となっていた。しかしその一方で、強く打たなくても大きな音が出るよう中結を外した竹刀を使う(これは折れやすかったため、後に木刀になった)、恫喝されたカメラの映像が派手な効果音と共に途切れる、随所に佐山の音声解説が入る、等々、若干ヤラセ色も感じられるものとなっている。これについて、後に佐山は「テレビ演出のためいつもより厳しく叱咤し折檻した」と語っている{{要出典|date=2009年12月}}。
* [[修斗|シューティング]]創設期、91年の夏合宿の様子がテレビ番組で放送されたことがある。プロレスを芝居と称して(後述)真剣勝負を謳っていた同団体のイメージに違わず、佐山が弟子を「本気で蹴っていない」という理由で[[竹刀]]で滅多打ちにし、流血する弟子が出るなど、厳しい練習風景が撮られている。途中、カメラマンが「こんなところを撮るな」と恫喝されており、真剣味ある映像となっていた。しかしその一方で、強く打たなくても大きな音が出るよう中結を外した竹刀を使う(これは折れやすかったため、後に木刀になった)、恫喝されたカメラの映像が派手な効果音と共に途切れる、随所に佐山の音声解説が入る、等々、若干ヤラセ色も感じられるものとなっている。これについて、後に佐山は「テレビ演出のためいつもより厳しく叱咤し折檻した」と語っている{{要出典|date=2009年12月}}。
* 格闘技界に幅広い人脈を持ち、特に[[キックボクシング]]の[[藤原敏男]]は新日本時代からの親友。藤原主宰興行[[藤原祭り]]では[[タッグマッチ]]も行っている。
* 格闘技界に幅広い人脈を持ち、特に[[キックボクシング]]の[[藤原敏男]]は新日本時代からの親友。藤原主宰興行[[藤原祭り]]では[[タッグマッチ]]も行っている。
* [[UWF|第1次UWF]]退団時、[[ターザン山本]]と共に[[ケーフェイ (著書)|ケーフェイ]]というプロレス本を出版、プロレスの試合において必殺技として使用されている[[ラリアット|ウエスタン・ラリアット]]、[[延髄斬り]]といった技は、対戦相手の協力なくしては半永久的に成立しないことを暴露した。また、[[前田日明]]らが創設した第2次UWFについても、月刊誌フルコンタクトKARATEやミニコミ誌格闘技探検隊」からのインタビューに答える形で、既存のプロレスの範疇を越えるものではなく、本物の格闘技でありスポーツでもあるシューティングとは根本的に異なるものと明言した。これらが原因となり、一時期プロレス界とは絶縁状態にあった。また、[[修斗]]の主宰者時代、その試合場で新日本プロレスでの獣神サンダー・ライガー戦(実質的なプロレスマット復帰戦)を指し「新日本で試合を、いや、芝居をしてきました」と発言し、プロレスファンを怒らせたことがある(エキシビションマッチだったのだから、その通りなのだが)。[[安生洋二]]とタッグを組んで奪取した、[[新東京プロレス|東京プロレス]]の「3億円ベルト」の行方に関しても、「知らぬフリ」を決め込むという金銭疑惑も浮上している。
* [[UWF|第1次UWF]]退団時、[[ターザン山本]]と共に[[ケーフェイ (著書)|ケーフェイ]]というプロレス本を出版、プロレスの試合において必殺技として使用されている[[ラリアット|ウエスタン・ラリアット]]、[[延髄斬り]]といった技は、対戦相手の協力なくしては半永久的に成立しないことを暴露した。また、月刊誌フルコンタクトKARATEやミニコミ誌格闘技探検隊のインタビューに答える形で、[[前田日明]]らが創設した第2次UWFについても既存のプロレスの範疇を越えるものではなく、本物の格闘技でありスポーツでもあるシューティングとは根本的に異なるものと明言した。これらが原因となり、一時期プロレス界とは絶縁状態にあった。また、[[修斗]]の主宰者時代、その試合場で新日本プロレスでの獣神サンダー・ライガー戦(実質的なプロレスマット復帰戦)を指し「新日本で試合を、いや、芝居をしてきました」と発言し、プロレスファンを怒らせたことがある(エキシビションマッチだったのだから、その通りという解釈もあり得る)。[[安生洋二]]とタッグを組んで奪取した、[[新東京プロレス|東京プロレス]]の「3億円ベルト」の行方に関しても、「知らぬフリ」を決め込むという金銭疑惑も浮上している。
* UWF特有のシューティングという闘技スタイルが猪木の門下レスラーでカール・ゴッチに感化された佐山、前田、高田の三名によって創始されたことは否定しようのない事実であるが、佐山がその技術的な中軸であった。
* UWF特有のシューティングという闘技スタイルが猪木の門下レスラーでカール・ゴッチに感化された佐山、前田、高田の三名によって創始されたことは否定しようのない事実であるが、佐山がその技術的な中軸であった。
* 「大根役者だから」と本人はあまり語りたがらないが、何本か映画に出演している。[[真樹日佐夫]]原作の「六本木ソルジャー」では主演を務め、「真説・タイガーマスク」では[[船木誠勝]]と共演した。また、「[[ラストサムライ]]」のオーディションに合格していたが、「拘束時間が長いから」という理由で辞退している。
* 「大根役者だから」と本人はあまり語りたがらないが、何本か映画に出演している。[[真樹日佐夫]]原作の「六本木ソルジャー」では主演を務め、「真説・タイガーマスク」では[[船木誠勝]]と共演した。また、「[[ラストサムライ]]」のオーディションに合格していたが、「拘束時間が長いから」という理由で辞退している。

2011年8月10日 (水) 15:11時点における版

佐山聡
プロフィール
リングネーム 初代タイガーマスク
佐山聡
佐山サトル
サミー・リー
ザ・タイガー
スーパータイガー
タイガーキング
ザ・マスク・オブ・タイガー
本名 佐山聡
ニックネーム 四次元殺法
伝説の虎
天才
身長 173cm
体重 98kg
誕生日 (1957-11-27) 1957年11月27日(66歳)
出身地 山口県下関市
所属 リアルジャパンプロレス
スポーツ歴 柔道
レスリング
キックボクシング
トレーナー アントニオ猪木
山本小鉄
藤原喜明
カール・ゴッチ
デビュー 1976年5月28日
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佐山 聡(さやま さとる、男性、1957年11月27日 - )は、日本プロレスラーおよび総合格闘技・シューティング(現・修斗)の創設者、掣圏真陰流興義館総監。山口県下関市出身。

覆面レスラー初代タイガーマスクとしてプロレス界で活動。その後は、総合格闘技団体・シューティングを創設した。佐山サトル名義でも活動している。

来歴

新日本プロレス若手時代

中学生(下関市立長府中学校)時代にレスリング柔道の格闘技を始め、その後山口県立水産高等学校に入学するが、1年で中退して1975年7月に新日本プロレスに入門、1976年5月28日に魁勝司戦でデビュー。

1977年11月14日に行われた梶原一騎主催の「格闘技大戦争」で、全米プロ空手ミドル級第一位のマーク・コステロと両者ボクシンググローブ着用・統一ルールの下、対戦した。目白ジムで打撃トレーニングを積んで試合に挑んだ佐山だったがリーチの差と寝技無しのルールに苦戦し、1Rこそ果敢にバックドロップ、反り投げなどの投げ技を繰り出すが(ただし反則)ボクシンググローブ着用のため技が決まらない。2R以降はパンチ・キック・膝蹴りと一方的に攻めまくられ、毎ラウンド「ダウンしては立ち上がる」の繰り返しとなった。プロレスラーとしてのプライドで何とかKO負けこそ逃れたものの、6R終了まで良いところなく屈辱的な判定負けを喫した。

リング下ではアントニオ猪木ストロング小林ウィレム・ルスカらが観戦し、セコンドでは山本小鉄が鼓舞激励するというプロレスの威信をかけた試合だった。なお、この試合に負けたから打撃を取り入れた格闘技に傾倒していったのではなく、元々リアル指向で、会社に内緒で打撃の練習をしていた(そんなところからこの試合に抜擢された)。

1978年メキシコへ渡り、「サトル・サヤマ」のリングネームで活動。慣れない環境や食生活で、体重が20kg近く減るなどの苦労をしつつも、NWA世界ミドル級王座を獲得し、グラン浜田とのタッグでも活躍した。1980年にはイギリスへ渡りブルース・リーの従弟こと「サミー・リー」のリングネームで東洋武術を彷彿とさせるスタイルのプロレスラーとして大活躍した(立場は完全なベビーフェイスで決め技は日本とは違い風車式のバックブリーカーを多用した)。後にイギリスへ渡った前田日明は、「サミー・リー」の弟というギミックで「クイックキック・リー」のリングネームで活躍したことからも明らかであるように、この「サミー・リー」の当地における人気は日本における「タイガーマスク」の人気に匹敵するものであった。

なお、漫画『プロレススーパースター列伝』にて描かれていた、メキシコ遠征時に名乗ったとされる、覆面レスラー「ティグレ・エン・マスカラド」や、目の回りに隈取りを施したペイントレスラー「ミスターカンフー」はフィクションであり、実際はこれらのリングネームは使われておらず、一貫して素顔で試合を行っている。

タイガーマスク誕生前夜

新日本プロレスから「タイガーマスクの映画を撮るので、帰国して欲しい」という連絡を受ける。当時イギリスでサミー・リーとして大変な人気で、マーク・ロコ(初代ブラック・タイガー)とのタイトルマッチを目前に控えていたこともあり帰国を断るが、「1試合だけでいいから、アントニオ猪木の顔を潰さないで欲しい」と説得され帰国。タイガーマスクとしてリングに上がるが、渡されたマスクやコスチュームの出来の悪さに泣きそうになったと、後に回想している(これはデビュー戦の相手を務めたダイナマイト・キッドも同様のコメントを残している)。なお、漫画『プロレススーパースター列伝』では渡されたマスクを手に取り、「悪くない」と発言しているが、これはフィクションである。

タイガーマスク

海外遠征から帰国後、梶原一騎原作の漫画『タイガーマスク』から現実のヒーローとして、新日本プロレスに彗星のごとく登場した。また、この時期テレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始され、メディアミックス展開も行っている。初代タイガーマスクとしてのデビュー戦は、1981年4月23日蔵前国技館に於けるダイナマイト・キッド戦。

デビュー戦のマスクは雑な作りの粗悪なもので、マントもまるでシーツのような物であった。佐山自身は物理的な羞恥の他にも、漫画の世界を現実に持ち込むことは「新日本プロレスで浮いた存在」になるのではないかと懸念していたが、数々のオリジナルムーブとフィニッシュのジャーマンスープレックス・ホールドでデビュー戦にして人気をさらった。 新日本プロレス伝統のストロングスタイルをベースに、全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培ったルチャリブレ(メキシコ式プロレス)の空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。佐山自身はそのファイトスタイルは、実況の古舘伊知郎によって「四次元プロレス」、「四次元殺法」と形容された。この時期の代表的な好敵手として、ダイナマイト・キッド、ブラック・タイガースティーブ・ライト小林邦昭などが挙げられる。また、アントニオ猪木藤波辰巳と組んでの6人タッグマッチにも出場し、アブドーラ・ザ・ブッチャーマスクド・スーパースタードン・ムラコなどヘビー級の外国人選手とも対戦した。

タイガーマスクの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。子供たちの間では、新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していたが、新日本プロレスでの活動には突然終止符が打たれた。1983年8月4日に奇しくもデビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた寺西勇戦終了後の8月10日、新日本プロレスに契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言。その直後、テレビ朝日系のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。

新日本プロレスでタイガーマスクとして活動した2年4か月間のシングル通算戦績は155勝1敗9分けで、この1敗はダイナマイト・キッドをフェンスアウトさせて反則負け。タッグ・シングル戦、両方含めて一度もフォール負けがなく、WWFとNWAのジュニアヘビー級王座を史上初めて統一した。

ザ・タイガー

人気絶頂期での引退発表を行った頃、自身のジム「タイガージム」を設立。ザ・タイガーとして、ほぼ同時期に新日本プロレスを退団した山崎一夫インストラクタースパーリングパートナーに迎え、新格闘技と称して新しいスポーツを模索する中、1984年7月23日、24日にUWFの「無限大記念日」興行に約1年振りのリング復帰。高田伸彦と組んで、前田日明藤原喜明とのタッグマッチを行った。

ザ・タイガーのマスクデザインは額の赤いマークが廃され、新格闘技ではアップライトスタイルからのキックが重要になってくるため、スポーツとして蹴られた相手を必要以上に傷つけない様、脛当て(レガース)が佐山により考案された。この時期にも、バラエティ番組では自らマスクを脱ぎにらめっこ勝負を行なったりしていた。

スーパー・タイガー

UWF正式入団時にスーパー・タイガーと改名。(タイガージムが商標登録しているザ・タイガーの名称が使用できないため)紫×銀のマスク+コスチュームに一新。自身のジムは一旦閉鎖。「スーパータイガージム」として後に再スタートする。前田、藤原、高田、木戸修、山崎らとの日本人対決を軸に壮絶な試合をした。「UWFはプロレスではなくシューティング。」自分達を「シューター」と称し、スーパー・タイガー名義のまま、素顔で試合をするようになる。「実力NO.1」の称号を得るも、スポーツライクなルール、競技としてのシューティングを推進しようとする佐山と他の選手との間には徐々に溝ができていた。「自分はカールゴッチより強い。」等と発言する佐山に対して、特に不信に思っていた前田はセメントを仕掛ける。1985年9月2日。大阪臨海スポーツセンターにて、試合中に金的蹴りをする(結果は18分57秒スーパー・タイガーの反則勝ち)。実際には金的には入っていなかったが、試合中、前田の張り手、膝蹴りを多用し、グラウンドの佐山にローキックをする等、尋常ならざるファイト、精神状態を懸念した佐山が、腹部に入った右膝を金的アピールしてレフェリーに試合を止めさせたのが実情である。これがきっかけとなって、佐山はこの後に予定されていた「UWF無限大記念日2」出場をキャンセルし、UWFを離脱。第1次UWFも崩壊する。現在でも前田との関係は完全修復には至っていない。

修斗

シューティング(現・修斗)設立の際には一旦プロレス活動から距離を置き(ジャパン女子プロレスの興行で挨拶をした事は何度かある)、その後は総合格闘技界とプロレス界では異なる立場を取りながらも、双方に関わる活動となる。

プロレス復帰

1994年5月1日、当時新日本プロレスの取締役だった永島勝司に要請され、10年ぶりの新日本登場、4年ぶりの試合となる獣神サンダー・ライガーとのエキシビションマッチに参加。試合中、佐山は挑発的な笑顔を浮かべていた。これは試合がエキシビションのため「適当にやろう」と思ったかららしい。翌年、初代タイガーマスクに名を戻し、本格的にプロレスに復帰。UWFインターナショナルみちのくプロレス東京プロレス、SAプロレス等に参戦。1997年にはタイガーキングに改名し、新日本東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦する。

1998年、アントニオ猪木が創設したUFOに猪木事務所取締役の肩書きで参加。小川直也を指導し、岡田孝(現・三州ツバ吉)からの推薦により村上和成の参戦を認めた。1999年1月4日、伝説となる小川直也対橋本真也のシュートマッチ、いわゆる「1.4事変」の仕掛け人の一人となる。余談だが、この時佐山は松葉杖をついてセコンドに就いているが、これは1週間前にアレクサンダー大塚戦で負傷したからである。その後、4月に猪木と団体方針の食い違いがきっかけとなりUFOを離脱した。

その年の5月に掣圏道設立、再びプロレスから離れる。もう復帰は無いと思われたが、2003年9月21日、掣圏道の大会である「掣圏」において、ザ・マスク・オブ・タイガーの名でまたも復帰(対戦相手はザ・グレート・サスケ)。その後、再び初代タイガーマスクに名を戻し、dragondoor等に参戦。WJプロレスでは初めて長州力と対戦した。2005年6月9日には、「ストロングスタイルプロレス復興」を掲げ「リアルジャパンプロレス」を旗揚げした。

2008年3月13日にはリアルジャパンマットで、天龍源一郎との初対決がタッグマッチで実現。12月には、これまで試合での接点が全くなかった(1988年4月2日、両国国技館で行われた「格闘技の祭典」で、当時シューティングのエキシビションを行った佐山を激励する形で一緒のリングに上がったことはあったが)二代目タイガーこと三沢光晴との初対決がやはりタッグマッチで行われた。

2010年10月20日、藤波辰爾長州力と共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した。[1]

マスク剥ぎ

初代タイガーマスク時代、小林邦昭に何度もマスクを破られたり、剥ぎ取られそうになった。それまでの覆面レスラーにもマスク剥ぎがなかったわけではないが、基本的には覆面レスラーのマスクには手を掛けないのが暗黙の了解で、小林のように毎試合マスクに手を掛ける行為はそれまでなかったものであった。

この一連のマスク剥ぎの衝撃がいかに凄かったかは、歴代タイガーマスクや、女子プロレスにおける派生キャラクター、タイガードリームタイガーエンジェル等の試合でもマスク剥ぎが「お約束」として必ず入っていることからも伺い知れる。後に佐山は小林と対談した際に、マスク剥ぎのことに触れて「先輩(小林)がのし上がるためならと、僕は我慢していたんですよ。」と語っているが(両者は実際には仲が良かった)、実際それ以降の小林は『虎ハンター』として完全にブレイクする。

獲得王座

得意技

ただし、佐山のタイガー・スープレックスは、手をクラッチせずに、相手の背中に自分の手を添える様にして行うものであり、俗に「佐山式」といわれる
2代目タイガーマスク(三沢光晴)の技とは異なる。片足を後ろに上げて大きく反動をつけて投げるフロント・ネックチャンスリー
相手をコーナーに追い詰め、コーナーロープと相手の胸板を足場に駆け上がり宙返りを決める技で、サミー・リー時代から使用していた。俗に「タイガーマスク式」と呼ばれている。

修斗

第1次UWF離脱後、シューティング(現・修斗)の創始者として日本の総合格闘技界をスタートさせたが、1996年にフロントとのトラブルのため、離脱(詳細は両者共に語らないが、プロとしての重要さを考える佐山と、より競技化したものを目指したいそのほかの幹部との間に溝が深まったと言われている)。

掣圏真陰流

掣圏真陰流とは、佐山が従来から提唱してきた市街地型実戦格闘技で1999年5月に創設された。旧名・掣圏道。

2010年10月29日、新たな武道である『武道 掣圏』の旗揚げ興行が後楽園ホールで行われる予定である。これはボクシング総合格闘技などの格闘スポーツではなく、あくまで武道であるという定義を佐山はしている。試合は三本勝負となっており、試合時にはオープンフィンガーグローブを着用する。ロープが無いため、試合場から転落すると負けとなるなど、独自のルールで行われる。入場時には日本刀を携えることが全選手の義務となっている。また、礼儀を重んじると言う佐山の思想から、ガッツポーズや相手を見下す行為は即失格とし、金髪や刺青を入れた選手は出場が認められない。「義」を構築し、礼儀作法を備えた人間を育て上げ、ひいては日本を復活させると言う目標を持つ佐山の世界観がふんだんに現れたものとなっている[2]

佐山は、『武道 掣圏』について、「蓋を開けてみれば全てが分かった時に“ああ、これか”という態勢になるのは目に見えています。それは日本の国体を崩す不良の輩やマナーとはかけ離れたものを子供たちに見せてしまう輩を輩出する大会ではありません。(中略)これで日本が救われます」と語っており、この武道の究極的な目標は、堕落し、国体が崩れている(と佐山が考えている)現在の日本を救うこととしている[3]

武道 掣圏

武道 掣圏とは、2010年10月に佐山が新たに立ち上げを発表した武道で、オープンフィンガーグローブを着用し、ロープのない八角形のリングで行われる。ルールはKO・一本による決着のほか、対戦相手の場外への押し出しと制圧(3秒以上の抑え込み)にポイントが与えられ、これを2ポイント先取することでも勝利となる[4]

思想活動

歴史政治思想に精通し、「武士道追求」として独自に右翼活動を展開している。以前から「天覧試合をやりたい」(当時の「天覧試合をやりたい」という発言は、修斗を、プロ野球や大相撲のように天皇に見に来てもらえるような立派なプロ競技にしたいという純粋な気持ちであって、近年の右翼的な発言とは画する。)「試合前は靖国神社におられる英霊に敬礼」「今の日本人に切腹する精神はない。こんな国では戦争には勝てない」等々の言動を繰り返し、戦前の日本軍を悪く言われると烈火のごとく怒ることは有名。佐山が20年前から使用していた八角形のリング(オクタゴン)は、天皇の玉座をイメージしたものであるという。ナチスについても「警察力を強化して泥棒を減らしたり、良いこともたくさんした」等と評価しているため、部分的に肯定しているとも言われるが、佐山本人はこのことを否定している。

掣圏道設立後から佐山の思想活動が本格化し、2001年第19回参議院議員通常選挙比例代表区から自由連合公認で出馬。33,762票を獲得したが、落選した。その選挙演説の際「暴走族を撃ち殺せ!!」と発言し、市民の度肝を抜いた。この参院選ではかねてから親交の深かった杉山穎男(元『格闘技通信』編集長・『武道通信』編集長)も出馬するが、1,596票の得票に止まり落選している。

こうした右翼的言動から、親しい人間は畏敬の念をこめて、極右・佐山皇帝」と呼ぶ。本人は「俺を街宣車で騒いでいるような連中と一緒にするな」と言って、右翼と呼ばれることを嫌がっているが、任侠系右翼団体である日本青年社との交流を公言している。

子供の教育における体罰の必要性を主張するシンポジウム(主催は加瀬英明)に、石原慎太郎櫻井よしこ高橋史朗田久保忠衛などと共に参加したことがある[5]

人物

  • タイガーマスク時代は華麗な空中戦で観客を魅了し、格闘技でもその高い身体能力を生かした闘いは、他を寄せ付けなかった。軽中量級の格闘技が発展した現代の総合格闘技ムーブメントには、佐山の果たした功績も大きい。
  • 精神分析学にも造詣が深く、「交感神経を刺激すると、人間は達観できる」が持論。催眠術を自由に操り、ダイエットも自由自在であると称しているが、自らのダイエットには幾度となく失敗している。ただこれは、俗流の「精神分析」なため、専門家から全く科学的でなくインチキでフロイトなどとは全く関係ないなどとしばしば言われる。
  • かなりの甘党。「羊羹をポッキーのように食べる」、「キックボクシングのスパーリング中、コーナーに小銭を置いておき、ラウンドが終わる度に自動販売機に向かう」、「山篭りで10kg減量したが、下山してしばらくすると元に戻ってしまった」、「小川直也と喫茶店に行き、甘いものばかり注文して1万円近く払った」等、甘い物に関するエピソード多数。このため、新日本から退いた後に体重が急増し、今日でもジュニアヘビー級の体重に戻らないままである。丸藤正道戦での記者会見で「95まで絞る」と言っているが、結局絞りきれなかった。しかし、小林邦昭戦では相手から減量の注文があったようで、116kgあった体重を100kg前後まで減量させることに成功している。
  • 普段は物腰柔らかで非常に言葉遣いが優しく、笑顔を絶やさない人柄であるが、キレると鬼の如く豹変する。礼儀の知らない若者は勿論のこと、自分より体格が大きい黒人が相手であっても、である。その様な場合でも、佐山は天才的な喧嘩の腕でほとんど負けたことがなかったという[要出典]
  • 新日本時代、道場に時折現れる道場破りの相手をするのは主に佐山の担当であったが、そのことごとくを退けた。同様のリアルファイトでは「前田も強かったが、笑顔で人間の腕をへし折れるのは猪木以外では佐山だけだった」と山本小鉄は語っている。
  • シューティング創設期、91年の夏合宿の様子がテレビ番組で放送されたことがある。プロレスを芝居と称して(後述)真剣勝負を謳っていた同団体のイメージに違わず、佐山が弟子を「本気で蹴っていない」という理由で竹刀で滅多打ちにし、流血する弟子が出るなど、厳しい練習風景が撮られている。途中、カメラマンが「こんなところを撮るな」と恫喝されており、真剣味ある映像となっていた。しかしその一方で、強く打たなくても大きな音が出るよう中結を外した竹刀を使う(これは折れやすかったため、後に木刀になった)、恫喝されたカメラの映像が派手な効果音と共に途切れる、随所に佐山の音声解説が入る、等々、若干ヤラセ色も感じられるものとなっている。これについて、後に佐山は「テレビ演出のためいつもより厳しく叱咤し折檻した」と語っている[要出典]
  • 格闘技界に幅広い人脈を持ち、特にキックボクシング藤原敏男は新日本時代からの親友。藤原主宰興行藤原祭りではタッグマッチも行っている。
  • 第1次UWF退団時、ターザン山本と共に『ケーフェイ』というプロレス本を出版、プロレスの試合において必殺技として使用されているウエスタン・ラリアット延髄斬りといった技は、対戦相手の協力なくしては半永久的に成立しないことを暴露した。また、月刊誌『フルコンタクトKARATE』やミニコミ誌『格闘技探検隊』のインタビューに答える形で、前田日明らが創設した第2次UWFについても既存のプロレスの範疇を越えるものではなく、本物の格闘技でありスポーツでもあるシューティングとは根本的に異なるものと明言した。これらが原因となり、一時期プロレス界とは絶縁状態にあった。また、修斗の主宰者時代、その試合場で新日本プロレスでの獣神サンダー・ライガー戦(実質的なプロレスマット復帰戦)を指し「新日本で試合を、いや、芝居をしてきました」と発言し、プロレスファンを怒らせたことがある(エキシビションマッチだったのだから、その通りという解釈もあり得る)。安生洋二とタッグを組んで奪取した、東京プロレスの「3億円ベルト」の行方に関しても、「知らぬフリ」を決め込むという金銭疑惑も浮上している。
  • UWF特有のシューティングという闘技スタイルが猪木の門下レスラーでカール・ゴッチに感化された佐山、前田、高田の三名によって創始されたことは否定しようのない事実であるが、佐山がその技術的な中軸であった。
  • 「大根役者だから」と本人はあまり語りたがらないが、何本か映画に出演している。真樹日佐夫原作の「六本木ソルジャー」では主演を務め、「真説・タイガーマスク」では船木誠勝と共演した。また、「ラストサムライ」のオーディションに合格していたが、「拘束時間が長いから」という理由で辞退している。
  • 新日退団後、全日本からオファーを受けたが(馬場が提示した金額は1億とも2億とも言われている。この時代プロ野球でさえ1億円プレーヤーはまだ出ていなかった)、たとえ新日を辞めたとはいえ、猪木に恩を仇で返すことはできないという理由で、オファーを断った。
  • 2006年の週刊文春で行われた前田日明との対談によると、既婚者で息子がいるとのこと。

佐山の弟子

桜木裕司、瓜田幸造。この2人の共通の特徴は、選手コール時に敬礼をすることである。これは「試合前には靖国神社の英霊に敬礼せよ」という佐山の教えに基づくものである。 現在の直系の弟子はその他にもたくさんいるが、マスコミの前で露出的に第一線で活躍している弟子は上記の5人である。

入場テーマ曲

  • 「バーニング・タイガー」(ブレイン・ウォッシュ・バンド) - タイガーマスクのデビュー戦で使用。ただし生演奏。
  • 「おまえは虎になれ」(村松とおる)- 現在は弟子の4代目タイガーマスクが使用。
  • 「タイガーマスク二世」(水木一郎
  • 「燃えろ! 吠えろ! タイガーマスク」(古舘伊知郎
  • 「バーニングタイガー」(佐山聡) - 本人歌唱(入場曲の予定も、実際は本人が恥ずかしがって使用されず)。
  • 「アイ・オブ・ザ・タイガー」(サバイバー) - スーパータイガーとして第1次UWF参戦時に使用。
  • 「虎覇王(ヴィクトリーロード)」(ネバーランド) - スーパータイガーとして第1次UWF参戦時のイメージ曲であり、入場時には使われていない。
  • 「行け!タイガーマスク」(新田洋) - 現在の入場テーマ曲。

論文

脚注

関連項目

外部リンク