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[[File:Imperial Japanese Army War College students.jpg|thumb|right|250px|[[1930年代]]中頃の陸大卒業者、「[[恩賜の軍刀|御賜の軍刀組]]」([[首席]]1名および優等5名成績上位者)]]
[[File:Imperial Japanese Army War College students.jpg|thumb|right|250px|[[1930年代]]中頃の陸大卒業者、「[[恩賜の軍刀|軍刀組]]」6名([[首席]]1名および優等5名)]]
'''陸軍大学校'''(りくぐんだいがっこう)は、[[大日本帝国陸軍]][[参謀]]・高級[[将校]]養成教育機関([[軍学校]])。略称は'''陸大'''。現在の[[陸上自衛隊]]では[[陸上自衛隊幹部学校|幹部学校]]に相当する。
'''陸軍大学校'''(りくぐんだいがっこう)は、[[大日本帝国陸軍]]における、[[参謀]][[将校]]養成機関<ref name=":2" />([[軍学校]])。略称は'''陸大'''(りくだい)。現在の[[陸上自衛隊]]では[[陸上自衛隊幹部学校]]に相当する。

== 歴史 ==
=== 創設 ===
[[1869年]](明治2年)9月に、明治天皇が臨席した[[集議院]]での会議で「兵式は陸軍は仏式、海軍は英式を可とすること」とされて以来、帝国陸軍はフランス式の兵制を採用してきた。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=38-39|loc=集議院における軍備論}}</ref>[[1873年]](明治6年)の「幕僚参謀服務綱領」、これに代わる1879年(明治12年)の「幕僚参謀条例」により、各兵科の将校から適任者を選んで参謀が選任されており、<ref name="jouhou93-97">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=93-97|loc=参謀職種への認識}}</ref>[[1880年]](明治13年)には、フランスの[[サン・シール陸軍士官学校|陸軍士官学校]]・陸軍大学校に[[1870年]](明治3年)から10年間留学した[[小坂千尋]]が陸軍参謀大尉となっている。<ref name=":10">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=89-93|loc=陸軍大学校の創設に貢献した人々}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|小坂千尋(1850年(嘉永3年)生。周防国岩国出身)は、明治16年の参謀科廃止<ref name="jouhou93-97" />により、明治16年5月7日付で陸軍歩兵大尉<ref name=":10" />。陸大4期(明治19年1月入校、明治21年11月卒業)の[[大井成元]]が、小坂の講義に感銘を受けたと述懐している。[[児玉源太郎]]に重用され、陸軍歩兵中佐<ref name=hata-kosaka />で陸軍省軍務局第1軍事課長(軍務局の筆頭課長。在任は明治23年3月27日-明治24年11月7日。<ref name=hata-kosaka>{{Harvnb|秦|2005|p=310|loc=陸軍省軍務局軍事課長}}</ref>)の要職を務めたが、現職のまま1891年(明治24年)11月7日にコレラにより死去。[[山縣有朋]]は「小坂逝きて吾兵を語らず」と小坂の夭折を惜しんだ。<ref name=":10" />}}

[[西南戦争]]という実戦を経て、参謀将校の養成機関を日本国内に設ける必要性が認識され、<ref name=":6">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=79-83|loc=陸軍大学校創設の気運}}</ref>[[1882年]]([[明治]]15年)11月13日付の「陸軍大学校条例」によって陸軍大学校が設置された<ref name=":10" />。創設当初の陸大は、[[参謀本部 (日本)|参謀本部長]]{{Refnest|group="注釈"|参謀本部の長が参謀総長となったのは1889年(明治22年)<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=319|loc=参謀総長(第1期 明22-明41)}}</ref>。}}の直轄であり、校長が置かれなかった。<ref name=":10" />

同年12月以降、幹事の岡本兵四郎歩兵大佐<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=|loc=附録第三 (陸軍大学校校長、幹事、学生数一覧表)}}</ref>、副幹事の小坂千尋参謀大尉、他に武官教官(大尉から中佐)7名、文官教官(数学科)2名の計11名の教官が任命され、<ref name=":10" />参謀本部構内の旧本部跡を仮の校舎として<ref name=":8">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=|loc=附録第二 (陸軍大学校年表)}}</ref>、[[1883年]](明治16年)4月2日に陸大が開校した<ref name=":8" />。当初の陸大の修学期間は、歩兵将校・騎兵将校は予科1年+本科2年の計3年、砲兵将校・工兵将校は本科2年であり、<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=97-98|loc=「陸軍教育史」に見る陸大}}</ref>陸大1期(入校者19名<ref name=":1" />または15名<ref name=":9">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=141-147|loc=メッケルの人間像}}</ref>、10名卒業<ref name=":1" /><ref name=":9" />)は、1883年(明治16年)と1884年(明治17年)に入校し、[[1885年]](明治18年)12月24日に卒業した<ref name=":1" />。輜重兵将校には原則として陸大受験資格がなく、例外として、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]騎兵科を卒業して輜重兵将校となった者が、陸大入校を許可されると同時に騎兵将校に復帰する場合のみ、陸大を受験できた。<ref name=":11" />

創設当初の陸大はフランス式であり、小坂をはじめとする武官教官はフランス式兵制しか知らなかった。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=99-100|loc=陸軍大学校の性格-[[中村雄次郎]]中将の回想(「公爵[[桂太郎]]伝」より)}}</ref>その教育内容は、数学・化学・物理といった自然科学の比重が大きく、参謀教育に必須の戦術・戦略・戦史については質量ともに手薄であり、実態としては、参謀養成機関というより「[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]高等科」であった。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=99-103|loc=陸軍大学校の性格}}</ref><ref name=":23">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=263-266|loc=用兵教育の変遷-第1期 日露戦争まで}}</ref>

=== メッケルの貢献 ===
[[1870年]](明治3年)から3年間[[プロイセン王国]]に留学した桂太郎<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=46-47|loc=「桂太郎」}}</ref>を中心に、[[普仏戦争]](1870年-71年)の経過に鑑みドイツ式(プロイセン式)の兵制を採用すべし、という主張があった。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=50|pp=|loc=}}</ref>[[明治十四年の政変]]で政界の中心となった[[伊藤博文]]も強固なドイツ派であった。当時の帝国陸軍の首脳である[[山縣有朋]]、[[大山巌]]、[[西郷従道]]らはフランス派であったが{{Refnest|group="注釈"|1870年(明治3年)、兵部少輔の[[山縣有朋]]は、兵部大丞の[[西郷従道]]と共に、帝国陸軍へのフランス式兵制採用を主導した。これは前年に死去した[[大村益次郎]]の遺志を継いだものであった。山縣は、普仏戦争前夜の欧州を視察しており、個人的にはドイツ式兵制を好ましいと考えていたが、尊敬する先輩である大村の遺志を尊重すること、および当時の日本には、フランス語のできる者に比べてドイツ語のできる者は極めて少なく、急を要する陸軍建設にはフランス式兵制を採用するしかないという事情があった。<ref name=":28" />}}、伊藤や桂の影響で次第にドイツ式兵制への関心を高めた。[[1884年]](明治17年)3月6日には、陸大教官として[[ドイツ帝国]]陸軍将校を1名雇い入れることを太政大臣が裁可している。<ref name=":28" />

一方、[[1883年]](明治16年)12月から1885年(明治18年)1月まで、[[陸軍省|陸軍卿]]の[[大山巌]]が軍事視察のため欧州に出張していた。随員には桂(陸軍歩兵大佐、参謀本部管西局長)が加わっていた。従来はフランス式兵制を支持していた大山(1871年(明治4年)から3年間、フランスとスイスに留学<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=38-39|loc=「大山巌」}}</ref>)だが、桂にドイツ式兵制への移行を進言され、欧州でドイツ帝国の様子を実見するにつれて、桂の進言を受け入れる方向に考えを改めたとされる。<ref name=":29" />

大山は、ドイツ帝国陸軍大臣のブロンザルト・フォン・セレンドルフ中将([[:en:Paul Bronsart von Schellendorff]])に面会し、陸大への教官派遣を要請した。諸説あるが、セレンドルフは、ドイツ帝国参謀総長[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ]]元帥と協議し、[[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル]]参謀少佐(42歳)を日本に派遣することを決定した。メッケルは、プロイセン王国の陸軍大学校学生であった時にセレンドルフに指導を受けており、当時のドイツ帝国[[参謀本部]]の中でも秀才として知られていた。<ref name=":29">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=83-85|loc=大山陸軍卿ドイツに陸大教授を求む}}</ref>

メッケルの日本への派遣を知った、在日フランス公使館附陸軍武官は、大山の外遊中に陸軍卿代理を務めていた西郷従道に、フランス式兵制を捨てるのかと抗議したが、西郷はこれを一蹴したという。<ref name=":21" />ただし、日本の陸軍士官学校がドイツ式の[[士官候補生]]制度に移行し、士官候補生1期(一般に陸士1期と呼ばれる<ref name=":26">{{Harvnb|熊谷|2007|p=|pp=217-220|loc=陸軍のドイツ化と教育}}</ref>)が陸士に入校したのは[[1888年]](明治21年)11月であり、<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=774|loc=陸海軍用語の解説—陸軍士官学校}}</ref>数年間は、陸士はフランス式、陸大はドイツ式と仏式・独式が併存した。<ref name=":21">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=85-88|loc=フランス武官の反撥}}</ref>

メッケルは[[1885年]](明治18年)3月18日に来日し、[[1888年]](明治21年)3月24日に横浜港を出港した船でドイツに帰国した。滞日期間は3年であった。{{Refnest|group="注釈"|メッケルの滞日期間については、4年説もある。<ref name=":15" />}}帝国陸軍は、メッケルの居館を参謀本部の構内に用意し、メッケルに月500ドルの俸給を支払った。<ref name=":15">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=104-116|loc=クレメンス・ウイルヘルム・ヤコブ・メッケルの来朝}}</ref>

陸大に着任したメッケルは、陸大の教育課程をドイツ式に改革した。<ref name=":26" />即ち、校内での図上戦術(ドイツ陸軍大学校の教育方法そのままであった<ref name=":27" />)・校外での演習旅行による実戦を想定した教育、理論ではなく戦史に例証を求める教育に再構築した。<ref name=":16">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=117-122|loc=メッケルの影響}}</ref><ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=122-126|loc=メッケルの戦術教育の特色}}</ref>メッケルは、外征経験のない帝国陸軍の将校に兵站の概念・知識が欠落していることを憂い、外征における兵站について熱心に教育した。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=140-141|loc=兵站に対する関心喚起}}</ref>

陸大は、メッケルが3年間で作り上げた教育課程を、[[1945年]](昭和20年)の終焉まで継承した。<ref>{{Harvnb|熊谷|2007|p=|pp=241‐243|loc=陸大と海大の教育}}</ref>

メッケルは参謀本部顧問としての役割も果たした。<ref name=":28" />明治19年3月に臨時陸軍制度審査委員会(委員長は[[児玉源太郎]]歩兵大佐)が設置され、ここでの研究により6鎮台編制から6個師団編制に移行したこと、陸軍中央が陸軍省・参謀本部・教育総監部の3官衙(中央三官衙<ref>{{Harvnb|藤井|2013|p=|pp=141|loc=フランス武官の反撥}}</ref>)に分かれ、参謀本部の組織が確立して統帥権の独立が確立したこと、陸軍の兵制が順を追ってドイツ式に移行したことについては、メッケルの功績が大きい。<ref name=":16" />

メッケルの離日後、[[1890年]](明治23年)に青山に移転した陸軍大学校の正門を入ったところにメッケルのブロンズ<ref name=":7" />胸像が設置され(敗戦後に行方不明となった<ref name=":7">{{Harvnb|上法|1973|p=|loc=巻頭グラビア「陸大の開祖メッケル少佐」}}</ref>)、参謀本部の食堂にメッケルの肖像画が掲げられた。<ref name=":27">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=111-116|loc=クレメンス・ウイルヘルム・ヤコブ・メッケルの来朝—[[大島浩]]氏の『日本参謀教育と陸軍改革の功労者・メッケル少佐』}}</ref>

=== 制度改正 ===
1887年(明治19年)に、全兵科(この時点では、歩兵、騎兵、砲兵、工兵)の将校の修学期間が3年に統一されたという。<ref name=":11" /><ref name=":2" />ただし、[[1886年]](明治19年)12月2日に「陸軍大学校条例」が改訂されているが<ref name=":13" />、修学期間についての言及は見当たらない。

[[1887年]](明治20年)8月に「陸軍大学校条例」が大幅に改訂された<ref name=":24" />。輜重兵将校に対する受験制限が廃止された(第1条)<ref name=":25" />。修学期間が3年と明記された(第18条)。校長が置かれた(第2条)<ref name=":25" />(初代校長は、児玉源太郎歩兵大佐<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=335-336|loc=陸軍大学校長}}</ref>)。

<small>[[1933年]](昭和8年)に師団参謀要員の養成課程として「専科学生」(修学期間は約1年)が新設され、[[1944年]](昭和19年)までに480名が卒業した。他に「専攻学生」と「航空学生」が短期間存在したが、卒業者は両者を合わせて100名に満たない</small>。<ref name=":2" />

=== 終焉 ===
陸大の修学期間は本来は3年であったが、太平洋戦争(大東亜戦争)の激化により、[[1942年]](昭和17年)12月入校の58期は1年8ケ月で卒業し、[[1943年]](昭和18年)12月入校の59期は、当初は1年3ケ月の予定であったが、[[1944年]](昭和19年)12月に1年の修学で卒業し{{Refnest|group="注釈"|59期が陸大を卒業した後、その過半数に対し、参謀本部で1ケ月から2ケ月の教育が行われた。<ref name=":19" />}}、同時に陸大の教育が中止された。<ref name=":19">{{Harvnb|上法|1973|pp=242-254|loc=昭和8年の改訂}}</ref>

翌年、[[1945年]](昭和20年)1月に、陸大の教育を同年2月に再開すると発表され、陸大最後の期となった60期が2月11日<ref name=":1" />に入校した。60期の修学期間は当初は1年の予定であったが、3月に参謀次長から「60期生が7月までの課程を修了すれば、陸大を閉鎖する可能性がある」旨が通知され、8月6日<ref name=":1" />に卒業した。<ref name=":19" />敗戦直前に卒業した60期についても、従来通りに、優等卒業者6名に恩賜の軍刀が授与された。<ref name=":1" />なお、同年2月には、61期の採用についての陸軍大臣の通達<ref name=":19" />が発せられ、同年6月に初審を行う予定となっていたが、これは実行されずに終わった。<ref name=":19" />

=== 校地の変遷 ===
[[File:Rikugun Daigakko.jpg|right|thumb|陸大跡地(北青山)]]
[[1883年]](明治16年)に開校した際に仮校舎とした参謀本部構内の旧本部跡から、[[1884年]](明治17年)に和田倉門内に新築した校舎に移転した。<ref name=":8" />明治17年に陸大が移転したのは、和田倉門の近くの「旧大名屋敷」であったとする文献があり、<ref name=":23" /><ref>{{Harvnb|黒野|2004|pp=61-63|loc=参謀本部長の統轄下に}}</ref>それを踏襲した記載が千代田区観光協会のサイトにある<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/2243/Default.aspx |title=千代田を駆け巡る、坂の上の雲 ~3章~ |publisher=一般社団法人千代田区観光協会 |accessdate=2017-02-02}}</ref>。しかし、明治17年3月1日付の陸軍省達には「陸軍大学校今般'''和田倉門内へ新築落成'''候に付去月廿八日同所へ移転候条為御心得段及御通牒候也」と明記されている。<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?IS_KEY_S1=%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1+%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%80%89%E9%96%80&SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=6&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_SORT_KND=ASC&IS_SORT_FLD=&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2008091915490600546&ON_LYD=on|title=大学校新築移転送乙第777号 資料作成年月日 明治17年3月1日|accessdate=2017-02-02|date=|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター}}</ref>

[[1890年]](明治23年)に青山(現在の北青山1丁目、[[港区立青山中学校]]が所在)に恒久的な校舎を新築、移転した。<ref name=":8" />陸大は「青山」と通称された。<ref name=":14">{{Harvnb|上法|1973|p=284|pp=|loc=}}</ref>

太平洋戦争(大東亜戦争)末期の[[1945年]](昭和20年)3月には[[山梨県]][[甲府市]]に疎開した<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=245|pp=|loc=}}</ref>。ただし、青山の陸大校舎は戦災で失われずに[[港区立青山中学校]]の校舎に転用され<ref name=":14" />、[[1985年]](昭和60年)に同中学校の新校舎が建設されるまで使用された<ref>{{Cite web|url=http://aoyama-js.minato-tky.ed.jp/policy/|title=港区立青山中学校-学校概要|accessdate=2017-01-29|date=|publisher=[[港区立青山中学校]]公式サイト}}</ref>。


== 概要 ==
== 概要 ==
陸大は[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の管轄であり、陸大卒業生(参謀適格者)の人事も参謀本部の総務部庶務課が行った。<ref name=":17">{{Harvnb|藤井|2013|p=|pp=162-164|loc=別枠扱いだった参謀人事}}</ref>期ごとの人数は草創期を除いて50名から60名で推移し<ref name=":4" />、最終期である60期は120名<ref name=":1" />。卒業者は通算で3,007名。<ref name=":2" />陸士同期生のほぼ1割程度が陸大に入校できたとされる。<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=43|loc=}}</ref>
陸軍の諸学校が[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]を筆頭に基本的には[[教育総監部|陸軍教育総監部]]管轄下であったのに対し([[陸軍航空士官学校]]を筆頭に航空諸学校は[[陸軍航空総監部]]管轄下)、陸大は[[陸軍中野学校]]と共に[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の管轄であり、卒業生の人事も参謀本部が行った。在学生数は1期から12期頃までが約10人、それ以降は約50人で、卒業者数は3,485名になる。


=== 選抜 ===
=== 選抜 ===
陸大の受験資格者は、陸軍現役将校のうち、所属長([[連隊長]]など)の推薦を受けた、陸士を経て少尉任官後に隊附(部隊勤務)2年以上の[[中尉]]・[[少尉]]。<ref name=":2">{{Harvnb|秦|2005|pp=774-775|loc=陸海軍用語の解説-陸軍大学校}}</ref>大尉に進級すると受験資格を失った。<ref name=":4">{{Harvnb|山口|2005|p=59|loc=}}</ref>陸士出身者以外で陸大を卒業したのは1名のみ(陸大1期の[[東條英教|東條秀教]])である。<ref name=":5">{{Harvnb|藤井|2015|p=229|loc=}}</ref>修学期間は3年。<ref name=":2" />なお受験資格・修学期間とも変遷がある。<ref name=":2" />
陸大の受験資格は隊附(部隊勤務)2年以上、30歳未満の[[兵科]][[大尉]]・[[中尉]]だった。初期には陸士卒業でない者がわずか2名だが存在した。陸大3期以降は全員が陸士卒業生である。教育期間は[[歩兵]]・[[騎兵]]が3年、[[砲兵]]・[[工兵]]等は2年。


<small>[[陸軍士官学校 (日本)#士官候補生制度採用|士官候補生]]出身ではない、[[陸軍少尉候補者]]出身の陸軍現役将校も、士官候補生出身者と対等に扱われ、陸大の受験資格を有していた。ただし、少尉候補者出身者が陸大入校を果たした例はなかった。<ref>{{Harvnb|藤井|2015|p=229|pp=|loc=}}</ref></small>
[[1933年]](昭和8年)には教育課程に「専科(専科学生)」が新設された。就業期間は本科の約3年に対して専科では約1年と短く、教育内容も限定的なものであった。


<small>1933年(昭和8年)に制度化された特別志願将校{{Refnest|group="注釈"|[[幹部候補生 (日本軍)|幹部候補生]]、[[幹部候補生 (日本軍)#一年志願兵制度による予備役幹部補充|一年志願兵]]出身で在郷中の少尉・中尉が、軍務に就くことを志願すると、特別志願将校に任用された。1933年(昭和8年)にできた制度。<ref name=":22" />}}は「召集された陸軍'''予備役'''将校」の身分であり、陸軍'''現役'''将校に該当しないために陸大の受験資格がなかったが、1939年(昭和14年)の制度改正により、予備役から現役への転役を志願する特別志願将校は、陸軍士官学校丁種学生(約1年)を経て陸軍'''現役'''将校に採用されることが可能になった。<ref name=":22">{{Harvnb|秦|2005|p=759|pp=|loc=陸海軍用語の解説-特別志願将校(陸軍)}}</ref>特別志願将校出身の現役陸軍将校も、陸大の受験資格を有したと思われる。</small>
入学試験を受験するためには、直属の上官である[[連隊|連隊長]]の推薦を必要とした。工兵や[[輜重兵]]であれば[[大隊|大隊長]]の推薦であった期間もある。試験は初審と再審に分かれる。初審は[[語学]]や[[数学]]、[[歴史]]などの一般教養科目や、[[典範令]]や[[操典]]などで、入学定員の二倍から三倍程度に絞り込む。検査の合否は検閲将官会同の際に決議され<ref name="黒野耐2004">[[黒野耐]]2004『参謀本部と陸軍大学校』[[講談社]]</ref>、再審は陸大本校で行なわれ、5名程の試験官を前にして口頭試問が行われた。出題は戦術や操典などだった。[[海軍大学校]]と比較して定員枠はそれほど変わらないため、将校数が圧倒的に多い陸大の入試は海大より難関とみなされていた。


入校試験は初審(筆記試験)と再審の二段階であった。陸大合格には、3年程度をかけての受験勉強が必要だった。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=218|pp=|loc=}}</ref>初審は受験者の属する司令部の所在地で行われ、再審は陸大で行われた。<ref>{{Harvnb|堀|1996|p=|pp=20-24|loc=意表を突いた陸大入試}}</ref>
[[士官候補生]]ではない[[陸軍少尉候補者|少尉候補者]]出身の叩き上げ将校や、もとは[[幹部候補生 (日本軍)|幹部候補生]]等の[[予備役]]であった[[陸軍士官学校#特別志願将校|特別志願将校]]出身の将校も陸大の受験資格を有していた。初審を突破した者は数名存在するものの、再審も合格した例はなかった。

[[1921年]](大正10年)に陸大に入校した[[有末精三]](陸大36期恩賜)<ref name=":1" />によると、4月に初審を受験する段階で、人数が入校予定者の10倍程度に絞られている。初審科目は、戦術甲(戦闘原則)、戦術乙(陣中用務)、戦術丙(図上戦術)、築城、兵器、交通、歴史、数学、語学の9科目。入校予定者の2倍の人数に合格が通知されるのが8月である。年末に再審が行われるが、これは人物考査を兼ねている。再審初日に図上戦術の筆記試験が行われ、以降、受験者は一日おきに陸大に出頭し、20日ほどをかけて各科目の口頭試験を受ける(試験官を務める教官は毎日である)。受験者の多くがノイローゼ気味になり、不合格を確信するほどの厳しい試験であったが、50名ほどの陸大専任教官が全力で行う再審は、当時、最も公正な試験であると認められていた。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=289-297|loc=[[有末精三]]氏の見解}}</ref>

[[今村均]](陸大27期首席<ref name=":1" />)が陸大に入校した[[1912年]](明治45年/大正元年)の入校試験の経過は以下の通り。<ref name=":3" />

:今村が属する[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]は、[[1910年]](明治43年)4月から<ref>{{Harvnb|今村|1980|p=|pp=50-54|loc=鴨と朝鮮馬}}</ref>[[1912年]](明治45年)4月まで[[朝鮮]]に駐箚しており、初審は第2師団司令部が所在する[[京城府|京城]]で4月に実施され、7日間を要した。今村は前年も京城で初審を受験しており、所要日数は同じだった。8月、朝鮮駐箚を終えて衛戍地の[[仙台市|仙台]]に戻っていた第2師団司令部に、陸大から「今村は初審に合格したので12月1日に陸大に出頭すべし」と通知された。再審は12月2日から10日間に渡って実施され、受験者は120名であった。1日目から9日目までは、学識を問う通常の口頭試験であり、戦術は5名の陸大教官が、他の課目は2‐3名の陸大教官が試験官を務めた。10日目は「人物考査」という課目であり、陸大幹事(校長に次ぐNo2<ref name=":2" />)の[[鈴木荘六]]少将、先任兵学教官(中佐)の2名が試験官であった。今村に対する試問は、学識を問うものではなく、[[圧迫面接]]のように、答えに窮する問いを意図的にぶつけて反応を試すものであった。12月12日、入校式の直前に、受験者全員120名が陸大の大講堂に集められて、うち60名が合格と告げられ、今村は合格した。<ref name=":3" />
:それから14年後、鈴木荘六が参謀総長、今村が参謀本部部員であった時{{Refnest|group="注釈"|鈴木は1926年(大正15年)3月から1930年(昭和5年)2月まで参謀総長<ref>{{Harvnb|秦|2005|pp=86-87|loc=「鈴木荘六」}}</ref>、今村は1921年(大正10年)8月から1926年(大正15年)8月まで参謀本部部員<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=23|loc=「今村均」}}</ref>。この挿話は大正15年のことであろう。}}、鈴木に随行していた今村が、陸大入校試験のことを尋ねると、鈴木は'''「あれはわしの主張で、あの年初めてやったこと」(出典からそのまま引用)'''であり、多くの者に、今村に行ったのと同内容の”圧迫面接”を行ったと答えた。<ref name=":3">{{Harvnb|今村|1980|p=|pp=77-82|loc=陸軍大学校入校}}</ref>


=== 教育 ===
=== 教育 ===
陸大の教育内容は、[[1913年]](大正2年)の課程を概説すると下記の通り。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=161-164|loc=教育の内容}}</ref>
陸大では戦略・戦術の教育を中心に、戦史、参謀要務等の主科目と兵器、築城、交通、兵要地学、外国語、海戦術、憲法、国史等の補助科目が教育された。
# 午前と午後に分け、午前は軍事科目、午後は一般教養科目。
# 午前の軍事科目は、主要3科目として、戦術が週3回、戦史が週1-2回、参謀用務が週1-2回。他に兵要地学、交通、兵器、築城、経理、衛生などが講義された。
# 午後の一般教養科目は、語学(陸士での各人の専攻語学により、英語・仏語・独語・露語・中国語に分かれる)が年間150時間程度、馬術が年間140時間程度。他に歴史、数学、統計学、法律、国際法。
# 2年生と3年生は、学年合同での大掛かりな兵棋演習を、年間に20回~30回実施。
# 2年生で、'''海軍'''戦術を23回。
# 3年間を通じて、春と秋の2回、校外での現地戦術がある。1年生と2年生は年間21日間。
# 3年生の現地戦術は、特に「参謀演習旅行」と呼んだ。特に第2回は、教官が故意に困難な状況(問題。貴官が師団長であれば、この場面においてどう判断し、どう部隊を動かすか?)を学生に示し、決心(答え。このように判断し、このように命令する)を求めることを繰り返すもので、参謀演習旅行の2週間ほど、学生は不眠不休となった。知力に加えて体力の限界を試す目的があった。
# 日露戦争や日清戦争の戦跡地を巡る「満鮮旅行」、夏季には、自分の兵科とは異なる兵科での隊付勤務(1.5カ月)。


戦術教育は、参謀演習旅行の項で述べたように、教官が状況を示し、学生が決心を答えるというマンツーマンの教育であった。教官は出題に当たり正解(原案といった)を用意しているが、学生が答えた決心の筋道が通っていれば、原案と異なった結論であっても良しとした。戦史教育では、欧州戦史が主な題材となり、日本戦史・東洋戦史は従であった。<ref>{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=164-167|loc=戦術、戦史教育}}</ref>
授業は講義もしくは[[兵棋演習]]等が主体であったが、現地研究演習も毎年実施されていた。


=== 卒業 ===
その戦略・戦術思想として特に強調されたのは、1、包囲殲滅の推奨 2,要時要点に戦力の徹底集中 3、戦機の捕捉とこれに乗ずる攻撃 4、先制主導権の獲得と利用、5、機動の重視と独断の推奨 6、夜間攻撃の奨励であった。
[[File:Major Akiyama.PNG|thumb|right|陸軍騎兵少佐当時の[[秋山好古]]。胸部に陸軍大学校卒業徽章を佩用]]陸大の卒業席次は、各教官が担当科目について採点した点数を、陸大副官が集計し、陸大を所管している参謀本部の総務部長に直接報告して定められるシステムであり、陸大の校長・幹事らは関与しなかった。<ref name=":12">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=167-168|loc=陸大は人間形成に主眼をおいた}}</ref>陸大の卒業式には必ず[[天皇]]が行幸し、卒業席次上位6名には[[恩賜の軍刀|御賜の軍刀]]が授けられ{{Refnest|group="注釈"|陸大優等卒業者への恩賜品は、6期までは望遠鏡、それ以降は軍刀。<ref name=":1" />}}、<ref name=":0">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=182-193|loc=卒業式}}</ref>、これら6名は「軍刀組」<ref>{{Harvnb|堀|1996|p=42|pp=|loc=}}</ref><ref>{{Harvnb|堀|1996|p=80|loc=}}</ref><ref>{{Harvnb|保阪|2005|p=50|loc=}}</ref>あるいは「恩賜組」<ref>{{Harvnb|藤井|2015|p=|pp=231-234|loc=天保銭組に付けられる序列}}</ref>と呼ばれた。首席卒業者は天皇の前で40分間の御前講演を行った。<ref name=":0" />陸大27期首席として、[[1915年]](大正4年)12月11日の卒業式で、大正天皇に対し御前講演を行った今村均は、講演原稿を全て暗記したという。<ref>{{Harvnb|今村|1980|p=|pp=85-92|loc=大正天皇の御前講演}}</ref>


==== いわゆる「天保銭」 ====
しかし、第一次世界大戦後から急速に発展した航空部隊や機械化部隊の運用については、他先進国に比べて遅れていた。
陸大卒業者は、陸軍大学校卒業徽章([[1887年]](明治20年)8月に制定、[[1936年]](昭和11年)5月に廃止・佩用禁止)を右胸に佩用した。この徽章は楕円形の形状が[[天保通宝]]に似ていることから「天保銭」と通称された<ref>{{Harvnb|藤井|2012|p=|pp=180-183|loc=日本になかった共同責任の観念}}</ref>。{{Refnest|group="注釈"|天保通宝は8厘(0.8銭)銅貨として<ref name="tenposen-hodan">{{Harvnb|上法|1973|pp=398-404|loc=天保銭放談}}</ref>1891年(明治24年)12月31日まで通用した<ref>{{Cite web |date= |url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_TAG_S1=InD&IS_KEY_S1=%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E9%80%9A%E5%AE%9D&IS_SORT_KND=DES&IS_SORT_FLD=_unitdate&IS_START=1&DIS_SORT_FLD=_unitdate2&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2015112715535849585&ON_LYD=on |title=旧銅貨天保通宝二十三年法律第十三号ニ依リ引換期限ヲ令ス 資料作成年月日 明治25年1月4日|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター|accessdate=2017-02-02}}</ref>。天保通宝が1銭に足りない価値しかなかったことから、時流に乗り遅れた人、知恵の足りない人を「天保銭」と揶揄した。<ref name="tenposen-hodan" />陸大卒業徽章が制定された明治20年は、天保銭が未だ現役の貨幣であった時期である。}}


===== 「天保銭」以前 =====
戦史教育では、近代戦術の元祖である欧州戦史、日本軍が戦った日清日露戦史、戦国合戦等の日本古戦史などがとりあげられた。<ref name=":0">[[上法快男]]編、[[高山信武]]著、『続・陸軍大学校』芙蓉書房 1978年</ref>
[[上法快男]]『陸軍大学校』によると、[[1885年]](明治18年)12月に陸大1期が卒業するに先立って「陸軍参謀官適任証書所有徽章」(出典ママ)が制定され、小坂千尋に第1号が授与され、第2号以降は陸大1期卒業者に授与されたという。<ref name=":10" /> [[黒野耐]]も同様のことを述べており、この「陸軍参謀官適任証書所有徽章」(出典ママ)が、いわゆる「天保銭」、すなわち陸軍大学校卒業徽章だとする。<ref name=":20">{{Harvnb|黒野|2004|p=|pp=69-70|loc=1期生の顔ぶれ}}</ref>ただし、[[1882年]](明治15年)11月13日付の「陸軍大学校条例」<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?IS_KEY_S1=%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%9D%A1%E4%BE%8B&SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=1&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_SORT_KND=ASC&IS_SORT_FLD=&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2015120113404851602&ON_LYD=on|title=陸軍大学校条例ヲ定ム 資料作成年月日 明治15年11月13日|accessdate=2017-01-28|date=|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター}}</ref>には「第14条 卒業試験に於て及第する者には参謀職務適任証書を授与し原隊 <small>隊外は原所管</small> に復帰せしむ」と、卒業者全員に参謀職務適任証書を授与する制度が規定されているのみである。また[[1886年]](明治19年)12月2日に陸軍大学校条例が改訂された際の書類には、改訂前の陸軍大学校条例の条文(17年6月陸軍省達と記載)が収録されているが、第14条は明治15年時点の条文と同一であり、<ref name=":13" />明治18年に「陸軍参謀官適任証書所有徽章」を授与する制度が存在した形跡はない。


[[1886年]](明治19年)12月に「陸軍大学校条例」が改訂され、<ref name=":13" />「第13条 卒業試験に於て及第する者には卒業を表章するための徽章を授与し其優等のものには更に参謀職務適任証書を与え原隊 <small>隊外は原所管</small> に復帰せしむ」と規定され、卒業者全員に徽章を授与し、優秀者のみに、加えて参謀職務適任証書を授与する制度に変更された。<ref name=":13">{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?IS_KEY_S1=%E5%8F%82%E8%AC%80%E8%81%B7%E5%8B%99%E9%81%A9%E4%BB%BB%E8%A8%BC%E6%9B%B8+%E5%BE%BD%E7%AB%A0&SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=1&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_SORT_KND=ASC&IS_SORT_FLD=&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2014120210005015531&ON_LYD=on|title=陸軍大学校条例中改正追加ノ件 資料作成年月日 明治19年12月2日~明治19年12月8日|accessdate=2017-01-28|date=|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター}}</ref><ref name=":11">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=232-234|loc=陸軍大学校条例の制定(明治15年11月)}}</ref>ただし、この徽章は、金色の星型徽章を2個授与され、軍服の詰襟の両側に1個ずつ装着するものであり、いわゆる「天保銭」とは異なっていた。<ref name=":11" />この年の12月28日に卒業した2期(9名)のうち、参謀職務適任証書を授与されたのは5名であった(うち3名は恩賜の望遠鏡を拝受)。<ref name=":1" />
なお、[[軍人勅諭]]において軍人の[[政治]]への不関与が謳われていたこともあり、仮想敵国や戦争論といった政治と関わる戦争指導の科目は設定されなかったが、必要がある場合は戦史教育や課外講演等において教育、補足していた。<ref name=":0" />


===== 「天保銭」の制定 =====
これは戦争の未然防止といった事項に対しても計画的・理論的な研究・教育がされなかったことの裏返しでもあり、陸軍において政治への認識がかえって浅薄になったことで、軍部と政治家との間に一致点を見いださないまま政戦略を度外視し、戦争を前提に国内・国外政治に関与する作戦第一主義([[兵学|作戦至上主義]])の遠因にもなった。<ref name=":0" />
[[1887年]](明治20年)8月に「陸軍大学校条例」が大幅に改訂され、従来の第13条に該当する条文は第26条となり、「第26条 卒業者には卒業証書及ひ之を表章する徽章を付与す其徽章は定規の服装に於て上衣右乳部の下方に附着せしむ」と規定された。<ref name=":24">{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?IS_KEY_S1=%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%9D%A1%E4%BE%8B&SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=11&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_SORT_KND=ASC&IS_SORT_FLD=&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2015120115460264889&ON_LYD=on|title=陸軍大学校条例ヲ定ム 資料作成年月日 明治20年9月20日~明治20年10月7日|accessdate=2017-01-28|date=|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター}}</ref>参謀職務適任証書を授与する従来の制度は完全に廃され、陸大卒業者全員に、卒業証書と、銀の菊座に金色金属の星章を配した<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?IS_KEY_S1=%E5%8B%85%E5%91%BD%E7%89%B9%E5%AE%9A%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%90%84%E5%BE%BD%E7%AB%A0%E7%A8%AE%E9%A1%9E%E5%9B%B3%E5%BC%8F%E7%AD%89%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BB%B6&SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=2&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_SORT_KND=ASC&IS_SORT_FLD=&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2006090102451744728&ON_LYD=on|title=勅命特定陸軍各徽章種類図式等に関する件 4枚目 陸軍大学校卒業徽章|accessdate=2017-01-28|date=|publisher=[[国立公文書館]]アジア歴史資料センター}}</ref>「陸軍大学校卒業徽章<ref name="tenposen-haishi">{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/MetSearch.cgi?IS_KEY_S1=%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1+%E5%BE%BD%E7%AB%A0&SUM_KIND=SimpleSummary&IS_KIND=detail&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&DB_ID=G0000101EXTERNAL&GRP_ID=G0000101&IS_START=5&IS_EXTSCH=&DEF_XSL=default&IS_SORT_KND=ASC&IS_SORT_FLD=&IS_TAG_S1=InD&IS_NUMBER=1&SUM_NUMBER=20&SUM_START=1&IS_LYD_DIV=&LIST_VIEW=&_SHOW_EAD_ID=M2006083122373217301&ON_LYD=on|title=陸軍大学校卒業徴章を佩用し得さる件(陸普第二四八一号。陸軍省副官から通牒)|accessdate=2017-01-15|date=|publisher=アジア歴史資料センター}}</ref>」、いわゆる「天保銭」を授与する制度に変更された。<ref name=":25">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=234-236|loc=明治20年の改訂}}</ref>よって、同年12月に卒業した3期(卒業者7名)以降の陸大卒業者には陸軍大学校卒業徽章が授与された。


[[秦郁彦]]は「参謀服務適任証書」(出典ママ)は陸大1期の10名と陸大2期の5名に授与されたのみで明治20年に廃止され、同年に、陸軍大学校卒業徽章(いわゆる「天保銭」)が制定されたと述べている。<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=737|pp=|loc=陸海軍用語の解説-参謀}}</ref>
=== 卒業 ===
[[File:Major Akiyama.PNG|thumb|right|陸軍騎兵少佐当時の[[秋山好古]]。胸部に陸軍大学校卒業徽章を佩用]]
卒業者には胸部に[[菊花紋章|菊花]]と[[五芒星|星章]]をかたどった「陸軍大学校卒業徽章」が授与された。この徽章は[[江戸時代]]の[[天保通宝]]に似ている事から、卒業生は「天保銭組」とも呼ばれ、陸大を出ない将校は「無天保銭組」と通称されていた。両者の間には感情的な対立も生まれたため[[1936年]](昭和11年)に陸大卒業徽章は廃止されている。


[[稲田正純]]<small>(陸大37期恩賜。<ref name=":1" />陸大を卒業した後、[[1929年]](昭和4年)から2年間フランス陸軍大学校に留学し、同校を卒業。<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=21|pp=|loc=「稲田正純」}}</ref>)</small>によると、帝国陸軍の陸軍大学校卒業徽章、いわゆる「天保銭」は、フランス軍の陸軍大学校卒業徽章に倣って制定されたものである。稲田はフランス陸軍大学校からも卒業徽章を授与され、日仏の「天保銭」を併せ持つことになったが、当時のフランス陸軍大学校では、外国軍から留学した将校だけに卒業徽章を授与していた。<ref name=":28">{{Harvnb|上法|1973|p=|pp=307-323|loc=[[稲田正純]]氏の陸大私観}}</ref>
成績評価は各教官の評価を学生に接したことのない学事副官が集計して序列を決めるなど情実が挟まれない仕組みになっていた<ref name="黒野耐2004" />。
陸大卒業生のうち[[首席]]1名、優等5名からなる成績上位6名には[[大元帥]]である[[天皇]]から[[恩賜の軍刀|御賜の軍刀]]が授けられ、授与者は「軍刀組」、「恩賜の軍刀組」と称された。上位12から13名には、外国への留学する権利が与えられた。首席は天皇の前で研究発表(御前発表)を行うのが慣例だった。


===== 「天保銭」の廃止 =====
卒業生は補職や昇進で優遇され、[[昭和]]時代には陸大卒業者が[[陸軍省]]と[[参謀本部]](省部)の[[幕僚]]を独占した。[[旅団]]長と[[師団]]長もほぼすべてが陸大卒業者である。しかしながら恩賜組でも必ずしも将軍になっていない事例が存在し、成績の序列が昇進の全てを決定すると言った硬直した仕組みではない<ref name="黒野耐2004" />。
陸大卒業者は「天保銭組」と呼ばれ<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=59|pp=|loc=}}</ref>、対して陸大を出ない大多数の将校は「無天組」と呼ばれた<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=44|pp=|loc=}}</ref>。


無天組の天保銭組への反発・妬みを考慮し<ref name=":20" />、[[1936年]](昭和11年)5月に陸軍大学校卒業徽章を授与する制度が廃され<ref name=":4" />、既卒者が陸軍大学校卒業徽章を佩用することも禁じられた<ref name="tenposen-haishi" />。よって、同年11月に卒業した48期<ref name=":1" />以降の陸大卒業者には、陸軍大学校卒業徽章は授与されていない。
=== 皇族枠 ===
一般軍人に対しては厳しい選抜試験が課せられたが、[[皇族]][[王公族]]の場合は別枠で形式的な入学試験のみで入校することが可能であった。[[陸軍幼年学校]]においては皇族・王公族以外にも[[華族]](一部[[士族]])に対して優遇枠が設けられていたが、陸大においては皇族にのみ限定されている。入校後の成績や進級に手心は加えてもらえなかったが、成績は公表されない。[[秩父宮雍仁親王]]については成績優秀であったため恩賜の軍刀を与えてはどうかとの議論が教官の間でもちあがった。皇族は卒業後に海外留学するのが一般的だった。


==== 陸大卒業者のその後 ====
== 歴史 ==
陸大卒業者は、それまでの序列とは関係なく、陸士同期生の最右翼(序列トップ)に置かれた。<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=44|loc=}}</ref>陸士同期生の中で陸大卒業期は6‐7期にわたるが、陸大卒業者の中の序列については、陸大卒業成績の上下が、陸大卒業期の先後に優先した。<ref>{{Harvnb|藤井|2013|p=125|loc=}}</ref>
日本陸軍は創設以来[[フランス陸軍]]式の軍制を整えていたが、[[普仏戦争]]において勝利した[[プロイセン王国]]([[ドイツ]])の影響から[[ドイツ陸軍]]式への軍制改革も模索されていた。参謀養成を目的とした教育機関である陸大は、[[1882年]]([[明治]]15年)に「陸軍大学校条例」<ref>[{{NDLDC|787962/350}}]</ref>が制定されて創設され、教官にはフランス軍将校があたっていた。[[1883年]](明治16年)4月に赤坂の[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]敷地内に生徒10人で開校した。


藤井非三四と石井正紀は、陸軍砲工学校高等科優等卒業者は陸大卒業者と同等に扱われ、さらに東京帝国大学等に員外学生として派遣されて学士号を取得した者は陸大恩賜組と同等に扱われたと述べている。<ref>{{Harvnb|藤井|2015|p=232|pp=|loc=}}</ref><ref>{{Harvnb|石井|2014|p=20|loc=}}</ref>秦郁彦は、陸軍砲工学校高等科優等卒業者は、卒業時に恩賜の軍刀を拝受し、人事上は陸大恩賜組と同等に扱われたと述べている。<ref>{{Harvnb|秦|2005|pp=636-637|loc=陸軍砲工(科学)学校高等科卒業生}}</ref>
[[1884年]](明治17年)には[[ドイツ帝国]]の陸軍大学校 ([[:de:Preußische Kriegsakademie|Preußische Kriegsakademie]]) をモデルとすることになり、[[参謀本部 (日本)#参謀本部(明治11年-明治19年)|参謀本部長]][[山縣有朋]]、[[陸軍省#陸軍卿・陸軍大輔|陸軍卿]][[大山巌]]によりドイツ人教官の招聘が決定された。日本からの要請を受けたドイツの陸軍大臣[[w:Paul Bronsart von Schellendorff|ブロンザルト・フォン・シェレンドルフ]]や参謀総長[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ]]は[[1885年]](明治18年)に[[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル]]参謀[[少佐]]を陸大に派遣した。教官となったメッケルはそれまでの[[兵棋演習|図上演習]]等に加えて現地における参謀業務の実習、[[戦術]]教育を重視し、3年次には参謀演習旅行を行った。メッケルは[[1888年]](明治21年)に退任したが、その教育は高く評価され、後年まで影響を与えた。
[[File:Rikugun Daigakko.jpg|right|thumb|陸大跡地(北青山)]]
参謀本部が三宅坂に移転すると現在の青山北町1丁目(現在の北青山1丁目、[[港区立青山中学校]])に校舎が建設され、[[1891年]](明治24年)から利用された。


陸軍省と参謀本部で人事担当部署に約7年勤務し{{Refnest|group="注釈"|[[額田坦]]は、昭和11年12月—昭和13年7月 陸軍省人事課員、昭和13年7月—昭和15年8月 陸軍省人事局補任課長、昭和17年12月—昭和18年10月 参謀本部総務部長、昭和20年2月-昭和20年11月 陸軍省人事局長。}}、陸軍省人事局長を務めた[[額田坦]]は'''「筆者は従来あまり優秀でもない技術将校(員外学生出身)がすべて天保の優秀者なみに抜擢されているから訂正せよ、との注意を受けたこともあり…」(出典からそのまま引用)'''と述べている。<ref>{{Harvnb|額田|1977|p=27|loc=}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|[[山口宗之]]は、陸軍砲工学校高等科優等卒業者、陸軍から外部に派遣されて学士号または学位を取得した者は陸大卒業者と同等に扱われたと述べ、<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=46|loc=}}</ref>さらに陸軍砲工学校高等科優等卒業者で中将以上に進級した者(27名)、学士号取得者で中将以上に進級した者(49名、ただし、内11名は砲工優等と重複)の進級状況について考察し'''「数字上では砲工優等の経歴が重いようである」(出典からそのまま引用)'''としているが、次いで、同じ陸士11期の勝野正魚中将(砲工優等)と[[岸本綾夫]]大将(工学士)の事例を挙げて'''「砲工優等が学士号に対し必ずしも優位でなかったとも思われ、この点明弁しがたい」(出典からそのまま引用)'''としている。<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=54|loc=}}</ref>}}{{Refnest|group="注釈"|石井正紀は、陸士24期生(明治45年卒業)について調査し、「砲工学校高等科を経て員外学生となった者は多くが中将に至る」「砲兵科・工兵科で、砲工学校高等科を卒業したが、員外学生にならず、かつ陸大に進まなかった者の将官への進級割合は7割程度(ただし中将への進級者は少ない)。将官になったか否かという点では、陸大卒業者と比較してさほど遜色ない」という趣旨を述べている。<ref>{{Harvnb|石井|2014|pp=24-28|loc=}}</ref>}}
[[1923年]]([[大正]]12年)から[[1932年]]までは専攻科が設置されていた。[[1933年]](昭和8年)に研究部と専科を設置された。

天保銭組は陸士卒業が前の期の無天組を次々に追い抜いて進級し<ref>{{Harvnb|藤井|2013|p=|pp=230-235|loc=人事を巡る不満の源}}</ref>、中央三官衙の幕僚を占めた<ref>{{Harvnb|今村|1980|p=|pp=83-85|loc=陸軍大学教育}}</ref>。藤井非三四は、陸大18期(1907年(明治39年)卒業)から陸大25期(1913年(大正2年)卒業)までの、陸大卒業者372人について調査して、大将6%、中将38%、少将34%{{Refnest|group="注釈"|藤井非三四の調査で、陸大卒業者の34%が少将に進級しているが、その半数は、<ref name=":18">{{Harvnb|藤井|2015|p=|pp=238-243|loc=「サビ天」まで天保銭もさまざま}}</ref>少将に進級した直後に予備役編入となる<ref>{{Harvnb|藤井|2013|p=|pp=143-146|loc=さらに過酷な将官レース}}</ref>「名誉少将」であった<ref name=":18" />。}}、計78%が将官となっていることを示し、多くが中佐で予備役に編入される無天組とは、進級速度と最終階級の両面で大差があったと述べている。<ref name=":18" />

しかし、陸大首席が佐官止まり(24期首席:陸軍省軍務局騎兵課長・騎兵大佐で予備役<ref name=":1">{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=545-611|loc=陸軍大学校卒業生}}</ref>、25期首席:[[歩兵第61連隊]]附・歩兵中佐で予備役<ref name=":1" />)という事例もある。<ref>{{Harvnb|藤井|2013|p=126|loc=}}</ref>陸軍人事に陸大卒業成績が反映されるのは、陸大を卒業してから10年間とするという内規があったとされる。陸大を大尉で卒業したとして、大佐進級までは陸大卒業席次が大きく影響するが、そこから先、特に大佐から少将への進級には、上下の評価ならびに本人の実績が影響した。<ref name=":12" />

山口宗之は、帝国陸軍の陸軍大将134名(皇族8名を含む)のうち、陸軍の将校養成制度が確立した陸士1期以降の66名(皇族を含まず)について調査し「1.陸大卒業またはそれに準じる資格を持たない陸軍大将は[[鈴木孝雄]]の1名のみ」「2.陸軍大将に親任されるか否かに、幼年学校と陸士の卒業成績は影響なし」「3. 総合的に見て、陸軍大将に親任されるか否かを、陸大卒業成績が左右したとは認めがたい」という趣旨を述べている。<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=|pp=7-24|loc=「陸軍大将」誕生の条件}}</ref>

額田坦は、少将に進級した段階で、その者が中将に進めるか否かは概ね予想できたのに対し、'''「大将親任の予想は中将進級の際には稀有の人を除き、できなかった」(出典からそのまま引用)'''と述べている。<ref>{{Harvnb|額田|1977|p=222|loc=}}</ref>

=== 皇族枠 ===
一般将校に対して厳しい選抜試験が課せられたのに対し、[[皇族]](皇族に準じる扱いを受けた[[王公族]]を含む)は、無試験、もしくは形式的な入校試験で入校できた。陸大に最初に入校した皇族は[[久邇宮邦彦王]]であり、それ以降に陸軍将校となった皇族は、実質的に全員が陸大に入校・卒業している。<ref>{{Harvnb|浅見|2010|pp=49-53|loc=皇族と入試}}</ref>


既述のように、今村均が陸大27期の選抜について詳細に書き残しているが、採用人数60名の2倍の120人が再審を受験し、入校式の直前に60名が合格、残る60名が不合格を告げられた後、'''「同時御入校の、[[北白川宮成久王]]殿下を迎え、新入生61名に対し、入校式が行われた。」(出典からそのまま引用)'''。<ref name=":3" />それまでの再審に北白川宮成久王が加わっていた様子はない。{{Refnest|group="注釈"|北白川宮成久王の陸大27期の卒業席次は52位(卒業者56名)であった。<ref name=":1" />}}
太平洋戦争末期の[[1945年]]([[昭和]]20年)4月に[[山梨県]][[甲府市]]の[[常磐ホテル]]に疎開され、8月の終戦に伴い廃止された。


== 歴代校長 ==
== 歴代校長 ==
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#(兼)[[児玉源太郎]] 歩兵大佐:1887年10月25日 -
#(兼)[[児玉源太郎]] 歩兵大佐:1887年10月25日 -
#[[高橋惟則]] 歩兵大佐:1889年11月2日 -
#[[高橋惟則]] 歩兵大佐:1889年11月2日 -
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#[[田中静壱]] 大将:1944年8月3日 -
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#[[賀陽宮恒憲王]] 中将:1945年3月9日 - 9月16日
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== 主な卒業生 ==
== 主な卒業生 ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Citation |和書 |last=浅見 |first=雅男 |authorlink=浅見雅男 |year=2010 |title=皇族と帝国陸海軍 |publisher=文藝春秋(文春新書)}}
* [[上法快男]]編、 『陸軍大学校』、[[芙蓉書房]]、1988年
* {{Citation |和書 |last=石井 |first=正紀 |authorlink= |year=2014 |title=陸軍員外学生 |publisher=光人社(光人社NF文庫)}}
* [[上法快男]]編、[[高山信武]]著、『続・陸軍大学校』芙蓉書房 1978年
* {{Citation |和書 |last=今村 |first=均 |authorlink=今村均 |year=1980 |title=今村均回顧録 |publisher=芙蓉書房出版}}
* [[黒野耐]]、 『参謀本部と陸軍大学校』、[[講談社現代新書]]、ISBN 4061497073、2004年
* {{Citation |和書 |last=上法 |first=快男 編 |authorlink=上法快男 |year=1973 |title=陸軍大学校 |publisher=芙蓉書房出版 |ISBN=}}
* 防衛教育研究会編 『統帥綱領・統帥参考』 田中書店、1983年 復刻版
* {{Citation |和書 |last=熊谷 |first=直 |authorlink=熊谷光久 |year=2007 |title=帝国陸海軍の基礎知識 |publisher=光人社(光人社NF文庫)}}
* {{Citation |和書 |last=黒野 |first=耐 |authorlink=黒野耐 |year=2004 |title=参謀本部と陸軍大学校 |publisher=講談社(講談社現代新書)}}
* {{Citation |和書 |last=額田 |first=坦 |authorlink=額田坦 |year=1977 |title=陸軍省人事局長の回想 |edition= |publisher=芙蓉書房}}
* {{Citation |和書 |last=秦 |first=郁彦 編著 |authorlink=秦郁彦 |year=2005 |title=日本陸海軍総合事典 |edition=第2 |publisher=東京大学出版会}}
* {{Citation |和書 |last=藤井 |first=非三四 |authorlink= |year=2012 |title=日本軍の敗因 |publisher=学研パブリッシング}}
* {{Citation |和書 |last=藤井 |first=非三四 |authorlink= |year=2013 |title=陸軍人事 |publisher=光人社(光人社NF文庫)}}
* {{Citation |和書 |last=藤井 |first=非三四 |authorlink= |year=2015 |title=昭和の陸軍人事 |publisher=光人社(光人社NF文庫)}}
* {{Citation |和書 |last=保阪 |first=正康 |authorlink=保阪正康 |year=2005 |title=陸軍良識派の研究 |publisher=光人社(光人社NF文庫)}}
* {{Citation |和書 |last=堀 |first=栄三 |authorlink=堀栄三 |year=1996 |title=大本営参謀の情報戦記 |publisher=文藝春秋(文春文庫)}}
* {{Citation |和書 |last=山口 |first=宗之 |authorlink=山口宗之 |year=2005 |title=陸軍と海軍-陸海軍将校史の研究 |edition=増補 |publisher=清文堂}}


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2017年2月12日 (日) 09:01時点における版

1930年代中頃の陸大卒業者、「軍刀組」6名(首席1名および優等5名)

陸軍大学校(りくぐんだいがっこう)は、大日本帝国陸軍における、参謀将校の養成機関[1]軍学校)。略称は陸大(りくだい)。現在の陸上自衛隊では、陸上自衛隊幹部学校に相当する。

歴史

創設

1869年(明治2年)9月に、明治天皇が臨席した集議院での会議で「兵式は陸軍は仏式、海軍は英式を可とすること」とされて以来、帝国陸軍はフランス式の兵制を採用してきた。[2]1873年(明治6年)の「幕僚参謀服務綱領」、これに代わる1879年(明治12年)の「幕僚参謀条例」により、各兵科の将校から適任者を選んで参謀が選任されており、[3]1880年(明治13年)には、フランスの陸軍士官学校・陸軍大学校に1870年(明治3年)から10年間留学した小坂千尋が陸軍参謀大尉となっている。[4][注釈 1]

西南戦争という実戦を経て、参謀将校の養成機関を日本国内に設ける必要性が認識され、[6]1882年明治15年)11月13日付の「陸軍大学校条例」によって陸軍大学校が設置された[4]。創設当初の陸大は、参謀本部長[注釈 2]の直轄であり、校長が置かれなかった。[4]

同年12月以降、幹事の岡本兵四郎歩兵大佐[8]、副幹事の小坂千尋参謀大尉、他に武官教官(大尉から中佐)7名、文官教官(数学科)2名の計11名の教官が任命され、[4]参謀本部構内の旧本部跡を仮の校舎として[9]1883年(明治16年)4月2日に陸大が開校した[9]。当初の陸大の修学期間は、歩兵将校・騎兵将校は予科1年+本科2年の計3年、砲兵将校・工兵将校は本科2年であり、[10]陸大1期(入校者19名[11]または15名[12]、10名卒業[11][12])は、1883年(明治16年)と1884年(明治17年)に入校し、1885年(明治18年)12月24日に卒業した[11]。輜重兵将校には原則として陸大受験資格がなく、例外として、陸軍士官学校騎兵科を卒業して輜重兵将校となった者が、陸大入校を許可されると同時に騎兵将校に復帰する場合のみ、陸大を受験できた。[13]

創設当初の陸大はフランス式であり、小坂をはじめとする武官教官はフランス式兵制しか知らなかった。[14]その教育内容は、数学・化学・物理といった自然科学の比重が大きく、参謀教育に必須の戦術・戦略・戦史については質量ともに手薄であり、実態としては、参謀養成機関というより「陸軍士官学校高等科」であった。[15][16]

メッケルの貢献

1870年(明治3年)から3年間プロイセン王国に留学した桂太郎[17]を中心に、普仏戦争(1870年-71年)の経過に鑑みドイツ式(プロイセン式)の兵制を採用すべし、という主張があった。[18]明治十四年の政変で政界の中心となった伊藤博文も強固なドイツ派であった。当時の帝国陸軍の首脳である山縣有朋大山巌西郷従道らはフランス派であったが[注釈 3]、伊藤や桂の影響で次第にドイツ式兵制への関心を高めた。1884年(明治17年)3月6日には、陸大教官としてドイツ帝国陸軍将校を1名雇い入れることを太政大臣が裁可している。[19]

一方、1883年(明治16年)12月から1885年(明治18年)1月まで、陸軍卿大山巌が軍事視察のため欧州に出張していた。随員には桂(陸軍歩兵大佐、参謀本部管西局長)が加わっていた。従来はフランス式兵制を支持していた大山(1871年(明治4年)から3年間、フランスとスイスに留学[20])だが、桂にドイツ式兵制への移行を進言され、欧州でドイツ帝国の様子を実見するにつれて、桂の進言を受け入れる方向に考えを改めたとされる。[21]

大山は、ドイツ帝国陸軍大臣のブロンザルト・フォン・セレンドルフ中将(en:Paul Bronsart von Schellendorff)に面会し、陸大への教官派遣を要請した。諸説あるが、セレンドルフは、ドイツ帝国参謀総長ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ元帥と協議し、クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル参謀少佐(42歳)を日本に派遣することを決定した。メッケルは、プロイセン王国の陸軍大学校学生であった時にセレンドルフに指導を受けており、当時のドイツ帝国参謀本部の中でも秀才として知られていた。[21]

メッケルの日本への派遣を知った、在日フランス公使館附陸軍武官は、大山の外遊中に陸軍卿代理を務めていた西郷従道に、フランス式兵制を捨てるのかと抗議したが、西郷はこれを一蹴したという。[22]ただし、日本の陸軍士官学校がドイツ式の士官候補生制度に移行し、士官候補生1期(一般に陸士1期と呼ばれる[23])が陸士に入校したのは1888年(明治21年)11月であり、[24]数年間は、陸士はフランス式、陸大はドイツ式と仏式・独式が併存した。[22]

メッケルは1885年(明治18年)3月18日に来日し、1888年(明治21年)3月24日に横浜港を出港した船でドイツに帰国した。滞日期間は3年であった。[注釈 4]帝国陸軍は、メッケルの居館を参謀本部の構内に用意し、メッケルに月500ドルの俸給を支払った。[25]

陸大に着任したメッケルは、陸大の教育課程をドイツ式に改革した。[23]即ち、校内での図上戦術(ドイツ陸軍大学校の教育方法そのままであった[26])・校外での演習旅行による実戦を想定した教育、理論ではなく戦史に例証を求める教育に再構築した。[27][28]メッケルは、外征経験のない帝国陸軍の将校に兵站の概念・知識が欠落していることを憂い、外征における兵站について熱心に教育した。[29]

陸大は、メッケルが3年間で作り上げた教育課程を、1945年(昭和20年)の終焉まで継承した。[30]

メッケルは参謀本部顧問としての役割も果たした。[19]明治19年3月に臨時陸軍制度審査委員会(委員長は児玉源太郎歩兵大佐)が設置され、ここでの研究により6鎮台編制から6個師団編制に移行したこと、陸軍中央が陸軍省・参謀本部・教育総監部の3官衙(中央三官衙[31])に分かれ、参謀本部の組織が確立して統帥権の独立が確立したこと、陸軍の兵制が順を追ってドイツ式に移行したことについては、メッケルの功績が大きい。[27]

メッケルの離日後、1890年(明治23年)に青山に移転した陸軍大学校の正門を入ったところにメッケルのブロンズ[32]胸像が設置され(敗戦後に行方不明となった[32])、参謀本部の食堂にメッケルの肖像画が掲げられた。[26]

制度改正

1887年(明治19年)に、全兵科(この時点では、歩兵、騎兵、砲兵、工兵)の将校の修学期間が3年に統一されたという。[13][1]ただし、1886年(明治19年)12月2日に「陸軍大学校条例」が改訂されているが[33]、修学期間についての言及は見当たらない。

1887年(明治20年)8月に「陸軍大学校条例」が大幅に改訂された[34]。輜重兵将校に対する受験制限が廃止された(第1条)[35]。修学期間が3年と明記された(第18条)。校長が置かれた(第2条)[35](初代校長は、児玉源太郎歩兵大佐[36])。

1933年(昭和8年)に師団参謀要員の養成課程として「専科学生」(修学期間は約1年)が新設され、1944年(昭和19年)までに480名が卒業した。他に「専攻学生」と「航空学生」が短期間存在したが、卒業者は両者を合わせて100名に満たない[1]

終焉

陸大の修学期間は本来は3年であったが、太平洋戦争(大東亜戦争)の激化により、1942年(昭和17年)12月入校の58期は1年8ケ月で卒業し、1943年(昭和18年)12月入校の59期は、当初は1年3ケ月の予定であったが、1944年(昭和19年)12月に1年の修学で卒業し[注釈 5]、同時に陸大の教育が中止された。[37]

翌年、1945年(昭和20年)1月に、陸大の教育を同年2月に再開すると発表され、陸大最後の期となった60期が2月11日[11]に入校した。60期の修学期間は当初は1年の予定であったが、3月に参謀次長から「60期生が7月までの課程を修了すれば、陸大を閉鎖する可能性がある」旨が通知され、8月6日[11]に卒業した。[37]敗戦直前に卒業した60期についても、従来通りに、優等卒業者6名に恩賜の軍刀が授与された。[11]なお、同年2月には、61期の採用についての陸軍大臣の通達[37]が発せられ、同年6月に初審を行う予定となっていたが、これは実行されずに終わった。[37]

校地の変遷

陸大跡地(北青山)

1883年(明治16年)に開校した際に仮校舎とした参謀本部構内の旧本部跡から、1884年(明治17年)に和田倉門内に新築した校舎に移転した。[9]明治17年に陸大が移転したのは、和田倉門の近くの「旧大名屋敷」であったとする文献があり、[16][38]それを踏襲した記載が千代田区観光協会のサイトにある[39]。しかし、明治17年3月1日付の陸軍省達には「陸軍大学校今般和田倉門内へ新築落成候に付去月廿八日同所へ移転候条為御心得段及御通牒候也」と明記されている。[40]

1890年(明治23年)に青山(現在の北青山1丁目、港区立青山中学校が所在)に恒久的な校舎を新築、移転した。[9]陸大は「青山」と通称された。[41]

太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)3月には山梨県甲府市に疎開した[42]。ただし、青山の陸大校舎は戦災で失われずに港区立青山中学校の校舎に転用され[41]1985年(昭和60年)に同中学校の新校舎が建設されるまで使用された[43]

概要

陸大は参謀本部の管轄であり、陸大卒業生(参謀適格者)の人事も参謀本部の総務部庶務課が行った。[44]期ごとの人数は草創期を除いて50名から60名で推移し[45]、最終期である60期は120名[11]。卒業者は通算で3,007名。[1]陸士同期生のほぼ1割程度が陸大に入校できたとされる。[46]

選抜

陸大の受験資格者は、陸軍現役将校のうち、所属長(連隊長など)の推薦を受けた、陸士を経て少尉任官後に隊附(部隊勤務)2年以上の中尉少尉[1]大尉に進級すると受験資格を失った。[45]陸士出身者以外で陸大を卒業したのは1名のみ(陸大1期の東條秀教)である。[47]修学期間は3年。[1]なお受験資格・修学期間とも変遷がある。[1]

士官候補生出身ではない、陸軍少尉候補者出身の陸軍現役将校も、士官候補生出身者と対等に扱われ、陸大の受験資格を有していた。ただし、少尉候補者出身者が陸大入校を果たした例はなかった。[48]

1933年(昭和8年)に制度化された特別志願将校[注釈 6]は「召集された陸軍予備役将校」の身分であり、陸軍現役将校に該当しないために陸大の受験資格がなかったが、1939年(昭和14年)の制度改正により、予備役から現役への転役を志願する特別志願将校は、陸軍士官学校丁種学生(約1年)を経て陸軍現役将校に採用されることが可能になった。[49]特別志願将校出身の現役陸軍将校も、陸大の受験資格を有したと思われる。

入校試験は初審(筆記試験)と再審の二段階であった。陸大合格には、3年程度をかけての受験勉強が必要だった。[50]初審は受験者の属する司令部の所在地で行われ、再審は陸大で行われた。[51]

1921年(大正10年)に陸大に入校した有末精三(陸大36期恩賜)[11]によると、4月に初審を受験する段階で、人数が入校予定者の10倍程度に絞られている。初審科目は、戦術甲(戦闘原則)、戦術乙(陣中用務)、戦術丙(図上戦術)、築城、兵器、交通、歴史、数学、語学の9科目。入校予定者の2倍の人数に合格が通知されるのが8月である。年末に再審が行われるが、これは人物考査を兼ねている。再審初日に図上戦術の筆記試験が行われ、以降、受験者は一日おきに陸大に出頭し、20日ほどをかけて各科目の口頭試験を受ける(試験官を務める教官は毎日である)。受験者の多くがノイローゼ気味になり、不合格を確信するほどの厳しい試験であったが、50名ほどの陸大専任教官が全力で行う再審は、当時、最も公正な試験であると認められていた。[52]

今村均(陸大27期首席[11])が陸大に入校した1912年(明治45年/大正元年)の入校試験の経過は以下の通り。[53]

今村が属する第2師団は、1910年(明治43年)4月から[54]1912年(明治45年)4月まで朝鮮に駐箚しており、初審は第2師団司令部が所在する京城で4月に実施され、7日間を要した。今村は前年も京城で初審を受験しており、所要日数は同じだった。8月、朝鮮駐箚を終えて衛戍地の仙台に戻っていた第2師団司令部に、陸大から「今村は初審に合格したので12月1日に陸大に出頭すべし」と通知された。再審は12月2日から10日間に渡って実施され、受験者は120名であった。1日目から9日目までは、学識を問う通常の口頭試験であり、戦術は5名の陸大教官が、他の課目は2‐3名の陸大教官が試験官を務めた。10日目は「人物考査」という課目であり、陸大幹事(校長に次ぐNo2[1])の鈴木荘六少将、先任兵学教官(中佐)の2名が試験官であった。今村に対する試問は、学識を問うものではなく、圧迫面接のように、答えに窮する問いを意図的にぶつけて反応を試すものであった。12月12日、入校式の直前に、受験者全員120名が陸大の大講堂に集められて、うち60名が合格と告げられ、今村は合格した。[53]
それから14年後、鈴木荘六が参謀総長、今村が参謀本部部員であった時[注釈 7]、鈴木に随行していた今村が、陸大入校試験のことを尋ねると、鈴木は「あれはわしの主張で、あの年初めてやったこと」(出典からそのまま引用)であり、多くの者に、今村に行ったのと同内容の”圧迫面接”を行ったと答えた。[53]

教育

陸大の教育内容は、1913年(大正2年)の課程を概説すると下記の通り。[57]

  1. 午前と午後に分け、午前は軍事科目、午後は一般教養科目。
  2. 午前の軍事科目は、主要3科目として、戦術が週3回、戦史が週1-2回、参謀用務が週1-2回。他に兵要地学、交通、兵器、築城、経理、衛生などが講義された。
  3. 午後の一般教養科目は、語学(陸士での各人の専攻語学により、英語・仏語・独語・露語・中国語に分かれる)が年間150時間程度、馬術が年間140時間程度。他に歴史、数学、統計学、法律、国際法。
  4. 2年生と3年生は、学年合同での大掛かりな兵棋演習を、年間に20回~30回実施。
  5. 2年生で、海軍戦術を23回。
  6. 3年間を通じて、春と秋の2回、校外での現地戦術がある。1年生と2年生は年間21日間。
  7. 3年生の現地戦術は、特に「参謀演習旅行」と呼んだ。特に第2回は、教官が故意に困難な状況(問題。貴官が師団長であれば、この場面においてどう判断し、どう部隊を動かすか?)を学生に示し、決心(答え。このように判断し、このように命令する)を求めることを繰り返すもので、参謀演習旅行の2週間ほど、学生は不眠不休となった。知力に加えて体力の限界を試す目的があった。
  8. 日露戦争や日清戦争の戦跡地を巡る「満鮮旅行」、夏季には、自分の兵科とは異なる兵科での隊付勤務(1.5カ月)。

戦術教育は、参謀演習旅行の項で述べたように、教官が状況を示し、学生が決心を答えるというマンツーマンの教育であった。教官は出題に当たり正解(原案といった)を用意しているが、学生が答えた決心の筋道が通っていれば、原案と異なった結論であっても良しとした。戦史教育では、欧州戦史が主な題材となり、日本戦史・東洋戦史は従であった。[58]

卒業

陸軍騎兵少佐当時の秋山好古。胸部に陸軍大学校卒業徽章を佩用

陸大の卒業席次は、各教官が担当科目について採点した点数を、陸大副官が集計し、陸大を所管している参謀本部の総務部長に直接報告して定められるシステムであり、陸大の校長・幹事らは関与しなかった。[59]陸大の卒業式には必ず天皇が行幸し、卒業席次上位6名には御賜の軍刀が授けられ[注釈 8][60]、これら6名は「軍刀組」[61][62][63]あるいは「恩賜組」[64]と呼ばれた。首席卒業者は天皇の前で40分間の御前講演を行った。[60]陸大27期首席として、1915年(大正4年)12月11日の卒業式で、大正天皇に対し御前講演を行った今村均は、講演原稿を全て暗記したという。[65]

いわゆる「天保銭」

陸大卒業者は、陸軍大学校卒業徽章(1887年(明治20年)8月に制定、1936年(昭和11年)5月に廃止・佩用禁止)を右胸に佩用した。この徽章は楕円形の形状が天保通宝に似ていることから「天保銭」と通称された[66][注釈 9]

「天保銭」以前

上法快男『陸軍大学校』によると、1885年(明治18年)12月に陸大1期が卒業するに先立って「陸軍参謀官適任証書所有徽章」(出典ママ)が制定され、小坂千尋に第1号が授与され、第2号以降は陸大1期卒業者に授与されたという。[4] 黒野耐も同様のことを述べており、この「陸軍参謀官適任証書所有徽章」(出典ママ)が、いわゆる「天保銭」、すなわち陸軍大学校卒業徽章だとする。[69]ただし、1882年(明治15年)11月13日付の「陸軍大学校条例」[70]には「第14条 卒業試験に於て及第する者には参謀職務適任証書を授与し原隊 隊外は原所管 に復帰せしむ」と、卒業者全員に参謀職務適任証書を授与する制度が規定されているのみである。また1886年(明治19年)12月2日に陸軍大学校条例が改訂された際の書類には、改訂前の陸軍大学校条例の条文(17年6月陸軍省達と記載)が収録されているが、第14条は明治15年時点の条文と同一であり、[33]明治18年に「陸軍参謀官適任証書所有徽章」を授与する制度が存在した形跡はない。

1886年(明治19年)12月に「陸軍大学校条例」が改訂され、[33]「第13条 卒業試験に於て及第する者には卒業を表章するための徽章を授与し其優等のものには更に参謀職務適任証書を与え原隊 隊外は原所管 に復帰せしむ」と規定され、卒業者全員に徽章を授与し、優秀者のみに、加えて参謀職務適任証書を授与する制度に変更された。[33][13]ただし、この徽章は、金色の星型徽章を2個授与され、軍服の詰襟の両側に1個ずつ装着するものであり、いわゆる「天保銭」とは異なっていた。[13]この年の12月28日に卒業した2期(9名)のうち、参謀職務適任証書を授与されたのは5名であった(うち3名は恩賜の望遠鏡を拝受)。[11]

「天保銭」の制定

1887年(明治20年)8月に「陸軍大学校条例」が大幅に改訂され、従来の第13条に該当する条文は第26条となり、「第26条 卒業者には卒業証書及ひ之を表章する徽章を付与す其徽章は定規の服装に於て上衣右乳部の下方に附着せしむ」と規定された。[34]参謀職務適任証書を授与する従来の制度は完全に廃され、陸大卒業者全員に、卒業証書と、銀の菊座に金色金属の星章を配した[71]「陸軍大学校卒業徽章[72]」、いわゆる「天保銭」を授与する制度に変更された。[35]よって、同年12月に卒業した3期(卒業者7名)以降の陸大卒業者には陸軍大学校卒業徽章が授与された。

秦郁彦は「参謀服務適任証書」(出典ママ)は陸大1期の10名と陸大2期の5名に授与されたのみで明治20年に廃止され、同年に、陸軍大学校卒業徽章(いわゆる「天保銭」)が制定されたと述べている。[73]

稲田正純(陸大37期恩賜。[11]陸大を卒業した後、1929年(昭和4年)から2年間フランス陸軍大学校に留学し、同校を卒業。[74]によると、帝国陸軍の陸軍大学校卒業徽章、いわゆる「天保銭」は、フランス軍の陸軍大学校卒業徽章に倣って制定されたものである。稲田はフランス陸軍大学校からも卒業徽章を授与され、日仏の「天保銭」を併せ持つことになったが、当時のフランス陸軍大学校では、外国軍から留学した将校だけに卒業徽章を授与していた。[19]

「天保銭」の廃止

陸大卒業者は「天保銭組」と呼ばれ[75]、対して陸大を出ない大多数の将校は「無天組」と呼ばれた[76]

無天組の天保銭組への反発・妬みを考慮し[69]1936年(昭和11年)5月に陸軍大学校卒業徽章を授与する制度が廃され[45]、既卒者が陸軍大学校卒業徽章を佩用することも禁じられた[72]。よって、同年11月に卒業した48期[11]以降の陸大卒業者には、陸軍大学校卒業徽章は授与されていない。

陸大卒業者のその後

陸大卒業者は、それまでの序列とは関係なく、陸士同期生の最右翼(序列トップ)に置かれた。[77]陸士同期生の中で陸大卒業期は6‐7期にわたるが、陸大卒業者の中の序列については、陸大卒業成績の上下が、陸大卒業期の先後に優先した。[78]

藤井非三四と石井正紀は、陸軍砲工学校高等科優等卒業者は陸大卒業者と同等に扱われ、さらに東京帝国大学等に員外学生として派遣されて学士号を取得した者は陸大恩賜組と同等に扱われたと述べている。[79][80]秦郁彦は、陸軍砲工学校高等科優等卒業者は、卒業時に恩賜の軍刀を拝受し、人事上は陸大恩賜組と同等に扱われたと述べている。[81]

陸軍省と参謀本部で人事担当部署に約7年勤務し[注釈 10]、陸軍省人事局長を務めた額田坦「筆者は従来あまり優秀でもない技術将校(員外学生出身)がすべて天保の優秀者なみに抜擢されているから訂正せよ、との注意を受けたこともあり…」(出典からそのまま引用)と述べている。[82][注釈 11][注釈 12]

天保銭組は陸士卒業が前の期の無天組を次々に追い抜いて進級し[86]、中央三官衙の幕僚を占めた[87]。藤井非三四は、陸大18期(1907年(明治39年)卒業)から陸大25期(1913年(大正2年)卒業)までの、陸大卒業者372人について調査して、大将6%、中将38%、少将34%[注釈 13]、計78%が将官となっていることを示し、多くが中佐で予備役に編入される無天組とは、進級速度と最終階級の両面で大差があったと述べている。[88]

しかし、陸大首席が佐官止まり(24期首席:陸軍省軍務局騎兵課長・騎兵大佐で予備役[11]、25期首席:歩兵第61連隊附・歩兵中佐で予備役[11])という事例もある。[90]陸軍人事に陸大卒業成績が反映されるのは、陸大を卒業してから10年間とするという内規があったとされる。陸大を大尉で卒業したとして、大佐進級までは陸大卒業席次が大きく影響するが、そこから先、特に大佐から少将への進級には、上下の評価ならびに本人の実績が影響した。[59]

山口宗之は、帝国陸軍の陸軍大将134名(皇族8名を含む)のうち、陸軍の将校養成制度が確立した陸士1期以降の66名(皇族を含まず)について調査し「1.陸大卒業またはそれに準じる資格を持たない陸軍大将は鈴木孝雄の1名のみ」「2.陸軍大将に親任されるか否かに、幼年学校と陸士の卒業成績は影響なし」「3. 総合的に見て、陸軍大将に親任されるか否かを、陸大卒業成績が左右したとは認めがたい」という趣旨を述べている。[91]

額田坦は、少将に進級した段階で、その者が中将に進めるか否かは概ね予想できたのに対し、「大将親任の予想は中将進級の際には稀有の人を除き、できなかった」(出典からそのまま引用)と述べている。[92]

皇族枠

一般将校に対して厳しい選抜試験が課せられたのに対し、皇族(皇族に準じる扱いを受けた王公族を含む)は、無試験、もしくは形式的な入校試験で入校できた。陸大に最初に入校した皇族は久邇宮邦彦王であり、それ以降に陸軍将校となった皇族は、実質的に全員が陸大に入校・卒業している。[93]

既述のように、今村均が陸大27期の選抜について詳細に書き残しているが、採用人数60名の2倍の120人が再審を受験し、入校式の直前に60名が合格、残る60名が不合格を告げられた後、「同時御入校の、北白川宮成久王殿下を迎え、新入生61名に対し、入校式が行われた。」(出典からそのまま引用)[53]それまでの再審に北白川宮成久王が加わっていた様子はない。[注釈 14]

歴代校長

  1. (兼)児玉源太郎 歩兵大佐:1887年10月25日 -
  2. 高橋惟則 歩兵大佐:1889年11月2日 -
  3. 大島久直 歩兵大佐:1890年6月13日 -
  4. 塩屋方圀 砲兵大佐:1892年2月6日 -
  5. (扱)藤井包總 工兵大佐:1894年8月1日 -
  6. (扱)塩屋方圀 少将:1895年6月24日 -
  7. (扱)立見尚文 少将:1896年1月27日 -
  8. (扱)大島久直 少将:1896年4月1日 -
  9. 大島久直 少将:1896年5月11日 - 6月6日
  10. 塚本勝嘉 歩兵大佐:1896年6月6日 -
  11. 大島久直 少将:1897年4月24日 -
  12. 上田有沢 少将:1898年10月1日 -
  13. (扱)寺内正毅 中将:1901年2月18日 - 1902年3月27日
  14. (心)藤井茂太 砲兵大佐:1902年5月5日 - 1902年6月21日
  15. 藤井茂太 少将:1902年6月21日 - 1906年2月6日
  16. 井口省吾 少将:1906年2月6日 - 1912年11月27日
  17. 大井菊太郎 少将:1912年11月27日 - 1914年5月11日
  18. 由比光衛 中将:1914年5月11日 - 1915年1月25日
  19. 河合操 少将:1915年1月25日 - 1917年8月6日
  20. 浄法寺五郎 中将:1917年8月6日 -
  21. 宇垣一成 少将:1919年4月1日 -
  22. 星野庄三郎 中将:1921年3月11日 -
  23. 田村守衛 少将:1922年2月8日 -
  24. 和田亀治 中将:1923年8月6日 -
  25. 渡辺錠太郎 中将:1925年5月1日 -
  26. (兼)金谷範三 中将:1926年3月2日 -
  27. 林銑十郎 中将:1927年3月5日 -
  28. 荒木貞夫 中将:1928年8月10日 -
  29. 多門二郎 中将:1929年8月1日 -
  30. 牛島貞雄 少将:1930年12月22日 -
  31. 広瀬猛 中将:1933年8月18日 - 1934年7月17日
  32. (兼)杉山元 中将:1934年8月1日 -
  33. 小畑敏四郎 少将:1935年3月18日 -
  34. 前田利為 少将:1936年8月1日 -
  35. (兼)今井清 中将:1937年8月2日 -
  36. (兼)多田駿 中将:1937年8月14日 -
  37. 塚田攻 少将:1938年3月5日 -
  38. 飯村穣 少将:1938年12月10日 -
  39. 藤江恵輔 中将:1939年10月26日 -
  40. 山脇正隆 中将:1941年4月10日 -
  41. 下村定 中将:1941年9月3日 -
  42. 岡部直三郎 中将:1942年10月8日 -
  43. 飯村穣 中将:1943年10月29日 -
  44. (兼)秦彦三郎 中将:1944年3月22日 -
  45. 田中静壱 大将:1944年8月3日 -
  46. 賀陽宮恒憲王 中将:1945年3月9日 - 9月16日

主な卒業生

脚注

注釈

  1. ^ 小坂千尋(1850年(嘉永3年)生。周防国岩国出身)は、明治16年の参謀科廃止[3]により、明治16年5月7日付で陸軍歩兵大尉[4]。陸大4期(明治19年1月入校、明治21年11月卒業)の大井成元が、小坂の講義に感銘を受けたと述懐している。児玉源太郎に重用され、陸軍歩兵中佐[5]で陸軍省軍務局第1軍事課長(軍務局の筆頭課長。在任は明治23年3月27日-明治24年11月7日。[5])の要職を務めたが、現職のまま1891年(明治24年)11月7日にコレラにより死去。山縣有朋は「小坂逝きて吾兵を語らず」と小坂の夭折を惜しんだ。[4]
  2. ^ 参謀本部の長が参謀総長となったのは1889年(明治22年)[7]
  3. ^ 1870年(明治3年)、兵部少輔の山縣有朋は、兵部大丞の西郷従道と共に、帝国陸軍へのフランス式兵制採用を主導した。これは前年に死去した大村益次郎の遺志を継いだものであった。山縣は、普仏戦争前夜の欧州を視察しており、個人的にはドイツ式兵制を好ましいと考えていたが、尊敬する先輩である大村の遺志を尊重すること、および当時の日本には、フランス語のできる者に比べてドイツ語のできる者は極めて少なく、急を要する陸軍建設にはフランス式兵制を採用するしかないという事情があった。[19]
  4. ^ メッケルの滞日期間については、4年説もある。[25]
  5. ^ 59期が陸大を卒業した後、その過半数に対し、参謀本部で1ケ月から2ケ月の教育が行われた。[37]
  6. ^ 幹部候補生一年志願兵出身で在郷中の少尉・中尉が、軍務に就くことを志願すると、特別志願将校に任用された。1933年(昭和8年)にできた制度。[49]
  7. ^ 鈴木は1926年(大正15年)3月から1930年(昭和5年)2月まで参謀総長[55]、今村は1921年(大正10年)8月から1926年(大正15年)8月まで参謀本部部員[56]。この挿話は大正15年のことであろう。
  8. ^ 陸大優等卒業者への恩賜品は、6期までは望遠鏡、それ以降は軍刀。[11]
  9. ^ 天保通宝は8厘(0.8銭)銅貨として[67]1891年(明治24年)12月31日まで通用した[68]。天保通宝が1銭に足りない価値しかなかったことから、時流に乗り遅れた人、知恵の足りない人を「天保銭」と揶揄した。[67]陸大卒業徽章が制定された明治20年は、天保銭が未だ現役の貨幣であった時期である。
  10. ^ 額田坦は、昭和11年12月—昭和13年7月 陸軍省人事課員、昭和13年7月—昭和15年8月 陸軍省人事局補任課長、昭和17年12月—昭和18年10月 参謀本部総務部長、昭和20年2月-昭和20年11月 陸軍省人事局長。
  11. ^ 山口宗之は、陸軍砲工学校高等科優等卒業者、陸軍から外部に派遣されて学士号または学位を取得した者は陸大卒業者と同等に扱われたと述べ、[83]さらに陸軍砲工学校高等科優等卒業者で中将以上に進級した者(27名)、学士号取得者で中将以上に進級した者(49名、ただし、内11名は砲工優等と重複)の進級状況について考察し「数字上では砲工優等の経歴が重いようである」(出典からそのまま引用)としているが、次いで、同じ陸士11期の勝野正魚中将(砲工優等)と岸本綾夫大将(工学士)の事例を挙げて「砲工優等が学士号に対し必ずしも優位でなかったとも思われ、この点明弁しがたい」(出典からそのまま引用)としている。[84]
  12. ^ 石井正紀は、陸士24期生(明治45年卒業)について調査し、「砲工学校高等科を経て員外学生となった者は多くが中将に至る」「砲兵科・工兵科で、砲工学校高等科を卒業したが、員外学生にならず、かつ陸大に進まなかった者の将官への進級割合は7割程度(ただし中将への進級者は少ない)。将官になったか否かという点では、陸大卒業者と比較してさほど遜色ない」という趣旨を述べている。[85]
  13. ^ 藤井非三四の調査で、陸大卒業者の34%が少将に進級しているが、その半数は、[88]少将に進級した直後に予備役編入となる[89]「名誉少将」であった[88]
  14. ^ 北白川宮成久王の陸大27期の卒業席次は52位(卒業者56名)であった。[11]

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参考文献

  • 浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』文藝春秋(文春新書)、2010年。 
  • 石井正紀『陸軍員外学生』光人社(光人社NF文庫)、2014年。 
  • 今村均『今村均回顧録』芙蓉書房出版、1980年。 
  • 上法快男 編『陸軍大学校』芙蓉書房出版、1973年。 
  • 熊谷直『帝国陸海軍の基礎知識』光人社(光人社NF文庫)、2007年。 
  • 黒野耐『参謀本部と陸軍大学校』講談社(講談社現代新書)、2004年。 
  • 額田坦『陸軍省人事局長の回想』芙蓉書房、1977年。 
  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。 
  • 藤井非三四『日本軍の敗因』学研パブリッシング、2012年。 
  • 藤井非三四『陸軍人事』光人社(光人社NF文庫)、2013年。 
  • 藤井非三四『昭和の陸軍人事』光人社(光人社NF文庫)、2015年。 
  • 保阪正康『陸軍良識派の研究』光人社(光人社NF文庫)、2005年。 
  • 堀栄三『大本営参謀の情報戦記』文藝春秋(文春文庫)、1996年。 
  • 山口宗之『陸軍と海軍-陸海軍将校史の研究』(増補)清文堂、2005年。 

関連項目