稲田正純

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
稲田 正純
Inada Masazumi.jpg
稲田正純
生誕 1896年8月27日
大日本帝国の旗 大日本帝国 鳥取県
死没 (1986-01-24) 1986年1月24日(89歳没)
日本の旗 日本
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1917 - 1945
最終階級 帝國陸軍の階級―襟章―中将.svg 陸軍中将
テンプレートを表示

稲田 正純(いなだ まさずみ、1896年明治29年)8月27日 - 1986年昭和61年)1月24日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴[編集]

鳥取県日野郡黒坂村(現在の日野町)出身。陸軍三等軍医稲田清淳の二男として生まれる。

米子中学校(現在の米子東高校)、広島陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1917年大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業、同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第10連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、さらに1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を優等で卒業した。

参謀本部付勤務、参謀本部員、フランス駐在、仏陸大卒業、野戦重砲兵第2連隊大隊長、陸大教官、参謀本部員(防衛課)、参謀本部作戦課戦争指導班長、陸軍省軍務局軍事課高級課員、参謀本部作戦課長(1939年、ノモンハン事件当時)、陸軍習志野学校付、阿城重砲兵連隊長、第5軍参謀副長などを歴任し、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に昇進。

第5軍参謀長を経て、1943年(昭和18年)2月、南方軍総参謀副長となるが、インパール作戦実施に強硬に反対し更迭された。南方軍総司令部付、第19軍司令部付、第2野戦根拠地隊司令官、第6飛行師団長心得、第3船舶輸送司令官陸軍兵器本廠付などを経て、1945年(昭和20年)4月、陸軍中将に進級した。第16方面軍参謀長として九州で本土決戦に備えていたが終戦を迎え、同年11月に復員した。

1946年(昭和21年)8月、九州大学生体解剖事件及び油山事件油山米兵捕虜斬首事件)の戦犯容疑で巣鴨プリズンに入所し、1948年(昭和23年)8月、横浜軍事法廷BC級戦犯として重労働7年の判決を受けたが、1951年(昭和26年)6月に釈放された。

1952年

1975年(昭和50年)頃、ノモンハン事件を執筆しようと考えていた作家の司馬遼太郎が、文藝春秋半藤一利とともに稲田のもとを訪れた。事件当時の参謀本部作戦課長であった稲田は、「とにかく悪いのはみんな関東軍だ。現地が言う事を聞かなかったからあんなことになった」「国境線のことは関東軍に任せていた」というような話しかしない。その無責任な態度に司馬遼太郎は、「いくらなんでもあんまりじゃないか。こんな奴が作戦課長だったのかと、心底あきれた」と半藤に語ったという[1]

第六飛行師団長心得としてニューギニア島のホーランディアに駐屯していた時に,米軍の奇襲上陸を受け,這う這うの体で、師団は西方に230キロ離れたサルミに撤退した。師団の兵員も含めて,14500名のホーランディア守備隊のうち,二か月後にサルミにたどりついた将兵はわずか1500名に過ぎなかった。米軍がサルミに侵攻する兆しが見えると,稲田は空中勤務者13名と司令部要員だけを連れて,大部分の部下を見捨てて後方に脱出した。陸軍部内でも独りよがりな稲田の行動は問題となり,のちに停職二か月の処分に付される[2]

親族[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]

出典[編集]

  1. ^ 『昭和の名将と愚将』178頁。
  2. ^ 瀬戸利春「検証西部ニューギニアの攻防 新しい機動戦に敗れた古い機動戦の軍隊」『歴史群像』2016年4月号(第136号)、学研プラス、pp.50 - 65


参考文献[編集]

外部リンク[編集]