飯村穣
飯村 穣 | |
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![]() 飯村穣
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生誕 | 1888年5月20日![]() |
死没 | 1976年2月21日(87歳没) |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1909 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20日 - 1976年(昭和51年)2月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。茨城県出身。
総力戦研究所において研究生とともに「総力戦机上演習」という日米開戦となった場合のシミュレーションをおこない、日本の敗北という結論を出した。この演習では船舶の喪失が生産量を上回り、戦争遂行が困難になること、ソ連とアメリカが軍事的に協力する(演習ではソ連極東地方の米軍の軍事利用という設定)ことなど実際の太平洋戦争をかなり正確に予測した。この演習の結果は当時の第3次近衛内閣の閣僚にも報告され陸軍大臣だった東条英機も聞いていたが、「机上の空論」と評され、無視された。
軍歴[編集]
- 1909年(明治42年)7月 陸軍士官学校卒業(21期)
- 1913年(大正2年)2月 陸軍歩兵中尉
- 1917年(大正6年)3月 東京外国語学校(現・東京外国語大学)修了
- 1918年(大正7年)12月 陸軍大学校入学
- 1919年(大正8年)6月 陸軍歩兵大尉
- 1921年(大正10年)11月 陸軍大学校卒業(33期)・近衛歩兵第3連隊中隊長
- 1922年(大正11年)12月 参謀本部附勤務
- 1923年(大正12年)8月 参謀本部員
- 1924年(大正13年)8月 陸軍歩兵少佐
- 10月 朝鮮軍司令部附(ポグラニチナヤ駐在)
- 1925年(大正15年)12月 陸軍大学校教官
- 1928年(昭和3年)8月 陸軍歩兵中佐
- 1930年(昭和5年)1月10日 トルコ大使館附陸軍武官
- 1932年(昭和7年)5月28日 陸軍大学校教官
- 8月8日 陸軍歩兵大佐
- 1933年(昭和8年)3月18日 参謀本部第4(欧米情報)課長
- 9月29日 兼陸軍大学校教官
- 1935年(昭和10年)3月15日 歩兵第61連隊長
- 1937年(昭和12年)3月1日 陸軍少将・陸大研究部主事
- 12月1日 陸軍大学校幹事
- 1938年(昭和13年)12月10日 陸軍大学校校長
- 1939年(昭和14年)8月1日 陸軍中将
- 9月7日 関東軍参謀長
- 1940年(昭和15年)10月22日 参謀本部附
- 1941年(昭和16年)1月11日 総力戦研究所所長
- 10月15日 第5軍司令官
- 1943年(昭和18年)10月29日 陸軍大学校校長
- 1944年(昭和19年)3月22日 南方軍総参謀長
- 12月26日 第2方面軍司令官
- 1945年(昭和20年)6月22日 東京防衛軍司令官
逸話[編集]
東京外国語学校ではフランス語を習得し、トルコに駐在していたときはトルコの陸軍大学でフランス語で講義をしていた。