藤井包總

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藤井 包總
ふじい かねすけ
Kanesuke Fujii.jpg
生誕 1850年2月25日
日本の旗 備後国 福山
死没 (1925-12-05) 1925年12月5日(75歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国 東京小石川区江戸川町
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1871 - 1906
最終階級 帝國陸軍の階級―肩章―中将.svg 陸軍中将
除隊後 貴族院議員、維新史料編纂会委員
墓所 護国寺
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藤井 包總(ふじい かねすけ、1850年2月25日嘉永3年1月14日) - 1925年(大正14年)12月5日)は、日本の陸軍軍人政治家華族。最終階級は陸軍中将貴族院男爵議員

経歴[編集]

広島県出身。備後福山藩士の藤井忠治の長男として生まれる。藩校誠之館に学び、門田重長に師事する。明治4年9月15日1871年10月28日)、陸軍少尉に任官。1874年(明治7年)9月30日陸軍大尉[1]、(明治13年)7月21日工兵少佐へ昇進。1885年(明治18年)6月22日工兵中佐に昇進[2]し、同日陸軍士官学校学科提理に就任[3]1887年(明治20年)6月15日、陸軍幼年学校長に転じ[4]1889年(明治22年)6月3日、陸地測量部長心得となり[5]、同年9月20日、工兵大佐に昇進した[6]

1894年(明治27年)8月、陸軍大学校長事務取扱に就任。1895年(明治28年)6月、陸地測量部長に異動し、1896年(明治29年)10月、陸軍少将に進級した。

1904年(明治37年)6月、留守参謀本部事務取扱に就任し、1905年(明治38年)2月、陸軍中将に進んだ。1906年(明治39年)7月6日、予備役に編入[7]1913年大正2年)4月1日、後備役となり[8]1917年(大正6年)4月1日に退役した[9]

1907年(明治40年)9月21日、その功績により男爵の爵位を授爵し華族となった。1911年(明治44年)7月から1925年(大正14年)7月まで貴族院議員に在任した。その他、維新史料編纂会委員も務めた。

栄典[編集]

位階
勲章等

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『太政官日誌』明治7年第140号。
  2. ^ 『官報』第631号、明治18年8月7日。
  3. ^ 『官報』第596号、明治18年6月27日。
  4. ^ 『官報』第1189号、明治20年6月17日。
  5. ^ 『官報』第1779号、明治22年6月6日。
  6. ^ 『官報』第1872号、明治22年9月24日。
  7. ^ 『官報』第6906号、明治39年7月7日。
  8. ^ 『官報』第201号、大正2年4月4日。
  9. ^ 『官報』第1401号、大正6年4月6日。
  10. ^ 『官報』第695号、明治18年10月23日。
  11. ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
  12. ^ 『官報』第4021号「叙任及辞令」1896年11月21日。
  13. ^ 『官報』第5547号、明治34年12月27日。
  14. ^ 『官報』第6979号「叙任及辞令」1906年10月2日。
  15. ^ 『官報』第1252号「叙任及辞令」1916年10月2日。
  16. ^ 『官報』第3991号「叙任及辞令」1925年12月12日。
  17. ^ 『官報』第438号、明治17年12月11日。
  18. ^ 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
  19. ^ 『官報』第2828号「叙任及辞令」1892年11月30日。
  20. ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
  21. ^ 『官報』第4029号・付録「辞令」1896年12月2日。
  22. ^ 『官報』第5548号、明治34年12月28日。
  23. ^ 『官報』第7072号・号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  24. ^ 『官報』第7200号、明治40年7月1日。
  25. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  26. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。

参考文献[編集]

  • 福川秀樹 『日本陸軍将官辞典』 芙蓉書房出版、2001年ISBN 9784829502730
  • 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』 外山操、芙蓉書房、2001年ISBN 9784829500026