日産・Be-1

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日産・Be-1
BK10型
フロント(車体色はパンプキンイエロー)
リア
概要
販売期間 1987年1月 - 1988年5月
デザイン 日産自動車造形部・第1スタジオ(1987年当時の名称)
ボディ
乗車定員 5人
ボディタイプ 2ドアセミノッチバックセダン
駆動方式 FF
パワートレイン
エンジン MA10S 987cc 直4OHC 52ps
変速機 5速MT
3速AT
前:独立懸架ストラット式
後:4リンクコイル式
前:独立懸架ストラット式
後:4リンクコイル式
車両寸法
ホイールベース 2,300mm
全長 3,635mm
全幅 1,580mm
全高 1,395mm
1,420mm(キャンバストップ)
車両重量 670kg(MT車)[1]
700kg(AT車)[1]
その他
ブレーキ 前:ディスク
後:リーディングトレーリング
系譜
後継 日産・ラシーン
テンプレートを表示

Be-1(ビー・ワン)は、日産自動車1987年に販売した乗用車である。型式はBK10型。初代日産・マーチレトロなデザインを与えた小型車であり、「パイクカー」と呼ばれる分野の先駆けとなった。

概要[編集]

1982年に発売された初代マーチ(K10型)のシャーシを利用して開発され、日本国内のみ販売された。限定販売という触れ込みで発売されたものの非常な人気を博した。また、当時自動車業界の主流であった馬力競争やハイテクデバイスに対するアンチテーゼとしての意義も込められており、1980年代当時主流であった「四角い」カーデザインを「丸く」する端緒ともなった[2]

Be-1にはじまるパイクカーは現代の自動車にレトロ・デザインを応用した最初の例であり、「形式は常に機能に従う」(ルイス・サリヴァンの言葉)という近代工業デザインの原則を投げ捨てた、当時としては革新的なものであった。合理性から解放されたパイクカーの自由なスタイリングは欧州メーカーにも衝撃を与え、1990年代以降、ニュービートルミニ (BMW)など、新たなリバイバルデザインの潮流を産むことになる[3]

経緯[編集]

1980年代前半、ホンダ・シティが人気を得ており、日産自動車では自社の小型車マーチを用いての対抗企画を検討していた[4]。本来は「新型マーチ」の企画であった[5]

デザインプロデューサーとなった松井孝晏は、デザインチームを「社内デザイナー中心のAチーム」「服飾デザイナー中心のBチーム」「イタリア人デザイナーのパオロ・マルティンを中心としたCチーム」の3チームに分け、各チームにデザインを競作させる方式を採用した[6]。提案された4案のモデルの内、コンセプター坂井直樹が関わったB-1案モデル(「ノスタルジック・モダン」がキーワードだったという[6])が日産社員へのアンケート調査で高く評価され、その試作車が1985年(昭和60年)の東京モーターショーに出展され、同ショーでの好評を受けて市販化が決定した。

1987年(昭和62年)1月、パンプキンイエロー、ハイドレインジアブルー、トマトレッド、オニオンホワイトの4色のラインナップ、限定10,000台という設定で販売が開始、発売されるや約2カ月で予約完了する好評を得、月産400台の生産計画が600台に増強された[7]

Be-1のフロント及びリア・エプロン部(バンパーナンバープレートが取り付けられている部分)、フロントフェンダーの材質には、世界で初めて米国GE社と共同開発したフレックスパネル(Flex Panel)が用いられていた。採用した理由は、フロントが直立したデザインのため、小石などを跳ね上げ傷が付き、が発生しやすくなると判断したためである[8]。フレックスパネルの材料組成は、耐衝撃性の高い変性PPOと耐熱性の高いポリアミドなどからなる両者の特性をあわせ持つ熱可塑性樹脂であり、以下のような特徴を持っていた。

  1. 形状自由度が高い
    射出成形により成形されるため、ヘッドランプ周りなど鋼板では成形が困難な部位も成形できた。
  2. 塗装品質が良い
    耐熱性に優れ、鋼板と同時に140 - 160度で焼付塗装(やきつけ-)ができるため、経時変化による退色の差もなく、長期間にわたる高品質な塗膜の維持や鋼板と同等の塗装の鮮映さを確保できた。
  3. 耐衝撃性に優れる
    従来の塗料はパネル変形時の伸びに追従できず亀裂を生じたが、フレックスパネル用の特殊なプライマーを採用し、材料の持つ高耐衝撃性を活かすことができた。軽微な衝突ならば容易に復元するものだった。

その他にもCピラー外装部分にはABS樹脂が使われ、エンジンフードやドアパネルにはデュラスチールを採用したりと、今までにないデザインを実現するために様々な新素材が採用された。

生産は委託生産により1986年(昭和61年)から高田工業戸塚工場において行われ[9]、その製作は半ば手作業であったという[10]

初代 BK10型(1987年-1988年)[編集]

  • 1985年10月31日〜11月11日 - 東京モーターショーで公開。
  • 1987年1月13日 - 販売開始。
  • 1987年3月2日 - 電動キャンバストップ付仕様を追加。
  • 1987年12月[11] - 生産終了。生産台数は1万台[12]
  • 1988年5月 ー 販売終了。

車名の由来[編集]

デザイン開発ではA案、B-1案、B-2案、C案の4タイプが製作され、その中から採用されたB-1案をBe動詞化したものである。

トピック[編集]

日産自動車は東京都港区の青山通りアンテナショップとして「Be-1ショップ」を開店、Be-1オリジナルグッズとして、衣服、バッグ、時計、財布、文房具などが販売された[7]

デュラン・デュランサイモン・ル・ボンがBe-1を購入したという話がある。[13]

  • 1987年10月 - 通商産業省選定グッドデザイン賞。
  • 1987年12月 - 日経トレンディ 1987年ヒット商品ランキング・第5位「Be-1グッズ」
  • 1987年12月 - 住友ビジネスコンサルティング 1987年ヒット商品番付・張出大関・殊勲賞「Be-1」
  • 1987年12月 - JMA総合マーケティング優秀メーカー賞 日産自動車株式会社・少量生産車「Be-1」の開発
  • 1988年01月 - 日本経済新聞社・年間最優秀製品賞。

主な関連書籍

  • 「Be-1」 The Story of Bran-New Brand リクルート出版 1987年10月初版 ISBN 4-88991-085-9 C0075
  • ビジネスコミック「挑戦」日産Be-1開発 芸文社 1987年11月初版 ISBN 4-87465-174-7 C0079
  • ビジネスジャンプコミック「人を生かす企業力」 集英社 1988年6月初版 ISBN 4-08-863209-5 C0379
  • エンスーCARガイド「日産パオ&フィガロ&Be-1」 三樹書房 2008年9月初版 ISBN 978-4-89522-517-5 C0075
  • 「パオのキセキ 〜2回目の奇跡の軌跡〜」 古場田良郎 著 スピードウェル出版 2014年12月初版 ISBN 978-4-9908134-0-6 C0076

後年のマーチ・パイクカー[編集]

脚注・出典[編集]

  1. ^ a b キャンバストップ車は10kg増
  2. ^ http://www.sakainaoki.com/publicity/pikecar02.html
  3. ^ “トヨタの戦略は正解なのか――今改めて80年代バブル&パイクカーを振り返る (1/3)”. ITmedia. (2015年5月18日). https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1505/18/news026.html 
  4. ^ PDの思想委員会編 『プロダクトデザインの思想 <Vol.3>』 ラトルズ、2005年
  5. ^ 日産パイクカー専門店「スピードウェル」公式サイト
  6. ^ a b 『日本クルマ界 歴史の証人10人』(佐藤篤司著、講談社ビーシー2020年)pp.36 - 38
  7. ^ a b http://www.nissan.co.jp/MUSEUM/MARCH/PIKE/pike.html 日産ミュージアム「時代の先端を象徴したマーチのパイクカー
  8. ^ 三栄書房『カースタイリング』Vol.58 1987年
  9. ^ http://www.takada-kogyo.jp/company/index.html
  10. ^ ネコ・パブリッシング 『スクランブル・カー・マガジン』1987年3月号
  11. ^ Be-1(日産)のカタログ”. リクルート株式会社 (2020年1月18日). 2020年1月18日閲覧。
  12. ^ デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車第6号13ページより。
  13. ^ 坂井直樹『コンセプト気分の時代』31頁 かんき出版 1990年4月初版

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

日産Be-1ディテールアップ画像集 https://minkara.carview.co.jp/userid/139692/blog/29813815/