平野 (大阪市)
| 平野 ひらの | |
|---|---|
| 国 |
|
| 地方 | 近畿地方 |
| 都道府県 | 大阪府 |
| 自治体 | 大阪市 |
| 旧自治体 | 平野郷町 |
| 大阪市役所平野区役所本庁 | |
| 北緯34度37分16.18秒 東経135度32分45.6秒 / 北緯34.6211611度 東経135.546000度座標: 北緯34度37分16.18秒 東経135度32分45.6秒 / 北緯34.6211611度 東経135.546000度 | |
| 所在地 |
〒547-8580 大阪府大阪市平野区背戸口3丁目8番19号 |

平野(ひらの)は、大阪府大阪市平野区の圏域名。広義には平野区全体を指す場合もあるが、地区名としては、堺とともにかつて環濠都市、自治都市、あるいは「先進自由都市」[1]として知られた平野郷町の本郷七町だった地区を指す。
本項では大阪市編入以前の東成郡平野郷町(ひらのごうちょう)についても述べる。
地理
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平野区の東北部、平野川西岸の自然堤防上に旧市街地が広がる。難波京と斑鳩や平安京を結ぶ古代道路である渋川道(のちの竜田越奈良街道〈大坂街道〉、平野までは平野道と呼ばれた)が通っており、古代から交通の要所であった。後には、八尾街道や当地を起点とした中高野街道も開削された[2]。
現在でも、それらの街道に概ね沿った国道25号および大阪府道5号が通過している。
都市構造
[編集]現在も残る環濠はわずかであるが、後述に示すように、かつて平野はその周囲に堤防と堀を張り巡らした環濠都市であった。
また道路は狭小であるものの大坂や堺と同様の碁盤目状であり、旧市街地にあるほぼすべての街路には、それぞれ名称が与えられていた。現行の地割は16世紀半ばのものであると考えられている[3]。
郊外との出入りについては平野十三口という13の出入り口が担っており、それぞれに門、門番屋敷、地蔵堂が建てられ、通行人の警備にあたった。門と門番屋敷は残存しないものの、地蔵堂についてはそのほぼすべてが現存する[4][5]。
| 名称 | 場所 | 街道(方向) | 備考 |
|---|---|---|---|
| 河骨池口 | 河骨池門筋・御旅通り | (玉造・天満) | |
| 市ノ口 | 市ノ門筋 | 八尾街道 東口(久宝寺・八尾) | |
| 樋ノ尻口 | 樋尻筋 | 奈良街道 東口(八尾・奈良) | |
| 出屋敷口 | 出屋敷門筋・政所筋 | (藤井寺・道明寺) | |
| 田畑口 | 田畑門筋 | 古市街道(藤井寺・道明寺) | |
| 流口 | 残在橋筋(流門筋、お渡り筋) | 中高野街道 南口(喜連・瓜破・高野山) | |
| 堺口 | 梅ヶ枝筋 | 八尾街道 西口 住吉堺道 | |
| 西脇口 | 西脇門筋・地蔵小路 | ||
| 田邊道西脇口 | 新町筋・稲荷小路 | 田辺道(田辺) | |
| 小馬場口 | 興正寺筋・稲荷小路 | (散郷四村) | |
| 馬場口 | 馬場門筋 | 奈良街道(大坂) | |
| 泥堂口 | 泥堂筋(泥堂門筋) | ||
| 鐘辻口 | 御幸筋 | 杭全神社参道・中高野街道 起点 | 地蔵堂が唯一現存しない |
歴史
[編集]平野は、現在残っている中で、大阪市内においてどこよりも古く形成された町場(市街地)であると位置づけられている[10]。
発祥
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豪族の杭全氏が支配した摂津国住吉郡杭全郷(杬全郷)の東部に位置し、飛鳥時代にはすでに聖徳太子が建立した全興寺が門前町を形成していた。
平野の名称が用いられるようになるのは平安時代以降のことで、坂上広野麻呂が当地に荘園である杭全荘を授けられたことから、「広野」が「平野」に転訛したことによると言われている。広野麻呂はその後当地に永住し、その子孫である坂上氏宗家は代々平野殿と呼ばれるようになった。また862年(貞観4年)には、広野麻呂の子の坂上当道が八坂神社を勧請して、現在の杭全神社(熊野権現社)が創建されている。後には祇園信仰と習合し、牛頭天王社とも称されるようになった。
広野麻呂の荘園は宇治平等院の建立にあたり、その寺領として藤原頼通により寄進された。織田信長の直轄地となるまでの約500年間、形式上は平等院領であった。杭全荘は、鎌倉時代頃から平野荘とも別称され、町の中心部にあたる平野本町は後嵯峨天皇の治世に開発が進められた。
さらに、1127年(大治2年)に融通念仏宗の総本山である大念仏寺が開基され、全興寺とともに複合的な門前町が形成されるようになった。
南北朝時代の平野は、住吉大社とともに南朝側についた。1321年(元亨元年)には熊野三所権現を勧請合祀し、後醍醐天皇から「熊野三所権現」の勅額を授けられている[11]。
自由都市化
[編集]戦国時代になると、市街地の周りに二重の濠と土居を巡らせ、13ヶ所の出入口には門と門番屋敷が設置された。なお、門の脇には地蔵堂も建てられ、12の地蔵堂が現存している。濠内は坂上氏の末裔と称する平野七名家による合議制の自治が行われるようになり、七名家が権力を有し、街衢が大きく発達した本郷七町(平野本郷)と、その枝郷である散郷四村(平野散郷)に分かれていた。本郷だけでなく、散郷の各町村も環濠をもっていた。
- 本郷七町
- 馬場町(成安氏):平野馬場周辺
- 泥堂町(則光氏→黒瀬氏〈井上氏〉):平野宮町・平野元町周辺
- 市町(利国氏→土橋氏):平野市町周辺
- 野堂町(末吉氏):平野本町・平野東周辺
- 流町(利則氏→三上氏):流町周辺
- 背戸口町(安国氏→辻葩氏):背戸口周辺
- 西脇町(安宗氏→西村氏):西脇周辺
- 散郷四村
織田信長が台頭すると、同じように環濠都市・自由都市であった堺の会合衆と深い関係を構築した。この関係は、同じく自由都市による中世ドイツのハンザ同盟と類似性があり、これになぞらえて「平堺同盟」とも呼ばれる。結局は信長に下ったものの、堺と織田信長の対立においては共同防衛を呼びかけるほどであった[1][12]。
末吉氏は七名家の中でも突出した豪商として知られ、千利休との交流関係があったほか、上杉景勝、筒井順慶、徳川家康などの諸大名から航行自由権が、豊臣秀吉からは末吉家の領土として平野周辺の約150石と、布忍村の徴税権が与えられた。
織豊時代
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豊臣秀吉が天下統一を果たすと、町の有力商人は大坂城下へ移住させられた。なお、移住先は徳川期には城下ではなく東成郡北平野町村・南平野町村となっていた所で、現在の中央区東平・上汐および天王寺区上汐などに当たる。あるいは船場の平野町にも移住していたのではないかとも言われる。
1614年(慶長19年)から1615年(慶長20年)に勃発した大坂の陣では、当地も戦場となった。七名家の筆頭ともいえる末吉氏が徳川方に尽力し、平野に徳川秀忠の陣が設けられたためである。大坂夏の陣においては、平野から天王寺にかけての広範囲で、徳川方15万5000人、豊臣方5万5000人の大軍が入り乱れる乱戦を呈した[13]。
豊臣方の薄田隼人は、大坂冬の陣さなかの1614年(慶長19年)11月5日、徳川方へ道案内をした西末吉家の当主である末吉吉康・東末吉家の当主である末吉増重など七名家の人物を大坂城へ拉致、および平野の焼き討ちを行ったため、平野郷に関係する相当数の文献が焼失した。
また夏の陣で敗走した真田幸村は、徳川家康の追跡を免れるため、樋尻口地蔵に爆薬を施した。幸村の予想通り家康は樋尻口地蔵で休息を取ったが、尿意を催した家康が厠に行った隙に爆発したため、家康は難を逃れたという。爆発で吹き飛ばされた地蔵の首は全興寺まで到達し、首地蔵として祀られた[13]。
樋尻口地蔵の向かいには、徳川方で戦った安藤正次の墓が建てられた。願正寺には正次の「岩突きの槍」が伝わる[13]。
関ヶ原の戦いにおいては、西軍についた東末吉家を諌めて利方は東軍につき、終戦後ただちに家康と会って戦勝をねぎらった。これに感激した家康は「平野庄及六箇村軍勢乱暴狼藉堅制禁」を発布し、平野での乱暴狼藉を厳禁した。さらに伏見銀座の設立を提言するなど、江戸幕府の内政に大きく関与した[14]。
在郷町として
[編集]1615年(元和元年)、利方の孫である末吉吉康は平野および河内国志紀郡・河内郡の代官および旗本に任ぜられ、商人であったにもかかわらず帯刀が認められた[15]。
吉康は大坂の陣で灰燼に帰した平野の復興を行い、環濠も再度掘り直された。さらに、度重なる洪水に見舞われた志紀郡柏原村の復興の一環として、1636年(寛永13年)に柏原村と大坂城下を結ぶ柏原舟が平野の環濠と連結する平野川に通うようになった。吉康は70隻の柏原船を建造させ、排水路や堤防といった水防設備は私財を投じて建設し、治水に務めた。これに対して、幕府から恩賞米200俵を与えられている[15]。
加えて、吉康とその息子の末吉長方を初めとした平野商人は、朱印船貿易にも大きく関与した。特に末吉家の朱印船は「末吉船」と呼ばれ、1604年(慶長9年)から1634年(寛永11年)の30年間における朱印船22船中、半分以上を占める12船が末吉船であった。末吉船は安南、東京、シャムなどへ渡航し、輸出入貿易を行った。また、渡航の安全を祈願するため、杭全神社と坂上田村麻呂が建立した清水寺に、絵馬を奉納していたという[15]。
1702年(元禄15年)、本郷七町とその西方に位置する今林村・新在家村・今在家村・中野村の散郷四村を統合して平野郷町となり、野堂町に惣会所が設置された。1708年(宝永5年)には鎌倉時代に始まったとされる杭全神社の連歌所が再建され、1717年(享保2年)には、日本初の郷学である含翠堂が開設された。
近代以降
[編集]1879年(明治12年)に散郷四村が分離し、1883年(明治16年)には本郷七町もそれぞれ平野を冠称して分離したが、1889年(明治22年)の町村制施行時に本郷七町が合併し、自治体としての平野郷町が発足した。なお、散郷四村は今林村・新在家村・今在家村が桑津村と合併して北百済村、中野村が砂子村・鷹合村・湯谷島村と合併して南百済村の各一部となった。
江戸時代から綿作と繰綿により、周辺の綿作地帯の中心地として商業的農業を展開した平野であったが、末吉家当主の末吉勘四郎と末吉平三郎によって1887年(明治20年)6月7日に平野紡績が設立され、工業化が進められることとなった[15]。
尼崎紡績の設立に関わった菊池恭三は当初平野紡績の工場長であり、平野紡績が恭三をヨーロッパに留学させることによって日本の近代紡績業が確立された。のちに平野紡績と尼崎紡績は合併し、大日本紡績となった[15]。
1925年(大正14年)に大阪市へ編入。1927年(昭和2年)、平野流町に大阪府女子師範学校が新設移転。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風による暴風雨。平野小学校の木造校舎が強風により倒壊するなどして多数の死傷者が出た[16]。
1930年(昭和5年)から土地区画整理事業を開始して平野郷の周囲も宅地化されていき、かつての面影は少なくなっていった。環濠の大半は埋め立てられ、杭全神社近辺に200m程度しか残っていない。1999年(平成11年)から大阪市のHOPEゾーン事業によって平野郷の景観復元や文化保存などの取り組みが行われた。
近代時点での状況
[編集]平野郷町の大阪市への編入にあたって、1925年(大正14年)に編纂された『南大阪編入記念誌』においては、
更に平野郷町は喜連村の北方に位し 附近は勿論河内方面に通する交通の要路に當り 従つて古くより人家密集して一の邑地をなし 風に發達して市街をなし街巷[注釈 1]四通し 附近農産地の中心地にして 殊に南海平野線の開通以來交通の便を増す
とあり、周辺で最も人家が密集して市街地が発達していると記されつつも、
(先の文に続き)と雖も 割に人口の増殖を見ること少なく 明治九年に既に人口七千を有したれごも 今尚 ほ一萬六千を有するに過ぎず
のように、1876年(明治9年)時点での人口は7000人(江戸時代は1万人を超えた)を擁したものの、そこから40年ほど経過した編纂時点で16000人しかいないともある。大大阪時代に突入していたにもかかわらず、人口の増加が大きいものではなかったことがわかる[17]。
平野郷町
[編集]| ひらのごうちょう 平野郷町 | |
|---|---|
| 廃止日 | 1925年4月1日 |
| 廃止理由 |
編入合併 天王寺村、平野郷町、喜連村、北百済村、南百済村、田辺町、依羅村、長居村、墨江村、住吉村、安立町、敷津村 → 大阪市(住吉区) |
| 現在の自治体 | 大阪市 |
| 廃止時点のデータ | |
| 国 |
|
| 地方 | 近畿地方 |
| 都道府県 | 大阪府 |
| 郡 | 東成郡 |
| 市町村コード | なし(導入前に廃止) |
| 総人口 |
14,531人 (国勢調査、1920年) |
| 隣接自治体 |
東成郡北百済村、南百済村、喜連村 中河内郡巽村、加美村、龍華村 |
| 平野郷町役場 | |
| 所在地 | 大阪府東成郡平野郷町宮町 |
| 座標 | 北緯34度37分16.2秒 東経135度32分45.6秒 / 北緯34.621167度 東経135.546000度 |
| ウィキプロジェクト | |
平野郷町(ひらのごうちょう)は、かつて大阪府東成郡に存在した町。
沿革
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、住吉郡平野馬場町、平野泥堂町、平野市町、平野野堂町、平野流町、平野背戸口町、平野西脇町が合併して平野郷町が発足。大字平野野堂に町役場を設置。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡の統廃合により、所属郡が東成郡に変更。
- 1922年(大正11年) - 中心部に以下の町名が起立。
- 住吉町
- 中町
- 上町
- 元町(1 - 7丁目)
- 宮町
- 浜町(1 - 3丁目)
- 京町(1 - 6丁目)
- 新町(1 - 6丁目)
- 本町(1 - 6丁目)
- 三十歩町(1 - 3丁目)
- 梅ケ枝町(1 - 6丁目)
- 政所町(1 - 5丁目)
- 田畑町
- 1925年(大正14年)4月1日 - 大阪市第2次市域拡張により、新設の住吉区に編入される。同日平野郷町廃止。
- 1930年(昭和5年) - 北西部に平野西之町・平野大通の町名が起立。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 住吉区から東住吉区が分区。同区の一部となる。
- 1974年(昭和49年)7月22日 - 東住吉区から平野区が分区。同区の一部となる。新区名は投票の結果1票差で「平野区」が「大和川区」を上回り、新区名に決定した。
行政
[編集]1884年(明治17年)には、当地に連合戸長役場が置かれている。長居村などを管轄していた。
町長一覧
[編集]| 代 | 氏名 | 就任 | 離任 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 塩川徳兵衛 | 1889年6月 | 1892年6月 | 初代平野郷町長。 |
| 2 | 福井栄三郎 | 1893年5月 | 1897年1月 | |
| 3 | 水野富三郎 | 1897年3月 | 1904年1月 | |
| 4 | 安田木三 | 1904年10月 | 1908年10月 | |
| 5 | 福井楠多郎 | 1908年10月 | 1910年10月 | |
| 6 | 藤岡庄次郎 | 1909年3月 | 1913年9月 | |
| 7 | 富永芳三郎 | 1913年9月 | 1915年7月 | |
| 8 | 永野富三郎 | 1915年8月 | 1919年8月 | |
| 9 | 吉村音次郎 | 1919年9月 | 1925年4月1日 | 大阪市への吸収合併により解職。 |
地域
[編集]
1978年(昭和53年)実施の現行住所表記では以下の町名が概ね該当する。
- 平野上町(1 - 2丁目)
- 平野元町
- 平野馬場(1 - 2丁目)
- 平野北(1 - 2丁目)
- 平野宮町(1 - 2丁目)
- 平野市町(1 - 3丁目)
- 平野東(1 - 4丁目)
- 平野本町(1 - 5丁目)
- 平野南(1 - 4丁目)
- 流町(1 - 4丁目)
- 平野西(1 - 6丁目)
- 背戸口(1 - 5丁目)
- 西脇(1 - 4丁目)
全興寺を中心とする「平野中央通商店街」周辺は、太平洋戦争時に空襲を逃れたこともあり、古い町並みの面影が現在も残っている。
河川
[編集]- 平野川 - 当地の北東地域を流れる。かつては水運に用いられてきたが、現在は典型的な掘り込み河川である。
交通
[編集]- 主要道路
- 国道25号
- 国道479号(大阪内環状線)
- 大阪府道5号大阪港八尾線(南港通)
- 大阪府道186号大阪羽曳野線(南港通 旧柴谷平野線)
- 旧街道
寺社旧跡
[編集]文化
[編集]平野郷町を描いた1763年(宝暦13年)発行の地図『攝州平野大繪圖』では、以下のような名産品が記されている[8][9]。
- 平野酒
- 平野の地酒で、豊臣秀吉の醍醐の花見に献上されたことがある。現代となって一度復刻され、大阪府による「大阪産もん」にも認定されたが、2021年(令和3年)をもって生産を終了した[18]。地図中には「織田信長公御免」とある。
- 平野飴
- 管の形をした飴。江戸では「下りぎょうせん」として有名であった[19]。地図中には「太閤秀吉公御免」とある。
- 平野茶柄杓
- 茶柄杓とは茶の湯で用いる茶道具。地図中には「始祖有楽は利休時代の茶の名人也」とある。
- (判読不能)
- 女工が車にかけて糸を繰り出す道具。
- 平野繰綿
- 摂津・河内・和泉の木綿が平野で繰り出され、諸国に売られていたと見える。
- 平野蒟蒜
- 平野薬
- 中野小児鍼師
- 当時平野の散郷であった中野(針中野)のこと。
祭事
[編集]
万部おねり
[編集]平野郷夏祭り
[編集]毎年7月には杭全神社の夏祭りが開催される。特に、毎年7月12・13日に平野郷の9町(本郷の野堂町が東・南・北に分かれるため9町になる)の地車(だんじり)が曳行する平野郷夏祭りは、大阪市内で最大規模の地車祭りであり、30万人を超えるとも言われる大勢の人出で賑わう。祭りのハイライトは13日夕刻から深夜にかけての宮入(みやいり)である。9台の地車が平野郷南縁の南港通から流口へ折れ、平野郷の中心部を通るお渡り筋(流門筋)、奈良街道(泥堂筋)を経て、杭全神社へと入っていく。最大の見せ場は杭全神社鳥居前の国道25号「宮前」交差点で行われる猛スピードでの地車曳行、各町工夫を凝らした演出などのパフォーマンスである。
また、12日夜に南港通(地下鉄平野駅付近〜平野本町5丁目交差点付近)の片側車線を封鎖して9台の地車が集結する「九町合同曳行」も見せ場のひとつである。尚、本祭りは14日で、神事として神輿が渡御し、太鼓台(ふとん太鼓)が神輿を先導する。2020年、2021年は新型コロナウイルス感染症の流行に鑑み開催が見送られていたが、2022年以降は例年通り開催されている。
かつては散郷の杭全町(育和)も参加していた。
盆踊り
[編集]平野では、河内音頭の一流派である平野節の初音家一門の発祥の地であることから、毎年夏季には平野公園(旧松山公園)のグランドにて櫓が組まれ、初音家一座を招いて盛大に盆踊りが執り行われる(平野公園内には、近代河内音頭発祥の石碑がある)。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b 「大阪市:今里・平野郷コース」2009年3月16日。2026年2月5日閲覧。
- ^ 「平野郷」『マイペディア』平凡社。2026年2月6日閲覧。
- ^ 「共同研究結果報告書17-4_第2章第2節~第3章 (PDF)」。2026年2月6日閲覧。
- ^ 「大阪市平野区:平野郷樋之尻口跡」。2026年2月6日閲覧。
- ^ 「大阪市:25.平野郷樋尻口(ひのじりぐち)門跡」。2026年2月6日閲覧。
- ^ 「平野郷まちあるきマップ (PDF)」。2026年2月6日閲覧。
- ^ 『平野郷十三口 - 平野環濠都市遺跡 馬場口地蔵』。
戦国時代の平野郷は、町の安全を図って市街のまわりを濠と土塁で囲み、その濠の間に各方面に通じる十三の木戸口がおかれ門や地蔵堂があった。
- ^ a b 『攝州平野大繪圖』(地図)、1763年。
- ^ a b 『摂州平野郷図』(地図)。
- ^ 「平野郷について」平野の町づくりを考える会。2026年2月6日閲覧。
- ^ 「環濠都市 平野郷めぐり」大阪あそ歩。2026年2月6日閲覧。
- ^ 「大阪市平野区:平野コース」。2024年9月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年2月6日閲覧。
- ^ a b c 「歴史街道 ~ロマンへの扉~ 月~金曜日 21時48分~21時54分」。2026年2月6日閲覧。
- ^ 「末吉勘兵衛利方」『ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人』44号。2026年2月6日閲覧。
- ^ a b c d e 「末吉孫左衛門吉康」『ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人』45号。2026年2月6日閲覧。
- ^ 学校倒壊百四十三、学童死傷二千四百人『大阪毎日新聞』昭和9年9月22日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p230 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 蒲原隆次『南大阪編入記念誌』南大阪編入記念誌発行委員會、1925年、17頁。2023年11月9日時点のオリジナルよりアーカイブ (PDF)。2026年2月5日閲覧。
- ^ 「大阪地酒 平野酒(ひらのざけ)の歴史と現代へ復活までのストーリー」。2026年2月6日閲覧。
- ^ 「平野あめ」『世界大百科事典』平凡社。2026年2月6日閲覧。
注釈
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 平野郷を歩く
- 大阪平野における戦国時代の環濠自治都市に関する研究 (PDF, 691 KiB)
- 大阪府東成郡平野郷町 (27B0080021) | 歴史的行政区域データセットβ版 - Geoshapeリポジトリ
