コンテンツにスキップ

含翠堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
含翠堂
過去の名称 老松堂(ろうしょうどう)
国公私立の別 私立学校
設置者 儒学講習会
学区 摂津国平野郷(大阪市平野区
設立年月日 1717年享保2年)
創立者 土橋友直ほか
閉校年月日 1872年明治5年)
所在地 平野区平野宮町二丁目9-22地先[1]
テンプレートを表示

含翠堂(がんすいどう)は、日本初の民間人による郷学である。1717年享保2年)に平野七名家土橋友直[注 1]が設立した。1872年明治5年)の学制発布により閉鎖し、大阪市立平野小学校に継承された[1][2]

概要

[編集]

含翠堂のはじまり[3]井上正臣の家を借り、友直が所属していた儒学講習会[注 2][要ページ番号]が始めた講義とされる。

郷民の教育機関として設立された当初は「老松堂(ろうしょうどう)」と呼ばれ、地主を務めた商業界の子弟を対象に教育を施し文化活動を主導した。維持費は地域の有力者が出し合い、その背景には中世末以来の自治都市として機能した平野郷の蓄積がある[注 3]

平野郷での儒学国学医学道徳などの振興に貢献したほか、飢饉では粥の炊き出しなどの住民に対する救済活動も行った。また、稀に連歌会[11]俳諧なども催されたり、学費を払えば身分に関わらず学べるなど、他の郷学には見られない特色も備えていた[12]

「含翠堂」の木額[13][14]の複製は、現在全興寺に保存されている[要出典]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 含翠堂跡の資料は大阪市がまとめた[1][2]
  2. ^ 土橋友直土橋宗信成安栄信徳田宗雪間元之進井上正臣[4]
  3. ^ 含翠堂は第3種郷学に位置付けられる[5]。典拠は津田秀夫『近世民衆教育運動の展開』[6]、石島庸男「京都番組小学校創出の郷学的意義」[7]、石川謙『日本学校史の研究』[8]、文部省 編『日本教育史資料 3』復刻版[9]、梅渓昇・脇田修 編『平野含翠堂史料』[10]

出典

[編集]
  1. ^ a b c 22.含翠堂(がんすいどう)跡”. 大阪市教育委員会 事務局総務部文化財保護課. 生涯学習 > 歴史の散歩道 > 今里・平野郷コース(くらし > 文化・スポーツ・生涯学習 ) (2022年9月2日). 2023年3月30日閲覧。 “平野区平野宮町二丁目9-22地先。オオサカシティバス「平野宮町二丁目」下車 北側”
  2. ^ a b 含翠堂跡”. 大阪市. 2023年3月30日閲覧。
  3. ^ 森 1942, pp. 3-, 「(二)創立」
  4. ^ 平野区誌編集委員会 2005
  5. ^ 小学館: “郷学(ごうがく)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年3月30日閲覧。
  6. ^ 津田秀夫『近世民衆教育運動の展開 : 含翠堂にみる郷学思想の本質』御茶の水書房、東京、1978年。doi:10.11501/12040670全国書誌番号:78016505  国立国会図書館内/図書館・個人送信。
  7. ^ 石島庸男著「京都番組小学校創出の郷学的意義」『講座日本教育史2』所収(第一法規出版、1984年)
  8. ^ 石川謙『日本学校史の研究』(小学館、1960年)
  9. ^ 文部省 編『日本教育史資料 3』復刻版(臨川書店、1970年)
  10. ^ 梅渓昇・脇田修 編『平野含翠堂史料』(清文堂出版、1973年)
  11. ^ 森 1942, pp. 0013.jp2-, 「6 平野連歌所写真」
  12. ^ 第3回 「含翠堂」の巻”. hiranono.osaka.jp. ひらのの巻. 平野区 (2020年7月13日). 2023年3月30日閲覧。
  13. ^ 森 1942, pp. 0009.jp2-
  14. ^ 森 1942, pp. 0010.jp2-

参考文献

[編集]

主な執筆者の順。

  • 平野区誌編集委員会『平野区誌』平野区誌刊行委員会、2005年。 [要ページ番号]
  • 森繁夫『含翠堂考』大阪青年塾堂〈郷土先賢叢書 ; 第6篇〉、1942年。 丸カッコ内の数字はコマ番号を表す。
    • 「1 含翠堂木額」(0009.jp2)
    • 「2 含翠堂記木額」(0010.jp2)
    • 「3 土橋友直墓」(0011.jp2)
    • 「4 井上赤水墓」(0012.jp2)
    • 「5 伊藤東涯含翠堂講筵図」(0012.jp2)
    • 「6 平野連歌所写真」(0013.jp2)
    • 「7 土橋友直詠草」(0013.jp2)
    • 「8 土橋宗信詠草」(0014.jp2)
    • 「31 並河寒泉詩短册」(0024.jp2)
  • 「(一)緒言」1頁(0025.jp2)
  • 「(二)創立」3頁(0026.jp2)
  • 「(三)開校」13頁(0031.jp2)
  • 「(四)学業」21頁(0035.jp2)
  • 「(五)事業」32頁(0041.jp2)
  • 「(六)関係者列伝」44頁(0047.jp2)
  • 「(七)含翠堂年譜」49頁(0049.jp2)
  • 「(八)土橋氏家譜並系図」56頁(0053.jp2)
  • 「(九)系図表第1第2」折込頁(0062.jp2)

関連資料

[編集]

発行年順。本文の典拠に使用していない資料。旧漢字は常用漢字に改めた。

  • 斎藤竹堂「含翠堂詩稿序」『竹堂文鈔』国分平、白石時康 校、続、巻上、静雲堂、明治16年、34コマ目。インターネット公開。https://dl.ndl.go.jp/pid/894184/1/34
  • 鈴木直三郎、橋本光秋『大阪府史談』訂2版、教育書房、明治27年。
    • 「懐徳書院」(コマ番号0036.jp2)
    • 「附含翠堂」(コマ番号0036.jp2)
  • 『薩摩琵琶歌 : 青年佳吟』中川柳涯(含翠堂主人) 編、日吉堂、1905年(明治38年)。インターネット公開、マイクロフィルム。
  • 中川柳涯(含翠堂主人)『成功立志談』日吉堂、1907年(明治40年)。インターネット公開。
  • 「含翠堂・常任委員 長南倉之助君」『史蹟調査委員会報』第5号、大阪府 編、大阪府、1918年(大正7年)、43頁-(コマ番号0026.jp2)。インターネット公開。
  • 西村時彦『懐徳堂考 : 附・懐徳堂年譜』懐徳堂記念会、1925年(大正14年)。
    • 「六、懷徳堂創立(甃菴と五同志 開講と石菴蘭洲及び誠所、執齊東涯)」 17頁-(0068.jp2)
    • 「五、享保の大火(蘭洲至孝 石菴と含翠堂)」15頁-(0067.jp2)
  • 津久井 泰輔、森 繁夫 、木村 英一、武内 義雄 、神田 喜一郎 、秋月 清観『郷学三種・明倫堂記』私製、1942年。NCID BC11513774
  • 大阪大学附属図書館『含翠堂(土橋)文庫目録』大阪大学附属図書館、1972年。NCID BN01717935
  • 坂上 弘子『神光寺墓地墓碑銘 : 大坂懐徳堂・平野含翠堂関係者を中心として』坂上弘子(私家版)、1998年。NCID BA57536580

関連項目

[編集]