藤本京太郎
基本情報 | |
---|---|
本名 | 藤本 京太郎 |
階級 | ヘビー級 |
身長 | 183cm |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1986年6月23日(37歳) |
出身地 | 大阪府大阪市住之江区[1] |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 3 |
勝ち | 3 |
KO勝ち | 2 |
敗け | 0 |
藤本 京太郎(ふじもと きょうたろう、男性、1986年6月23日 - )は、日本のプロボクサー。角海老宝石ボクシングジム所属。大阪府大阪市住之江区出身[1]。元キックボクサーで第2代K-1ヘビー級王者。
人物
日本人史上初のK-1重量級世界王者であり、試合ごとに変わる奇抜かつ派手なヘアースタイルが特徴。その髪型とは裏腹にスーパーヘビー級の外国人選手との対戦においてのファイトスタイルはフットワークを活かしたカウンター狙いのヒット・アンド・アウェイが中心。しかし、2008年にマイティ・モーに判定勝利しながらも、あまりにも露骨に逃げ回りながらのカウンター狙い一辺倒の戦法だったために批判を浴び、金星を上げたにもかかわらず地上波放送でもカットされ、K-1プロデューサーの谷川貞治からも注意されたことをきっかけに打ち合う場面も増えている。また、1度しかダウンを喫したことが無い打たれ強さも持つ。
キックボクサー時代はリングネームの変更が多く、「前田 慶次郎」「狂太郎レンジャー」「強太郎レンジャー」、「京太郎」というリングネームを使用していた。
2010年6月1日より芸能事務所「プラチナムプロダクション」とマネージメント提携を開始。
来歴
K-1時代
2006年5月17日、J-NETWORKに狂太郎レンジャーのリングネームでプロデビュー。花田純一にKO勝ち。
2007年2月25日、「K-1 JAPAN TRYOUT」に参加。基礎体力診断、ミット打ちなどをクリアし、合格となった[2][3]。
2007年5月3日、「K-2 GRAND PRIX 第18回全日本新空手道選手権大会」重量級(75kg以上)に京太郎として出場。決勝で菊池純一に勝ち、優勝を果たした[4]。
2007年5月4日から5月6日にかけてゴールドジム幕張千葉アネックスで行われた「K-1 TRYOUT 日本選考合宿」に参加し、マイク・ベルナルドがコーチを務める「チーム・ベルナルド」所属となり[5][6]、7月17日から約2週間、立川隆史と共に南アフリカで海外合宿を行った[7]。
2007年8月16日、K-1 TRYOUT 2007 SURVIVALでK-1 YOUNG JAPAN GPトーナメントに強太郎レンジャーと改名し出場。1回戦で百瀬竜徳に判定勝ち、決勝でも佐藤匠に判定勝ち。本戦出場を決めた。決勝の佐藤戦では3R終了間際にパンチラッシュを受けゴング直後にリングに倒れこむほどであった。判定はドローとなり延長戦に突入、ダメージを心配したセコンドが試合を放棄しようとしたが、本人がこれを固辞するという一悶着があり、大幅なインターバルとなってしまった。
2007年12月22日、チームドラゴン主催興行のメインイベントで中迫強と対戦し、右フックでKO勝ち。
2008年1月、リングネームを「前田 慶次郎」に改めた。戦国武将前田利益の通称「慶次郎」と師匠前田憲作に由来する[8]。
2008年4月13日、K-1 WORLD GP 2008 IN YOKOHAMAでマイティ・モーと対戦、正面から打ち合わずローキックを蹴りながら逃げ続けて判定勝ち。大金星をあげるも地上波放送はされなかった。試合後、「熱のある試合ができなかった」と反省のコメントを残した。
2008年6月29日、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAで行われたK-1 JAPAN GPに出場。1回戦で武蔵に判定勝ち、準決勝で佐藤匠に判定勝ちしたものの、決勝でエヴェルトン・テイシェイラに判定負けし、準優勝となると同時にキャリア初黒星となった。
2009年3月28日、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAの第2代K-1ヘビー級王者決定トーナメントに出場。1回戦でメルヴィン・マヌーフにカウンターの右フックでKO勝ちし、続く決勝でグーカン・サキと延長戦の末に2-0の僅差判定勝ち。K-1で日本人初となる重量級の世界王者となった。
2009年8月4日の公開練習で8月11日の試合よりリングネームを本名の京太郎に変更することが発表された[9]。
2009年9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16でルスラン・カラエフと対戦し、0-3の判定負けを喫した。
2010年2月28日、新日本プロレス興行で中邑真輔と2分2R・K-1ルールのエキシビションマッチを行った。2R終了後、プロレスルールのEXTRAラウンドも行われ、ドロップキックも繰り出した[10]。
2010年4月3日、K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAで行われた、K-1世界ヘビー級タイトルマッチでピーター・アーツと対戦。試合前は京太郎の圧倒的不利が予想されたが、序盤から圧倒し、2Rに右ストレートでKO勝ちを収め初防衛に成功した。
2010年10月2日、K-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16に出場。ジェロム・レ・バンナと戦い、3R終了時の判定0-1で延長まで縺れ込むも、判定への不満を露にしたバンナがリングを下りてしまい試合放棄による勝利となった。試合後の会見でバンナは「京太郎は素晴らしい選手だが、判定は公平じゃなかった」と不満を語った。一方の京太郎は「今まで21試合してきて初めて勝ちたいと思ったし、一番怖かった試合でした。僕は判定を聞くまで"90パーセント負けた"と思っていたが、勝てて良かった」と語った[11]。
2010年12月11日、K-1 WORLD GP 2010 FINALの準々決勝でセーム・シュルトと対戦し、0-3の判定負け。
2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜にてDREAMライトヘビー級王者のゲガール・ムサシとK-1ルールで対戦。ローキックを的確にヒットさせて優勢に試合を進めるが、2ラウンドに右フックでダウンを奪われ、0-3の判定負けを喫した[12]。
プロボクシング転向
2011年に入り、所属するK-1の経営母体であるFEGの経営難が表面化し、特に京太郎の所属するヘビー級については全く興行の目処が立たない状況になってしまった。このため京太郎は同年5月に東京スポーツ紙上でプロレスラーへの転向を図る意向を表明した。これを受けて全日本プロレスが京太郎にオファーを出し、同年6月19日の両国国技館大会において船木誠勝との対戦でプロレスデビューを飾った[13]。6月28日には全日本プロレスの合同練習に参加し、改めてプロレスに専念する意向を示した[14]。
しかし最終的にプロボクシングへの転向を決意してK-1ヘビー級王座を返上し、同年10月に角海老宝石ボクシングジムへ入門することになった[15]。また、ボクシング転向を発表した際の記者会見で、京太郎自身にもファイトマネー未払いがあったことを告白した。同年12月2日に行われたプロテストでB級ライセンスに合格しており、大晦日に地元の大阪府立体育会館で行われる井岡一翔の世界タイトルマッチの前座でデビューした[16]。なお、日本プロボクシングではリングネームを「2単語以上」と定めているため、従来の「京太郎」のリングネームが使用できないことから、ボクシングではリングネームを本名に戻している。リングネーム候補として「京太郎宝石(所属ジム名より)」「亀田京太郎(デビュー戦を亀田三兄弟の試合も中継するTBSが放送したため)」なども浮上していた[17]。デビュー戦は同年の西日本新人王樋高リオがオーストラリア時代に唯一KOを逃したマイケル・オドネル相手に判定勝利。
2012年3月6日、2戦目として後楽園ホールで東洋太平洋9位の金在贊(韓国)と対戦。2回1分3秒TKOで沈め、ボクシング転向後初のKO勝利。この勝利で東洋太平洋ヘビー級8位にランクされた[18]。日本人選手の同ランク入りは2005年に王座挑戦した高橋良輔以来となった。
2012年4月12日、世界的プロモーター、ドン・キングとプロモート契約を結ぶプランを持っていることが報道された[19]。
3戦目は2012年5月17日、後楽園ホールで行う。当初対戦相手はジュニア・パティ(ニュージーランド)と発表されていた[20]が、同じニュージーランドのアファ・タトゥプに変更された[21]。試合は2回TKOで勝利しデビュー3連勝とともに2戦連続KO勝利となった[22]。
4戦目は2012年6月20日にボディーメーカーコロシアム(旧大阪府立体育会館)で行われるWBC・WBA世界ミニマム級王座統一戦、井岡一翔VS八重樫東のセミファイナルに出場する予定[22]。
戦績
プロボクシング 戦績 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
3 試合 | (T)KO | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 | |
3 勝 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | |
0 敗 | 0 | 0 | 0 |
戦 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2011年12月31日 | 勝利 | 6R | 判定3-0 | マイケル・オドネル | オーストラリア | プロデビュー戦 |
2 | 2012年3月6日 | 勝利 | 2R 1:03 | TKO | 金在贊 | 韓国 | |
3 | 2012年5月17日 | 勝利 | 2R 0:47 | TKO | アファ・タトゥプ | ニュージーランド | |
テンプレート |
キックボクシング 戦績 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
23 試合 | (T)KO | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 | |
18 勝 | 9 | 8 | 1 | 0 | 0 | |
5 敗 | 0 | 5 | 0 |
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 |
× | ゲガール・ムサシ | 3R終了 判定0-3 | Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜 | 2010年12月31日 |
× | セーム・シュルト | 3R終了 判定0-3 | K-1 WORLD GP 2010 FINAL 【準々決勝】 |
2010年12月11日 |
○ | ジェロム・レ・バンナ | 試合放棄 (※3R終了 判定0-1) |
K-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16 【WORLD GP 1回戦】 |
2010年10月2日 |
○ | ピーター・アーツ | 2R 1:56 KO(右ストレート) | K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMA 【K-1ヘビー級タイトルマッチ】 |
2010年4月3日 |
× | タイロン・スポーン | 3R終了 判定0-3 | K-1 WORLD GP 2009 FINAL 【スーパーファイト】 |
2009年12月5日 |
× | ルスラン・カラエフ | 3R終了 判定0-3 | K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16 【WORLD GP 1回戦】 |
2009年9月26日 |
○ | ヤン・ソウクップ | 3R 1:20 KO(右フック) | K-1 WORLD GP 2009 IN TOKYO 【スーパーファイト】 |
2009年8月11日 |
○ | グーカン・サキ | 延長R終了 判定2-0 | K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMA 【第2代K-1ヘビー級王者決定トーナメント 決勝】 |
2009年3月28日 |
○ | メルヴィン・マヌーフ | 1R 2:02 KO(右フック) | K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMA 【第2代K-1ヘビー級王者決定トーナメント 1回戦】 |
2009年3月28日 |
○ | ソン・ミンホ | 3R 1:43 KO(右ローキック) | K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16 【オープニングファイト】 |
2008年9月27日 |
× | エヴェルトン・テイシェイラ | 3R終了 判定0-3 | K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKA 【JAPAN GP 決勝】 |
2008年6月29日 |
○ | 佐藤匠 | 3R終了 判定3-0 | K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKA 【JAPAN GP 準決勝】 |
2008年6月29日 |
○ | 武蔵 | 3R終了 判定2-0 | K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKA 【JAPAN GP 1回戦】 |
2008年6月29日 |
○ | マイティ・モー | 延長R終了 判定3-0 | K-1 WORLD GP 2008 IN YOKOHAMA | 2008年4月13日 |
○ | 中迫強 | 2R 3:07 KO(右フック) | 燃えろドラゴン! その壱 | 2007年12月22日 |
○ | キム・ギョンソック | 2R 2:14 KO(右ローキック) | K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16 【オープニングファイト】 |
2007年9月29日 |
○ | 佐藤匠 | 延長R終了 判定3-0 | K-1 TRYOUT 2007 SURVIVAL 【YOUNG JAPAN GP 決勝】 |
2007年8月16日 |
○ | 百瀬竜徳 | 3R終了 判定3-0 | K-1 TRYOUT 2007 SURVIVAL 【YOUNG JAPAN GP 1回戦】 |
2007年8月16日 |
○ | 滝川リョウ | 3R終了 判定3-0 | J-NETWORK 「TEAM DRAGON QUEST 1」 |
2007年6月3日 |
○ | 杉村タンク | 2R 1:42 KO(パンチ) | マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟 「士道館新春正月興行 BREAKDOWN-1」 |
2007年1月12日 |
○ | ターボ・ウィラサクレック | 4R 2:13 TKO(3ノックダウン:右ローキック) | M-1 FAIRTEX SINGHA BEER ムエタイチャレンジ 〜タイ国王即位60周年記念杯2006〜 | 2006年11月5日 |
○ | 敏センチャイジム | 3R終了 判定3-0 | J-NETWORK 「MACH GO! GO! '06 〜フライ級最強決定トーナメント1回戦〜」 |
2006年9月1日 |
○ | 花田純一 | 2R 1:16 KO | J-NETWORK 「GO! GO! J-NET '06 〜Invading the DRAGON(龍軍団の襲撃)〜」 |
2006年5月17日 |
主な獲得タイトル
- K-2 GRAND PRIX 第18回全日本新空手道選手権大会 重量級 優勝
- K-1 YOUNG JAPAN GP 2007 優勝
- K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKA JAPAN GP 準優勝
- 第2代K-1ヘビー級王座
エピソード
空手を始めたのは3歳のとき。きっかけは、当時気弱で2人の姉にいじめられていた京太郎を見た両親が、精神面を鍛える目的で近所にあった「魚本流(うおもとりゅう)」という空手の道場に入門させたことだという[23]。
両親は京太郎が小学5年のときに離婚しており、以後は母親・姉2人・祖母との5人暮らし。その祖母は2010年3月に亡くなっており、翌月に行われたピーター・アーツとの防衛戦では遺影を抱いて試合に挑み、試合後にはリング上で号泣した[23]。
プロ格闘家を目指した動機は「有名になりたいから」。高校時代、目立ちたがり屋で文化祭などでパフォーマンスを行ったことが病みつきとなり、「頭も悪いしルックスもよくないから、テレビに出て有名になるには格闘家になるしかない」と思ったという。一方で強さに関するこだわりはなく「フツーに生きていく分にはケンカに強いなんてことは意味のないこと」と語り、格闘家としてのトレーニングも有名になるための手段と割り切っている[23]。
前述のように有名になるために試合のたびに奇抜な髪型や髪の色を変えたり、頻繁に特異なリングネームに変更するなど、様々なことを行っている。戦国時代の武将である前田利益から取ってリングネームに前田慶次郎を使用していたが、特に戦国武将が好きというわけではないと語っていた。また、入場曲としてK-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAではピンクレディーの「ペッパー警部」、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAでは大塚愛の「さくらんぼ」を使用していた。
K-1プロデューサーの谷川貞治が上記のようなパフォーマンスが逆効果だと判断したことと、京太郎の本来の性格がジムで幼い子供達にも優しく指導し、母子家庭育ちの影響で家族を大切にする人柄であることを知って「奇をてらったようなことはしなくていい」と助言したため、リングネームを本名の京太郎へと変更、入場曲もK-1 WORLD GP 2009 IN TOKYO以降は湘南乃風の「黄金魂」を使用している。ただし、髪型は現在でも色を染めたり、奇抜な型にしたりしている。
長島☆自演乙☆雄一郎とは練習仲間であり、お互いの活躍が刺激になっている。
K-1ヘビー級王者となったにもかかわらず、2010年現在居酒屋でのアルバイトを続けているほか、上京当時から借りている家賃3万円のアパートに住み続けている。当時はK-1王者であったため金銭面での不自由はなくなっていたが、アルバイトについては「社会勉強になるので今後も続ける」と語った。アパートについてはさすがに引越しを考えているようだが、本人曰く「引越し作業がめんどくさい」らしい[23]。
多くの日本人ファイターが、意図的に自身の体を通常体重よりも大幅に増量しヘビー級の体を作っていたのに対し、京太郎は生まれながらにしてヘビー級の体格と打たれ強さも持っている。
脚注
- ^ a b “所属選手_藤本京太郎”. 2012年5月18日閲覧。
- ^ あの選手がまさかの落選!? トライアウトはドラマの連続 K-1公式サイト 2007年2月25日
- ^ 【K-1】トライアウトにGRABAKA・山宮、ライズ・百瀬、チームドラゴン3名など、9名が合格 格闘技ウェブマガジンGBR 2007年2月25日
- ^ 第18回 全日本新空手道選手権大会 全日本新空手道連盟公式サイト
- ^ 合宿のあとは天国と地獄 TRYOUTで合格したのは… K-1公式サイト 2007年5月6日
- ^ 【K-1】トライアウト結果発表!チームドラゴンから4名、元ロッテの立川など計11名が合格 格闘技ウェブマガジンGBR 2007年5月6日
- ^ TRYOUT組が気合い満々 ついに海外合宿がスタート!! K-1公式サイト 2007年7月17日
- ^ 【K-1】4・13澤屋敷純一に続け! 前田慶次郎は“頭”で勝負する 格闘技ウェブマガジンGBR 2008年2月28日
- ^ 【K-1】8・11あの前田慶次郎が“京太郎”に改名し、優等生に!?「K-1を盛り上げる」 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年8月4日
- ^ 2010年2月28日 第3試合 新日本プロレスオフィシャルWEBサイト 2010年3月1日
- ^ K-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16 第6試合 スポーツナビ 2010年10月2日
- ^ 【Dynamite!!】 高谷が王座奪取!長島☆自演乙が青木をKO!石井はバンナに辛勝 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年12月31日
- ^ 京太郎打撃勝負も船木に敗れる/全日本 - 日刊スポーツ・2011年6月20日
- ^ “K-1王者・京太郎が本格的プロレス修行へ 「プロレス一本に気持ちをしぼりたいですね」”. スポーツナビ (2011年6月28日). 2011年6月29日閲覧。
- ^ 京太郎、K-1王座返上しボクシング転向 - 日刊スポーツ・2011年10月22日
- ^ 京太郎、プロテスト合格/BOX - サンケイスポーツ・2011年12月3日
- ^ 京太郎に“待った” リングネームは亀田京太郎!? スポニチ 2011年10月27日
- ^ 東洋太平洋ボクシング連盟. “OPBF March Ratings as of March 30, 2012”. 2012年4月4日閲覧。
- ^ “藤本京太郎、超大物ドン・キング氏とプロモート契約へ”. スポーツニッポン. (2012年4月13日)
- ^ “京太郎 タイソン流防御習得へ 次戦は5・17に決定”. スポーツニッポン. (2012年4月24日)
- ^ “5.17京太郎の対戦相手が変更 ボクシング転向3戦目”. スポーツナビ. (2012年4月26日)
- ^ a b “京太郎2回TKO勝ち デビューから3連勝”. スポーツニッポン. (2012年5月18日)
- ^ a b c d 東京中日スポーツ・2010年4月7日付 7面「コンフィデンシャル」
関連項目
外部リンク
- 藤本京太郎オフィシャルブログ
- K-1 選手データ
- 藤本京太郎 (@K1_Kyotaro) - X(旧Twitter)
- 前田慶次郎CHAPインタビュー記事掲載
- 藤本京太郎 - プラチナムプロダクションによる紹介ページ
- BoxRec 選手データ
前王者 バダ・ハリ |
第2代K-1ヘビー級王者 2009年3月28日 - 2011年10月21日(返上) |
次王者 N/A |