薩摩国
薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に位置する。別称は薩州(さっしゅう)。領域は現在の鹿児島県西部にあたる。『延喜式』での格は中国、遠国。
「薩摩」の名称と表記
沿革
大宝2年(702年)に、日向国から唱更国が設けられた。唱更は、(隼人)辺境を守るという意味である。『続日本紀』8月1日条にある、薩摩多褹を征討し戸を校して吏を置いたという記事が、唱更国と多褹国の建置を示すと考えられている。
唱更国は、数年以内に薩麻国に改められた。8世紀半ば以降のいずれかの時点で薩摩国に改称した。
7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)評が設置されていた。それは、文武天皇3年(699年)南九州や九州西部の島嶼部の人々が、覓国使(べっこくし)を侮辱するという事件が起こった時、衣評督である衣君県も加わっていた。
国内の施設
国府
国府は、『和名抄』、『色葉字類抄』、『拾芥抄』、易林本の『節用集』、いずれも記載がない。
現在の薩摩川内市の大園、石走島の近辺と推定される。初期の調査は、国府の域内にある川内高校の平田信芳教諭と郷土史研究クラブの生徒によってなされ、1964年(昭和39年)にこの高校が関連遺跡を発見した。国衙の遺跡はまだ見つかっていない。
国分寺・国分尼寺
神社
- 総社 不詳 - 新田神社境外末社の九楼守公神社とする説がある。
- 一宮 新田神社 (薩摩川内市) - 式外社。国府の近くにあった。
- 元々の一宮は枚聞神社であった。鎌倉時代ごろから、新田神社が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに守護の島津氏の力を背景に新田神社が一宮となった。明治時代に定められた社格も新田神社の方が上になっている。
二宮は不詳であるが、加紫久利神社が二宮とされることがある。三宮以下は存在しない。
安国寺利生塔
- 安国寺跡 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町。
- 安國寺 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町。
地域
郡
高城郡には薩摩国府が置かれ、その北の出水郡とともに肥後国から計画的に植民が進められ、隼人に対する中央政府の最前線となっていた。養老4年(720年)の大隅国での隼人の反乱に際しては、これら2郡が補給基地となっている。天平8年(735年)の『薩摩国正税帳』では「出水・高城のほかに隼人十一郡」とされ、下記の14郡のうち伊佐郡を除いた13郡があり、前2郡の他は隼人が治めていたことが分かる。その約200年後の10世紀の『和名抄』によると、薩摩国は13郡・35郷から構成されていた。なお、近世初頭に伊佐郡が成立し、薩摩国は14郡となった。
江戸時代の藩
人物
国司
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- 高氏海人、天平2年(730年目として万葉集に名前が見える
- 呉原百足、天平8年(736年)目として正倉院文書に名前が見える
- 韓柔受郎、天平8年(736年)史生として正倉院文書に名前が見える
- 次田赤染上麻呂、天平10年(738年)目として正倉院文書に名前が見える
- 雄山田錦麻呂、天平10年(738年)史生として正倉院文書に名前が見える
薩摩守
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- 多治比木人、天平宝字4年(760年)任官
- 大伴家持、天平宝字8年(764年)任官
- 紀広純、天平神護1年(765年)任官
- 坂上清野、天長元年(824年)任官
- 宮道弥益、貞観4年(862年)任官
- 忠世貞直、貞観5年(863年)任官
- 菅野宗範、貞観7年(865年)任官
- 阿部興氏、貞観11年(869年)任官
- 平忠度、治承4年(1180年)任官
守護
鎌倉幕府
室町幕府
- 1333年 - 1363年:島津貞久
- 1336年 - 1342年:阿蘇惟時
- 1363年 - 1366年:島津師久
- 1366年 - 1376年:島津伊久
- 1376年 - ?:今川貞世
- 1393年 - 1411年:島津元久
- 1411年 - 1425年:島津久豊
- 1425年 - 1470年:島津忠国
- 1470年 - 1474年:島津立久
- 1474年 - 1507年:島津忠昌
- 1507年 - 1515年:島津忠治
- 1515年 - 1519年:島津忠隆
- 1519年 - 1527年:島津勝久
- 1527年 - 1566年:島津貴久
- 1566年 - 1602年:島津義久
戦国大名
武家官位としての薩摩守
- 江戸期以前
- 江戸時代を通じて、薩摩藩藩主は代々薩摩守に任ぜられた。