山形藩
山形藩(やまがたはん)は、羽前国(旧出羽国)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた藩。本項目では山形藩と関係の深い大森藩(おおもりはん)、朝日山藩(あさひやまはん)についても記述する。
概要
もとは外様大名の最上氏が治めたが、後に幕府重職から失脚した幕閣の左遷地となり、親藩・譜代大名の領主が12家にわたって頻繁に入れ替わった。
藩史
山形藩は、関ヶ原の戦いで東軍方に就いた最上義光が置賜郡を除く山形県全域と秋田県の一部を有して始まった。しかし元和8年(1622年)、3代藩主最上義俊の代に最上騒動と呼ばれるお家騒動から、出羽57万石から近江国大森藩にわずか1万石をもって転封となる。
同年、鳥居忠政(鳥居元忠の子)が22万石をもって新たな領主となった。2代忠恒は寛永13年(1636年)に嗣子なく病没し、改易となった。のち、忠恒の異母弟忠春が信濃国高遠藩に3万石で鳥居家を継ぎ立藩している。
3代将軍家光の時、高遠藩より保科正之が20万石に加増され山形藩に移封されるが、7年後の寛永20年(1643年)に23万石で陸奥国会津藩へ再び移封された。
その後、正保元年(1644年)に越前松平家の松平直基(結城秀康の四男)が越前国大野藩より15万石で入封した。直基は慶安元年(1648年)、播磨国姫路藩に転封した。
同年、同地より奥平松平家が入封、寛文8年(1668年)下野国宇都宮藩に移封。
同地より奥平家が入封。2代在封し貞享2年(1685年)再び宇都宮へ転封。
下総国古河藩より堀田正仲が入封。堀田家は大老・堀田正俊の暗殺を受け、この地に左遷された。1年弱在封し、翌貞享3年(1686年)陸奥国福島藩に転封となった。
豊後国日田藩より松平直基の子、直矩が入封するが元禄5年(1692年)には陸奥国白河藩に転封した。
代わって再び奥平松平家が白河藩より家臣の紛争により左遷された。同家は元禄13年(1700年)には備後国福山藩に転じている。
次いで堀田家(正仲の双子の弟・正虎)が福島藩より再入封する。3代46年間(山形藩では2番目に長い期間)在封し、延享3年(1746年)下総国佐倉藩に転封した。この際、柏倉4万石が佐倉藩の飛び地(柏倉陣屋)として廃藩置県まで残った。
同地より9代将軍家重に疎んじられて、1万石の減封を受けた大給松平家が入り、明和元年(1764年)三河国西尾藩に転封となる。
3年間天領(会津藩預かり)となり、明和4年(1767年)秋元家が入封。4代78年間と最も長く在封した。弘化2年(1845年)上野国館林藩に転封。この際に漆山に4万6千石が館林藩領(漆山陣屋)として廃藩置県まで残る。
最終的に同年に遠江国浜松藩より水野家が転封し明治維新を迎えた。水野家は、天保の改革に失敗した水野忠邦が失脚したことによって、子の忠精が山形藩に左遷されたものである。
幕末に山形藩は、周辺の米沢藩、仙台藩などとともに奥羽越列藩同盟に加わったが、同盟の主要な藩が降伏するなか山形藩も慶応4年9月17日(1868年11月1日)に新政府軍に降伏。2代藩主・忠弘は時に13歳と若年であったため、分家出身で当時26歳の家老・水野元宣が一切の責任を負って処刑された。明治3年(1870年)近江国朝日山藩(下方に掲載)に5万石をもって転封。明治政府直轄領となったためここに山形藩は終焉した。
文化
領主が頻繁に入れ替わり、領地も歴代領主の飛び地領などが入り組んで石高が減少するなど、大藩のような城下町的な文化は育たなかったが、山形は商業都市として発展した。紅花・漆・青麻の全国的な集散地として、また東日本一帯から多くの参拝者を集めた出羽三山参詣の基地として繁栄した。
最上義光の行った城下町の整備(城郭については最上氏改易以降、長年の改修の怠りもあって廃れていった)や、庄内地方の開墾、最上川の開削工事などのインフラ整備は、最上川の水運を一層盛んなものとし、後の時代の酒田を起点とした西廻り航路、東周り航路などが整備されるきっかけとなった。多くの山形商人が紅花や米を運び、上方から様々な文化を山形藩に届けた。現在の山形市には、この当時の山形商人が創業した老舗商店が残っている。
歴代藩主
最上家
外様 57万石 (1600年 - 1622年)
鳥居家
譜代 22万石→24万石 (1622年 - 1636年)
官位官職は共に従四位下・左京亮
保科家
親藩 20万石 (1636年 - 1643年)
- 正之(まさゆき)〔正四位下・肥後守、左近衛中将〕
松平〔越前〕家
- 直基(なおもと)〔従四位下・大和守、侍従〕
松平〔奥平〕家
- 忠弘(ただひろ)〔従四位下・下総守、侍従〕
奥平家
譜代 9万石 (1668年 - 1685年)
堀田家
譜代 10万石 (1685年 - 1686年)
- 正仲(まさなか)〔従四位下・下総守〕
松平〔越前〕家
親藩 9万石 (1686年 - 1692年)
- 直矩(なおのり)〔従四位下・大和守、侍従〕
松平〔奥平〕家
親藩 10万石 (1692年 - 1700年)
堀田家
譜代 10万石 (1700年 - 1746年)
松平〔大給〕家
譜代 6万石 (1746年 - 1764年)
- 乗佑(のりすけ)〔従五位下・和泉守〕
天領
(1764年 - 1767年)
秋元家
譜代 6万石 (1767年 - 1845年)
水野家
譜代 5万石 (1845年 - 1870年)
大森藩
大森藩(おおもりはん)は、近江国蒲生郡大森(滋賀県東近江市)に陣屋を構え、江戸時代前期に存在した外様大名の藩。
元和8年(1622年)お家騒動により改易された最上義俊が蒲生郡・愛知郡・甲賀郡、三河国内に1万石を与えられ立藩した。義俊は寛永8年11月22日(1632年1月13日)に27歳(数え年)で没した。翌、寛永9年(1632年)家督を継いだ嗣子・義智は僅か1歳であったため知行地を蒲生郡周辺に半減され、5千石の交代寄合となったため廃藩となった。その後、最上家はこの地で交代寄合として明治維新まで存続した。
朝日山藩
朝日山藩(あさひやまはん)は、近江国浅井郡朝日山(現・滋賀県長浜市)に、明治3年7月17日(1870年8月13日)より明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県までのほぼ1年間存在した藩。奥羽越列藩同盟に与して新政府軍に敗れ降伏した山形藩知事・水野忠弘が同じ5万石をもってここに移された。廃藩置県の後、朝日山県となる。長浜県・犬上県を経て滋賀県に編入された。
幕末の領地
山形藩
朝日山藩
- 近江国
なお、廃藩置県の段階で最上家の所領(旧大森藩)は近江国甲賀郡(2村)、愛知郡(7村)、蒲生郡(1村)に存在し、全域が大津県に編入された。
参考文献
- 『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年
- 『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 文春新書、2003年
- 『江戸三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 八幡和郎/著 光文社新書、2004年
外部リンク
先代 (出羽国) |
行政区の変遷 1600年 - 1871年 (山形藩) |
次代 酒田県(第1次) |
先代 (近江国) |
行政区の変遷 1870年 - 1871年 (朝日山藩→朝日山県) |
次代 長浜県 |