安倍源基
安倍 源基 あべ げんき | |
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生年月日 | 1894年2月14日 |
出生地 | 日本 山口県熊毛郡平生町 |
没年月日 | 1989年10月6日(95歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
所属政党 | 自由民主党 |
親族 | 安倍基雄(長男) |
第68代 内務大臣 | |
内閣 | 鈴木貫太郎内閣 |
在任期間 | 1945年4月7日 - 1945年8月17日 |
安倍 源基(あべ げんき、明治27年(1894年)2月14日 - 平成元年(1989年)10月6日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。警視庁特別高等警察部長、警視総監、内務大臣を歴任した。
来歴・人物
1894年、山口県熊毛郡曾根村(現平生町)に生まれた。山口県士族安倍半次郎の長男[注釈 1]。
山口中学、徳山中学(現山口県立徳山高校)、第六高等学校を経て、1920年、東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。
1932年、警視庁において初代特別高等警察部長となり、赤色ギャング事件や日本共産党査問リンチ事件を通じて「赤狩り安倍」の名[要出典]を轟かせた。安倍が特高部長であった1933年には、19人が特高警察の過酷な取調べで死亡しており(19人は戦前で最多[1])、その中にはプロレタリア文学作家の小林多喜二も含まれている。1936年の二・二六事件に際しては、特高部長として戒厳会議の構成メンバーであった。その後、内務省保安課長、同警保局長、警視総監、企画院総裁(心得)を歴任した。
宮崎学の『不逞者』によると、1937年12月、右翼団体風雲倶楽部主宰の千々波敬太郎に社会大衆党党首・安部磯雄襲撃を依頼したとある [2](安部磯雄襲撃事件を参照)。ただし、安倍が安部磯雄襲撃を依頼したという記述は、他の歴史的文献にはなく、宮崎の『不逞者』においてのみである[要出典]。
太平洋戦争末期の1945年、鈴木貫太郎内閣で内務大臣に就任。終戦時の国務大臣兼情報局総裁下村宏によれば、ポツダム宣言受諾には豊田副武などと共に反対意見[3]だった。(安倍自身が著書で語るには、終戦に反対の閣僚は誰一人いなかったが、但し国体護持について明確な返答をするよう連合国に再照会すべきという意見だったのが、陸軍大臣阿南惟幾、司法大臣松阪広政、そして安倍自身との事である[4]。)
戦後、A級戦犯容疑者の一人として逮捕された。しかし、東條英機ら7人の死刑執行の翌日の1948年(昭和23年)12月24日、不起訴・釈放となった[4]。その後、岸信介・木村篤太郎・安岡正篤らと共に新日本協議会を結成、代表理事に就任した。のちに全国警友会連合会会長、東京都警友会会長、松陰会会長を歴任した。従三位勲一等に叙位・叙勲される[要出典]。
1956年の第4回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で山口地方区から立候補したが、落選している。なお、自民党が参院選山口地方区(山口選挙区)で敗れたのは、この時と1989年(日本社会党の山田健一が当選)、1998年(無所属の松岡満寿男が当選)の3回しかない。
略歴
- 1920年 - 東京帝国大学法学部を卒業、内務省に入省
- 1932年 - 警視庁特別高等警察部長(初代)
- 1937年 - 警保局長
- 1937年 - 警視総監
- 1940年 - 警視総監再任
- 1941年 - 企画院次長及び企画院総裁(心得)
- 1945年 - 鈴木貫太郎内閣で内務大臣に就任
- 1958年 - 新日本協議会代表理事に就任
栄典
家族・親族
安倍家
親戚
- 妻・藤子の妹の夫重政誠之(官僚、衆議院議員)
著作
- 『昭和動乱の真相』(原書房、1977年/中公文庫、2006年、ISBN 4-12-204790-0)
- 『憂国直言 : 新日本建設のために』(原書房、1982年)ISBN 4-562-01225-0
- 『巣鴨日記』(展転社、1992年)ISBN 4-88656-080-6
伝記
- 安倍基雄『歴史の流れの中に : 最後の内務大臣安倍源基』上・下(原書房、1990年)
関連テレビ番組
- NHK特集『戒厳指令…「交信ヲ傍受セヨ」~ 二・二六事件秘録』(NHK、1979年2月26日放送)
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
公職 | ||
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先代 大達茂雄 |
内務大臣 第68代:1945 |
次代 山崎巌 |