内田吐夢

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うちだ とむ
内田 吐夢
内田 吐夢
1929年頃の内田吐夢
本名 内田 常次郎
生年月日 (1898-04-26) 1898年4月26日
没年月日 (1970-08-07) 1970年8月7日(72歳没)
出生地 日本の旗 日本 岡山県岡山市
職業 映画監督俳優
活動期間 1920年 - 1970年
配偶者 あり
著名な家族 息子:内田一作
息子:内田有作
甥:松田銑
 
受賞
毎日映画コンクール
監督賞
1965年飢餓海峡
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内田 吐夢(うちだ とむ、本名:内田 常次郎、1898年4月26日 - 1970年8月7日)は、日本映画監督

経歴

  • 1898年(明治31年)
  • 尋常高等小学校中退[1]
  • 1912年(明治45年/大正元年)
    • 横浜ピアノ製作所に奉公に出る。横浜の不良少年だった頃のあだ名がトムであり、後に芸名とする。
  • 1920年(大正9年)
    • 横浜に創立されたばかりの大正活映に入社し、トーマス・栗原監督の助手を務める。その後、俳優も兼ねるようになり、『喜劇・元旦の撮影』に主演したのをはじめ、何本かの映画に出演する。同期に岡田時彦がいる。なお映画に係わると同時に、岡山の兄から勘当を言い渡されていた。
  • 1922年(大正11年)
    • 牧野教育映画に移り、『噫小西巡査』を衣笠貞之助と共同監督し監督デビューする。しかし、その後、旅役者の一座に混じって放浪生活に入り、旅役者や肉体労働者として浅草などで生活する。この体験は彼の作風に大きな影響を与えた。
  • 1926年(大正15年)
    • 日活京都大将軍撮影所に入社。
  • 1927年(昭和2年)
    • 監督に昇進し、喜劇を中心に撮る。
  • 1928年(昭和3年)
  • 1929年(昭和4年)
    • 小杉勇を主役に『生ける人形』を撮る。これ以来、小杉の強烈なキャラクターを効果的に使い、当時流行していた、左翼思想を盛り込んだ「傾向映画」の傑作を次々と生み出していく。
  • 1932年(昭和7年)
  • 1933年(昭和8年)
  • [[]1936年](昭和11年)

日活多摩川撮影所に移る。日活復帰第一作は『人生劇場』。内田にとってトーキー第一作となる[2]。その後、『限りなき前進』、『土』などの作品を生み出す。

  • 1941年(昭和16年)
    • 会社の方針と合わず日活を去り、新会社設立の失敗の後、満州に渡り、満州映画協会に在籍する[3]
  • 1945年(昭和20年)
    • 甘粕正彦の自決現場に立ち会う。甘粕に青酸カリを吐かせるため、塩を飲ませて逆さにしたが、死んでしまった。自伝によれば、「人間が自分の股ぐらの中で死んでいくものは決していい気持ちのものではなかった」という。
    • 日本敗戦後、ソ連が長春に侵攻して満映の施設を接収。ソ連映画の日本語版や中国語版を作ったりしていた。
  • 1946年(昭和21年)
    • 4月にソ連が長春から撤収し、その後人民解放軍が長春を解放。国共内戦が激化するなか、5月には長春にも国民党軍が迫り、八路軍とともに機材を担いで長春から鶴崗近郊の興山に避難。この時に半数の日本人が帰国を選択するが、内田は中国に残留することを選択し、同じく中国残留を選択した持永只仁木村荘十二岸富美子らとともに満映の設備を継承した東北電影の立ち上げに参加。
    • 興山で「精簡」(リストラ)され、木村荘十二とともに炭坑労働に従事した。
  • 1949年(昭和24年)
    • 人民解放軍が長春を奪還し、長春のスタジオに戻る。10月に中華人民共和国が成立し、新生中国における映画制作を担う後進の指導に当たる。
1953年10月14日、第七次中共引揚船「高砂丸」で帰国し、8年ぶりに妻と再会。舞鶴引揚援護局平桟橋にて撮影。

なお、内田作品は近年海外でも2005年のロッテルダム映画祭で特集上映されるなど、再評価が始まっている。

代表作

戦前

  • 噫小西巡査(1922年)※監督デビュー作
  • 競走三日間(1927年)
  • なまけ者(1927年)
  • のみすけ禁酒騒動(1928年)
  • 娑婆の風(1929年)
  • 生ける人形(1929年)
  • 仇討選手(1931年)
  • 警察官(1933年)
  • 白銀の王座(1935年) 
  • 人生劇場(1936年)
  • 裸の町(1937年)
  • 限りなき前進(1937年)
  • (1939年)
  • 歴史 第一部 動乱戊辰(1940年)
  • 歴史 第二部 焦土建設、第三部 黎明日本(1940年)
  • 鳥居強右衛門(1942年)

戦後

『血槍富士』(1955年)を演出中の内田吐夢

著書

家族・親族

妻芳子は新聞記者碧川企救男の三女、映画カメラマン碧川道夫の妹。映画監督の内田一作は長男、元東映生田スタジオ所長の内田有作は次男[5]。浮世絵研究家の内田千鶴子は次男有作の妻である。翻訳家の松田銑は甥。

系譜

内田家
  

内田徳太郎  ┏内田徳次郎
  ┃    ┃
  ┣━━━━╋内田弥三郎
  ┃    ┃
 こう    ┣ゆき
       ┃ ┣━━━━━━━松田銑
       ┃松田利七
       ┃
       ┗内田吐夢(常次郎)
          ┃     ┏内田一作
          ┣━━━━━┫
 碧川企救男    ┃     ┗内田有作
   ┃    ┏芳子
   ┣━━━━┫
   ┃    ┗碧川道夫
   かた  
   ┃    ┏[[三木露風]]   
   ┣━━━━┫            
   ┃    ┗三木勉       
 三木節次郎                         

脚注

  1. ^ 鈴木尚之著『私説内田吐夢伝』 7頁によると「高等小学校最後の年、吐夢は作文の時間に祝辞を書かされた。しかし、書きあげたものは祝辞ではなく弔辞の文章であったが、その内容は問題視され、保護者の立場にあった長兄が学校側から呼びだされる事態が生じた。その結果、教師に侮辱を与えたとして退学を命じられる。尋常高等小学校の卒業を目前にして、退学しているのはそのためである。」という
  2. ^ 内田吐夢のトーキー作品「人生劇場」『大阪毎日新聞』昭和11年2月14日
  3. ^ 「映画の旅人」(朝日新聞2014年9月13日)によれば、1945年春に満州に渡ったという。『鳥居強右衛門』は松竹作品となっている。
  4. ^ a b 有名人の墓参り
  5. ^ a b 「特集:生田スタジオ “夢”が紡がれた『仮面ライダー』の故郷」『KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.1 仮面ライダー1号』講談社、2004年7月9日、pp.27-29頁。ISBN 4-06-367086-4 
  6. ^ 同作品の制作主任だった次男の内田有作も、この措置を拒否して劇場支配人に更迭されている[5]

参考文献

外部リンク