中国の奴隷制
奴隷 · 強制労働 |
---|
種類 |
役身折酬 · 人身売買 ピオネージ · 懲役 性的奴隷 · 賃金奴隷 |
歴史 |
歴史 · 古代 アステカ · ギリシア ローマ · 中世欧州 スレール · ホロープ · 農奴 奴隷船 · ガレー船奴隷 |
宗教 |
聖書 · ユダヤ教 キリスト教 · イスラム教 |
反対運動 · 解放 |
年表 · 奴隷廃止論 補償解放 · 奴隷の反乱 奴隷体験記 地下鉄道 |
中国の奴隷制は、歴史を通じて様々な形を取ってきた。アメリカやアラブのモデルのように明白ではないが、中国の奴隷制はその対象を「半人、半物」と見ていた。[1]奴隷制は1910年に完全に制定された[2] 1909年の法律[3][1] のように、何度も法的な制度としては廃止された。しかしその実践は少なくとも1949年まで続いた[4] 中国の奴隷は多くの種類があり、原因も異なるが、大きな傾向は周より始まり、主人と奴隷の個人的依存関係は弱められ続け、基本的な観点では戦国時代から奴隷制度がなくなりはじめた。中華民国の成立後、中国は最終的に法律上から明確に奴隷の存在を消し去った。しかし実際は家庭の中に家内労働に従事する奴婢は中華民国の大陸時期には存在した。香港では、1922年に当地の一部の人間が反対蓄婢会zh:反對蓄婢會を組織して、伝統的な蓄婢制度の廃止を主張した。香港政府は1923年に『家庭女役則例』を通過させ、正式に蓄婢を廃止し、婢女は給料で雇われる女傭(メイド)に変わった。
殷から春秋時代
殷代には少なくとも中国で奴隷制が確立し、この時点で人口の5%が奴隷であったと推定される。[5] 殷は、戦争奴隷を労働力・軍事力の基盤として、また葬礼や祭祀における犠牲として、非常に盛んに利用していた。商(殷)までは奴隷制社会であったことは定説となっているが、いつまでが奴隷制時代であったかは諸説あり、奴隷制から封建制に変革されたとされる周の易姓革命、ないしは、殷程ではないにせよ実質的には奴隷が生産力の主力となっていた春秋時代までが奴隷制時代と考えられる範疇として議論されている。いずれにせよ、中原とは文化の異なる民族(夷蛮戎狄)との戦争で捕虜とした奴隷が過酷な労役に就かされたと考えられている。
秦
秦朝では、宮刑(去勢)を宣告された男は宦官奴隷となり、兵馬俑のような計画の強制労働に従事した。[6] 秦の政府は、強姦の罰として宮刑を受けた者の家族の財産を没収し奴隷とした。[7]奴隷は家族と連絡を取る権利を奪われた。[8]
三代、先秦、秦朝時代には、官奴(国の奴隷)と私属(個人の奴隷)の区別があった。奴隷は多くは戦争で発生し、敵の捕虜になった庶人や軍人は奴隷になる可能性があった。犯人も奴隷に貶められ、反逆罪を犯した時は、全家族または全宗族が官奴にならなければならなかった。
前漢
漢の高祖劉邦の最初の行動の一つは、戦国時代に奴隷となった農業労働者を解放することだった。だが家内奴隷の地位はそのままだった。[1]漢代も宮刑を受けた男性は奴隷労働に使われた。[9] 初期法家思想の法より、漢朝も三年の重労働か宮刑を言い渡された犯罪者の家族は逮捕され政府の財産とされると規則を定めた。[10] 漢朝では、奴隷の生産は主に耕地整理から形成された私属民からである。 前漢の衛青は奴隷の身分から大将軍まで上り詰めた。
新
王莽は土地改革法の一環として、全ての奴隷制を廃止し[1] 奴隷の取引を廃止した。[要出典] 王朝があっけなく崩壊したことによって両方は元の状態に戻った。
後漢、三国、魏晋南北朝
後漢末期では、戦乱を避けるために、大荘園主に投降して、私属民となるものがいた。 三国時代では、自由民と奴隷の中間状態が発展したが、1%を越えることはなかったとおもわれる。[1] 後漢末・魏晋南北朝以来の貴族制下では、律令により賎民に区分された雑戸官戸や奴婢などの農奴と奴隷が政府や勢家の下に多く存在していた
唐
唐の法律では、自由民は奴隷に出来ないこと、売られる奴隷は以前から奴隷として所有されていなければ法的に売買できないことを定めた。 この時期、シルクロード市場で多くの奴隷が取引された。いくつかの例では、ソグド人奴隷の少女がソグド人商人によって中国人に売られたことが分かる。[11]
法律上は奴隷と自由民が別々の階級に分けられ、奴隷は犯罪者として分類されていた。犯罪者と外国人だけが奴隷にすることを許された。 中国人女性と外国人奴隷の雑婚は禁止された。[12] 朝鮮やモンゴルや中央アジアやインドへの唐朝の軍の遠征で、外国人が奴隷として捕らえられた。[13] 男を処刑した後、唐朝は捕らえた女性を奴隷にし、宮廷や同盟部族へ行く家畜とした。 [14]
海賊に誘拐されたペルシア人はWan'an島や海南島に閉じ込められてから売られた。マー・ワラー・アンナフルのサーマーン朝は、トゥルク人を中国人に売った。[15]
自由民の中国人は、自身を売ろうと望まない限り、法的に奴隷に出来なかった。もし自身を売らなかった場合、売った者は処刑された。 しかしその他の人々は許可無く奴隷にされていた。南部原住民は奴隷の最も多い部分を占めていた。富を求めて、トゥルク系民族やペルシア人や朝鮮人の女性は、奴隷として中国人に売られた。[16] 中国は結婚のための女性不足に苦しんでおり、埋め合わせるために朝鮮人女性が中国奴隷市場に売られるようになった。 [17] 妾としての若い朝鮮人女性奴隷の中国需要は、朝鮮半島周辺海域の海賊に儲けになる市場を作り出し、山東で売られた。629年に山東の支配者はこの交易を禁じた。 [18][19]
南部原住民の奴隷少女の貿易の大規模な市場もまた存在した。中国政府は禁止を試み非難したが、効果は上がらず継続した。[20] インド人やマレー人やアフリカ黒人の奴隷も中国人に売られた。彼らの黒い肌や巻き髪が記録されている。[21]
唐の法では、奴隷を人間と同じ権利を持たない家財とみなした。自由民女性は男性奴隷と結婚できなかった。[22]
漢代から隋唐の時期では、法律上に明確な良民と賤民の区別があった。例えば部曲(奴隷の一種)が良民を殴り殺せば死罪だが、良民が自分の部曲を殴り殺した場合、部曲に罪があれば追求されず、部曲が無罪なら徒罪のみで銭で贖うこともできた。
宋
宋朝の北と西の隣国との戦争状態は、双方に多くの捕虜を生み出した。しかし奴隷身分から自由に移行することを容易にする改革が導入された。[1]
宋朝以前は、長期の雇われ人の地位は良民より低く、奴隷の一種であった。宋代から雇用による主従関係が良賤関係と同一視されなくなった。 実際には私属奴隷の現象は大量に存在したが、法律上は私属奴隷は禁止され、良民を売って奴隷にすることも許されなかった。宋代の一部の軍人は賤民視された。宋王朝以降は官奴婢が禁止された。
元
モンゴル元朝は中国で大規模な奴隷制の拡張を実行し、より厳しい労働期間を復興した。[1] しかし中国人は文化的により統合されて居たため、こうした「奴隷」はしばしば貴重であり、自身が所有する奴隷を含む自身の権力を持つようになった。[4] 反乱や奴隷の暴動の期間中、こうした不忠から、モンゴル人自身より先に彼らの財産がターゲットにされた。[4]
元代は、モンゴル人そのものが奴隷制を実施していたため、官奴が盛んに行われた。
明
元朝を打倒すると、洪武帝朱元璋は公的に中国内の全ての奴隷を殺したが、その実践は継続した。[1] 1,381年、ジャワ人は3人の黒人奴隷を明朝への朝貢品として送った。[23]
明朝が1,460年にミャオ族の反乱(明朝綏寧苗族起義)en:Miao Rebellions (Ming dynasty)を鎮圧した時、 彼らは1,565人のミャオ族の少年を去勢し、そのうち329人が施術により死亡したが、宦官奴隷にされた。[24][25][26] この出来事は正統帝英宗の治世に起こった。329人の少年が死亡したため、より多くの去勢が必要だった。[27]
1630年代には、多くの奴隷反乱が起こり、家内奴隷の数を制限する法が作られた。[1] 明朝初年には、朱元璋が奴隷を良民にする法令を発布したが、明中葉以後には奴隷を蓄える風習が盛んになった。 顧炎武によれば、「今の呉の仕官する家では、奴隷を1,2千人も持つ。(今呉仕宦之家,(奴)有至一二千人者。)」であり[28]湖北麻城の梅、劉、田、李の四家では「奴隷は3,4千人は下らない(家僮不下三四千人。)」という[29]
清
清朝は当初、包衣阿哈( en:booi ahazh:包衣)のような奴隷制の拡張を担当した。[4] 朝鮮では丙子の役で、清朝軍が李氏朝鮮を制圧した戦いの際に、清朝軍は50万の朝鮮人を捕虜として強制連行し、当時の盛京(瀋陽)の奴隷市場で売られた。 しかし、中国本土内で少しずつ奴隷や農奴を小作人に変える改革を導入した。康煕帝は1685年に満州人の世襲奴隷を解放し、雍正帝は1720年代にその他の奴隷解放を目指した。[1]
清初はzh:投充法を実施したが、雍正年間になると正式に奴隸制を廃止した。 康熙帝は低税政策を採用したため、明代のように身売りして奴隷になる者が実際に大幅に減少した。しかし満州の風俗は主奴を厳格に分けたため、八旗の人は愛新覚羅家の家奴と見なされ、皇帝は愛新覚羅家の主人であるため、旗人の大臣は君主に会う時にzh:奴才と自称した。もし単に漢人の身分ならば、「臣」と自称でき、もし「奴才」と称せば皇帝に退けられた。乾隆帝はある時漢人zh:官員が満風を擬して「奴才」と自称したために大い怒り、満漢を問わず、奏摺する時は「臣」と称するように勅命した。
イギリスの奴隷解放en:British emancipationに続くその他の場所での奴隷制の「終焉」によって、苦力としてしられる安価な中国人労働力への需要が増した。1800年代中期のハワイやキューバで誘拐周旋業者や商人によって奴隷に近い状態に置かれたり、1860年代のセントラル・パシフィック鉄道建設中に中国人により危険な仕事をあたえるといった虐待があった。[4]
太平天国
洪秀全は改革の一環として、1850年代と1860年代に支配下の領地で奴隷制と売春を廃止した。[4]
新疆
トルグートモンゴル人、回民中国イスラーム教徒が新疆での奴隷貿易の主な犠牲者だった。漢族や回族(ドンガン人)といった中国自由民はみな、職業に係わらず商人に分類された。他の中国の人びとは軍人や兵士、漢人やトルキスタン人ベグの奴隷の回民だった。[30] 満州人歴史家のJi Dachenの主張によれば、清朝はLukchunzh:鲁克沁镇王のためにトルファンにカレーズ(地下水路)を作るため奴隷を送り、奴隷はトルファンのウイグル人と混じり、彼らを「混血」と呼んだという。[31]
コーカンドからの奴隷略奪者は回民イスラーム教徒と漢人を区別せず、可能なら新疆のどんな中国人も奴隷にした。[32][33]
テュルク系イスラーム教徒奴隷
テュルク系イスラーム教徒も、コーカンドとホージャ達の間の戦争後、ベグの奴隷にされた。[34]
モンゴル人奴隷
清朝は1764年、全てモンゴル人の420人の女性と少女の奴隷を、新疆に駐屯するオイラトモンゴル旗人に仕えさせるために調達した。[35]
多くのトルグート・モンゴル人の少年や少女が中央アジア市場や新疆市場の現地トルキスタン人に売られた。新疆の役人は政府に禁じられたこの不法な取引に関与していた。 [36]
回族イスラーム教徒奴隷
中国人イスラーム教徒 (東干人)のスーフィーが邪教を実践しているとして清朝政府に告発され、罰として新疆に追放されスーフィーのベグのような他のイスラーム教徒に奴隷として売却された。[37]
そのほかの奴隷
中国の「基本法」には、「魔法使い、魔女、すべての迷信を禁じる」という一条があった。嘉慶帝は1814年にキリスト教についての第六節を加えた。1821年に修正され1826年に道光帝によって発布された。それは漢人や満州人(タルタル人)にキリスト教を布教するヨーロッパ人に死刑を定めた。改宗を悔いないキリスト教徒は新疆のイスラーム教徒都市に送られ、イスラーム教徒の指導者やベイ[要曖昧さ回避]の奴隷として与えられた。[38]
この節は述べる。「西洋人(ヨーロッパ人かポルトガル人)は、この国で天主教を布教すること、密かに本を印刷すること、布教のために集会 を開くこと及び民衆を欺くこと、一方あらゆる満人および漢人は、教説を布教すること、密かに(洗礼で)名を授けること、大勢を扇動し 惑わすことが証言で証明されれば、その頭目や指導者には速やかに絞殺刑が宣告される。宗教を布教して民衆を扇動して欺いた者は、 その人数が多くなく名を与えなければ、投獄の後に絞殺刑が下される。教説の聴者や信者が少ない者は、(トルキスタンの)イスラーム教都市 に移送し、彼らを支配できるベイやその他のイスラーム教徒の有力者に奴隷として渡されねばならない。. . . .ヨーロッパ人が密かに国内に 彼らの管轄内で居住し、宗教を布教して多くを欺いていることを発見できなかったすべての文民及び軍人の官僚は、最高議会に移送され査問会に掛けられる。」
奴隷間の結婚
自由民の中国商人は通常東トルキスタン女性と関係を持たなかったが、ベグに属す中国人男性奴隷の幾人かは緑営の兵士とともに、東トルキスタン女性と関係を持った。[39] イスラーム教徒の主人の幾人かは中国人女性奴隷と子を儲けた。[40] 解放された後、タシュクルガンやヤルカンドやカルギリクなどの新疆の都市にいるギルギット人などの多くの奴隷は、ギルギットのフンザに帰るよりもむしろ留まった。奴隷の多くが女性で、現地の奴隷男性や非奴隷男性と結婚して子供を持っていた。時折、女性はその主人や他の奴隷や主人ではない自由男性と結婚した。10人の奴隷男性が奴隷女性と結婚し、15人の主人が奴隷女性と結婚し、幾人かの主人ではない自由男性が奴隷女性と結婚した。奴隷と自由民のトルコ人と中国人の男性双方がフンザ人の奴隷女性と子供を儲けた。Khas Muhammadという自由男性は二人の子どもとDaulatという24歳の女性奴隷と結婚した。26歳のギルギット人奴隷女性Makhmalは中国人奴隷男性Allah Vardiと結婚し、三子を儲けた。[41] フンザ人はイスマーイール派イスラーム教徒である。[42]
その他
フンザ人en:Hunza peopleは、中国の属国で同盟国であり、中国を宗主国と認めていた。[43] フンザ人がキルギス人に略奪された時は、キルギス人奴隷を中国人に売った。[44]
バダフシャーン人商人は魅力的なチトラルの少女を、中国のヤルカンドで20-25スターリング・ポンドで売り、この貿易は中国官僚によって行われた。ブルシャスキーen:kunjootやギルギットやカーフィリスターンen:Kafiristan出身者も奴隷にされヤルカンドで売られた。少女は両親によって売られた。[45][46]
乾隆帝は新疆の奴隷制を1778年か1779年に廃止したが、ベグの行政下で継続した。[47] 新疆の外国人奴隷の多くはシーア派山岳タジク人であった。[48]
新疆のタジク人は奴隷制を持ち、刑罰として同族を売った。従順な奴隷は妻を与えられ、タジク人とともに定住した。彼らは財産と見なされ、好きな時に売却された。奴隷の出自は様々で、キルギス人の奴隷襲撃の報復で捕らえられたキルギス人などのスンニ派捕虜や、Kunjuudやギルギットやチトラル出身者などであった。タジク人はブハラにも奴隷を売った。スンニ派は彼らをラーフィディーen:Rafida(異端者)と呼び、イスラーム教徒と認めなかった。[49] シーア派イスラーム教徒は奴隷としてホータンで売られた。新疆のイスラーム教徒はイスラーム法を無視して、イスラーム教徒を売り買いしていた。新疆の奴隷市場でカシミール出身のイギリス王冠に服するインド人が奴隷として売られているため、 ジョージ・マカートニー卿が解放するために送られ、2000人を解放した。1897年に新疆で奴隷制が廃止された。[50] マカートニー]インド人だけでなくその他の多くの奴隷を購入して解放した。マカートニーの来訪後、新疆の官僚の幾人かはもっと多くの奴隷の解放に取り組んだ。[51][52]
罰としての奴隷
奴隷と宮刑は反乱に対する刑罰として用いられた。
馬化龍の孫の馬進成は、馬化龍が清朝に対する回民蜂起に参加したため、開封で宮刑と奴隷になることを宣告された。[53] ヤクブ・ベクの息子や孫も中国政府によって1879年に宮刑を受け、宦官となって宮殿で働いた。[54]
賤民
中国古代の賤民制度は奴隷と異なり、楽戸(zh:乐户)や匠戸(zh:匠户)やzh:仵作やzh:牙人や娼妓、甚だしくは宋代の一部の軍人も法律上では賤民だったが、奴隷ではなかった。中国には厳格な定義での奴隷制はなかったが、奴隷制に似た制度で害される中国人は多かった。清の雍正帝は賤民制度を廃止した。
その他
zh:婿縻または「胥靡」は、古代の一種の奴隷の呼称である。縄で縛って労働を強制するために、この名がある。『墨子·天志』では「抵抗しないものは縛って連れて帰り、男は奴隷とする(不格者則系累而帰、丈夫以為僕圉婿縻。)」とある。また漢代には刑の名称として使われた。例えば『漢書·楚元王伝』には「胥靡之。」とあり注では「顔師古注之曰:“聯系使相随而服役之,故謂之胥靡,猶今役囚徒以鎖聯綴耳。」とある。 近年、多くの人が中国の歴史上奴隷はあったが、具体的な奴隷制度は出現しなかったと認識している。
また日本統治下の台湾では、中国伝統の童養媳 (台湾語で媳婦仔)などの奴隷制度が合法であった。第二次大戦後、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が日本の奴隸階級の解放を宣布した。
関連項目
- en:Booi Aha - zh:包衣阿哈
- en:History of slavery in Asia - アジアの奴隷制史
脚注
- 1861年に出たRobert Samuel Maclay著の「Life among the Chinese: with characteristic sketches and incidents of missionary operations and prospects in China」は現在アメリカ合衆国ではパブリックドメインとなっています。
- 1892年に出たOriental Institute (Woking, England), East India Association (London, England)著の「The Imperial and asiatic quarterly review and oriental and colonial record」は現在アメリカ合衆国ではパブリックドメインとなっています。
- 1900年に出たRalph Patteson Cobbold著の「Innermost Asia: travel & sport in the Pamirs」は現在アメリカ合衆国ではパブリックドメインとなっています。
- 1870年に出たRoyal Geographical Society (Great Britain)著の「The journal of the Royal Geographical Society of London, Volume 40」は現在アメリカ合衆国ではパブリックドメインとなっています。
- 1875年に出たJames Hutton著の「Central Asia: from the Aryan to the Cossack」は現在アメリカ合衆国ではパブリックドメインとなっています。
- 1875年に出たSir Thomas Douglas Forsyth著の「Report of a mission to Yarkund in 1873, under command of Sir T. D. Forsyth: with historical and geographical information regarding the possessions of the ameer of Yarkund」は現在アメリカ合衆国ではパブリックドメインとなっています。
- 1901年に出たHenry Hugh Peter Deasy著の「In Tibet and Chinese Turkestan: being the record of three years' exploration」は現在アメリカ合衆国ではパブリックドメインとなっています。
- 1907年に出たDavid Fraser著の「The marches of Hindustan: the record of a journey in Thibet, Trans-Himalayan India, Chinese Turkestan, Russian Turkestan and Persia」は現在アメリカ合衆国ではパブリックドメインとなっています。
- ^ a b c d e f g h i j Peter P. Hinks; John R. McKivigan; R. Owen Williams (2007). Encyclopedia of Antislavery and Abolition. Greenwood Publishing Group. pp. 156–. ISBN 978-0-313-33143-5 2013年2月2日閲覧。
- ^ Philip C. Huang (2001). Code, Custom, and Legal Practice in China: The Qing and the Republic Compared. Stanford University Press. pp. 17–. ISBN 978-0-8047-4111-8 2013年2月2日閲覧。
- ^ Gang Zhao (1986). Man and Land in Chinese History: An Economic Analysis. Stanford University Press. pp. 158–. ISBN 978-0-8047-1271-2 2013年2月2日閲覧。
- ^ a b c d e f Junius P. Rodriguez (1997). The Historical Encyclopedia of World Slavery. ABC-CLIO. pp. 146–. ISBN 978-0-87436-885-7 2013年2月2日閲覧。
- ^ Encyclopaedia Britannica, inc (2003). The New Encyclopaedia Britannica, Volume 27. Encyclopaedia Britannica. p. 289. ISBN 0-85229-961-3 2011年1月11日閲覧。
- ^ Bayerischen Landesamtes für Denkmalpflege (2001). Qin Shihuang. Bayerisches Landesamt fürDenkmalpflege. p. 273. ISBN 3-87490-711-2 2011年1月11日閲覧。
- ^ Mark Edward Lewis (2007). The early Chinese empires: in and Han. Harvard University Press. p. 252. ISBN 0-674-02477-X 2011年1月11日閲覧。
- ^ Society for East Asian Studies (2001). Journal of East Asian archaeology, Volume 3. Brill. p. 299 2011年1月11日閲覧。
- ^ History of Science Society (1952). Osiris, olume 10. Saint Catherine Press. p. 144 2011年1月11日閲覧。
- ^ Anthony Jerome Barbieri-Low (2007). Artisans in early imperial China. University of Washington Press. p. 146 2011年1月11日閲覧。
- ^ HANSEN, Valerie. “The Impact of the Silk Road Trade on a Local Community: The Turfan Oasis, 500-800”. Yale University Press. 2010年7月14日閲覧。
- ^ David Brion Davis (1998). The problem of slavery in estern culture. Oxford University Press US. p. 51. ISBN 0-19-505639-6 2010年11月28日閲覧。
- ^ Joyce E. Salisbury (2004). The Greenwood Encyclopedia of Daily Life: The medieval world. Greenwood Press. p. 316. ISBN 0-313-32543-X 2011年1月9日閲覧。
- ^ Marc Samuel Abramson (2008). Ethnic identity in Tang China. University of Pennsylvania Press. p. 136. ISBN 0-8122-4052-9 2011年1月9日閲覧。
- ^ Edward H. Schafer (1963). The golden peaches of Samarkand: a study of Tʻang exotics. University of California Press. p. 44. ISBN 0-520-05462-8 2011年1月9日閲覧。
- ^ Charles D. Benn (2002). Daily life in traditional China: the Tang dynasty. Greenwood Publishing Group. p. 39. ISBN 0-313-30955-8 2011年1月9日閲覧。
- ^ Kenneth B. Lee (1997). Korea and East Asia: the story of a Phoenix. Greenwood Publishing Group. p. 52. ISBN 0-275-95823-X 2011年1月9日閲覧。
- ^ Edward H. Schafer (1963). The golden peaches of Samarkand: a study of Tʻang exotics. University of California Press. p. 44. ISBN 0-520-05462-8 2011年1月9日閲覧。
- ^ Clarence Martin Wilbur (1967). Slavery in China during the Former Han dynasty, 206 B.C.-A.D. 25. Russell & Russell. p. 92 2011年1月9日閲覧。
- ^ Edward H. Schafer (1963). The golden peaches of Samarkand: a study of Tʻang exotics. University of California Press. p. 45. ISBN 0-520-05462-8 2011年1月9日閲覧。
- ^ Edward H. Schafer (1963). The golden peaches of Samarkand: a study of Tʻang exotics. University of California Press. p. 46. ISBN 0-520-05462-8 2011年1月9日閲覧。
- ^ Charles D. Benn (2002). Daily life in traditional China: the Tang dynasty. Greenwood Publishing Group. p. 40. ISBN 0-313-30955-8 2011年1月9日閲覧。
- ^ Shih-shan Henry Tsai (1996). The eunuchs in theMing dynasty. SUNY Press. p. 152. ISBN 0-7914-2687-4 2010年11月28日閲覧。
- ^ Shih-shan Henry Tsai (1996). The eunuchs in the Ming dynasty. SUNY Press. p. 16. ISBN 0-7914-2687-4 2010年6月28日閲覧。
- ^ Journal of Asian history, Volume 25. O. Harrassowitz.. (1991). p. 130 2010年6月28日閲覧。
- ^ “Eunuchs”. GeneralAnswers.org (2005年). 2010年6月28日閲覧。
- ^ Taisuke Mitamura (1970). Chinese eunuchs: the structure of intimate politics. C.E. Tuttle Co.. p. 54 2010年6月28日閲覧。
- ^ 《日知録》巻十三,《奴僕》条。
- ^ 于子瞻甫墉著:《金沙細唾》。
- ^ James A. Millward (1998). Beyond the pass: economy, ethnicity, and empire in Qing Central Asia, 1759–1864. Stanford University Press. p. 138. ISBN 0-8047-2933-6 2010年11月28日閲覧。
- ^ Justin Ben-Adam Rudelson,Justin Jon Rudelson (1997). Oasis identities: Uyghur nationalism along China's Silk Road. Columbia University Press. p. 141. ISBN 0-231-10786-2 2010年10月31日閲覧。
- ^ W. G. Clarence-Smith (2006). Islam and the abolition of slavery. Oxford University Press US. p. 45. ISBN 0-19-522151-6 2010年10月31日閲覧。
- ^ W. G. Clarence-Smith (2006). Islam and the abolition of slavery. Oxford University Press US. p. 15. ISBN 0-19-522151-6 2010年10月31日閲覧。
- ^ Newby, L. J. (1998). The Begs of Xinjiang: Between Two Worlds. Cambridge University Press on behalf of School of Oriental and African Studies. p. 290. doi:10.2307/3107653.
- ^ James A. Millward (1998). Beyond the pass: economy, ethnicity, and empire in Qing Central Asia, 1759–1864. Stanford University Press. p. 305. ISBN 0-8047-2933-6 2010年11月28日閲覧。
- ^ James A. Millward (1998). Beyond the pass: economy, ethnicity, and empire in Qing Central Asia, 1759–1864. Stanford University Press. p. 305. ISBN 0-8047-2933-6 2010年11月28日閲覧。
- ^ Jonathan Neaman Lipman (2004). Familiar strangers: a history of Muslims in Northwest China. Seattle: University of Washington Press. p. 69. ISBN 0-295-97644-6 2010年11月28日閲覧。
- ^ Robert Samuel Maclay (1861). Life among the Chinese: with characteristic sketches and incidents of missionary operations and prospects in China. Carlton & Porter. p. 336 2011年7月6日閲覧。
- ^ James A. Millward (1998). Beyond the pass: economy, ethnicity, and empire in Qing Central Asia, 1759–1864. Stanford University Press. p. 206. ISBN 0-8047-2933-6 2010年11月28日閲覧。
- ^ Raṇabīra Samāddra (2002). Space, territory, and the state: new readings in international politics. Orient Blackswan. p. 204. ISBN 81-250-2209-0 2011年1月23日閲覧。
- ^ Raṇabīra Samāddāra (2002). Space, territory, and the state: new readings in inter national politics. Orient Blackswan. p. 83. ISBN 81-250-2209-0 2011年1月23日閲覧。
- ^ David Hatcher Childress (1998). Lost cities of China, Central Asia, & India. Adventures Unlimited Press. p. 263. ISBN 0-932813-07-0 2011年1月23日閲覧。
- ^ Oriental Institute (Woking, England), East India Association (London, England) (1892). The Imperial andasiatic quarterly review and oriental and colonial record. Oriental Institute. p. 74 2011年1月23日閲覧。
- ^ Ralph Patteson Cobbold (1900). InnermostAsia: travel & sport in the Pamirs. Charles Scribner's Sons. p. 22 2011年1月23日閲覧。
- ^ Royal Geographical Society (Great Britain) (1870). The journal of the Royal Geographical Society of London, Volume 40. J. Murray. p. 74 2011年1月23日閲覧。
- ^ James Hutton (1875). CentralAsia: from the Aryan to the Cossack. Tinsley. p. 351 2011年1月23日閲覧。
- ^ Laura Newby (2005). The Empire and the Khanate: a political history of Qing relations with Khoqand c. 1760–1860. BRILL. p. 78. ISBN 90-04-14550-8 2010年11月28日閲覧。
- ^ Ildikó Bellér-Hann (2007). Situating the Uyghurs between China and Central Asia. Ashgate Publishing, Ltd. p. 20. ISBN 0-7546-7041-4 2010年7月30日閲覧。
- ^ en:Sir Thomas Douglas Forsyth (1875). Report of a mission to Yarkund in 1873, under command of Sir T. D. Forsyth: with historical and geographical information regarding the possessions of the ameerof Yarkund. Printed at the Foreign department press. p. 56 2011年1月23日閲覧。
- ^ Ildikó Bellér-Hann (2008). Community matters in Xinjiang, 1880-1949: towards a historical anthropology of the Uyghur. BRILL. p. 138. ISBN 90-04-16675-0 2010年12月28日閲覧。
- ^ Henry Hugh Peter Deasy (1901). In Tibet and Chinese Turkestan: being the record of three years' exploration. T. Fisher Unwin. p. 339 2010年12月28日閲覧。
- ^ David Fraser (1907). The marches of Hindustan: the record of a journey in Thibet, Trans-Himalayan India, Chinese Turkestan, Russian Turkestan and Persia. W. Blackwood and sons. p. 274 2010年12月28日閲覧。
- ^ Howard Yuen Fung Choy (2008). Remapping the past: fictions of history in Deng's China, 1979–1997. BRILL. p. 89. ISBN 90-04-16704-8 2010年11月30日閲覧。
- ^ Peter Tompkins (1963). The eunuch and the virgin: a study of curious customs. C. N. Potter. p. 32 2010年11月30日閲覧。