上野

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上野付近の航空写真。1984年撮影。上野駅、上野公園や不忍池などが確認できる。

上野(うえの)は東京都台東区町名郵便番号は110-0005。現行行政地名は上野一丁目から上野七丁目。2010年2月1日現在の人口は3,054人[1]

地理

地形は、上野恩賜公園のある上野山が北区の方面から伸びる上野台地(武蔵野台地の分脈)の先端部分にあたる。下谷地域に属する。正確には台地である上野山は標高20mほどの高さをもち、上野の街は上野山の東と南に開けている。上野台地の西には東京大学の位置する文京区本郷台地があり、上野公園西南部にある不忍池はもともと両台地の間の谷(谷中根津)を流れてきた谷田川藍染川)が流れ込む場所に自然に形成された池である。現在では谷田川は地表から消滅し、不忍池も面積を縮小させている。

広域地名

広域地名としては浅草と共に上野・浅草副都心を形成する、上野駅を中心とする一帯を指す地域を指す。 この「上野」地域は、台東区上野北上野東上野上野公園などからなり、日本最初の公園である上野恩賜公園(上野公園)や、商店街がある繁華街、喫茶店発祥の地を地域内に持つ。

歴史

戦国時代

『小田原衆所領役帳』に江戸上野という記述が見られ、北条領であった。

江戸時代

上野山は、戦国時代には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれており、元々江戸においては人口の少ない地域であった。

1603年江戸幕府が開かれた頃、忍岡には、伊賀国上野を本拠地とする外様大名藤堂高虎の屋敷が置かれた。

後に徳川将軍家の菩提寺である寛永寺が建立され、門前町が開けた。この頃から、寛永寺付近の一帯を「上野」と呼ぶようになる。これは、藤堂家の所領である上野に地形が似ていたためと言われている。寛永寺には歴代将軍の墓も建てられ、江戸幕府から保護されたので繁栄し、それに伴って門前町の上野も発展した。上野寛永寺は、江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当たり、京都延暦寺(京都から見た場合は北東)に擬えた江戸鎮護のでもあった。

明暦の大火後には上野に広小路が設置された。ただし、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸時代には「下谷広小路」と呼ばれていた。

明治時代以後

1868年に新政府軍と彰義隊による上野戦争で寛永寺が焼失し、その跡地が上野公園となった。その後、東京市15区6郡制の下で、上野公園とかつての門前町は下谷区に編入される。

1883年上野駅開業後には、上野駅が東北本線の始発駅となったことから、東京の北の玄関口の役割を担うようになり、街も発展した。1947年東京都の区が23区に再編されると、下谷区と浅草区が合併し、台東区となるとその一部となり、現在に至っている。

地名の由来

「上野」という地名の由来には諸説有る。

一つは、藤堂高虎が、当地の地形が本拠地たる伊賀上野(いがうえの)に似ている点から「上野」と命名したという説。ただし、江戸名所図会によればこの説は間違いとされている。

もう一つは、小野篁上野国(こうずけのくに。現在の群馬県)での任を終えてへ帰る途中で、当地に館を建ててしばらく滞在し、その際地元の人が篁のことを呼んだ「上野殿」が地名になったという説。

交通

JR上野駅


鉄道

道路

名所

不忍池と弁天堂
東京国立博物館

商業施設

映画館

上野恩賜公園

上野公園には、上野動物園国際子ども図書館東京国立博物館国立科学博物館国立西洋美術館東京都美術館東京文化会館などの文化施設がある。桜の名所としても有名で、古くから春には花見の人出で賑わう。

その他

脚注

外部リンク