二諦

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二諦(にたい、: satya-dvaya , サティヤ・ドヴァヤ)とは、仏教において「」(satya, サティヤ、真理)を2つに区別する発想のこと。大乗仏教中観派の祖であるナーガールジュナ(龍樹)の『中論』によって提示され、確立・普及された二諦説が最も有名である。

内容[編集]

ナーガールジュナ(龍樹)の二諦説では、「諦」(satya, サティヤ、真理)を、

  • 世俗諦(せぞくたい、俗諦、: saṃvṛti satya

, サンヴリティ・サティヤ) - 世俗・人間・社会レベルの真理

  • 勝義諦(しょうぎたい、真諦、第一義諦、: paramārtha satya

, パラマールタ・サティヤ) - 究極的見地から見た真理 の2つに分ける[1]

『中論』における記述[編集]

二諦説への言及は、『中論』の24章においてなされている。

まず、『中論』においてそれまでに(帰謬法を通じて)提示された「」思想に対する、論敵達による批判が、24章冒頭の1-6節において示される。すなわち、「一切が「空」であるならば、釈迦の説いた四聖諦四向四果も存在しないことになり、三宝(仏法僧)も、世俗の一切の慣用法をも(すなわち、全ての区別・秩序・規則を)破壊することになってしまう」という批判である。

それに対して、ナーガールジュナが7節以降に反論を開始する。まず、論敵達は「空」が何であるか、そしてその意義を知らないと述べる(7節)。そして8-12節において、二諦説が提示される。

  • (8) 2つの真理(二諦)に依拠して、仏陀は法を説いた。それは世俗の立場での真理と、究極の立場から見た真理である。
  • (9) この2つの真理の区別を知らない人々は、仏陀の教えにおける深遠な真理を理解していない。
  • (10) 世俗の表現に依拠せずには究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならばニルヴァーナ(涅槃)を体得することはできない。
  • (11) 不完全に見られた「空」は智慧の鈍い者を害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇、未完成の咒術のごとく。
  • (12) それ故に法に鈍い者達によってよく領解され得ないことを考えて、聖者(仏陀)が教えを説示しようとする心は止んだ[2]
『中論』24:8-12[3]

その後、13-40節において、むしろ「空」「無自性」こそが、あらゆる縁起・存在・果報を基礎付けているのであり、「空」「無自性」を否定・批判する論敵達こそがむしろ諸々の縁起・存在・果報を破壊しているのだという主張が続く。

他派における二諦[編集]

分別説部(上座部仏教)[編集]

説仮部[編集]

脚注・出典[編集]

  1. ^ 二諦とは - 大辞林/大辞泉/コトバンク
  2. ^ この一文は、釈迦が悟りに至った後、説法(転法輪)を開始するまでに、「この深遠な内容を理解できる者がこの世にいるのか、凡夫を害するといけないから説かない方がいいのではないか」と躊躇した「梵天勧請」のエピソードを指しているとも解釈できるし、「凡夫を害するといけないから、釈迦は深遠な真理(勝義諦)を世俗の表現でそのまま直接示そうとはせず、世俗の立場での真理(世俗諦)としての四聖諦四向四果三宝(仏法僧)等を、方便として説いてきた」という主張として解釈することもできる。
  3. ^ 『龍樹』 中村元 講談社学術文庫 pp379-380

関連項目[編集]