アルフレート・ノイバウア

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アルフレート・ノイバウア(Alfred Neubauer, 1891年3月29日 - 1980年8月22日)は、1926年から1955年にかけメルセデス・ベンツ・レーシングチームを率い、一時代を築いたレーシングチーム監督である。

概略[編集]

1891年にオーストリア=ハンガリー帝国のオストラウ(現在のチェコオストラヴァ)にて生を受けた。

初期の経歴[編集]

自動車など車両の修理工として帝国陸軍に奉職し、第一次世界大戦の終戦により退役して後は、オーストリアの自動車会社アウストロ・ダイムラーで職を得た。同社においてフェルディナント・ポルシェに推され、チーフテストドライバーとなり、1922年からはドライバーとしてレースにも参戦するようになった。

「監督」ノイバウア[編集]

1923年にポルシェがシュトゥットガルトのダイムラー(1926年設立のダイムラー・ベンツの前身)に技術部門の長として移ったため、ノイバウアもダイムラーに移動した。

1926年、ノイバウアは自身がドライバーとして大成する見込みがないとの結論に至り、同時にレーシングチームのマネージメントを専門にする役割の重要性に気づいたことで、チーム監督(Rennleiter、レンライター)というポジションを着想した。

1926年当時、レース中のドライバーはひとたびスタートすればチームからも隔絶され、文字通り孤独な戦いを強いられていた。そのため、自分自身が何番手で走っているのかということすらよく把握できず、自分が優勝したことをレース後に知ってドライバー本人が驚いた、ということすらしばしば起こるほどであった。そうした状況を是正するため、ノイバウアはレースの状況やドライバーが取るべき戦術判断を、旗や板(後にサインボードと呼ばれることとなる)を用いてドライバーに伝達する仕組みを考案した。

この方法は、1926年9月12日にシュトゥットガルトに程近いソリチュード・サーキットで行なわれたレースで初めて用いられた。このレースのレーススチュワードは、ノイバウアがドライバーに指示を与えるためレーストラック上に立つことについて、その「ふざけた行動」が他のドライバーたちを苛立たせているとして、注意を与えた。それに対するノイバウアの説明は「自分は監督だから」という、当時の人間にとっては不可解なものだった。しかし、この年に発足した「メルセデス」チームのメルセデス・ベンツSS、同SSKは、当時最高のドライバーとみなされていたルドルフ・カラツィオラによって駆られ、瞬く間に多くの勝利を得た。

チームにおけるノイバウアの貢献は、その卓越した戦術判断のみによるものではなく、その完璧主義によるところも大であった。ノイバウアはピットクルーにも完璧を求め、軍隊さながらにピットクルーを鍛えた結果、メルセデスチームは他チームに対してピット作業においても常にアドバンテージを持つようになった。

ホワイト・エレファント:ミッレミリアの勝利[編集]

ノイバウアとメルセデスチームの数々の勝利の中でも、1931年のミッレミリアでの勝利は特筆されるレースのひとつである。

世界恐慌の影響による経済的な問題で、メルセデスチームとしては資金的に余裕がない状態での参戦であり、またイタリア国内の公道を1000マイルもの距離を走って争われる同レースでは、1927年の初開催以来いずれの年も文字通り「地の利」のあるイタリア勢が優勝を収めており、「外国メーカー」には厳しいレースであるとみられてもいた。

充分な予算がなかったメルセデスチームは、コース途中、3ヶ所に用意されたサービスポイント全てにピットクルーを用意することはできなかったため、ノイバウアは一計を案じ、このレースがイタリア北部ブレシアローマの間を大きく楕円状に一周するレイアウトであるところに目をつけ、各サービスポイントの間をショートカットすることで、ドライバーが駆るレースカーより先にサービスポイントに到達するという作戦を考案した。

この作戦は成功し、カラツィオラが駆る白く塗られた「ホワイト・エレファント」メルセデス・ベンツSSKLは「イタリアン・レッド」で塗られたイタリア勢を下してこの年のレースを制した。このレースは1957年に終了するまで計24回開催されることとなったが、そのうち「外国メーカー」による優勝は3回であり、メルセデスチームはその最初の1勝を挙げたのである。

シルバーアロー[編集]

ノイバウアにとって最良の時代とされる「シルバーアロー」時代(1934年 - 1939年)は、いわば偶発的に始まったものであるといえる。

1934年春にニュルブルクリンクで開催されたアイフェル・レンネンのため、メルセデスは新型車両メルセデス・ベンツ W25を用意したが、当時のレースの規定では競技車両の重量は最大750kgまでと定められていたにもかかわらず、レース前日になってW25の重量が751kgあり、規定を1kgオーバーしていることが判明した。

ノイバウアと、ドライバーのマンフレート・フォン・ブラウヒッチュは、当時のメルセデスがまとっていた白い塗装を研磨して剥がすことを思いつき、W25はその塗装を全て剥がされ、アルミニウムの銀色の地金を露出させた姿となった。

これにより重量の問題を克服したW25は、ブラウヒッチュによって駆られてレースを制し、その圧倒的な速さから「シルバーアロー」という呼称で呼ばれる最初の車となった。

「シルバーアロー」時代は、ドイツ車がヨーロッパのグランプリを席巻した時代でもあり、メルセデス・ベンツとアウトウニオンによって優勝は争われた。メルセデスチームにとって最も輝かしい時代となったこの時期、ドライバーとしてルドルフ・カラツィオラヘルマン・ラング、ブラウヒッチュ、ディック・シーマンを擁し、ノイバウアは栄光の時代を支え享受した。

第二次大戦後[編集]

第二次世界大戦の終戦後、メルセデスチームは可能な限り早期のレース復帰を図ったが、フォーミュラカーでの復帰には時間的余裕もなかったため、市販車300を流用してメルセデス・ベンツ300SLプロトタイプを製造した。

1952年には、ノイバウアの指揮の下でスポーツカーレースに参戦し、ル・マン24時間レースカレラ・パナメリカーナ・メヒコで300SLが優勝を飾った。

1954年には、満を持してグランプリレース(この年にはすでにF1となっている)に復帰し、新たな「シルバーアロー」メルセデス・ベンツ W196、ドライバーとしてファン・マヌエル・ファンジオを擁して、1954年、1955年と続けてファンジオのチャンピオン獲得に貢献した。当時のF1はチームに対するタイトル(コンストラクターズタイトル)を設けていなかったが、メルセデスチームはこの2年で12戦に参戦し、そのうちの9戦で優勝を挙げるという驚異的な成績を残した。

突然の終焉[編集]

順風満帆の復帰を果たしたかに見えたメルセデスチームの活動は、1955年のル・マン24時間レースにおいて暗転した。

このレースにおいて、ピエール・ルヴェー駆るメルセデス・ベンツ 300SLRはレース中のアクシデントにより観客席に飛びこみ、80人以上の人命を奪い、100人以上の重軽傷者を出した。今日ではこの事故は、4台の車が交錯した結果偶発的に起きたものであると考えられており、ドライバー、あるいは車両、いずれにも責任を問える性質のものではなかったとみなされているが、メルセデス・ベンツはシーズン後に全てのレース活動から撤退することを決断し、チームの責任者であるノイバウアもレースの現場から引退した。

レース活動からの撤退という決定により、博物館送りとなることとなったメルセデスチームのレースカーをファンジオらと雑巾がけした際、目に涙を浮かべたという。

引退後は、レースに関する著述活動こそ積極的に行なったものの、レースそのものには一切関わることなく、1980年にシュトゥットガルトで死去した。その名は今日でも、自動車レース黎明期の名監督として残っている。