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*[[1928年]]([[昭和]]3年)[[12月5日]] - 柳河原発電所{{refnest|group="注釈"|運転自体は前年の[[1927年]](昭和2年)に既に開始しており、合計最大出力5万キロワットは当時日本最大出力<ref>『[[北日本新聞]]』2021年7月27日付22面『とやまゼミナール2021 もうすぐ100年 宇奈月温泉ものがたり3』より。</ref>。}}の完成をもって、山田胖は黒部を去り{{要出典|後に|date=2017年5月}}[[奥多摩工業]]株式会社の社長に転じた<ref>「黒部奥山と扇状地の歴史」にある記述より。しかし、奥多摩工業株式会社沿革では同社が [[1937年]]([[昭和]]12年)6月設立とあるため齟齬がある。「[[多摩川誌]]」によれば「奥多摩工業は、1927年に浅野セメントが買収していた日原の山林を継ぎ、10か年以内に鉄道を建設し石灰石の採掘を行おうとして、日本鋼管と鶴見造船が出資して[[奥多摩電気鉄道]]株式会社として設立されたものである。」とある。「語りつぎたい黒部人」には協力者として山田洋夫の名が見える。また[http://www.city.kurobe.toyama.jp/event-topics/svTopiDtl.aspx?prev=1&servno=1853 黒部市・山田 胖(やまだゆたか 1886-1964)]には{{要検証|[[1927年]]に[[鶴見臨港鉄道]][[常務取締役]]となったと記述がある。|date=2017年5月}}</ref>。山田が調査を開始してから11年目であった。 |
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*[[1935年]](昭和10年)10月5日 - 引き湯の経由地に、樋菅を通すための利用権が設定されていない土地があり、その所有者が土地の高額買取を黒部温泉に要求したが拒否されたため、不法占拠として樋菅撤去を要求して裁判に訴えたが、[[大審院]]判決により「[[権利の濫用]]」として上告棄却された([[宇奈月温泉事件]])<ref>[http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8732985_po_ogawa.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 温泉会社の源泉リスクと観光資本家 : 遠距離引湯の廃絶例を中心に]小川功、彦根論叢. (386)、2010-12-28</ref>。この判決は権利濫用の重要判例として広く知られるに至った。 |
*[[1935年]](昭和10年)10月5日 - 引き湯の経由地に、樋菅を通すための利用権が設定されていない土地があり、その所有者が土地の高額買取を黒部温泉に要求したが拒否されたため、不法占拠として樋菅撤去を要求して裁判に訴えたが、[[大審院]]判決により「[[権利の濫用]]」として上告棄却された([[宇奈月温泉事件]])<ref>[http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8732985_po_ogawa.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 温泉会社の源泉リスクと観光資本家 : 遠距離引湯の廃絶例を中心に]小川功、彦根論叢. (386)、2010-12-28</ref>。この判決は権利濫用の重要判例として広く知られるに至った。 |
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*[[1945年]](昭和20年)8月1日 - [[太平洋戦争]]の戦況悪化の影響で全旅館が休業(この時点での旅館は「小柳館」「桃原館」「坂井館」「富山館」「延楽館」「金山館」「水月旅館」「河内旅館」「延對寺」の計9軒)。終戦後は段階的に営業を再開<ref name="u4">『北日本新聞』2021年8月3日付26面『とやまゼミナール2021 もうすぐ100年 宇奈月温泉ものがたり4』より。</ref>。 |
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*[[1946年]](昭和21年)[[5月21日]] - 共同浴場の近くにあった土木作業場より出火し、川をふさいだため大火となって、温泉街の |
*[[1946年]](昭和21年)[[5月21日]] - 共同浴場の近くにあった土木作業場より出火し、川をふさいだ上出火元が温泉街の入り口付近であたっため消防車が町の中に入れず大火となって、温泉街の9割を焼失した(焼け残った旅館は2軒のみ)。当時の[[日本発送電]]や内山村の援助により復興した。これに合わせ温泉街の道路網の区画整理や近代的感覚を取り入れた旅館施設や内容の充実を図り、入浴客の受け入れ態勢が強化された<ref>『開湯90周年 宇奈月温泉の歴史を辿る』(2013年10月23日、黒部市教育委員会発行)7ページ。</ref><ref name="u4" />。 |
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*[[1947年]](昭和22年)冬 - 雪のカーニバルが初めて開催される<ref name="u4" />。 |
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*[[1953年]](昭和28年)11月 - 関西電力黒部専用軌道の内、[[宇奈月駅|宇奈月]] - [[欅平駅|欅平]]間は地方鉄道法による営業の免許を受け、トロッコ電車の一般観光客利用が行われはじめた。これにより客足が伸びたことで、温泉街も発展した。 |
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*[[1956年]](昭和31年)7月 - 関西電力[[黒部ダム]]と[[黒部川第四発電所]]の建設が始まる。 |
*[[1956年]](昭和31年)7月 - 関西電力[[黒部ダム]]と[[黒部川第四発電所]]の建設が始まる。 |
2021年8月4日 (水) 00:10時点における版
宇奈月温泉 | |
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温泉情報 | |
所在地 | 富山県黒部市宇奈月温泉 |
座標 | 北緯36度49分1.5秒 東経137度34分53.5秒 / 北緯36.817083度 東経137.581528度座標: 北緯36度49分1.5秒 東経137度34分53.5秒 / 北緯36.817083度 東経137.581528度 |
交通 |
鉄道 - 富山地方鉄道本線:宇奈月温泉駅 北陸新幹線:黒部宇奈月温泉駅 車 - 北陸自動車道:黒部IC |
泉質 | 単純温泉 |
泉温(摂氏) | 98 °C |
pH | 8.15 |
液性の分類 | 弱アルカリ性 |
浸透圧の分類 | 低張性 |
外部リンク | 黒部・宇奈月温泉観光局 |
宇奈月温泉(うなづきおんせん)は、富山県黒部市にある温泉。黒部川の電源開発を背景として1923(大正12)年に開湯された温泉地で、黒部川の渓谷沿いなどに旅館や保養所が立ち並ぶ。峡谷美を愛でる黒部峡谷鉄道のトロッコ観光の拠点でもある。
全国的にも珍しい7kmにも及ぶ引湯管を使った引湯である。
概要
黒部峡谷の入り口に、ホテルや旅館、商店や土産物店が多数立ち並んでいる。富山県内の温泉地では最大規模。
宇奈月温泉駅から東南に進むと黒部峡谷鉄道宇奈月駅があり、黒部峡谷を訪ねる多くの観光客が利用する。また、反対方向に向かって線路を渡り、商店街を抜けた所にある宇奈月公園には、かつてこの地を訪れたことがある昭和天皇の御製碑や、与謝野鉄幹、与謝野晶子、宮柊二(みやしゅうじ)らの歌碑がある。
温泉街にはそのほか『おもかげ』『いっぷく』と名付けられた足湯のほか、黒部市宇奈月国際会館「セレネ」、黒部川電気記念館、宇奈月神社などがある。また、右岸道路から峡谷を進むと宇奈月ダム及び資料館「大夢来館(だむこんかん)」が見学でき、さらに橋を渡って宇奈月湖を眺め、尾の沼体験交流施設 とちの湯を利用する事ができる。
「宇奈月」の名称は近代になって付けられたもので、桃原の大地の近くにあった谷の名称から名付けられた[1]。当地を訪れた人が、水の音や風の響きに心も「うなづき」、身も心も清らかになったという伝承が地名の由来で、「宇奈月」の字は、「宇治や奈良と並ぶ名月の地」にしようという思いから付けられたという[2]。
泉質
- 単純温泉
- 源泉の色:無色透明
源泉はすべて黒部川上流にある黒薙温泉からの引湯である。源泉段階で摂氏92〜98度と非常に高温であり、湯量が豊富である。浴用として多少水を混ぜて引湯しているため、宇奈月温泉街に到達した時点で摂氏63度となる[3]。
温泉街
ホテル・旅館
- 宇奈月グランドホテル
- 宇奈月国際ホテル(休業中)
- 黒部・宇奈月温泉 やまのは(旧・宇奈月ニューオータニホテル、宇奈月杉乃井ホテル)
- ホテル黒部
- ホテル桃源
- 延対寺荘(1923年に高岡の延対寺荘の別館として創立)[注釈 1]
- 延楽
- グリーンホテル喜泉(喜泉閣が前身)
- サン柳亭
- フィール宇奈月[注釈 2]
- さとのや烏帽子山荘[注釈 3]
民宿
- 温泉民宿宇えだ
- 温泉民宿黒流荘
- 温泉民宿三日月
- プチホテルチャーリーズクラブ
保養所
- 富山県教職員厚生会宇奈月保養所 ホテル渓仙
研修所
- 宇奈月研修センター(外国人研修生集合研修所)[注釈 4]
その他の公共施設
- 観光会館
- 温泉会館
- 旅館組合
- 足湯『おもかげ』
- 足湯『くろなぎ』
- 宇奈月公園
- 桃原診療所
- 宇奈月国際会館セレネ
- 黒部川電気記念館
- 宇奈月神社
- 尾の沼体験交流施設 とちの湯
- 宇奈月ダム資料館「大夢来館(だむこんかん)」
- など
かつてあった旅館、民宿、施設など
- 富山館
- 福井館
- 河内屋
- 蝶泉閣
- 地方職員共済組合宇奈月保養所 黒部荘
- 健康保険保養所 ホールサムインうなづき
- NTT健康保険組合宇奈月保養所 越山荘
- 老人保養センター 新川荘
- など
平和観音像
- 温泉街を見渡す宇奈月温泉スキー場の上部に佐々木大樹が原型を作成した平和観音像がある。
宇奈月温泉スキー場
- 宇奈月温泉スキー場の項目を参照されたい。
歴史
愛本温泉
- 1915年(大正4年) - 富山市の高沢藤吉によって黒薙からの引湯樋設置工事が始められた。
- 1917年(大正6年) - 内山地区から現在の温泉街の方向にある黒部川左岸の内山地内「荷上」の地に「愛本温泉」が営業を開始した。愛本地区でないのになぜ愛本としたのか不明である[注釈 5]。
- 1921年(大正10年) - 台風災害により一部倒壊、死傷者も出て閉湯することになった。
- 1922年(大正11年) - 建物と温泉の権利は東洋アルミナムの設立した黒部温泉会社に売却された。これが現在の宇奈月温泉の礎である。
東洋アルミナム株式会社
- 1917年(大正6年)7月 - 高峰譲吉や三共製薬・塩原又策等が日本最初のアルミ精錬所を計画し、黒部川で電源開発を進めるため、東大土木工学科出身の逓信省電気局技師・山田胖(やまだ ゆたか)[注釈 6]を引き抜き、創立計画に当たらせた。彼は降雪期である12月に、桃原(現在の宇奈月)から黒薙まで調査に赴いた。
- 1919年(大正8年)12月 - 三共製薬本社内に東洋アルミナム株式会社[4]を正式に設立する。代表取締役は高峰譲吉と塩原又策である。資本金1000万円。
- 1921年(大正10年) - 東洋アルミナムは資材運搬と湯治客も利用できる一般営業を目的とする黒部鉄道株式会社を設立し建設工事に着手した。これは、桃原(うなづき平、うなづき台とも)を温泉地として開発し、温泉客の鉄道利用で鉄道の建設・維持費用を得て、電源開発工事作業員の福利厚生施設ともするという一石三鳥を狙った計画であった。
黒部温泉会社
- 1922年(大正11年) - 東洋アルミナムにより、黒部温泉会社が設立された。そして、旧愛本温泉の権利と建物を買い取った。また、黒薙等の温泉の財産と権利を買収し、桃原の土地買収を始めた。
- 山田胖の著「宇奈月温泉由来」によれば、開発調査中の山田が、沸かし湯となっていた愛本温泉に入浴中に、他の客が源泉で水を加えれば(流速が増し)温度が下がらないはずだというのに対して、樋(とい)ではなくパイプを使い圧力をかけて流速を増し、到達時間を短縮すれば引湯の温度が下がらないと自ら述べたという[注釈 7]。
- 1922年(大正11年)7月22日 - 高峰譲吉が死去。この後、東洋アルミナムによる黒部川での事業展開は縮小し、黒部温泉会社による桃原の土地買収は計画の半分の2万5000坪で終結された。黒部温泉会社(東洋アルミナム)は、県内の旅館や料亭などに自社が購入した土地を斡旋し温泉街を作ろうとしはじめた。
- 1923年(大正12年) - 黒部鉄道(現・富山地方鉄道)により資材運搬を主な目的として旅客も乗せる、当時の三日市町の三日市駅(1969年廃止。現JR黒部駅に隣接していた。)[注釈 9]と宇奈月を結ぶ鉄道路線が開通した。これにより、温泉に進出しようとする者が出始めた。
- 1923年(大正12年)11月末 - 山田胖は黒薙温泉からの引湯管を設置した。この引湯管は旧愛本温泉の引湯樋に替わる物で愛本温泉の引湯ルートに沿って設置されたものであった。松材をくりぬいたパイプを使い温泉が自噴する圧力を保って流れが速く、黒薙の泉源から2時間ほどで湯が届いた。このため、冬でも55℃の温度が確保されることとなった。
- 1924年(大正13年) - 黒部温泉会社は旧愛本温泉の建物を移築し、宇奈月館(現宇奈月グランドホテルの前身)として経営した。それとともに、旅館を経営しようとする者に自社が購入した土地と温泉を斡旋する際に3万円を融資した。この後、延対寺別館、宇奈月富山館、桃原館などが開かれた。その後、1927年(昭和2年)には河内屋なども進出し、十数件の旅館、みやげ物店などもできて温泉街の体裁が整っていく。
- 1925年(大正14年) - 日本電力が黒部水力株式会社を併合した。
- 1928年(昭和3年)12月5日 - 柳河原発電所[注釈 10]の完成をもって、山田胖は黒部を去り後に[要出典]奥多摩工業株式会社の社長に転じた[6]。山田が調査を開始してから11年目であった。
- 1935年(昭和10年)10月5日 - 引き湯の経由地に、樋菅を通すための利用権が設定されていない土地があり、その所有者が土地の高額買取を黒部温泉に要求したが拒否されたため、不法占拠として樋菅撤去を要求して裁判に訴えたが、大審院判決により「権利の濫用」として上告棄却された(宇奈月温泉事件)[7]。この判決は権利濫用の重要判例として広く知られるに至った。
- 1945年(昭和20年)8月1日 - 太平洋戦争の戦況悪化の影響で全旅館が休業(この時点での旅館は「小柳館」「桃原館」「坂井館」「富山館」「延楽館」「金山館」「水月旅館」「河内旅館」「延對寺」の計9軒)。終戦後は段階的に営業を再開[8]。
戦後
- 1946年(昭和21年)5月21日 - 共同浴場の近くにあった土木作業場より出火し、川をふさいだ上出火元が温泉街の入り口付近であたっため消防車が町の中に入れず大火となって、温泉街の9割を焼失した(焼け残った旅館は2軒のみ)。当時の日本発送電や内山村の援助により復興した。これに合わせ温泉街の道路網の区画整理や近代的感覚を取り入れた旅館施設や内容の充実を図り、入浴客の受け入れ態勢が強化された[9][8]。
- 1947年(昭和22年)冬 - 雪のカーニバルが初めて開催される[8]。
- 1953年(昭和28年)11月 - 関西電力黒部専用軌道の内、宇奈月 - 欅平間は地方鉄道法による営業の免許を受け、トロッコ電車の一般観光客利用が行われはじめた。これにより客足が伸びたことで、温泉街も発展した。
- 1956年(昭和31年)7月 - 関西電力黒部ダムと黒部川第四発電所の建設が始まる。
- 1956年(昭和31年) - 宇奈月温泉スキー場がオープンした。
- 1958年(昭和33年)10月20日 - 昭和天皇が富山県国体開催に合わせて行幸。延楽が行在所となる[10]。
- 1963年(昭和38年)6月9日 - 山田胖は宇奈月温泉を再訪し、「40年ぶりに来た。宇奈月の発展はめざましい。私の働いていたころがしのばれる。」と語ったとされる。宇奈月を去ってから長く訪れなかったことがわかる[注釈 11][11]。
- 1964年(昭和39年)の黒四発電所完成後も開発の関連工事は続き、大手ゼネコンや電気設備納入のメーカーといった工事関係者と黒部峡谷を訪ねる観光客で温泉街は繁栄を極めた。この当時、芸者置屋が5 - 6件あった。
- 1971年(昭和46年)7月 - 宇奈月 - 欅平間の鉄道営業を行うため、関西電力の子会社黒部峡谷鉄道株式会社が発足する。
- 1975年(昭和50年) - 想影橋の下に温泉のパイプを通して黒部川左岸側に初めて引湯し、グリーンホテル喜泉が同地に移転[12]。
- 1985年(昭和60年)7月 - 音沢発電所の運用開始により黒部川の電源開発がほぼ終了する。
- 1993年(平成5年) - 温泉街の新たな集客力として国際会議場、宇奈月国際会館「セレネ」が完成する。
- 2001年(平成13年) - 多目的ダムである宇奈月ダムの完成とともに付随設備「とちの湯」(栃の実に由来)なども完成した。これにより、宇奈月温泉の祖である山田胖が作った柳河原発電所はダム湖に沈み、新柳河原発電所が新たに作られた。
- 2006年(平成18年)3月 - 下新川郡宇奈月町と黒部市の合併(平成の大合併)による新・黒部市の誕生に併せて、温泉街の地名が「宇奈月温泉」に変更された。宇奈月町時代は、「下新川郡宇奈月町 ○○○○番」となっていて、大字名としての宇奈月温泉はなかった。
- 2009年(平成21年) - 宇奈月温泉スキー場は2009年度から黒部市に代わり、民間組織「宇奈月大原台」が管理運営することとなった。
- 2016年(平成28年)4月27日 - 宇奈月温泉総湯『湯めどころ宇奈月』がオープン[13]。
アクセス
- 北陸新幹線 黒部宇奈月温泉駅
- 富山地方鉄道 本線、宇奈月温泉駅
- 北陸自動車道 黒部インターチェンジより富山県道53号若栗生地線、富山県道14号黒部宇奈月線。
- あいの風とやま鉄道線 黒部駅より富山県道14号黒部宇奈月線。
宇奈月温泉事件
宇奈月温泉は、法律学(民法判例)上、極めて重要な事件である宇奈月温泉事件の舞台となった。前述の源泉から温泉街までの引湯管の敷設地が一部未買収であったことが発端となった訴訟である。この判決では大審院によって権利濫用(民法1条3項)の解釈が示され、原告の主張が権利濫用の法理により排斥された(大審院第三民事部判決昭和10年10月5日民集14巻1965頁)。民法判例百選の最初に登載されている事件で、法学部などで民法を学ぶ者が最初期に目にする判例の1つである。
その他
「うなずきマーチ」は、作詞・作曲大滝詠一で1980年代にフジテレビ系列(地元では富山テレビ放送がネット)で放送された、当時の超人気バラエティ番組『オレたちひょうきん族』のレギュラー出演者の中の3人(ビートきよし、松本竜介、島田洋八:ビートたけし、島田紳助、島田洋七のそれぞれの相方で、ツッコミ(うなずき)役)で構成されたユニット「うなずきトリオ」が「ひょうきんベストテン」コーナーで歌った曲。大滝とうなずきトリオの3人とが、宇奈月温泉を訪れ、滞在していた時に構想が浮かんだとされ、番組の企画で3人が実際に宇奈月温泉で歌ったこともある。また、 大日本帝国海軍の根拠地のラバウルに「宇奈月温泉 (パプアニューギニア)」という別称がついた温泉がある。戦時中、富山県出身の海軍第25航空戦隊司令部気象班員の兵士によって命名されたとされる[14]。
脚注
注釈
- ^ 作家志賀直哉が1940年に親子で訪ねて短編小説「早春の旅」を書いている。「延対寺という妙な名前の旅館だった。これも雪国ゆえであろう。玄関の土間からは神社の階のような高い階を登って家に入り、火の気の無い寒い部屋に通された」と書いているが、「翌朝、頼んでおいた越前蟹、海蠃(ばい)、岩魚を食った。鶇(つぐみ)だけはなかったが、二人は満足した」で終っている。
- ^ 地方職員共済組合宇奈月保養所・黒部荘だった建物の転用。
- ^ 荷上地区にある旅館。温泉ではない。旧愛本温泉のあった場所に近い。
- ^ 旅館・蝶泉閣だった建物が、研修センターとなる。
- ^ 名勝愛本橋にあやかったものか。
- ^ 1886年(明治19年)福岡県生まれ
- ^ 他の温泉客の話のように水を加えるのではなく、源泉がそのまま送られる。
- ^ 高峰譲吉と同じく、加賀藩出身である。
- ^ 三日市という駅名があったため、数キロ離れた現在の富山地方鉄道の電鉄黒部駅は、町の中心地であったが「西三日市駅」の駅名がついていた。
- ^ 運転自体は前年の1927年(昭和2年)に既に開始しており、合計最大出力5万キロワットは当時日本最大出力[5]。
- ^ なお、山田胖はJFEスチールの前身の一つであるNKK元副社長、山田浩蔵の父。
出典
- ^ a b 『北日本新聞』2021年7月13日付28面『とやまゼミナール2021 もうすぐ100年 宇奈月温泉ものがたり1』より。
- ^ 『一個人 47都道府県 地名の謎と歴史』(2021年3月16日、KKベストセラーズ発行)50ページ。
- ^ 『全国温泉大事典』(1997年12月18日、旅行読売出版社発行)466ページ。
- ^ 『日本全国諸会社役員録. 第30回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ^ 『北日本新聞』2021年7月27日付22面『とやまゼミナール2021 もうすぐ100年 宇奈月温泉ものがたり3』より。
- ^ 「黒部奥山と扇状地の歴史」にある記述より。しかし、奥多摩工業株式会社沿革では同社が 1937年(昭和12年)6月設立とあるため齟齬がある。「多摩川誌」によれば「奥多摩工業は、1927年に浅野セメントが買収していた日原の山林を継ぎ、10か年以内に鉄道を建設し石灰石の採掘を行おうとして、日本鋼管と鶴見造船が出資して奥多摩電気鉄道株式会社として設立されたものである。」とある。「語りつぎたい黒部人」には協力者として山田洋夫の名が見える。また黒部市・山田 胖(やまだゆたか 1886-1964)には1927年に鶴見臨港鉄道常務取締役となったと記述がある。[要検証 ]
- ^ 温泉会社の源泉リスクと観光資本家 : 遠距離引湯の廃絶例を中心に小川功、彦根論叢. (386)、2010-12-28
- ^ a b c 『北日本新聞』2021年8月3日付26面『とやまゼミナール2021 もうすぐ100年 宇奈月温泉ものがたり4』より。
- ^ 『開湯90周年 宇奈月温泉の歴史を辿る』(2013年10月23日、黒部市教育委員会発行)7ページ。
- ^ 富山県護国神社『富山県における聖帝四代の御製を拝す 』富山県護国神社、2012年、p78頁。
- ^ 「語りつぎたい黒部人」より
- ^ 北日本新聞 2013年11月18日付8面『とやまの橋 23 想影橋』より。
- ^ 総湯「湯めどころ宇奈月」27日オープン(北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ、2016年4月27日)
- ^ ラバウルの「宇奈月温泉」 名付け親は私かも、清田さん(魚津) - 北日本新聞 2012年12月05日
参考文献
- 奥山淳爾『黒部奥山と扇状地の歴史』桂書房、2000年1月28日。ISBN 4905564093。
- 「語りつぎたい黒部人 〜黒部に足あとを残した人々〜」 2008年 黒部市教育委員編
- 山田胖 「宇奈月温泉由来」 昭和31年/『黒部峡谷誌料』復刻 新興出版社平成2年 収録)
- JFEスチールウェブサイト JFE「パイプ博物館」宇奈月温泉くり抜き木管の項
- 関西電力PR誌 やまびこ No.88
- 黒部川電気記念館、パンフレット
関連項目
外部リンク
- 黒部峡谷 宇奈月温泉 公式サイト(宇奈月温泉旅館協同組合)
- 黒部・宇奈月温泉 公式観光サイト(黒部・宇奈月温泉観光局)
- 明治大正期に於ける富山県宇奈月温泉の研究(1)(2)富澤一弘・若林秀行、高崎経済大学論集 第48巻第3号、第49巻第1号、 2006
- 黒部市宇奈月温泉地区における大火前後の土地利用の変容松井大輔・岡井有佳、歴史都市防災論文集 Vol. 9(2015年7月)
- 黒部川開発100周年と先人の顕彰 - NPO法人高峰譲吉博士研究会
- 『宇奈月温泉』 - コトバンク