ポール・ストッダート

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Paul Stoddart

ポール・ストッダート
ポール・ストッダート
2006年オーストラリアGP
生誕 ポール・ジェラルド・ストッダート
(1955-05-26) 1955年5月26日(68歳)
オーストラリアの旗 オーストラリアコバーグ英語版
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
職業 実業家(ヨーロピアン航空グループ)
F1チームオーナー(ミナルディ
著名な実績 F1
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ヨーロピアン航空グループ
現地語社名
European Aviation Group [4]
種類
非公開株式会社群
事業分野 航空機部品および航空宇宙部品の製造
販売・リース・運用支援、他
航空機の特装
航空貨物特殊輸送
航空旅客輸送
F1 Experiences carの製造
ジェットエンジンリビルト
過去には、コスワースバッヂF1エンジンのリビルトとサプライ
設立 1989
創業者 ポール・ストッダート
本社 ボーンマス空港、
Christchurch, Dorset
UK
事業地域
インディアナポリスにもパーツ保管庫がある
従業員数
201-500人 (2022)
部門 European Aviation Ltd [5]
レドベリー[1]
European Skybus Ltd [6]
ボーンマス
European Formula Racing Ltd
ウェブサイト http://www.euroav.com

ポール・ジェラルド・ストッダートPaul Gerard Stoddart, 1955年5月26日 - )は、オーストラリア出身の北欧系の英国在住の実業家。

F1にかつて存在したミナルディチームのオーナーであったことで知られる。

日本語表記はポール・スタッダートと書かれる場合もある。

ビクトリア州メルボルン郊外のコバーグ市英語版出身で、26歳の1981年から渡英を繰り返し、1986年には英国に定住化している[2]

初期の経歴[編集]

BAC 1-11 408 Okada Air MAN
新品1機の転売先が使用する同型機

GTカーの地方レースに参加しつつ、自動車販売業で、最初の1億円を稼いだとされる小財をなし、1981年から渡英を繰り返し、自動車輸入・販売チャンネルの形成を試みた。

34歳の1989年8月、ロンドンで、オーストラリア空軍からブリティッシュエアクラフトコーポレーション製の旅客機BAC 1-11の新品1機を含むセットの放出があるという情報を受取り、すぐさま現地に飛び、数百万ドルで多くのものを落札入手することができた。機体5機のその付録として落札された雑品は宝の山でこれがすべての始まりだったという[2]

1991年、ブリティッシュ・エアウェイズダンエア英語版買収時に、24機のBAC 1-11を入手し、BAC 1-11の豊富なスペアパーツとのセットで、整備部門を併せ持つ航空機リース・販売・スペア会社[3]としての企業基盤が確立された。

オーストラリアではタスマニアがギャンブル特区とされていることに目をつけ、賭博目的の客をオーストラリア本土とタスマニア島との間で往復させることを目的に、自らチャーター便を運営し、ヨーロピアン航空エアチャーター英語版で、上客(VIP)専門のチャーター便事業からスタートし、その後、規模を拡大して成功を収めた(1993年9月3日 - 2009年12月)。

F1への関わり[編集]

ボス・フォーミュラ[編集]

マイク・ガスコインがドライブするティレルのF1マシン(Boss GP seriesにて、1999年)

ティレルミナルディベネトンブラバムのF1カーのコレクションで、1995年発足の、F1・ヒストリカル・チャンピオンシップのボスGP英語版に参戦した。

ナイジェル・グリーンソールをドライバーに起用して1994年F1車のティレル・022で1997年[4]と1998年[5]に優勝した。

1999年には、マイク・ガスコインが自身でデザインしたティレル・022とティレル・025を運転して、ブランズ・ハッチでの最初のレースで3位表彰台に立ったという[6]

このシリーズは、2000年からユーロ・ボス・シリーズ英語版となり、2010年まで続き、終末期にはSA06の出走もあった。

1997年[編集]

ティレルはストッダートとヨーロピアン航空を技術パートナーとして採用し、ティレル本社にチーム風洞を建設する計画を立てていた。

11月、エイドリアン・レイナード(15%)、BAT(55%)、クレイグ・ポロック(30%)の共同出資者グループによってティレルは2600万ドルで買収された[注釈 1][7][8]

1998年[編集]

ホンダ・RA099(ティレル・027)
ホンダコレクションホールにて

これは、新規チームのブリティッシュ・アメリカン・レーシングのF1参戦権を確保するための買収であったため、ティレル資産の多くは売りに出された。 ストッダートは、ブリティッシュ・アメリカン・レーシングが必要としなかったティレルの7.5トンのスペアパーツと装備を、クレイグ・ポロックレイナードのゼネラル・マネージャーのリック・ゴーン[9]との交渉で100万ドルで購入した。また、ケン・ティレルから100万ドルでティレル車の車体の大部分が購入された[10][11]

航空機パーツ事業の本部があるイングランド西部のレドベリーで、F1施設の建設に着手した。

1998年の、ティレルの名前で出走した最終年、鈴鹿での最終戦のフラッグがおろされた直後にレースチームそのものを買収した。

この年には、ハーベイ・ポスルスウェイトティム・デンシャムを含む設計チームがティレル・027と成り損ねた車両の設計をした。

この車はダラーラがモノコック製作を担当したホンダ・RA099で一般的にはよく知られ、7台が製造されたとされる。

1999年[編集]

日の目をみなかった1999年ティレルをツーシーターのレースカーに改造する計画が着手され、8台の見本が製造され収益性の高いビジネスが始まる。

彼のレドベリーのファクトリーでは、ふたりの空力専門家を含めたスタッフがティレルのツーシーターをゼロから製造することが可能になっていた。

ある時点で、このプロジェクトには40人のスタッフが関わり、2000年の予算は200万ドルで、ツーシーター・マシンの製造コストは1台50万ドルだった。

さらに、手持ちの雑品に命を吹き込む目的で、前年フォードの買収により成立したコスワース・レーシング社のバーナード・ファーガソン[12]からエンジン設計図(JD Zetec-R)を購入し、エンジンのリビルトも開始した[13]

また、コスワースバッジのF1エンジン群の中には、コスワースの支援を受けてストッダートがエンジンのリビルト・開発に関わった個体も存在する[14]

この年にはまた、エデンブリッジ・レーシングを買収して、自身のチーム「ヨーロピアン・エデンブリッジ・レーシング」で国際F3000に参戦し始め、その翌年には、アロウズと提携してヨーロピアン・アロウズ・F3000チームを名乗る。

1998年に設立されたヨーロピアン・フォーミュラ・レーシングは、現在も整理されてはいない。

同年は、ヨーロピアン航空の名義でジョーダンのスポンサーとなる。

2000年[編集]

アロウズのスポンサーとなり、アロウズのジュニアチームとなった自身のF3000チーム「ヨーロピアン・アロウズ・F3000チーム」でオーストラリア人のマーク・ウェバーをドライバーに起用した。ストッダートは「テレフォニカが引き上げを決めた後のミナルディの窮状については隣のピット(アロウズ)にいたからよく知っていた」という。

翌2001年1月、マイク・ガスコイン経由[注釈 2]でもたらされた、癌に侵されていることが判明していたミナルディの共同オーナーのガブリエーレ・ルミからの緊急要請に応じて[15]、ファエンツアに飛び、フォンドメタル所有のチーム株式を買い取り、チームの負債を肩代わりするという内容の契約を交わし、チームの運営権を掌握した。

ミナルディ救済[編集]

周囲からの思惑[編集]

「万年最下位」「万年金欠」で知られた同チームだが、ストッダートが買い取った当時は、チームの歴史の中でも特に深刻なチーム存続の瀬戸際に立たされていたが、ストッダートの登場はその状況を好転させる契機となった。

しかし、チームの参戦枠の転売などを目的に同チームに触手を伸ばした、あるいは伸ばそうと試みた実業家は過去にも少なくなかったため、運営するとなると実利はまず見込めないミナルディの買収にあえて踏み切ったストッダートという実業家に対しても、当初、それらの同類といぶかしむ人間は少なくなかった。

また、当初はチームをイギリスの自らの本拠地に移し、ファエンツァを離れてしまうのではないかという声もあがった。

ファエンツァへと飛ぶ[編集]

ヨーロピアン・ミナルディ・チーム[編集]

ミナルディ・PS01フェルナンド・アロンソ車)

ストッダートが指揮するようになって後も、チームは慢性的なスポンサー不足を解消するには到らず、後方集団に埋もれて各シーズンを送ることとなる。

2002年末、ストッダートはヨーロピアン航空の代わりとして、オランダの浴槽・トイレ製品製造企業であるウィラックス(Wilux)を新たにタイトルスポンサーに迎えた。しかし、2004年のイギリスGP直前に同チームで長年にわたってスポーティング・ディレクターを務めていたジョン・ウォルトンが心臓病により亡くなり、それに弔意を示すべく同GPにおいて全てのスポンサーロゴを事前の通知もせずに外したことで、ウィラックス側が激怒し、支援が打ち切られるという事態に陥った。

これにより、再びチームは窮状に陥り、オーナーであるストッダート自身が自身のF1カーコレクションを売却するなどの方法すら用いつつ、ミナルディは厳しい財政事情の下で数シーズンを送り、2005年9月12日、ストッダートはチームをオーストリアの飲料会社レッドブルのオーナーであるディートリヒ・マテシッツに売却すると発表し、F1の世界から去った。

チーム売却後の動向[編集]

テルアビブで記者会見をするストッダート

ミナルディチーム売却に前後して、VIPを対象としたチャーター便会社「Ozジェット英語版」をオーストラリアで設立した[16][17]。レッドブルにチームを売却した際の売却額については、多額にのぼったとされており、この新会社の設立にあたってそれを充てたと言われている。

ミナルディ・F1X2(2007年)

F1からの撤退後も、Ozジェットとヨーロピアン航空のプロモーションの一環として、「ヨーロピアン・ミナルディ」の2シーターF1カーをイベントなどで走行させている。また、2007年のジャンカルロ・ミナルディのGP2への参戦とは別に、アメリカのチャンプカーへの参戦準備を始めた。

2017年現在は、F1の各グランプリへの旅行ツアー(基本的にサーキットの指定席・パーティ・宿泊施設のパック)を運営する「F1 Experiences」も経営している。「F1 Experiences」では2シーターカーの同乗やピット作業の実体験といったファン向けサービスも手がけており、消滅したマノー・レーシングの機材の一部などを購入してサービスに充てている[18]

F1チーム復活への動き[編集]

チームをレッドブルに売却してからほぼ半年後の2006年3月、ストッダートは2008年のF1選手権に参戦すべく、FIAに「ミナルディ」の名で参加の申請を行ったことを明らかにしている。このニュースを聞いた同胞のマーク・ウェバーは「素晴らしいね。彼は負けず嫌いで情熱的な人物だ。ポールがカムバックできれば嬉しいね。彼はパドックにふさわしい人間だよ」とコメントしていた。

しかし、この申請は却下された。理由は不明。

チャンプカー参戦[編集]

2006年12月18日、インディアナポリスを本拠地とするCTEレーシングHVMチャンプカーチームの株式の過半数を取得し、ミナルディチームUSAとして2007年シーズンからチャンプカーに参戦することを発表した。しかしチャンプカーが2008年よりインディカー・シリーズ(IRL)と統合され(事実上IRLによるチャンプカーの吸収合併)、ミナルディチームUSAはチーム名を元の「HVMレーシング」に戻したため、「ミナルディ」の名前はわずか1年強で消滅した。

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 出資比率は、15%(Reynard) +35%(Mt.Eagle) +50%(BAT)とも伝えられる
  2. ^ ガスコインはイタリアにいて、ガブリエーレ・ルミジャン=クロード・ミジョーフォンドテックを拠点にして活動している。

出典[編集]

  1. ^ Minardi strengthens technical team (Ledbury)”. grandprix.com (2001年9月29日). 2022年11月8日閲覧。
  2. ^ a b The Coburg boy who found the formula for winning - The Age. 2002年3月10日
  3. ^ The last days of Minardi - Part one: How F1's ultimate underdogs went out fighting”. RaceFans (2020年10月21日). 2022年12月10日閲覧。
  4. ^ Nigel Greensall › 1997 Gallery”. 2022年12月10日閲覧。
  5. ^ Nigel Greensall › 1998 Gallery”. 2022年12月10日閲覧。
  6. ^ Mike Gascoyne: driving and design career memories”. Sporting Memories. 2022年12月10日閲覧。
  7. ^ Re: British American Racing (Holdings) Ltd”. www.chasecambria.com. 2022年12月23日閲覧。
  8. ^ BAR (British American Racing)”. grandprix.com. 2023年3月28日閲覧。
  9. ^ people - Rick Gorne”. grandprix.com. 2022年12月10日閲覧。
  10. ^ ポール・ストッダート物語 1 - F1通信(翻訳サイト) 2006年09月24日”. F1通信. 2022年12月10日閲覧。
  11. ^ The Paul Stoddart Story Part One”. F1i.com (2006年8月13日). 2006年8月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月10日閲覧。
  12. ^ Bernard Ferguson”. linkedin.com. 2022年12月20日閲覧。
  13. ^ [1] The Paul Stoddart Story Part One: F1i.com 2006年08月07日 (アーカイブ) - bought an engine design from Cosworth and started rebuilding engines
  14. ^ [2] The Paul Stoddart Story Part One: F1i.com 2006年08月07日 (アーカイブ) - involved Stoddart rebuilding the engines with support from Cosworth
  15. ^ [3] The Paul Stoddart Story Part One: F1i.com 2006年08月07日 (アーカイブ) - at the request of Mr Rumi
  16. ^ 豪州でビジネスクラスのみの航空会社が就航”. nikkanberita.com. 2022年12月23日閲覧。
  17. ^ ビジネスクラスだけの航空会社が定期便廃止:豪州 日経ベリタ 2006年03月14日
  18. ^ マノーとミナルディ、F1スペインGPのファン向け企画で活躍。立役者はストッダート - オートスポーツ・2017年5月22日

外部リンク[編集]